「ああ、木蘭様ったら……本日も大変お可愛らしいです……っ!」
紅珊瑚の瞳をめろめろにとろけさせ、真っ白な長髪を振り乱す十六歳の少女――白 苺々は「はぅぅ」と今日も元気に赤く染まった頬を押さえる。
苺々の熱視線の先には、六歳になったばかりだという幼妃・朱 木蘭がいた。
「可憐な剣舞用の御衣裳で、鈴の音を鳴らしながら羽衣をはためかせる様は、そう! まさに天女の御使ですわ!」
菫色の大きな瞳と子犬の垂れ耳のようなお団子に結い上げられた黒髪が印象的な木蘭は、幼な子にはまだ重たいはずの短剣を小さな手に持ち、皇太子代理として四半刻にもおよぶ剣舞を舞い切ってみせた。
最後の方はおぼつかない足取りではあったが、きっと皇太子宮の妃は誰も彼女の舞を凌げぬだろう。そう思えるほど、愛らしい舞だった。
「はわわわ」
いまだ興奮覚めやらぬ苺々は感動で打ち震えながら、緋毛氈の敷かれた宴席に座す他の妃達のピリついた空気も読まずに、末席から盛大な拍手を送る。
本日、ここ燐華国の後宮内に造られた〝皇太子宮〟では、この国で最も重要な祭事のひとつである『清明節の宴』が開かれていた。
燐華国では春を祝い祖先の魂を祀る清明節に、皇帝の長子が剣舞を奉納する決まりになっている。
なぜ剣舞を奉納するようになったかというと、昔々あやかしが跋扈していた時代に、青白い燐火とともに闇夜に現れる悪鬼を初代皇帝の長子が見事な剣技で討伐した逸話に由来しているそうだ。
以来、皇帝の長子には祓除の剣舞が受け継がれている。
しかし、歴代の皇太子は二十歳の『成人の儀』を迎えるまで身体が弱い者が多い。
今代の皇太子・燐 紫淵も齢十八ではあったが未だ病弱で、日中はほとんど床に臥せっていると聞く。時折、体調が優れた時のみ公務の席に現れるが、素顔は決して見せず鬼の面を深々と被っていた。
本来ならば先ほどの剣舞も皇太子が舞うべきところであったが、最近体調が芳しくない皇太子が、自ら代理に木蘭を指名したらしい。
「皇太子殿下はなぜあんな幼児に大役をお任せになったのかしら。〝淑姫〟様は剣舞の名手であらせられるのに」
「清明節の宴席は、幼児のお遊戯会ではないのにね。私は〝徳姫〟様の舞が見たかったわ。『探春の宴』で披露された桜花舞は、それはそれは素敵だったもの」
「〝賢姫〟様の天女のような歌声も、きっと燐火をおさめることができたでしょうに。なぜあの乳飲み子の剣舞だけなのかしら」
控える女官たちは宮廷楽団の演奏に紛れて、それぞれの『推し』である妃を讃える。
推しとは後宮で最近流行している言葉で、もともとは演劇の旅一座のお気に入りを応援する言葉からきているらしい。それが後宮ではいつの間にか『無償の愛で妃を陰ながら御支えする』という意味に転じ、女官の嗜みのひとつになっている。
推しがいない者はすなわち『無償の愛で尊い妃を支える気がない』とされ、女官の風上にも置けない信頼ならぬ者の烙印を押される。そんなわけで、後宮では女官たちによる『推し活』なる『妃応援活動合戦』が至る所で勃発しているのであった。
「でも、あの〝白蛇〟が指名されるよりはまだましね。あやかしのような真っ赤な目が本当に不気味。ほら、見て。木蘭様から視線を離さないあの様子……」
「まあ、なにあれ。薄気味悪いわ。白い大蛇が睨めつけているみたい」
「いつも木蘭様をじっと睨みつけているわよね。呪詛でもかけているのかしら。最下級妃のくせに身の程知らずでおこがましいわ」
女官たちは歪んだ口元を団扇で隠す。
「呪われ白家の出身ですもの、教育が行き届いていないのよ。ああ、あんな〝白蛇〟と同じ空気を吸っているのも嫌だわ」
「ちょっと、あんまり大きな声で言ったら聞こえるわよ」
「聞こえたって構いやしないわ。後宮の嫌われ者の〝白蛇妃〟が、私たちを咎められるはずがないもの。もし皇太子殿下に進言されたとしても、お妃様の信頼が厚い私たちの方が勝つに決まっているんだから」
クスクスと蔑み笑う女官たちの話し声が、彼女達にほど近い末席に座す苺々に聞こえていないはずがない。
だが、しかし。
(推しである木蘭様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
と、燃える苺々の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
元宵節に皇太子宮の封が解かれ、『八家八姫』の慣例に従って〝選妃姫〟――妃としての位を決めるために月一度開かれる試験に臨むことになった苺々だが、実のところ次期皇帝にもその妃という地位にも興味がない。
彼女はただ、出会った瞬間に胸を撃ち抜かれた〝朱 木蘭〟を、後宮内ならば全力で推せると聞いてやって来たのである。
苺々は美しい刺繍、美味しいお茶菓子、そして庇護欲をそそられる可愛いらしいものに目が無いのだ。
「木蘭様は、きっとおねむなのですね。まだ六歳であらせられるのに、あんなに素敵な舞をご披露されたのですもの。ご立派です……っ!」
木蘭は幼くても〝妃〟らしくぴんと背筋を伸ばしていたが、春の陽気に照らされて眠たくなってしまったようだ。空席の上座に最も近い〝貴姫〟の席に着いた途端、こくりこくりと船を漕ぎ始める。
「ふわぁぁ……癒しのすべてがここに……!」
苺々は見事な木蓮の刺繍が入った絹の団扇を、胸元でぎゅうっと握る。
これは推し活の一貫で、苺々が木蘭を想って自分で刺したものだ。
燐華国の三大刺繍と呼ばれている『白州刺繍』の技法で刺された紫木蓮の図案は緻密で、花や葉が朝露に濡れているかのように瑞々しく見える。その技法は白州特産の絹糸を使うことででさらに昇華されており、色鮮やかな絵画のごとく芸術的で美しかった。
本当はこの団扇を両手に一本ずつ持ち、ぶんぶん振り回したいくらいの気持ちなのだが、最下級といえど妃は妃。礼儀作法を重んじ、「応援しています」と珠玉の一本を胸元に掲げるに留めている。
その時、ふと青黒い靄が漂い始めた。煙りのようなそれは、四方八方からもくもくとやってきて、ひたすら幼い少女へ向かって集まっていく。
「……あら? あらあら? 木蘭様の周囲に、よくないものが」
苺々は目を見開き眉根を寄せる。あれは人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意が力を持った姿だ。その名を〝呪靄〟という。
皇太子妃たちや女官たちから向けられた悪意が木蘭に集まり、靄の形をとっている。これが酷くなれば木蘭は大病にかかり、床に伏せるようになるだろう。
呪われ白家と呼ばれる白家出身の苺々には、生まれつき悪意を視ることができる眼と、それを祓う異能が備わっていた。
「呪靄でしたら、まだここからでも祓えますわね」
苺々は長い上衣の袂から簡易裁縫道具箱にしている漆塗りの小物入れを取り出すと、針と糸を持ち、手元の団扇にせっせと刺繍していく。
特殊な針で異能を操り、その刺繍の中に呪靄となった悪意を封じ込めるという破魔の術だ。
すでに木蓮の花が幾重にも咲き誇る団扇に、新たな木蓮の蕾を刺し終えた瞬間――木蘭の周囲にあった青黒い靄が霧散した。
「よかった……。本日も推しの健やかな日常を守ることが叶いましたわ!」
苺々は緊張と早業刺繍でかいた汗を「ふう」と拭う。
まさか悪意に害されそうになっていたとはつゆ知らず、幼妃はとうとう睡魔に耐えきれなくなったのか、ゆらゆらしたのちぱたりと倒れる。
この団扇に刺繍された木蓮の花の数だけ、木蘭は強い悪意に晒され、呪われ続けている。とても異常で危険な状態だ。
(う〜〜〜っ。それでも、わたくしはこうして影からこっそり推し活をすることでしか、木蘭様をお守りできませんッ)
簡易裁縫道具を袂に仕舞い、苺々は涙をのむ。
呪われ白家出身である後宮の嫌われ〝白蛇妃〟が進言したところで、犯人扱いされて終わりなのは目に見えている。投獄されたり、後宮から追放されたりしたら祓うことすらできない。
