月花は愛され咲き誇る

 屋敷の隅にある自室へと香夜は足早に向かう。
 もう昼は過ぎているのだ。
 早く着替えてしまわねば日宮の若君が到着してしまう。
 出迎えは里の者が総出で行うのだと長が張り切って言っていた。
 遅れてしまっては、いつものようにきつい叱責が飛んで来てしまうだろう。
 一応香夜の養父でもあるのだが、長は香夜のことを小間使いとしか思っていないようだった。
 養母も似たようなものだが、長は香夜に「お養父様」と呼ばれるのすら嫌う。
 父と呼んでいいのは彼らの愛娘である三津木(みつき)鈴華(すずか)だけなのだと。
 香夜に対してはあくまで養ってやっているだけといった態度だ。
 故に、長の香夜への態度は基本的には無関心。機嫌が悪い時などは手こそ上げないが、当たり散らすかのように怒鳴られる。
 あの野太い声で怒鳴られると、香夜はいつも身がすくんでしまう。
 だから急がなくては。
 だが、そういうときほど邪魔が入るのだ。
 大きな松の木が立派な庭園を眺められる縁側を小走りで進んでいると、突然壁のようなものにぶつかった。
「ぶっ!」
 それなりに勢いよくぶつかってしまったため、そのまま少し後ろによろける。
 しかも顔面からぶつかったせいで鼻が痛い。
 涙目で顔を抑えながら前方を見ると、そこには何もない。ただ続く縁側が見えるだけ。
(あ、もしかしてこれって……)
「ふふふ……香夜ってばぶつかるまで気付かないなんて」
 見えない壁の正体に気付くと同時に、庭園の方から軽やかな声が掛けられる。
 彼女の名にもある鈴を転がしたような可愛らしい声。
 ゆるくうねった髪は薄茶色。茶色の目も光の塩梅(あんばい)によっては金に近く見える。
 かつての美しさに一番近しい娘として一族から一目置かれている彼女は、長が殊の外可愛がっている愛娘だ。
 一応香夜の方が先に生まれたので鈴華は義妹ということになるのだが、年は同じなので姉妹の上下感覚はほぼない。
 どちらにしろ鈴華は香夜を下に見ているので姉妹感覚は皆無だが。
「本当に。結界があることすら気付かないなんて無能にもほどがありますわ」
 そして彼女の周囲にはいつも付き従っている取り巻き――もとい、友人達がいた。
 結界とは月鬼の女性だけが持つ特殊能力だ。
 香夜には分からなかったが、今ぶつかってしまった見えない壁も結界なのだろう。
 分からなくとも、昔から似たような方法で嫌がらせをされてきたので嫌でも理解した。
「三津木の姓を名乗っているというのに……本当、鈴華様とは大違い」
 ここぞとばかりに持ち上げる少しふくよかな友人も結界は張れなかったはずだが、蔑むように香夜を見ている。
 香夜に心だけでなく目に見える傷もつけてきたのは決まってこういう同年代の娘達だ。
 流石に今傷をつけられてはたまらない。
 何より、早く着替えなければ集合時間に間に合わない。
 多少の反感はあるものの、それを見せると長引くので面倒だ。
 香夜はいつにもまして感情を押し殺し、黙って嵐が過ぎるのを待つ。
「お母様に呼び出されたみたいだけれど……その包みは何かしら?」
 優美に微笑みつつも目ざとく香夜の抱える包みを指摘する。
 ことごとく大事なものを壊されてきた記憶が蘇り、思わず包みをギュッと掴む。
 だが、大丈夫と自分に言い聞かせた。
 この着物は日宮の若君を迎えるためには必要なものだ。養母がそう判断して自分に渡したものなのだから、ちゃんと理由を話せば汚されたりはしないはずだ。
「……これは着物です。みすぼらしいなりでうろつかれては品位に関わると言われて渡されました」
 言葉を選ぶように慎重に紡ぐ。
 こう言えば大丈夫だろうとは思いつつも、やはり不安はなくならない。嫌な感じに鼓動を速めながら鈴華の言葉を待った。
「そう……確かにそれは必要なものね。あなたには私が若君の接待をするための裏方の仕事をしてもらわなければならないもの」
 そのようななりで来られたら確かに目障りだわ、と形の良い眉を寄せて告げられる。
 鈴華は長の跡取り娘であるが故に今回の嫁探しの舞には不参加だ。その代わりに長から若君の接待を任されている。
 その手伝いも本来なら今周囲にいる友人達がするのだろうが、今回はことごとく舞の参加者となっている。
 そういうわけで香夜にお鉢が回ってきたというわけだ。
 鈴華の言葉にホッとしたのも束の間。彼女は香夜を小ばかにしたような微笑みを浮かべる。
「私にとっても大事なものなのだから、ちゃんと守りなさいよ?」
 その言葉と入れ違いに友人の一人が進み出て桶を構えた。
 今までの経験から瞬時に何をされるか悟った香夜は、包みを抱え込むようにして彼女達に背中を向ける。
 バシャ!
