苺々の住まう〝水星宮〟は、皇太子宮を九つに割った北側の辺鄙な場所にある。
 水辺が近いため朝晩は冷えてよく霧が立ち込めるし、晴れていても少しじめじめとしていて、なにより蔵のように狭い。
 燐華建国時代から続く由緒正しき九家のひとつに数えられる白家の娘が、なぜこんな簡素な宮に追いやられているかというと、白髪と紅珊瑚の瞳という特異な容姿もあるが……最たる原因は、その出自のせいだろう。
 古代から語り継がれるかの有名な『白家白蛇伝』を、この城で知らぬ者はいまい。
 それは闇夜に燐火が浮かび、あやかしが跋扈していた時代の話だ。
 後宮に召し上げられた白家の娘は、原因不明の病に苦しんでいた。娘は大層な美姫であったが病が進行し、ついには後宮を辞すことになる。
 清明節を機に白州に帰郷した娘の病を治したのは、燐火を纏って現れた赤い瞳を持つ白い大蛇だった。
 大蛇は人の形を取ると、返礼に娘との婚姻を迫った。そしてふたりの間に生まれたのが、白髪と紅珊瑚の瞳を持つ異能持ちの娘。他家から『呪われ白家』と呼ばれ始めた、最初の姫だった。
 異類婚姻によって生まれた白蛇の娘は、白家の領地である白州では神子として愛されているが、白州を一歩出るといつの世でも迫害されている。
 特異な出自を恐れてか直接的に手を下されることは少ないが、こうして後宮の離れには白家の娘を幽閉する場所が作られているほどだ。
 それぞれの妃の住まいは選妃姫で得た地位によって決まるはずだが、白蛇の娘にとって選妃姫とは無いに等しい制度だった。
 それは現皇太子、紫淵殿下の世でも変わっていない。
 後宮に八家から八姫が招集された日、皇太子不在の中で行われた選妃姫で試験官たちは苺々を存在しないかのように無視した。明らかに不平等な試験の末、苺々は八妃姫の中で最下位を表す〝白蛇〟の冠を与えられて、他の妃たちの住まいとは遠く離れた水星宮に押し込められたのだ。
 最下級妃の名が白蛇なのだから、まあつまりは、はなから判じるつもりなどないというわけである。
 だが苺々は、皇太子宮での虐めに屈しなかった。
 たとえ水星宮付きの女官が皆、初日で逃げ出そうともだ。
「わたくしだけ離れだなんて、なんと高待遇なのでしょうか! ここなら誰の視線も気にせずに、全力で推し活ができますわ!」
 食事に携わる尚食の女官は来てくれるので、生命維持には問題ない。水星宮の掃除や風呂の管理、洗濯や身支度なんかは自分ですれば良いのだ。
 あらかじめ白家の邸で侍女の後ろをひっついて予習と練習をしてきていたので、いざ水星宮にぽつねんと一人きりというの状況に直面しても、なんとかこなすことができた。
 今では床の雑巾がけも良い運動である。
「はーっ。ここならついうっかり他のお妃様と鉢合わせして、めくるめく後宮の愛憎劇に巻き込まれる心配もありません。極楽ごくらく」
 というわけで苺々はむしろ、これ幸いと後宮での自由を謳歌していた。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
 今日も今日とて悠々自適にのんびりと過ごしながら、少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
 苺々は手元の布に通していた特殊な縫い針を引っ張り、糸をきゅっと玉止めすると、丁寧に糸を鋏で切った。
「じゃじゃーん、できましたわ! 苺々特製、木蘭様ぬいぐるみ!」
 苺々はぴかぴかの笑顔で、出来上がったばかりの布偶(ぬいぐるみ)を両手で頭上に掲げた。
「お茶会のお呼ばれもありませんし、最近は雨ばかりでしたので木蘭様をお見かけする機会がなかなかありませんでしたが、意外にも推し活は捗りました。ぬいぐるみ製作、憧れだったのです……」
 後宮へ向かう途中に、王都の露天で売られていた演劇の旅一座の応援商品を初めて見た時は、馬車から身を乗り出す勢いで衝撃を受けた。
『わぁ! こんな意匠のぬいぐるみがあるだなんて! わたくしも製作してみたいです……!』