「それならこうして静かに推し活を嗜んでいた方が、ずっと推しのためになるというものです……!」
ふんすと鼻息荒く胸を張った苺々は、今日も満足げな微笑みを浮かべる。
視線の先では、木蘭付きの上級女官が慌てて幼妃を揺り起こしていた。
苺々の住まう〝水星宮〟は、皇太子宮を九つに割った北側の辺鄙な場所にある。
水辺が近いため朝晩は冷えてよく霧が立ち込めるし、晴れていても少しじめじめとしていて、なにより蔵のように狭い。
燐華建国時代から続く由緒正しき九家のひとつに数えられる白家の娘が、なぜこんな簡素な宮に追いやられているかというと、白髪と紅珊瑚の瞳という特異な容姿もあるが……最たる原因は、その出自のせいだろう。
古代から語り継がれるかの有名な『白家白蛇伝』を、この城で知らぬ者はいまい。
それは闇夜に燐火が浮かび、あやかしが跋扈していた時代の話だ。
後宮に召し上げられた白家の娘は、原因不明の病に苦しんでいた。娘は大層な美姫であったが病が進行し、ついには後宮を辞すことになる。
清明節を機に白州に帰郷した娘の病を治したのは、燐火を纏って現れた赤い瞳を持つ白い大蛇だった。
大蛇は人の形を取ると、返礼に娘との婚姻を迫った。そしてふたりの間に生まれたのが、白髪と紅珊瑚の瞳を持つ異能持ちの娘。他家から『呪われ白家』と呼ばれ始めた、最初の姫だった。
異類婚姻によって生まれた白蛇の娘は、白家の領地である白州では神子として愛されているが、白州を一歩出るといつの世でも迫害されている。
特異な出自を恐れてか直接的に手を下されることは少ないが、こうして後宮の離れには白家の娘を幽閉する場所が作られているほどだ。
それぞれの妃の住まいは選妃姫で得た地位によって決まるはずだが、白蛇の娘にとって選妃姫とは無いに等しい制度だった。
それは現皇太子、紫淵殿下の世でも変わっていない。
後宮に八家から八姫が招集された日、皇太子不在の中で行われた選妃姫で試験官たちは苺々を存在しないかのように無視した。明らかに不平等な試験の末、苺々は八妃姫の中で最下位を表す〝白蛇〟の冠を与えられて、他の妃たちの住まいとは遠く離れた水星宮に押し込められたのだ。
最下級妃の名が白蛇なのだから、まあつまりは、はなから判じるつもりなどないというわけである。
だが苺々は、皇太子宮での虐めに屈しなかった。
たとえ水星宮付きの女官が皆、初日で逃げ出そうともだ。
「わたくしだけ離れだなんて、なんと高待遇なのでしょうか! ここなら誰の視線も気にせずに、全力で推し活ができますわ!」
食事に携わる尚食の女官は来てくれるので、生命維持には問題ない。水星宮の掃除や風呂の管理、洗濯や身支度なんかは自分ですれば良いのだ。
あらかじめ白家の邸で侍女の後ろをひっついて予習と練習をしてきていたので、いざ水星宮にぽつねんと一人きりというの状況に直面しても、なんとかこなすことができた。
今では床の雑巾がけも良い運動である。
「はーっ。ここならついうっかり他のお妃様と鉢合わせして、めくるめく後宮の愛憎劇に巻き込まれる心配もありません。極楽ごくらく」
というわけで苺々はむしろ、これ幸いと後宮での自由を謳歌していた。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
今日も今日とて悠々自適にのんびりと過ごしながら、少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
苺々は手元の布に通していた特殊な縫い針を引っ張り、糸をきゅっと玉止めすると、丁寧に糸を鋏で切った。
「じゃじゃーん、できましたわ! 苺々特製、木蘭様ぬいぐるみ!」
苺々はぴかぴかの笑顔で、出来上がったばかりの布偶を両手で頭上に掲げた。
「お茶会のお呼ばれもありませんし、最近は雨ばかりでしたので木蘭様をお見かけする機会がなかなかありませんでしたが、意外にも推し活は捗りました。ぬいぐるみ製作、憧れだったのです……」
後宮へ向かう途中に、王都の露天で売られていた演劇の旅一座の応援商品を初めて見た時は、馬車から身を乗り出す勢いで衝撃を受けた。
『わぁ! こんな意匠のぬいぐるみがあるだなんて! わたくしも製作してみたいです……!』
全体的に丸みを帯びた形は幼な子向けにも見えるのに、買っていくのは神に陶酔したような顔をしている、情熱的な若い娘や大人ばかり。その異様で幸福そうな光景に、これが王都の『推し活』かと目を輝かせたものだ。
あれからふた月。合間を縫って製作し、とうとう完成したというわけである。
意匠には最近流行している布偶のものを取り入れ三頭身に簡略化し、さらに苺々なりの創意工夫を加えて、お茶菓子のような色彩と可愛らしさを意識。お顔の表情は、二週間前にあった清明節の宴席で目撃した『おねむな木蘭様』にした。
衣裳にも抜かりはない。朱家の象徴である赤を使った大袖の上衣に、きっちり胸元まで覆う桃色の裳も三頭身に合わせて再現している。仕上げに羽衣のような披帛を掛けたら完璧だ。
「柔らかな布地を使ったので触り心地も抜群です。今日からよろしくお願いいたしますね、ぬいぐるみの木蘭様! ……そうだ、ぬいぐるみの木蘭様ですから〝ぬい様〟とお呼びしますね。ふふっ、今にも寝息が聞こえてきそうです」
木蘭様の特徴をよく捉えたぬい様は、どこか抜けている様子があって、見ているだけでも癒される。
白州は絹織物と養蚕業で発展した。三大刺繍の中でも最も格式高いとされる白州刺繍が生まれた場所でもある。そんな白州白家の姫ゆえに、『裁縫の名手』と呼んでいいほどの腕前を持つ苺々の手で作られたぬい様は、王都で布偶製作を生業としている職人以上の出来栄えだった。
「木蘭様の髪の毛を一本いただけたら、ぬい様も全力を出せるのでしょうが……。髪の毛は流石に『ください』と言ってもらえるものではないので、しょうがないですわね」
このままの状態でどれほどの効力を発揮してくれるのかわからないところが心配ですけれど、と毛氈生地で作った小さな頭を撫でる。
ぬい様は、ただのぬいぐるみではない。
苺々の異能である悪意を祓う力を込めた、形代だ。
形代は紙でも作ることができるが、精巧に作られた人形になると紙以上に身代わりとして優秀になる。
さらに人形の中に守護対象者の毛髪を入れると、悪意が形を持った状態である呪靄だけでなく、その呪靄が変化し意思を持った〝呪妖〟も吸収してくれて――。
「あっ! 〝白蛇ちゃん〟が……っ! 今日も見事にズタボロです!!」
異様な気配を感じハッと視線を上げた先で、寝台に置いていた白蛇のぬいぐるみがブッチィィィッと音を立てて引き裂かれる。困り顔にしていた首はもげ、お腹からはふわふわの綿が飛び出した。まるで蛇殺しの現場だ。
「うぅぅ。白蛇ちゃん、どうか安らかに……」
苺々はぬい様を円卓に置いて、ズタボロにされた白蛇ちゃんに頬ずりする。
きっと、今日も後宮内の誰かが、すさまじい悪意を苺々に向けていたのだろう。形代に集められ封じられた悪意の総量が許容範囲を超えると、先ほどのようにズタボロに壊れてしまうのである。
向けられた悪意が自分を害するほどの呪詛へと変化する前に、苺々はこうして自動的に悪意が祓われるようにしている。
そうでもしなければ、後宮の嫌われ白蛇妃なんて、命がいくつあっても足りないのだ。
――とまあ、このように髪の毛入りのぬいぐるみは身代わりとして、それはすさまじい効果を発揮してくれるのだが、最下級妃の自分が最上級妃の木蘭に『髪の毛を一本ください』なんて言い出せるわけがない。誰の目から見ても立派な呪詛案件だ。
「それに……妾のことは忘れてくれ、と言われていますしね」
苺々はがっくりと肩を落とす。
白州にある実家にひとりの従者と共に美幼女がやってきたのは、昨年の暮れ。
