「ううう……。酷いめにあいましたわ……。あやかしとわたくしを勘違いされるだなんて、皇太子宮に上がって以来の大事件でした」
(木蘭様が傷ひとつ負っていないことだけが、不幸中の幸いです……)
慌ただしくひっ捕らえられ、寒々しい狭小な牢獄に閉じ込められた苺々は、敷物も敷かれていない石畳の床にぺとりと座り込んでため息をついた。
「にゃー」
「そうですわよね。あやかしにしては牙も爪も貧相、その通りです」
「にゃーお」
「ええ、あなたのおっしゃる通りですわ。妖術は使えませんので、ここから逃げるのは難しいかと。猫魈様はとってもお上手ですね」
同じ牢に入れられた三尾の猫魈が、「ごろごろ」と得意げに喉を鳴らす。
あの騒ぎの最中、苺々の血で正気を取り戻した猫魈は逃げ出そうと、変化の妖術で小さくなったのだが、そのせいで逆に女官が持っていた鳥籠に押し込められていた。
綿が飛び出したズタボロのぬい様にじゃれついている様子は、普通の三毛猫にしか見えない。どうやらこれが、この猫魈の本来の気性らしかった。
(投獄されるおそれはあると予想はしていましたが……それにしてもまさか、人間用ではなくあやかし用の牢獄に投獄されるとは。しかも、猫魈様と一緒に)
天井までの高さは苺々の背丈ほどしかない。窓もないし、鉄格子もなく、まるで穴蔵のようだ。苺々が座ったら、あとは三毛猫が一匹、ゴロンと寝転がれる程度の広さしかなかった。
壁には至る所に、名のある道士や巫女の書いた符が貼り付けてある。紙質から見て、とても古い時代のものだろう。それが幾重にも重なり、天井まで覆っていた。
同じような符が鳥籠にも貼り付けてあったし、あれも後宮に古くからあるあやかし捕り物用なのかもしれない。
苺々は小さな木蓮の刺繍が施された手巾で、自分で傷つけた手のひらの血を拭う。消毒薬はないので、せめて菌が入らないようにと、手巾を器用に巻きつけた。
続いて簡易裁縫箱から針と糸を取り出す。
「猫魈様、少しだけぬい様を貸していただきますね。このままでは、お口を傷つけてしまいかねませんから」
苺々はズタボロになったぬい様をささっと繕い直して、猫魈に与える。
ぬい様がお気に入りになったのか、猫魈は桃色の肉球をこちらへ伸ばす。そうして『はなさないぞ』とばかりに前脚で抱きしめた。
(ふふっ。あやかしの恐ろしさはどこに行ってしまったのでしょうか。もふもふの三毛猫のようで、かわゆいです)
それからひとりと一匹は、何刻もの間、他愛のないお喋りをして過ごした。
「にゃう。にゃう、にゃあん」
「それは大変でしたね。道術で! この後宮には、そんな恐ろしい方がいらっしゃるのですね」
猫魈は後宮に住まう女官から『木蘭を狙え』と道術をかけられ、正気を失っていたらしい。
この人形は木蘭にしか見えなかった、と猫魈は三又の尾を揺らした。どうやらぬい様は形代として、身代わりの役割をきっちり果たせたみたいだ。
(城壁や城門には、古の時代よりあやかし避けが施されているはず。百歩譲って丑の刻ならまだしも、真昼間からあやかしが侵入するなんて考えられません。その女官の手引きであることは確実でしょうね)
「にゃぁぁぁ」
「お名前も特徴も言えないのですね。大丈夫ですよ、わたくしは信じます」
「にゃー」
猫魈はお気に入りのぬい様を噛み噛みしながら、苺々の膝で丸くなった。
「にゃ〜ご」
「はぁぁ。猫魈様のもふもふで、疲れも吹っ飛びます……」
ぐすっと涙を我慢しながら、苺々は毛並みにそって優しく撫でる。
ひとりと一匹が心を交わしあっていると、石畳を蹴るようにカツンと靴の音がした。
数人の男性の喋り声が聞こえる。
きっと宦官が沙汰を言い渡しに来たに違いない。
苺々と猫魈は揃って目を見合わせてから、不安げな表情で扉を見つめる。
扉が開かれた先には、苺々を捕らえた宦官とは別の宦官がいた。
「皇太子殿下の命により、白蛇妃を無罪とし釈放する。外へ出ろ」
「……ありがとうございます。あの、猫魈様は……?」
「あやかしは城外の道士に引き渡す予定である」