 音と共に背中に冷たさを感じた。
 透明なもので匂いも特にないため、ただの水だと分かる。そのことに幾分ホッとした。
 酷い時には真夏に放置してしまって酸味を帯びてしまった汁物を、もったいないからという訳の分からない理由で掛けられたこともあったから。
「まあ香夜ってば。そんな守り方じゃあ大事な着物が濡れてしまうわよ? 結界を張ればいいのに」
 香夜が結界を張れないことを分かっていながら、クスクスとそれは楽しそうに笑う鈴華。
 周囲の友人達も同調して笑い合う。
 いつもの嫌がらせだ。八年もたてば流石に慣れた。
 でも、それとは別に心はどんどん冷えていく。
 怒りも悲しみも凍りつかせ、壁を作る。
「さ、あと少しで日宮の若君が到着するわ。皆行きましょう?」
 ひとしきり楽しんだのか、満足した様子の鈴華は香夜を無視して皆に声を掛ける。
 去って行く足音が遠ざかり、気配が無くなってから香夜は安堵の息を吐く。
 すると一気に寒気が走り体が震えた。
「……早く着替えなきゃ」
 このままでは風邪を引くし、何より時間がない。
 香夜は寒さに耐えながらまた屋敷の隅にある自室へと急いだ。
 養母の用意してくれた着物は奇跡的に無事だった。
 裾などの端くらいは濡れてしまったかも知れないと思っていただけに、良かったと息をつく。
 しかも着物は養母が自分にと選んだとは思えぬほど上質のものだった。
 白鼠(しろねず)の色無地といった素朴なものだったが、黒地の帯には白い艶やかな花が刺繍されている。
 この八年袖を通したことのない上物に、本当に良いのだろうかと不安がよぎる。
 だが濡れてしまった髪も拭かなければならなかったし、本当に時間がない。
 不安や迷いを押し込めて、とにかく着替えて集合場所へ向かった。
「何をしていたんだ⁉ お前が最後だぞ⁉ 私の言葉を家の者が一番に守らなくてどうする!」
 急ぎはしたものの、本当に間際の時刻になってしまった。
 そのため他の里の者達はすでに集合済み。香夜が最後となってしまい、予測していた通り長に怒鳴りつけられるという状況に(おちい)る。
 野太く力強い声に怒鳴られるとそれだけでびくりと肩が震えた。
 周囲の者はまたかと(わずら)わしそうに眉を顰めるのみ。
 もしくは、鈴華達のようにクスクスと笑いを忍ばせる者だけだった。
 分かっている。
 疎まれている自分の味方は、この里にはいないのだということは。
「全く、どうせ遅れるならそのみすぼらしい髪も隠してくれば良かったものを。とにかくもうかの若君はご到着なされる。お前はせいぜい人の陰に立ち目立たぬようにするのだ」
「はい……」
 幸か不幸か、時間がないことが理由でお叱りは早々に終わった。
 その事に安堵の息を吐きつつ、人垣の奥へと向かう。
 香夜が通ろうとした場所は道が開かれる。
 穢れた娘という声も聞こえた。
 そんな娘に僅かでも触れたくないのだろう。
 里の者達の態度は香夜の心を更に凍らせる。
 これだから皆がいる所へは極力行きたくないのだ。
 厳しくても手は上げない養母に仕事を言い付けられ、黙々と一人で仕事をしていた方がどんなに気が楽か。
 日宮の若君が来なければこのようなことをしなくても良かった。
 そう思うと、どうしても考えてしまう。
(もう来るならさっさと来て、早く帰ってくれないかな……)
 と。
 日宮の若君は自動車でやってきた。
 閉ざされた月鬼の里ではほとんどの者が見たことがなく、物珍しさで一時騒然となりかける。
「静まれ! うろたえたところを見られては侮られるぞ!」