九家のみしか使えぬ特別な木簡を使って『お忍びで』との前触れがあったため、白家側は『異能絡みだろう』と考え、裏口から彼女たちを通した。
『妾は木蘭。朱皇后陛下の縁者である』
まろい頬を緊張で強張らせて背筋をぴんと伸ばし、木蘭は舌ったらずな口調で堅苦しい挨拶を諳んじてみせる。両親に手を引かれる年頃の幼女が白家当主への挨拶を終えた時、苺々は感動のあまり拍手せずにはいられなかった。
(な、な、な、なんてお可愛らしいお姫様なのでしょう!)
『お上手ですわ、木蘭様っ』
木蘭は頬を真っ赤に染めて照れながら、挨拶などできて当然、というようなお澄まし顔をする。
『せ、世辞はよい。白家の姫君には代々異能が受け継がれると聞いた。妾にかけられた呪詛を至急解いてほしいのだが、できるだろうか』
珠のように可愛らしい見目と、幼な子には不釣り合いな言葉遣い。恥ずかしがりながらも精一杯頑張っている、一生懸命過ぎる仕草。堪らない愛らしさに、思わず庇護欲を掻き立てられずにはいられない。
(はあぁぁっ。かわゆいです、かわゆいですっ。なぜでしょう……なんだか動悸がして、胸が熱いですっ! ああ、この胸の高鳴り……これが、きっと『尊い』という気持ちですわね!!)
苺々はずきゅんと胸を矢で射抜かれた気持ちがした。
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです。わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては! せっかく白蛇の娘を頼っていらしたのですから)
食い気味に『すぐに確認させていただきます』と身を乗り出すと、異能を使って木蘭を視た。
が、特に異状は視られなかった。
悪意が呪靄となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
『お力になれず、大変申し訳ございません』
結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
そうして別れ際に、差し出がましい真似だとは思いながらも、木蘭へ呪詛の症状を問うたところ……。
『原因と症状がわからないのなら、妾のことは忘れてくれ』
と言われてしまったのだ。
(木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺々は、『これは』とばかりに馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
苺々が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
苺々はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、ぷちりと抜いた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
苺々は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。
久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
水星宮にほど近い大きな池には、数隻の小船が浮かんでいた。どこぞの妃が女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
苺々は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
誰もいない水辺の四阿を見つけた。青銅瓦の六角屋根と朱塗りの柱が色鮮やかな四阿には、ちょうどよく日光が差し込んでいる。
苺々は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
池の鯉がパシャリと跳ねる。
「うーん。いいお天気ですわ」
両腕を伸ばしてぐっと背伸びをする。少し眠たいかもしれない。そう思った時だった。
「きゃああっ!」
遠くで女性の甲高い悲鳴が響く。
「あら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛さんが枝から垂れ下がってきたり、蟷螂さんが大鎌を振り回していてもおかしくはありません。……そ、想像するだけでも、わたくしも怖いです)
「お逃げくださいませ!」
人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
苺々がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
突然の木蘭様の名前に戸惑う。
急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭様と、それを追う牙を剥いた大型の三毛猫――否、あやかし『猫魈』がいた。
「なぜこんなところに猫魈が!?」
猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(猫魈の気を逸らさなくてはッ)
苺々は急いで、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を取り出す。先端が鋭くなっている糸切り鋏で、戸惑うことなく手のひらを傷つけた。
「いっ」
焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。苺々はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
木蘭の形代、異能の鮮血。これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「……あっ」
足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
猫魈が木蘭に襲いかかる。
苺々は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。すると作戦通り、猫魈は木蘭ではなくぬい様に飛びついた。木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
苺々は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……貴女は、白家の」
菫色の大きな瞳に、苺々の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……! このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。厳しい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺々の背を打つ。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
木蘭はふるふると震えながら、苺々を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
しかし六歳の幼女の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか、宦官は誰も聞く耳をもとうとしない。
彼らは苺々を「白蛇の娘」「異能の妃め」と罵りながら、縄にかけたのだった。
「ううう……。酷いめにあいましたわ……。あやかしとわたくしを勘違いされるだなんて、皇太子宮に上がって以来の大事件でした」
(木蘭様が傷ひとつ負っていないことだけが、不幸中の幸いです……)