宦官たちの悪い顔を見るに、酷い刑罰を与えるつもりだ。
本当は女官に操られていたのだと伝えても、誰も取り合ってはくれないだろう。こんなにも本質は優しく穏やかな猫魈を、友人を、見捨てられるわけがなかった。
「そ、それでしたらわたくしにいただけませんでしょうか」
「なんだと?」
「わた、わたくしが、ばばばば罰を与えますわっ!! いいい怒りが、おさまりませんので!!」
嘘をつけない性格である苺々は、嘘がバレないように目を瞑る。そして慌てふためきながら、なんとか言葉を言い切った。
「どうするつもりだ」
「白蛇の刑です!!」
「白蛇の刑!?」
「白蛇の刑……だと……!? なんと恐ろしいことを考えるのだ」
苺々の適当に思いついた出まかせに、宦官たちはそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「わかった。あやかしを白蛇の刑に処すことを許そう。籠をこちらへ」
一番年上の宦官が、後ろに控えていた若い宦官に命じる。
「ありがとうございます」
苺々は符の付いた鳥籠を受け取ると、できるだけ邪悪に見えるように微笑みを浮かべる。
その顔は、宦官たちをさらに震え上がらせた。
牢屋を出ると空には月が出ていた。
昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても肌寒い。苺々は鳥籠を手に肩を擦りつつ、闇夜に紛れて城壁へ向かう。
この城壁を越えれば、城の外だ。
まったくひと気のない城壁の前で、ちょうどよく置き忘れらしい長梯子を見つけた。雑然とした放置の仕方からして、庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(急な腹痛のお手洗いでしょうか?)
それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね、と心の中で声をかけ、苺々は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺々は、鳥籠から猫魈を出す。そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃー」
「そうです、これが白蛇の刑ですわ。危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
「にゃーお、にゃおん」
「はい。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて」
三毛猫の猫魈が、城壁からひらりと跳躍する。
もふもふの背中に、苺々は小さく手を振る。こうして苺々は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。
◇
――時は遡り、一刻前。
「木蘭は眠ったようだ。明朝に木蘭が呼ぶまで、お前は自室へ退がるように」
「かしこまりました」
貴姫・朱 木蘭の住む紅玉宮にて。雄鹿のような漆黒の角が生えた悪鬼の面を被った青年が、跪く上級女官の横を通り過ぎた。
紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げ、紫を基調とした武官の衣裳を纏った長身の青年からは、微かに木蓮の花の匂いが香る。その腰に下げた長剣には、ひと目で皇帝の血筋であるとわかる意匠が施されていた。
口元がさらけ出された仮面の下で、美貌の青年の唇が蠱惑的に微笑む。
悪鬼の恨みで害されぬよう代々受け継がれている『悪鬼面』を被った彼こそ、この皇太子宮の主――病弱だという噂の皇帝の長子、燐 紫淵であった。
紫淵は紅玉宮を出る。
(……おかしい。今日は久方ぶりに体調が良いな。あんなことがあった後だというのに)
だるさや眠気はなく、いつもより身体が軽い。胸の痛みはあるが、歩けないほどではなかった。
(もしや白蛇の娘の異能か?)