 だが、長の一喝でぴたりとざわめきが止まる。閉ざされた里故に、長の言葉は絶対でもあった。
 自動車が停まり、先に十代前半といった少年が降りてくる。
 日宮の若君は二十歳だと聞いたから、お付きの者か何かだろう。
 少年は長がいる側の後部座席のドアを開けると、深く頭を下げた。
 そこからおもむろに出てきた人物が日宮の若君。この国で最高の力を持つ火鬼の一族の次期当主だ。
 優美な物腰とその美貌に、里の者すべてが息を呑む。
 鬼は基本的に皆美しい顔立ちをしているが、彼は別格と言って良かった。
 遠くからでも分かる玉のような美しい肌。スッと切れ長な目は黒い瞳を冷たい印象に導くが、柔らかそうな微笑みがその印象を和らげてくれる。
 光が当たると少し赤く見える黒髪は清潔そうに整えられていて、全体的に洗練さを見せつけた。
 若君の佳麗(かれい)さに、長ですら一時言葉を失う。
「大勢での出迎え、感謝します。私が日宮の次期当主、日宮燦人(あきと)です。この度は我が一族の願いを聞き届けてくださり、ありがとうございます」
 力も権力も燦人の方が上なのだが、相手が一族の長ということもあってか少しへりくだった言い方をしていた。
 ただ、それでも彼の威容(いよう)は変わりなかったが。
「あ、ああ……。いえ、その願いはこちらとて望ましいもの。歓迎いたします、燦人どの」
 燦人の威厳と美しさに飲まれていた長だったが、長としての矜持を取り戻したのかすぐに立ち直っていた。
 その場で簡単に養母と鈴華を紹介する長に、燦人も供の者を紹介する。お付きの者である少年は(けい)というらしい。
「ご滞在中は私がお世話を任されております。さあ、まずはご案内いたしますね」
 紹介が終わるや否や、鈴華があからさまな喜色を浮かべてそう言った。
 腕を取るといった無礼は働かなかったが、確実に距離が近い。その様子に周囲の者の方が慌てた。
 特に長は、跡取り娘である鈴華が嫁に選ばれてしまうのではないかと冷や冷やしている様子だ。
 燦人は舞を見てから決めると言っていたのだから、少なくとも鈴華が舞わなければ選ばれることはないだろうに。
 燦人が所望した舞は月鬼の女なら誰もが教えられる伝統的なもの。蔑まれつつも、香夜ですらきちんと教えられた。
 その舞は月鬼の力の一端を垣間見せる。
 満月の夜舞台で舞うことで、舞台に描かれた紋様が光を放つのだ。
 年の瀬の満月の日に、毎年一番力のある娘が舞っているから香夜もその美しい様子を見たことはある。
 以前は養母が勤めていたその役割は、ここ数年で鈴華に代替わりしていた。
 そういう仕組みなのだから、まずは舞台で舞わなければ選ばれることすらないだろう。
(まあ、結界を張ることすら出来ない私には無縁の話よね)
 先導する鈴華に付いて行くように去って行く燦人を見送りながら、香夜は無感情にそう思った。
***
「では、宴の準備が整いましたらまた参りますね」
 燦人を宿泊するための部屋へ案内した鈴華は、聞き心地の良い声でそう告げると障子戸を閉め去って行った。
 気配も消えると炯はあからさまにため息をつく。
「あの娘、燦人様に馴れ馴れしく……」
 悪態をつきながら彼女が去って行った障子戸を睨みつける炯を燦人は苦笑気味にたしなめた。
「まあ、あれくらいなら可愛いものだろう。同じ一族の者はもっと遠慮がないからなぁ」
 炯と二人きりになり少し言葉を崩した燦人は、火鬼の一族の女性達を思い出す。
 燦人は他の一族から嫁を取ると決まっているのに、積極的に迫ってくる者もいた。