慌ただしくひっ捕らえられ、寒々しい狭小な牢獄に閉じ込められた苺々は、敷物も敷かれていない石畳の床にぺとりと座り込んでため息をついた。
「にゃー」
「そうですわよね。あやかしにしては牙も爪も貧相、その通りです」
「にゃーお」
「ええ、あなたのおっしゃる通りですわ。妖術は使えませんので、ここから逃げるのは難しいかと。猫魈様はとってもお上手ですね」
同じ牢に入れられた三尾の猫魈が、「ごろごろ」と得意げに喉を鳴らす。
あの騒ぎの最中、苺々の血で正気を取り戻した猫魈は逃げ出そうと、変化の妖術で小さくなったのだが、そのせいで逆に女官が持っていた鳥籠に押し込められていた。
綿が飛び出したズタボロのぬい様にじゃれついている様子は、普通の三毛猫にしか見えない。どうやらこれが、この猫魈の本来の気性らしかった。
(投獄されるおそれはあると予想はしていましたが……それにしてもまさか、人間用ではなくあやかし用の牢獄に投獄されるとは。しかも、猫魈様と一緒に)
天井までの高さは苺々の背丈ほどしかない。窓もないし、鉄格子もなく、まるで穴蔵のようだ。苺々が座ったら、あとは三毛猫が一匹、ゴロンと寝転がれる程度の広さしかなかった。
壁には至る所に、名のある道士や巫女の書いた符が貼り付けてある。紙質から見て、とても古い時代のものだろう。それが幾重にも重なり、天井まで覆っていた。
同じような符が鳥籠にも貼り付けてあったし、あれも後宮に古くからあるあやかし捕り物用なのかもしれない。
苺々は小さな木蓮の刺繍が施された手巾で、自分で傷つけた手のひらの血を拭う。消毒薬はないので、せめて菌が入らないようにと、手巾を器用に巻きつけた。
続いて簡易裁縫箱から針と糸を取り出す。
「猫魈様、少しだけぬい様を貸していただきますね。このままでは、お口を傷つけてしまいかねませんから」
苺々はズタボロになったぬい様をささっと繕い直して、猫魈に与える。
ぬい様がお気に入りになったのか、猫魈は桃色の肉球をこちらへ伸ばす。そうして『はなさないぞ』とばかりに前脚で抱きしめた。
(ふふっ。あやかしの恐ろしさはどこに行ってしまったのでしょうか。もふもふの三毛猫のようで、かわゆいです)
それからひとりと一匹は、何刻もの間、他愛のないお喋りをして過ごした。
「にゃう。にゃう、にゃあん」
「それは大変でしたね。道術で! この後宮には、そんな恐ろしい方がいらっしゃるのですね」
猫魈は後宮に住まう女官から『木蘭を狙え』と道術をかけられ、正気を失っていたらしい。
この人形は木蘭にしか見えなかった、と猫魈は三又の尾を揺らした。どうやらぬい様は形代として、身代わりの役割をきっちり果たせたみたいだ。
(城壁や城門には、古の時代よりあやかし避けが施されているはず。百歩譲って丑の刻ならまだしも、真昼間からあやかしが侵入するなんて考えられません。その女官の手引きであることは確実でしょうね)
「にゃぁぁぁ」
「お名前も特徴も言えないのですね。大丈夫ですよ、わたくしは信じます」
「にゃー」
猫魈はお気に入りのぬい様を噛み噛みしながら、苺々の膝で丸くなった。
「にゃ〜ご」
「はぁぁ。猫魈様のもふもふで、疲れも吹っ飛びます……」
ぐすっと涙を我慢しながら、苺々は毛並みにそって優しく撫でる。
ひとりと一匹が心を交わしあっていると、石畳を蹴るようにカツンと靴の音がした。
数人の男性の喋り声が聞こえる。
きっと宦官が沙汰を言い渡しに来たに違いない。
苺々と猫魈は揃って目を見合わせてから、不安げな表情で扉を見つめる。
扉が開かれた先には、苺々を捕らえた宦官とは別の宦官がいた。
「皇太子殿下の命により、白蛇妃を無罪とし釈放する。外へ出ろ」
「……ありがとうございます。あの、猫魈様は……?」
「あやかしは城外の道士に引き渡す予定である」
宦官たちの悪い顔を見るに、酷い刑罰を与えるつもりだ。
本当は女官に操られていたのだと伝えても、誰も取り合ってはくれないだろう。こんなにも本質は優しく穏やかな猫魈を、友人を、見捨てられるわけがなかった。
「そ、それでしたらわたくしにいただけませんでしょうか」
「なんだと?」
「わた、わたくしが、ばばばば罰を与えますわっ!! いいい怒りが、おさまりませんので!!」
嘘をつけない性格である苺々は、嘘がバレないように目を瞑る。そして慌てふためきながら、なんとか言葉を言い切った。
「どうするつもりだ」
「白蛇の刑です!!」
「白蛇の刑!?」
「白蛇の刑……だと……!? なんと恐ろしいことを考えるのだ」
苺々の適当に思いついた出まかせに、宦官たちはそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「わかった。あやかしを白蛇の刑に処すことを許そう。籠をこちらへ」
一番年上の宦官が、後ろに控えていた若い宦官に命じる。
「ありがとうございます」
苺々は符の付いた鳥籠を受け取ると、できるだけ邪悪に見えるように微笑みを浮かべる。
その顔は、宦官たちをさらに震え上がらせた。
牢屋を出ると空には月が出ていた。
昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても肌寒い。苺々は鳥籠を手に肩を擦りつつ、闇夜に紛れて城壁へ向かう。
この城壁を越えれば、城の外だ。
まったくひと気のない城壁の前で、ちょうどよく置き忘れらしい長梯子を見つけた。雑然とした放置の仕方からして、庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(急な腹痛のお手洗いでしょうか?)
それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね、と心の中で声をかけ、苺々は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺々は、鳥籠から猫魈を出す。そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃー」
「そうです、これが白蛇の刑ですわ。危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
「にゃーお、にゃおん」
「はい。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて」
三毛猫の猫魈が、城壁からひらりと跳躍する。
もふもふの背中に、苺々は小さく手を振る。こうして苺々は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。
◇
――時は遡り、一刻前。
「木蘭は眠ったようだ。明朝に木蘭が呼ぶまで、お前は自室へ退がるように」
「かしこまりました」
貴姫・朱 木蘭の住む紅玉宮にて。雄鹿のような漆黒の角が生えた悪鬼の面を被った青年が、跪く上級女官の横を通り過ぎた。
紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げ、紫を基調とした武官の衣裳を纏った長身の青年からは、微かに木蓮の花の匂いが香る。その腰に下げた長剣には、ひと目で皇帝の血筋であるとわかる意匠が施されていた。
口元がさらけ出された仮面の下で、美貌の青年の唇が蠱惑的に微笑む。
悪鬼の恨みで害されぬよう代々受け継がれている『悪鬼面』を被った彼こそ、この皇太子宮の主――病弱だという噂の皇帝の長子、燐 紫淵であった。
紫淵は紅玉宮を出る。
(……おかしい。今日は久方ぶりに体調が良いな。あんなことがあった後だというのに)
だるさや眠気はなく、いつもより身体が軽い。胸の痛みはあるが、歩けないほどではなかった。
(もしや白蛇の娘の異能か?)