不思議に思いながらも、彼はその足で皇太子宮内の警備を担う宦官の詰所へと向かう。
「夜分にすまない。本日、白蛇妃を捕らえた宦官はいるか」
宦官たちは、突然現れた皇太子殿下の姿に驚いた。
彼がここへ来たのは初めてのことだ。
噂によると皇太子殿下は昨年の暮れより体調を崩しがちになり、皇太子宮の封が解かれてからは、ほとんど床に伏していると聞く。
今年の清明節では幼女に剣舞を舞わせたほどだ。政務の場に現れなくなったという噂は本当だろう。線が細く儚げな体つきは確かに脆弱そうで、日に当たっていない肌はどの宦官よりも白い。
――だが。
長い脚を捌く彼の足取りは、手練れの武官のように……恐ろしいほど足音がしなかった。
武官の衣裳を身につけているせいか、悪鬼面のせいか、冷厳な雰囲気に呑まれて背筋が凍る。
「聞いているのか。皇太子宮に現れたあやかしの件で、幾人かの宦官が白蛇妃を牢に入れたはずだ」
頭を垂れて跪く宦官たちを前に、紫淵はやわらかな、慈悲深さすら感じられる声を出した。
「お、恐れながら、殿下。私どもにございます」
「午の刻、鏡花泉の北の四阿にて、殿下の寵妃様を害そうとしたあやかし二匹を捕らえました」
「私が槍の柄で処罰いたしました」
「私は縄を掛けました」
「牢に封じたのは私でございます」
よく肥えた五人の男たちが顔を上げ、我先にと自分の手柄を報告する。
「ほう?」
紫淵は男たちの顔をひとりずつ、ゆっくりと見た。
薄笑いを浮かべた男たちは玉のような汗をかき、甘露を待ち望むように締まりなく口を開いて、さらに言葉を募ろうとする。
褒美だ。褒美がもらえる。
他の宦官たちは五人の男たちを羨ましいとさえ感じていた。しかし。
「では、今名乗りを上げた者たちを捕らえよ。厳正なる判断をせず冤罪を押し付け、宦官ごときが私の妃に手を上げた罪は……極刑に値する」
悪鬼の面の美丈夫は、すらりと長剣を抜いた。
「まさか、褒美がもらえるとでも思っていたか? 侮るなよ」
平伏したくなるような美声が、低く、冷酷無慈悲に告げる。
――悪鬼だ、と誰かが言った。
◇
苺々が水星宮に帰ると、室内は酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
円卓に置いていた一尺のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
恐ろしや! と苺々は誰もいない水星宮で飛び上がった。
無駄にびくびくと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。それから、ズタボロになった白蛇ちゃんを棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
「深夜ですがひと仕事です」
苺々は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
苺々は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。入浴を終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
水星宮にある木製の風呂桶は、他の妃たちの宮に備えられている物の何倍も小さく簡素だが、湯を満たすのに時間がかからないのがいい。
「恐ろしい女官の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
苺々は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で入浴用の湯を沸かすのだった。
(木蘭様が傷ひとつ負っていないことだけが、不幸中の幸いです……)
慌ただしくひっ捕らえられ、寒々しい狭小な牢獄に閉じ込められた苺々は、敷物も敷かれていない石畳の床にぺとりと座り込んでため息をついた。
「にゃー」
「そうですわよね。あやかしにしては牙も爪も貧相、その通りです」
「にゃーお」
「ええ、あなたのおっしゃる通りですわ。妖術は使えませんので、ここから逃げるのは難しいかと。猫魈様はとってもお上手ですね」
同じ牢に入れられた三尾の猫魈が、「ごろごろ」と得意げに喉を鳴らす。
あの騒ぎの最中、苺々の血で正気を取り戻した猫魈は逃げ出そうと、変化の妖術で小さくなったのだが、そのせいで逆に女官が持っていた鳥籠に押し込められていた。
綿が飛び出したズタボロのぬい様にじゃれついている様子は、普通の三毛猫にしか見えない。どうやらこれが、この猫魈の本来の気性らしかった。