 そういう者達の言い分では、他の一族から嫁を取るのは次代でも良いだろうとのこと。現当主である父が決めたのだから覆すことなど出来ないというのに。
 思い出し苦笑していると、炯が改めて燦人を見て口を開いた。
「それにしても、本当に望みの娘がいるのですか? ざっと見た様子ではそれらしい姿の者も力の強そうな娘も見当たりませんでしたが……」
 主人の意を否定してしまう言葉になってしまうためか僅かに心苦しそうだ。
 だが、燦人はそれを咎める事もせずはっきりと言ってのける。
「いる。絶対にいるはずだ。かつて感じた気配は他の鬼では有り得ない」
「ですが、聞いたところによると角のある本来の鬼の姿に変転する事も出来ないそうではありませんか⁉︎」
 燦人の言葉でも納得できないらしい炯は声を荒げた。
 人の世に紛れるため、鬼達は普段角を隠し暮らしている。
 だが、大きな力を使うときは本来の鬼の姿となる。
 火鬼であれば目が赤くなり、髪も赤みを帯びる。そして全ての鬼に共通して、額に角が生えるのだ。
 だが、本来の姿を失って久しい月鬼はその姿すら忘れてしまったようだった。
「月鬼は特殊だからな。幾度も滅びかけた事がある。力も伝承も廃れてもおかしくはない」
 燦人の言葉に炯は何かを言いかけ、止める。
 そんな炯に燦人は柔らかな笑みを向けて告げた。
「何にしても、今夜分かることだ」
「そう、ですね……」
 納得は出来ないようだったが、今夜月鬼の娘達の舞を見ればはっきりするのだ。炯は口を閉ざし、夜の準備へと取り掛かった。
 燦人は静かになった雰囲気に身を任せ、かつて感じた気配に思いを馳せる。
 何でもない普通の日だった。
 十二の年、本格的に次期当主としての教育も始まり、庭で鬼としての力の使い方を学んでいるときだ。
 突然、はるか遠くに覚えのない気配を感じた。
 その気配に惹かれるがまま、視線をそちらの方角へやる。するとすぐに大きな足音が聞こえ、障子戸を勢いよく開き父が現れたのだ。
 父も同じ方角を驚愕の表情で見ていることから、あの気配を感じたのだと分かった。
 遠すぎたからなのか、火鬼の中でも感じ取れたのは父と自分だけだったらしい。
 すぐ後に父に月鬼の話を聞かされた。
「月鬼の女は他の鬼と交われば強い鬼を生むと言われている。しかもあの気配……なあ、燦人よ。あれが欲しくはないか?」
 にやりと笑う顔は悪いことを考える大人のものだった。だが、その目には悪戯好きそうな感情も見える。
 燦人は強い鬼がどうとか、そんなものはどうでも良かった。だが、父の言葉に瞬時に頷く。
 あの気配を感じた瞬間に抱いた思い。それがまさに父の言葉通りだったのだから。
「はい、欲しいです」
 そう答えたところまで思い出し、焦がれた気配を探ってみる。
 近くにいる気はするのだ。
 だが、はっきりとした形にならない。
「早く会ってみたいな……」
 焦がれ、求めた気配。
 夜がとても待ち遠しく思えた。
 出迎えが終わり屋敷に戻ると、香夜はすぐに夜の宴の準備に駆り出された。
 掃除や座椅子の準備などは午前中に終わっているが、料理や酒などの準備はこれからなのだ。
 下準備は終わっているものの、普段動くべき若い娘達はことごとく舞の準備に忙しい。
 そのため年の瀬の宴よりも忙しい状態となっていた。
「香夜! お前はそろそろ鈴華の所へお行き。あの子の指示通りに動くんだよ⁉」
 日も暮れかけたころ、養母がやってきて大声で指示を飛ばす。
 昼のこともあるので鈴華の近くには行きたくなかったが、今日の香夜のお役目はその鈴華の手伝いだ。行かないわけにはいかない。