不思議に思いながらも、彼はその足で皇太子宮内の警備を担う宦官の詰所へと向かう。
「夜分にすまない。本日、白蛇妃を捕らえた宦官はいるか」
宦官たちは、突然現れた皇太子殿下の姿に驚いた。
彼がここへ来たのは初めてのことだ。
噂によると皇太子殿下は昨年の暮れより体調を崩しがちになり、皇太子宮の封が解かれてからは、ほとんど床に伏していると聞く。
今年の清明節では幼女に剣舞を舞わせたほどだ。政務の場に現れなくなったという噂は本当だろう。線が細く儚げな体つきは確かに脆弱そうで、日に当たっていない肌はどの宦官よりも白い。
――だが。
長い脚を捌く彼の足取りは、手練れの武官のように……恐ろしいほど足音がしなかった。
武官の衣裳を身につけているせいか、悪鬼面のせいか、冷厳な雰囲気に呑まれて背筋が凍る。
「聞いているのか。皇太子宮に現れたあやかしの件で、幾人かの宦官が白蛇妃を牢に入れたはずだ」
頭を垂れて跪く宦官たちを前に、紫淵はやわらかな、慈悲深さすら感じられる声を出した。
「お、恐れながら、殿下。私どもにございます」
「午の刻、鏡花泉の北の四阿にて、殿下の寵妃様を害そうとしたあやかし二匹を捕らえました」
「私が槍の柄で処罰いたしました」
「私は縄を掛けました」
「牢に封じたのは私でございます」
よく肥えた五人の男たちが顔を上げ、我先にと自分の手柄を報告する。
「ほう?」
紫淵は男たちの顔をひとりずつ、ゆっくりと見た。
薄笑いを浮かべた男たちは玉のような汗をかき、甘露を待ち望むように締まりなく口を開いて、さらに言葉を募ろうとする。
褒美だ。褒美がもらえる。
他の宦官たちは五人の男たちを羨ましいとさえ感じていた。しかし。
「では、今名乗りを上げた者たちを捕らえよ。厳正なる判断をせず冤罪を押し付け、宦官ごときが私の妃に手を上げた罪は……極刑に値する」
悪鬼の面の美丈夫は、すらりと長剣を抜いた。
「まさか、褒美がもらえるとでも思っていたか? 侮るなよ」
平伏したくなるような美声が、低く、冷酷無慈悲に告げる。
――悪鬼だ、と誰かが言った。
◇
苺々が水星宮に帰ると、室内は酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
円卓に置いていた一尺のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
恐ろしや! と苺々は誰もいない水星宮で飛び上がった。
無駄にびくびくと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。それから、ズタボロになった白蛇ちゃんを棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
「深夜ですがひと仕事です」
苺々は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
苺々は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。入浴を終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
水星宮にある木製の風呂桶は、他の妃たちの宮に備えられている物の何倍も小さく簡素だが、湯を満たすのに時間がかからないのがいい。
「恐ろしい女官の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
苺々は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で入浴用の湯を沸かすのだった。
「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺々は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです! と、苺々は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
窓の外を見るに、尚食の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
そう思っているのは実は苺々だけなのだが、彼女はそれを知らない。
苺々の朝餉が遅いのは、尚食の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
苺々は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
そこには昨日見た顔があった。朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。わたくしは朱貴姫の女官、朱 若麗と申します」
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも木蘭様と同じ血筋の)
瞠目した苺々は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「若麗様。白 苺々でございます」
家格は同等か、いや、朱皇后陛下の縁者なのだから彼女の方が上になる。
それに朱家の若麗姫と言えば、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いない。二胡の名手と名高い、高貴な血筋の姫君だ。
もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く釣り合いが取れている。
「まあ、苺々様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
若麗は苺々に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
苺々を忌避している様子はまったくない。物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
人との会話に飢えていた苺々は、木蘭のこぼれ話など聞きたさに、若麗を部屋の中に招き入れた。
円卓の前にあるひとつしかない椅子を彼女に勧め、それからいそいそと、水星宮の女官さながらにお茶を出す。実家ならば姫様がお茶を出すなど言語道断、と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺々の侍女はいない。
若麗に至っては、今は女官という立場から驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。どちらもお人好しなのである。
ふたりはお気に入りのお茶などを語らいながら意気投合すると、しばし和んだ。
「あの、それでどうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺々様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
苺々は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺々様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
苺々はそこに記された内容を見て、「ええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
その後。苺々は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
苺々は衣装箪笥から一張羅の白衣の大袖を取り出す。これは皇太子宮に上がった初日に着た〝白蛇の白衣〟だ。白州の上質な絹を特殊な針と異能を使って自ら縫い上げ、蛇の鱗のような刺繍を施した破魔の装束である。
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙で伺うことはできない。
鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を籠の中に全部詰めて、水星宮を出た。
そして昼下がりの今――苺々は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
苺々は紅玉宮の女官長である若麗に案内され、紅玉宮の一室に通される。
水星宮の十倍は広い妃の私室には、雛鳥のように可憐な朱色の衣装を着て、黒髪を子犬の垂れ耳のようなお団子に結い上げた木蘭が待っていた。
「白家の姫君。妾の宮に、わざわざ来てもらってすまない」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺々はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、宦官の投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
苺々は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺々とお呼びくださいまし!!」
「では、苺々と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう死んでもいいですわぁああっ)
勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっと推しております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように団扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺々の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我はないのか?」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ!」
苺々は団扇で顔を隠しながら推しを心配させまいと嘘をついた。
本当はかなり痛くて、青あざもひどい。糸切り鋏で切った手のひらは、血が滲んでいたのでここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
手のひらに関しては自分でやったものだが、幼い木蘭に余計な心配や責任を感じてほしくはないので、袖の中から指先以外が見えないように気をつけている。
「だったらいいが……。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に託けておく」
「お気遣いありがとうございます」
部屋に紅玉宮付きの女官たちが入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と女官長の若麗とともに全員を退出させた。