(投獄されるおそれはあると予想はしていましたが……それにしてもまさか、人間用ではなくあやかし用の牢獄に投獄されるとは。しかも、猫魈様と一緒に)
天井までの高さは苺々の背丈ほどしかない。窓もないし、鉄格子もなく、まるで穴蔵のようだ。苺々が座ったら、あとは三毛猫が一匹、ゴロンと寝転がれる程度の広さしかなかった。
壁には至る所に、名のある道士や巫女の書いた符が貼り付けてある。紙質から見て、とても古い時代のものだろう。それが幾重にも重なり、天井まで覆っていた。
同じような符が鳥籠にも貼り付けてあったし、あれも後宮に古くからあるあやかし捕り物用なのかもしれない。
苺々は小さな木蓮の刺繍が施された手巾で、自分で傷つけた手のひらの血を拭う。消毒薬はないので、せめて菌が入らないようにと、手巾を器用に巻きつけた。
続いて簡易裁縫箱から針と糸を取り出す。
「猫魈様、少しだけぬい様を貸していただきますね。このままでは、お口を傷つけてしまいかねませんから」
苺々はズタボロになったぬい様をささっと繕い直して、猫魈に与える。
ぬい様がお気に入りになったのか、猫魈は桃色の肉球をこちらへ伸ばす。そうして『はなさないぞ』とばかりに前脚で抱きしめた。
(ふふっ。あやかしの恐ろしさはどこに行ってしまったのでしょうか。もふもふの三毛猫のようで、かわゆいです)
それからひとりと一匹は、何刻もの間、他愛のないお喋りをして過ごした。
「にゃう。にゃう、にゃあん」
「それは大変でしたね。道術で! この後宮には、そんな恐ろしい方がいらっしゃるのですね」
猫魈は後宮に住まう女官から『木蘭を狙え』と道術をかけられ、正気を失っていたらしい。
この人形は木蘭にしか見えなかった、と猫魈は三又の尾を揺らした。どうやらぬい様は形代として、身代わりの役割をきっちり果たせたみたいだ。
(城壁や城門には、古の時代よりあやかし避けが施されているはず。百歩譲って丑の刻ならまだしも、真昼間からあやかしが侵入するなんて考えられません。その女官の手引きであることは確実でしょうね)
「にゃぁぁぁ」
「お名前も特徴も言えないのですね。大丈夫ですよ、わたくしは信じます」
「にゃー」
猫魈はお気に入りのぬい様を噛み噛みしながら、苺々の膝で丸くなった。
「にゃ〜ご」
「はぁぁ。猫魈様のもふもふで、疲れも吹っ飛びます……」
ぐすっと涙を我慢しながら、苺々は毛並みにそって優しく撫でる。
ひとりと一匹が心を交わしあっていると、石畳を蹴るようにカツンと靴の音がした。
数人の男性の喋り声が聞こえる。
きっと宦官が沙汰を言い渡しに来たに違いない。
苺々と猫魈は揃って目を見合わせてから、不安げな表情で扉を見つめる。
扉が開かれた先には、苺々を捕らえた宦官とは別の宦官がいた。
「皇太子殿下の命により、白蛇妃を無罪とし釈放する。外へ出ろ」
「……ありがとうございます。あの、猫魈様は……?」
「あやかしは城外の道士に引き渡す予定である」
宦官たちの悪い顔を見るに、酷い刑罰を与えるつもりだ。
本当は女官に操られていたのだと伝えても、誰も取り合ってはくれないだろう。こんなにも本質は優しく穏やかな猫魈を、友人を、見捨てられるわけがなかった。
「そ、それでしたらわたくしにいただけませんでしょうか」
「なんだと?」
「わた、わたくしが、ばばばば罰を与えますわっ!! いいい怒りが、おさまりませんので!!」
嘘をつけない性格である苺々は、嘘がバレないように目を瞑る。そして慌てふためきながら、なんとか言葉を言い切った。
「どうするつもりだ」
「白蛇の刑です!!」
「白蛇の刑!?」
「白蛇の刑……だと……!? なんと恐ろしいことを考えるのだ」
苺々の適当に思いついた出まかせに、宦官たちはそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「わかった。あやかしを白蛇の刑に処すことを許そう。籠をこちらへ」
一番年上の宦官が、後ろに控えていた若い宦官に命じる。
「ありがとうございます」
苺々は符の付いた鳥籠を受け取ると、できるだけ邪悪に見えるように微笑みを浮かべる。
その顔は、宦官たちをさらに震え上がらせた。
牢屋を出ると空には月が出ていた。
昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても肌寒い。苺々は鳥籠を手に肩を擦りつつ、闇夜に紛れて城壁へ向かう。
この城壁を越えれば、城の外だ。
まったくひと気のない城壁の前で、ちょうどよく置き忘れらしい長梯子を見つけた。雑然とした放置の仕方からして、庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(急な腹痛のお手洗いでしょうか?)
それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね、と心の中で声をかけ、苺々は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺々は、鳥籠から猫魈を出す。そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃー」
「そうです、これが白蛇の刑ですわ。危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
「にゃーお、にゃおん」
「はい。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて」
三毛猫の猫魈が、城壁からひらりと跳躍する。
もふもふの背中に、苺々は小さく手を振る。こうして苺々は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。
◇
――時は遡り、一刻前。
「木蘭は眠ったようだ。明朝に木蘭が呼ぶまで、お前は自室へ退がるように」
「かしこまりました」
貴姫・朱 木蘭の住む紅玉宮にて。雄鹿のような漆黒の角が生えた悪鬼の面を被った青年が、跪く上級女官の横を通り過ぎた。
紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げ、紫を基調とした武官の衣裳を纏った長身の青年からは、微かに木蓮の花の匂いが香る。その腰に下げた長剣には、ひと目で皇帝の血筋であるとわかる意匠が施されていた。
口元がさらけ出された仮面の下で、美貌の青年の唇が蠱惑的に微笑む。
悪鬼の恨みで害されぬよう代々受け継がれている『悪鬼面』を被った彼こそ、この皇太子宮の主――病弱だという噂の皇帝の長子、燐 紫淵であった。
紫淵は紅玉宮を出る。
(……おかしい。今日は久方ぶりに体調が良いな。あんなことがあった後だというのに)
だるさや眠気はなく、いつもより身体が軽い。胸の痛みはあるが、歩けないほどではなかった。
(もしや白蛇の娘の異能か?)
不思議に思いながらも、彼はその足で皇太子宮内の警備を担う宦官の詰所へと向かう。
「夜分にすまない。本日、白蛇妃を捕らえた宦官はいるか」
宦官たちは、突然現れた皇太子殿下の姿に驚いた。
彼がここへ来たのは初めてのことだ。
噂によると皇太子殿下は昨年の暮れより体調を崩しがちになり、皇太子宮の封が解かれてからは、ほとんど床に伏していると聞く。
今年の清明節では幼女に剣舞を舞わせたほどだ。政務の場に現れなくなったという噂は本当だろう。線が細く儚げな体つきは確かに脆弱そうで、日に当たっていない肌はどの宦官よりも白い。
――だが。
長い脚を捌く彼の足取りは、手練れの武官のように……恐ろしいほど足音がしなかった。
武官の衣裳を身につけているせいか、悪鬼面のせいか、冷厳な雰囲気に呑まれて背筋が凍る。
「聞いているのか。皇太子宮に現れたあやかしの件で、幾人かの宦官が白蛇妃を牢に入れたはずだ」
頭を垂れて跪く宦官たちを前に、紫淵はやわらかな、慈悲深さすら感じられる声を出した。
「お、恐れながら、殿下。私どもにございます」
「午の刻、鏡花泉の北の四阿にて、殿下の寵妃様を害そうとしたあやかし二匹を捕らえました」
「私が槍の柄で処罰いたしました」
「私は縄を掛けました」
「牢に封じたのは私でございます」
よく肥えた五人の男たちが顔を上げ、我先にと自分の手柄を報告する。
「ほう?」
紫淵は男たちの顔をひとりずつ、ゆっくりと見た。
薄笑いを浮かべた男たちは玉のような汗をかき、甘露を待ち望むように締まりなく口を開いて、さらに言葉を募ろうとする。
褒美だ。褒美がもらえる。
他の宦官たちは五人の男たちを羨ましいとさえ感じていた。しかし。
「では、今名乗りを上げた者たちを捕らえよ。厳正なる判断をせず冤罪を押し付け、宦官ごときが私の妃に手を上げた罪は……極刑に値する」
悪鬼の面の美丈夫は、すらりと長剣を抜いた。
「まさか、褒美がもらえるとでも思っていたか? 侮るなよ」
平伏したくなるような美声が、低く、冷酷無慈悲に告げる。
――悪鬼だ、と誰かが言った。
◇
苺々が水星宮に帰ると、室内は酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
円卓に置いていた一尺のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
恐ろしや! と苺々は誰もいない水星宮で飛び上がった。
無駄にびくびくと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。それから、ズタボロになった白蛇ちゃんを棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
「深夜ですがひと仕事です」
苺々は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
苺々は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。入浴を終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
水星宮にある木製の風呂桶は、他の妃たちの宮に備えられている物の何倍も小さく簡素だが、湯を満たすのに時間がかからないのがいい。
「恐ろしい女官の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
苺々は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で入浴用の湯を沸かすのだった。