 養母に聞こえるように「はい!」と返事をすると、身だしなみを軽く整え鈴華の部屋へと向かった。
 せわしなく動いた後で人が少ない方へと来たからだろうか、急に寒くなったように感じる。
 いや、背筋がぞわぞわするこの感じは寒気だ。
 昼とはいえ冷たい水を掛けられ軽く拭いただけで終わらせてしまったのだ。風邪を引く前兆かもしれない。
(こんな時に……せめて今日一日持ってくれればいいんだけど)
 舞不参加の自分しか鈴華の手伝いをする者がいない。
 自分がいなくなれば接待のための料理や酒を鈴華が厨房まで取りに行かなくてはならなくなる。でも、それでは接待の意味がない。
 運ぶ人手はどうしても必要なのだ。
「あなたは私の指示通りの料理やお酒を運んでくれればいいわ。そのみすぼらしい姿で燦人様の視界に入らないで頂戴」
 鈴華の指示は簡潔にそれのみだった。ある意味有難いといえば有難い。
 それにしても、と鈴華を盗み見る。
 いつも以上に着飾っている鈴華に、これは本当に接待のためだけの身支度かと疑問を抱く。
 これでは長も慌てるはずだ。
「何を見ているの? 私の指示はそれだけよ。初めに用意する料理などは決まっているでしょう? さっさと準備に取り掛かりなさい」
 嫌悪も露わに眉を寄せた彼女に追い立てられ、香夜は鈴華の部屋を後にする。
 そうして準備が整えられて行き――運命の宴がはじまった。
 舞は月がある程度高くなってから行われた。
 料理と酒が振る舞われ、丁度ほろ酔い気分となった頃だろうか。
 香夜も料理や酒を裏で運びながら、合間にその様子を見ていた。
 扇を持ち、ゆるりとした舞はその技量も分かりやすい。
 しっかり教えられているとはいえ、年の瀬に披露する者以外は誰かに見せる機会など無い。
 故に、香夜のように結界すら張れない娘達の舞は普段目にするものより見劣りしていた。
 それでも多少は内包する力があるのか、ぼんやりと舞台の紋様は光を放つ。
 とはいえ流石に長もそのような力の弱い娘達から選ばれるとは思っていないのだろう。初めのうちは他愛もない話題を提供しつつ燦人に酒や料理を進めていた。
 だが、一人、また一人と舞を終えると、徐々に落胆の色が濃くなっていく。燦人が全くもって反応しないからだ。
 一応紋様が光出した頃一瞥(いちべつ)するが、それだけ。まるで興味を持つ様子がない。
 それでも最後の娘の番となると、周囲はやはりこの娘なのだろうと多くの期待を寄せた。
 だが、その娘ですら対応が同じとなれば落胆どころか騒然となる。
 やはりこの里の者では選ばれぬのか。
 だが、それならば何故若君は初めにこの里を選んだのか。
 大きな騒ぎとまではならなかったが、そんな声がそこかしこで聞こえてきた。
「……まさか、先程の娘で最後なのか?」
 だが、愕然としているのは燦人も同様だったらしい。
 信じられないといった様子で呟いていた。
「え、ええ……その……」
「あら、指定された年齢の娘ならここにも一人おりますわ」
 汗がにじみ出ていそうな長の言葉を遮り、鈴華が得意げに言ってのける。
「私の舞もご覧になって下さいな」
 甘えるような声を出し、燦人の腕に手をそえる鈴華。そんな彼女に少し困った表情をして燦人は長に視線を戻した。
「鈴華どのはこう言っているが……良いだろうか?」
「え? いえ、その……娘は……」
「ねぇ、良いでしょう? お父様」
 愛娘を手放したくない長は躊躇っているが、このままでは誰も選ばれぬということになる。
 期待し、盛大な宴まで用意したというのにこのままでは長としての威厳すら怪しくなってくると思ったのだろう。