「それで、本題なのだが」
「はい。内密のご相談があるのでしたよね」
そうなのだ。文には紅玉宮付きの女官にも内緒で、白蛇の娘の異能を頼りたいとあった。そのために白蛇の娘の正装と、形代となるぬいぐるみたちを持参したわけである。
「以前、白州に伺った時のことは」
「……申し訳ありませんッ!! 昨日のことのようにしっかりと覚えております! 一言一句忘れられませんでした!」
木蘭様は『忘れてくれ』とおっしゃいましたのに、と苺々は白状する。
しかし木蘭は怒ることなく、
「そうか。内密にしてくれたのだな。恩に着る」
と新春に花が綻ぶような、やわらかな微笑みを浮かべた。
「あっ、あっ、あっ。尊みが深いですっ」
(そんな、当然のことですわ)
苺々は淑やかな笑みを浮かべる。推しの摂取過多で、本音と建て前が反対になっているのには気づいていないらしい。
木蘭は内心、『尊みが深い? とは?』と首を傾げる。
「朱家から届いた茶菓子だ。食べながら話そう」
「はい。いただきますわ」
(ああ、ふたりきりでお茶会だなんて、心臓がいくつあっても足りないです)
苺々は舞い上がるような気持ちで、勧められたお茶菓子を手に持った。
照れ隠しに、ひとくち食んで……あら? と目を丸くする。
さすが紅玉宮のお茶菓子だ。木蓮の花を型どられた茶菓子は、上品な甘さで確かに美味しいのだが……なぜだか飲み込むたびに、胸が痛くなる気がする。
毒味の女官はいるはずだし、毒ではないだろう。
(これは、まさか)
白蛇の娘にだけ受け継がれている書物の内容を思い出す。
だとしたら、木蘭の身体が心配だ。
「今回相談したいのは、その時に話した呪詛の件とは別になると思うのだが……最近、まったく眠れないのだ。不眠症というのだろうか」
「眠れない……。他にはなにかありますか? たとえば、身体のどこかが痛む、というような」
「ああ。清明節の二週間ほど前からだろうか、内側から胸が痛む」
「……やっぱり」
苺々の予想は確信に変わってしまった。
(幼い木蘭様になんという仕打ちを)
「その症状が時々、消えることがあるのだ。大抵、妾が外に出た日なのだが……昨日は特に顕著だった。この症状は病ではなく呪詛で、苺々が異能を使って祓っているのだろう?」
木蘭は確信に満ちた様子で問う。
苺々はビクッと肩を震わせると、罪人のようにしゅんと俯いた。
「はい。木蘭様の言うと通り、わたくしの異能です……。まことに勝手ながら、木蘭様をお守りするために異能を行使しておりました。許可なく勝手をしていた罰は受けますわ」
震えながら、「どうぞ、煮るなり焼くなりいたしてください」と深く頭を下げる。
「なぜそうなる。妾は苺々に感謝しているのだ」
「え?」
「苺々のおかげで、妾はこうして今も生きている。……礼を言う」
「あっ、あっ」
苺々は感動のあまり、だばーっと涙を流した。
バレたら大変だと思っていた推し活が、まさか、まさか感謝されるだなんて。
「ううっ、ぐすっ……。これからもわたくし、木蘭様を悪意からお守りするために全力を尽くして参ります……! 配慮は最大限に、ですが、もう遠慮はいたしませんわっ!!」
苺々は袂から簡易裁縫道具を取り出して円卓の上に置く。そして、持ってきていた籠から布を外し、その中身も遠慮なく円卓の上に並べた。
裁縫道具や大筆、朱塗りの皿、絹の団扇にぬいぐるみと、木蘭からして見れば繋がりのわからないものばかりだ。いや、絹の団扇とぬいぐるみだけはわかるか。見事な紫木蓮の刺繍と木蘭によく似た人形……とくれば、これが自分に関連付けられるものだということくらい理解できた。
「これは白蛇の娘に代々伝わる〝白蛇の神器〟というものです。こちらから『白蛇の針』、『天狐の毛筆』、『龍血の銘々皿』と言います。わたくしはこの白蛇の神器を使って、自らの血に流れる異能を操り、この世の悪意を祓うことができるのです」
苺々は涙腺の緩んでいた顔をキリリと引き締め、指先を揃えた手で円卓の上に置いたものたちを差した。
「この世の悪意とは五つの姿があるとされています。〝呪靄〟〝呪妖〟〝呪毒〟〝呪詛〟そして〝怪異〟――」
白蛇の娘が書き記した書物には、『この世の病や死は五つの悪意からもたらされる』とされている。人間の肉体、精神、魂の三つのうち、肉体か精神が欠けると病にかかり、魂が欠けると死に至るらしい。
「木蘭様に向けられているのは、呪靄と呪妖、そしておそらく呪毒です」
呪靄は人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意で、その感情の強さは五つの悪意の中でもっとも弱い。そのため呪靄は日常的に発生し、精神を侵そうとまとわりつく。呪靄に侵されると疲れやすくなったり、感情が乱されたりするだけでなく、長く侵されると精神を蝕む病にかかるとされている。
呪妖は呪靄が集まって変化し意思を持ったものだ。より強い悪意の塊で、発生源となる人間を操って、物理的に害をなそうとしてくるのが特徴である。
呪毒は食べ物に宿る。呪靄や呪妖よりも精製された悪意で、匂いもなければ眼にも見えない。呪毒が宿った食べ物を口にすると、肉体が内側から蝕まれて病にかかる。徹底的に隠れているので見つけにくく、対処が遅れやすい。
他には呪詛、怪異と、さらに強い悪意があるのだが、今は割愛しておく。
「原因不明の病であったり、突然気がふれたように別人になってしまう方は、悪意に蝕まれているのですわ」
白蛇と婚姻した白家の娘のように。
苺々は木蘭に五つの悪意の詳細を説明すると、「ですが」と言葉を濁した。
「悪意がどこのどなたから向けられているのかということを、わたくしには見抜くことができません。特に呪靄はたくさんの方の悪意の集合体です。向けられるたびに封じて祓う……という方法をとることになります」
同じく発生源に宿る呪妖も、目には見えても誰に害をなそうとしているのかはわからない。呪妖を心に飼っている人間は多いし、そんな人間に白蛇妃のお祓いなんて受けてもらえるはずもない。なのであらかじめ形代を用意して、自動的に集めてしまうのが解決への近道であった。
「そのために、『白蛇の針』を使うのです」
「この白銀の針か。見たことのない材質だな……」
「『白家白蛇伝』に出てくる大蛇の鱗で作られたものだそうです。この針と異能を使って、守護対象者を象徴する意匠を布に刺繍することで、悪意を封じ込めることができますわ」
「なるほど。それで木蓮の花を刺繍した絹の団扇と、妾の形をした布偶があるのか」
ふむ、と木蘭は納得した様子で、白州刺繍の技法で刺された見事な紫木蓮が咲き誇る団扇を手に取る。その瞬間、団扇に青い火が灯った。
「は?」
「木蘭様っ! お手をお離しください!」
「……っ!」
床の上に打ち捨てられた団扇が、ボゥッと青い炎に包まれる。
「も、燃えているが」
「申し訳ございません……。木蘭様が手にされた時に、団扇に封じられる悪意の限界がきたようです。この青い炎は、いわゆる燐火ですわ。元気に燃え盛っておりますが、こう見えて見た目だけなので触れても害はありません。悪意自体は封じられて祓われたあとですので」
ですが、七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください、と骨組みだけになった残骸を苺々が拾う。
「一応、こちらはわたくしが回収させていただきますね」
異能の術を使った証拠が残っていては面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ! はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ!! 次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
全力で推し活をしてきた苺々だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。
王都の市井で行われている推し活では、推している演劇の旅一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺々くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺々とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺々は、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
苺々の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺々は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
推しが毎日幸せであることが、苺々の幸せだ。それを叶えるためなら、刺繍の一時間や二時間、いや十時間や十二時間だってお茶の子さいさいである。
木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺々に、木蘭は無表情で閉口する。
一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服に配属されている針子でもしないだろう。給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。その心の向け方は、常人には真似できない。
ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖を心に飼っている女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が触れた食事に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
つまりは、先ほど苺々が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
苺々はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく銘々皿を手に取る。文字通り龍の血で作られたものだ。
「食事に宿った呪毒は、この『龍血の銘々皿』を使った時にのみ形にでき、祓うことができますわ」
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど殺意に似ている。苺々がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから殺したいほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
苺々の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました! こ、これは完全に有罪ですわ!!)