 全体的に丸みを帯びた形は幼な子向けにも見えるのに、買っていくのは神に陶酔したような顔をしている、情熱的な若い娘や大人ばかり。その異様で幸福そうな光景に、これが王都の『推し活』かと目を輝かせたものだ。
 あれからふた月。合間を縫って製作し、とうとう完成したというわけである。
 意匠には最近流行している布偶のものを取り入れ三頭身に簡略化し、さらに苺々なりの創意工夫を加えて、お茶菓子のような色彩と可愛らしさを意識。お顔の表情は、二週間前にあった清明節の宴席で目撃した『おねむな木蘭様』にした。
 衣裳にも抜かりはない。朱家の象徴である赤を使った大袖の上衣に、きっちり胸元まで覆う桃色の(スカート)も三頭身に合わせて再現している。仕上げに羽衣のような披帛(ストール)を掛けたら完璧だ。
「柔らかな布地を使ったので触り心地も抜群です。今日からよろしくお願いいたしますね、ぬいぐるみの木蘭様! ……そうだ、ぬいぐるみの木蘭様ですから〝ぬい様〟とお呼びしますね。ふふっ、今にも寝息が聞こえてきそうです」
 木蘭様の特徴をよく捉えたぬい様は、どこか抜けている様子があって、見ているだけでも癒される。
 白州は絹織物と養蚕業で発展した。三大刺繍の中でも最も格式高いとされる白州刺繍が生まれた場所でもある。そんな白州白家の姫ゆえに、『裁縫の名手』と呼んでいいほどの腕前を持つ苺々の手で作られたぬい様は、王都で布偶製作を生業としている職人以上の出来栄えだった。
「木蘭様の髪の毛を一本いただけたら、ぬい様も全力を出せるのでしょうが……。髪の毛は流石に『ください』と言ってもらえるものではないので、しょうがないですわね」
 このままの状態でどれほどの効力を発揮してくれるのかわからないところが心配ですけれど、と毛氈生地で作った小さな頭を撫でる。
 ぬい様は、ただのぬいぐるみではない。
 苺々の異能である悪意を祓う力を込めた、形代だ。
 形代は紙でも作ることができるが、精巧に作られた人形になると紙以上に身代わりとして優秀になる。
 さらに人形の中に守護対象者の毛髪を入れると、悪意が形を持った状態である呪靄だけでなく、その呪靄が変化し意思を持った〝呪妖(じゅよう)〟も吸収してくれて――。
「あっ! 〝白蛇ちゃん〟が……っ! 今日も見事にズタボロです!!」
 異様な気配を感じハッと視線を上げた先で、寝台に置いていた白蛇のぬいぐるみがブッチィィィッと音を立てて引き裂かれる。困り顔にしていた首はもげ、お腹からはふわふわの綿が飛び出した。まるで蛇殺しの現場だ。
「うぅぅ。白蛇ちゃん、どうか安らかに……」
 苺々はぬい様を円卓に置いて、ズタボロにされた白蛇ちゃんに頬ずりする。
 きっと、今日も後宮内の誰かが、すさまじい悪意を苺々に向けていたのだろう。形代に集められ封じられた悪意の総量が許容範囲を超えると、先ほどのようにズタボロに壊れてしまうのである。
 向けられた悪意が自分を害するほどの呪詛へと変化する前に、苺々はこうして自動的に悪意が祓われるようにしている。
 そうでもしなければ、後宮の嫌われ白蛇妃なんて、命がいくつあっても足りないのだ。
 ――とまあ、このように髪の毛入りのぬいぐるみは身代わりとして、それはすさまじい効果を発揮してくれるのだが、最下級妃の自分が最上級妃の木蘭に『髪の毛を一本ください』なんて言い出せるわけがない。誰の目から見ても立派な呪詛案件だ。
「それに……(わらわ)のことは忘れてくれ、と言われていますしね」
 苺々はがっくりと肩を落とす。
 白州にある実家にひとりの従者と共に美幼女がやってきたのは、昨年の暮れ。
 九家のみしか使えぬ特別な木簡を使って『お忍びで』との前触れがあったため、白家側は『異能絡みだろう』と考え、裏口から彼女たちを通した。
『妾は木蘭。朱皇后陛下の縁者である』
 まろい頬を緊張で強張らせて背筋をぴんと伸ばし、木蘭は舌ったらずな口調で堅苦しい挨拶を(そら)んじてみせる。両親に手を引かれる年頃の幼女が白家当主への挨拶を終えた時、苺々は感動のあまり拍手せずにはいられなかった。
(な、な、な、なんてお可愛らしいお姫様なのでしょう!)