「わたくし、明日はまた牢獄かもしれません」
「それは絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
龍の血の赤に、木蘭の血の赤が溶けていく。
契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺々は「薬箱はどこですか!?」と急いで木蘭の指の手当をした。
「これで契約は完了です。あとは木蘭様が呪毒の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
試しにそのお茶菓子に触れてもらっても? と、苺々は茶菓子を示す。
木蘭が従うと、銘々皿の上にことり、とどこからともなく茶菓子が現れた。
「……は? まさか、その茶菓子が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。何もなかった空間から突如現れた茶菓子は、目の前の茶菓子をそのまま模していて、少し不気味である。
でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になる。苺々は険しい表情で、目の前の茶菓子擬きを睨んだ。
さて。これは刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。書物によると、『捨てたり腐らせたりすると呪詛になる』とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
苺々は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味しいです……! なんということでしょう……。人生で食した茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
苺々は茶菓子を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上のお茶菓子ですわ……」と頬をを抑える。
「そ、そうか。それなら身体に害もなさそうだな」
「はい。わたくしもそう思います」
苺々はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
さあ、これで証拠は出揃った。
木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの女官ということになりますわ。けれど猫魈様を操れるほどの道士であっても、白蛇の娘が書き記した五つの悪意と三位一体の構造は、ご存知ないのかもしれませんね」
わたくしも道術は齧っておりませんし、あやかしを操るすべも持っておりませんから。
そう結論づけた苺々に、幼い妃は鷹揚に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
真剣な表情で問うた苺々に、木蘭は菫色の瞳を大きく見開いた。
「は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺々、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、回廊でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
お茶や茶菓子を運んできた女官たちの胸に、青黒い靄を灯らせている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
木蘭はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしている。大人にとってもひどい状況だが、六歳の幼女にとってはもっと過酷で辛い状況だろう。
(一刻も早く、解決してさしあげねば)
苺々が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を懲らしめる気満々の苺々は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女の御使のごとき木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
木蘭は、苺々の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。どうやら、苺々を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」
お茶会は一旦お開きとなり、木蘭の命にて紅玉宮の一室には苺々用の部屋が整えられた。
水星宮に帰り白蛇ちゃん抱き枕を抱えて戻って来た苺々は、若麗と歓談しながら、用意された部屋に手荷物を置く。
「まさか木蘭様が、苺々様と『お泊まり会をしたい』と言い出すなんて、本当に夢のようです」
若麗は心底安心した様子で、姉のような、ぬくもりにあふれた優しい微笑みを浮かべる。
「まだ六歳だというのに、木蘭様は大人びていますでしょう? 私たちが幼い頃に夢中になった遊びなどには、興味もなくて。一日中、大人さながらに書物を読まれたりなさるものですから」
「そうなのですね。木蘭様は天女の御使ですから、天界で遊び尽くしていらっしゃったのかも。もしかしたら本当は、六歳ではないのかもしれませんわ」
六百歳とか! と苺々がくすくすと笑いながら言うと、若麗もくすくすと笑って、「そうかもしれません」と応じた。
「もうすぐ夕餉の用意が整いますので、しばしお待ちくださいね」
「はい」
その後も若麗に木蘭の可愛い日常話を聞きながら、苺々は幸福に浸る。
木蘭は読書家で、自由な時間があれば、いつも時間を忘れたように皇太子殿下からいただいた書物を読んでいるそうだ。
毎日決まった時間に妃としての勉強にも勤しんでおり、皇太子殿下に馴染みのある老齢の老師が付いているが、若麗が指導役となることもあるとか。
(お噂通り、木蘭様は皇太子殿下と仲がよろしいのですね。きっと皇太子殿下も、木蘭様推しなのですわ! ふふふ、わかっていらっしゃいますわね!! どんな方かはあまり存じ上げませんが、同じ木蘭様推しとして親近感を覚えずにはいられませんわっ)
若麗の語る、木蘭と皇太子殿下のほっこり小話に、苺々は癒されすぎてにやにやが止まらない。心がほんわか温かくて、幸せでほっぺたが落ちそうだ。
「殿下が清明節の剣舞の舞い手に木蘭様を指名なさった際も、殿下が短剣を賜られたんですよ」
「素敵なお話ばかりですわね。それにしたって、とっても羨ましいです」
「ええ、本当に。木蘭様が羨ましいですわ」
「そこは皇太子殿下が、ではないのですか?」
苺々がくすくす笑いながら突っ込みを入れた時。寝台に並べていたぬい様が一体、ザクッ! と音を立て、切りつけられたかのように裂けた。
「な、なんの音でしょう?」
「すみません、わたくしのぬいぐるみですわ。ぬいぐるみが無いと眠れない性格なので、たくさん持って来たのです。きっと移動の時に引っ掛けてしまった部分が、裂けてしまったのだと思います」
先ほどのお茶会の時に、木蘭に頼み数本の髪の毛を貰えたため、ぬい様は形代として全力が出せている。呪靄と呪妖を少しも漏らさずに自動的に封じて祓っているので、限界が早く来たのかもしれない。
(ぬいぐるみが突然裂けるなんて、気味悪がらせてしまいましたよね……)
苺々は心配しつつ、そっと若麗をうかがう。
しかし、若麗は寝台にこれでもかと並べられたたくさんのぬいぐるみを眺めながら、「苺々様は木蘭様がお好きですのね」と、今にも涙しそうな優しい微笑みを浮かべていた。
他の女官が「夕餉の準備が整いました」と呼びに来たことで、苺々は木蘭の待つ食事をするための一室へ向かった。
木蘭と食卓を囲めるなど夢のようだ。苺々は豪華な夕餉に舌鼓を打った。
そうして、湯殿を借りて湯浴みも行なったあと。苺々は「寝物語を語りに」と女官に伝えて、木蘭の寝室へと来ていた。
道術を操る恐ろしい女官の目を欺くために、苺々は寝衣に羽織をまとっている。これは『年齢の壁を越えて仲良くなった妃たちのお泊まり会である』と、印象付けるためだ。
花瓶に生けてある木蓮の花が、ひそかに香る。
木蘭も寝衣をまとい、その上に同じように羽織を羽織っていた。しかし、なぜだか寝衣は丈も袖もぶかぶかだった。どう見ても大人用の、もしかすると苺々でも大きいと感じるかもしれない寝衣をまとっている。
(床に裾が引きずって……。こ、これは、もしや……)
後宮妃であれば、間違いなく、『もしや皇太子殿下の寝衣か?』『皇太子殿下はこの宮に寝衣を備えておくほどお通いに?』『国を守護する行事で大事な剣舞を舞わせるだけでなく、これほどの寵愛を!?』と怒りと嫉妬に駆れるところだが、しかし。
(寝衣のあやかしちゃんでしょうかっ! あああ愛らしい! 愛らしすぎますっ! このお姿の寝台に横たわる木蘭様ぬいぐるみを作りたい……!! 寝そべり姿の木蘭様、略して〝寝そぬい様〟。欲しいですっ)
苺々は真っ赤に染まった頬を両手で押さえる。
後宮妃としてどこかおかしい苺々は、推し応援作品を製作したい意欲がぁぁぁ、収集したい物欲がぁぁぁと、ときめきと尊みに駆られていた。
内心荒ぶりまくっている苺々には気づかず、木蘭は寝台の端へ腰掛けるように勧めた。
豪華な天蓋付きの寝台は、苺々がかつて見たことないほど大きい。大人が五人は寝転がれそうである。
幼い木蘭がひとりでここに寝るのは、きっと寂しいだろう。両親を思い出したり、兄弟姉妹を思い出したりするかもしれない。その上、不眠症気味とあっては、心が蝕まれていくのも時間の問題に思えた。
(ふりではありますが、せっかくのお泊まり会ですから。少しでも、幼い頃の楽しい思い出を作っていただきたいです)
そう思い、苺々は遠慮せずに寝台の端に腰掛けることにした。
同じく寝台に腰掛けた木蘭は、幼女らしからぬ難しい表情で、「確定だな」とため息まじりにいった。
「夕餉に呪毒は宿っていませんでしたね」
「ああ。ということは、妾が茶会に携わらせた女官の中に、犯人がいる」
「はい」
苺々は気を引き締めて、背筋を伸ばし、真面目な表情で返事をする。
お茶会での打ち合わせで、木蘭は夕餉に携わる女官を総入れ替えすると言い出した。『せっかく苺々が炙り出してくれるんだ。できることは全部やろう』とは、六歳には思えぬほどの名言であった。
(幼くてもやはり貴姫となったお方。さすが、聡明であらせられますわ)