『お上手ですわ、木蘭様っ』
 木蘭は頬を真っ赤に染めて照れながら、挨拶などできて当然、というようなお澄まし顔をする。
『せ、世辞はよい。白家の姫君には代々異能が受け継がれると聞いた。妾にかけられた呪詛を至急解いてほしいのだが、できるだろうか』
 珠のように可愛らしい見目と、幼な子には不釣り合いな言葉遣い。恥ずかしがりながらも精一杯頑張っている、一生懸命過ぎる仕草。堪らない愛らしさに、思わず庇護欲を掻き立てられずにはいられない。
(はあぁぁっ。かわゆいです、かわゆいですっ。なぜでしょう……なんだか動悸がして、胸が熱いですっ! ああ、この胸の高鳴り……これが、きっと『尊い』という気持ちですわね!!)
 苺々はずきゅんと胸を矢で射抜かれた気持ちがした。
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです。わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては! せっかく白蛇の娘を頼っていらしたのですから)
 食い気味に『すぐに確認させていただきます』と身を乗り出すと、異能を使って木蘭を視た。
 が、特に異状は視られなかった。
 悪意が呪靄となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
『お力になれず、大変申し訳ございません』
 結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
 そうして別れ際に、差し出がましい真似だとは思いながらも、木蘭へ呪詛の症状を問うたところ……。
『原因と症状がわからないのなら、妾のことは忘れてくれ』
と言われてしまったのだ。
(木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
 それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
 ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺々は、『これは』とばかりに馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
 苺々が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
 異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
 苺々はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、ぷちりと抜いた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
 苺々は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。

 久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
 水星宮にほど近い大きな池には、数隻の小船が浮かんでいた。どこぞの妃が女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
 苺々は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
 誰もいない水辺の四阿(あずまや)を見つけた。青銅瓦の六角屋根と朱塗りの柱が色鮮やかな四阿には、ちょうどよく日光が差し込んでいる。
 苺々は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
 池の鯉がパシャリと跳ねる。
「うーん。いいお天気ですわ」
 両腕を伸ばしてぐっと背伸びをする。少し眠たいかもしれない。そう思った時だった。
「きゃああっ!」
 遠くで女性の甲高い悲鳴が響く。
「あら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛さんが枝から垂れ下がってきたり、蟷螂(かまきり)さんが大鎌を振り回していてもおかしくはありません。……そ、想像するだけでも、わたくしも怖いです)
「お逃げくださいませ!」
 人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
 苺々がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
 突然の木蘭様の名前に戸惑う。
 急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭様と、それを追う牙を剥いた大型の三毛猫――否、あやかし『猫魈(ねこしょう)』がいた。
「なぜこんなところに猫魈が!?」
 猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
 恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(猫魈の気を逸らさなくてはッ)
 苺々は急いで、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を取り出す。先端が鋭くなっている糸切り鋏で、戸惑うことなく手のひらを傷つけた。
「いっ」
 焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。苺々はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
 木蘭の形代、異能の鮮血。これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「……あっ」
 足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
 その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
 猫魈が木蘭に襲いかかる。
 苺々は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
 ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。すると作戦通り、猫魈は木蘭ではなくぬい様に飛びついた。木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
 苺々は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……貴女は、白家の」
 菫色の大きな瞳に、苺々の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……! このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
 いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。(いかめ)しい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺々の背を打つ。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
 木蘭はふるふると震えながら、苺々を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
 しかし六歳の幼女の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか、宦官は誰も聞く耳をもとうとしない。
 彼らは苺々を「白蛇の娘」「異能の妃め」と罵りながら、縄にかけたのだった。