「お茶会に携わった女官は五人でしたね。お名前とお顔は一致しておりますから、今夜こっそりと見張りをいたします」
五人の女官の中には、筆頭女官の若麗もいる。
なので、実質的には四人の女官を見張ればいいだろう。
数体のぬい様と白蛇ちゃんの抱き枕を持ってきていた苺々は、「では作戦の確認です」と、もともと小声で話していた声の音量をさらに小さくした。
「現在、このぬい様ひとつだけに、木蘭様の髪を一本入れてあります。夜中に向けられる悪意は全てこの子に集まるので、不眠症を引き起こすほどの悪意であればすぐに限界を迎えて裂けてしまうでしょう。その時に起きている女官、もしくは明かりの点いている部屋を確認してまいります」
苺々はいざ出陣! とばかりに、ぬい様を両手で持ち上げて突き出す。
木蘭様の髪は懐紙に包んで袂にしまっているので、すぐに新しい形代も用意できる。
(ふっふっふ。恐ろしい女官の方を見つけ出したら、木蘭様の素晴らしさを夜通し布教させていただきましょう。そして、底なしの木蘭様沼に引き摺り込んで、足の先から頭のてっぺんまで綺麗に沈めてさしあげますわ!)
作戦は完璧と言えた。
それから半刻後――。
打ち合わせの段階では、寝物語を聞かせた設定の苺々が、眠った設定の木蘭の部屋から出ていく……という予定だったのだが。
不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、苺々は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりに、こんなにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺々は、使命感に駆られて物音を立てないようにしながら、辺りに気を配る。
このまま木蘭が起きなければ、一刻半くらい経ったあとに部屋を出よう。そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の針』は使わない。
(この団扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の団扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い団扇が叶います……! 楽しみですわね)
どこからか二胡の音色が聞こえてくる。
ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。弾き手はきっと、二胡の名手と名高い若麗だろう。なかなか眠りにつけない木蘭を想い、演奏しているに違いない。
緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺々にもよく響く。苺々はいつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。
◇
「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺々がここに寝ているんだ」
広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
(作戦と違うではないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……)
ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
夜中の紅玉宮を他の妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺々は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
それなら、見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、悪意を向けられている頃合いを見計らって、他の女官を気にせずに犯人探しに行ける。
(……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。だが、今はそんなことよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。この姿で見つかれば面倒が増える)
立ち上がった瞬間、ぎしりと音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺々が大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
見知らぬ美しい男性を前にして悲鳴をあげそうになった苺々の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
(……この方が、紫淵殿下。姿絵では悪鬼面をかぶっておられましたが……確かに、どことなく似ているような気もいたします)
今はその顔を晒しているため、苺々はまじまじと美青年を見つめる。
透き通った菫色の瞳は、長い睫毛に縁取られている。目元は鋭く、誰をも惑わせる色気を持っていそうな絶世の美貌は、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい。
紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げてもなお、腰のあたりまで伸びる長い髪は、『まるで銀河のように艶やかだ』と思った覚えがあった。
苺々はなんとなく状況を理解して、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
苺々はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!!)
口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺々は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
反論する苺々をまっすぐに見つめる菫色の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。何度も木蘭を観察し、刺繍糸の色味を選んできた苺々が、見間違えるわけがない。
細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。紫淵殿下が木蘭様であってもおかしくはありません)
苺々は理解したと示すように頷く。その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と手を離した。
「……あの、一体なぜ紫淵殿下が木蘭様に?」
「悪鬼の呪詛で、皇帝の長子は成人になるまで何かしらの怪異に巻き込まれる」
「もしや、燐火の悪鬼の」
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は、夜だけ幼い少女になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的に木蘭の姿になるようになってしまった」
木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、呪詛を解いてほしかったからだそうだ。
だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺々には視えずに終わる。
悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、とうとう年明けには夜だけしか元の青年の姿に戻れなくなった。そのため、紫淵の身を案じた皇帝によって、成年を迎えてから封を解く予定であった皇太子宮が解禁されたのだ。
朱家の姫として後宮に入ったのは、素性を徹底的に偽るために母の生家を頼ったらしい。
「それが今や、夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか」
この秘密は両親と、今目の前にいる苺々しか知らない。紫淵は深くため息を吐くと、冷たい手を苺々の頬に添えた。
「さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!?」
「白 苺々――。君には、俺の『異能の巫女』として、しばらくの間この宮に住んでもらう」
「ええっ!?」
「もうじき日が昇る。犯人探しは夜中しかできないからな」
紫淵はにやりと美しく微笑む。青年の姿はみるみる幼くなり、目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
苺々の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺々。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
愛らしい幼妃の策士な笑みに、苺々の鼓動は緊張感でどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら重大な秘密を知ってしまったのでは……!?)
それから数ヶ月後――。
紅玉宮の恐ろしい女官は紫淵の手によって捕まり、無事、苺々よって木蘭沼に沈められた。捕まった女官の名は、朱 若麗。
彼女は幼い頃に恋をした紫淵の妃になれると思っていた矢先、叔母の縁者にその座を奪われ、女官となった。しかし紫淵を恋い慕うあまり、紫淵の寵愛を一身に受けている(ように見えていた)木蘭に悪意を向けずにはいられなかったらしい。
女官として、時には姉のような立場で、幼い木蘭を慕っていた時間も確かにあったと彼女は言った。苺々の前で呪妖が姿を表さなかったのが証拠だ。
だが彼女は、紫淵の命により後宮を去ることになった。
そして……二年の月日が経ち。皇太子宮は、ひとつの宮を残して封じられることとなった。
後に紫淵皇帝が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮の『異能の巫女』。
紫淵を献身的に支えた聡明な皇后と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白 苺々である。
【完】