 愛娘の願いというのも手伝って、最後には頷いていた。
「はい、そうですな。鈴華の舞も見てください」
 引きつった笑顔でそう言った長に、鈴華は「ありがとうお父様」と無邪気にも見える笑顔で答える。
 そして立ち上がると艶然(えんぜん)と微笑み、舞台へと向かった。
 その背中を見送りながら、香夜は接待はどうするのだろうと小首を傾げる。
(……まあ、休憩出来ると思えばいいか)
 そう切り替えて上座の隅に控えつつ一息ついた。
 やはり体が怠い気がする。
 今日は早い時間から動きっぱなしだったのだ。昼食もまともに食べられず、夕食も移動しながら口に突っ込むようにして急いで食べた。
 それにやはり、昼とはいえ冷水を浴びてしまったのは不味かった。
 着物を守るためとはいえ、背中側はほぼすべて濡れてしまっていたから自分で思っていたよりも体が冷えてしまったらしい。
 せめて温かい飲み物でも飲めないかと周囲を見回していると、突然聞き慣れない声が掛けられた。
「……貴女は舞わないのですか?」
「え?」
 見ると、燦人のお付きの者である炯がそこにいた。
 火鬼の者は皆そうなのか、赤みを帯びた黒髪に黒い瞳をしている。まだ幼さは残るが、彼もかなり整った容姿をしていた。
「見たところ燦人様が指定した年齢に当てはまる様ですが……。失礼ですが、お年は?」
「あ、その……十八、です」
 無視するわけにもいかないし、嘘をついても失礼に当たる。
 何より、真っ直ぐな彼の瞳には嘘や誤魔化しが通用しない気がした。
「あ、ですが私はいいのです! 力も無いし……その、髪色だって変ですから……」
「変、ですか?」
 言いつけを破って叱られたくは無いので、香夜は舞わない理由もちゃんと告げた。
 だが、炯はその理由にも納得した様子は見られない。
「何をしているんだ!」
 そこへ、荒々しい声を上げながら長が近付いてくる。
「ああ……鈴華が舞うなど……ええい! 酒だ! 香夜、もっと酒を持って来い!」
 鈴華が舞ってしまえば、彼女が選ばれると思っているのだろう。愛娘を手放したく無い長は自棄になったように香夜にそう命じた。
「いえ、少し待ってください。彼女も指定した年齢の娘でしょう? ですが彼女が舞うのを見てはいません。どういうことですか?」
 静かに、でもはっきりとした炯の物言いは強い印象の声となって届く。
「え? いや、この娘はないでしょう。結界を張る力もないし、何よりこのみすぼらしい髪色だ。お目汚しにしかなりません」
 当然だと言うように何の疑問もなく言ってのける長。
 だが、炯はその言葉にも納得するどころか嫌そうに眉を寄せる。
「みすぼらしい? 何にしても、燦人様が指定したのは十六から二十までの娘全員です。跡取りだからと除外していたはずの鈴華どのまで舞っているのに……燦人様を欺くおつもりですか?」
 落ち着いた声音だが、確実に非難の色を込めた言葉に長も続く言い訳が思いつかないようだ。
 元々自棄になっていたこともあって、「分かりました」と炯の要望に応えた。
「香夜、さっさと行ってきなさい」
 簡潔にそう言われ、香夜は舞台へと追いやられてしまう。
 突然舞うことになってしまったが、大丈夫なのだろうか。
 養母の言いつけを破ることになってしまうし、何より単純に自分の体力が持つかどうか……。
 不安を胸に、香夜は言われた通り舞台の方へ足を進めた。
 順番を待つように、舞台の下の位置で鈴華の舞を見つめる。
 毎年、年の瀬に披露している鈴華の舞はとても綺麗だ。力も里の中では一番強いので、紋様もはっきりとした光を放っている。
(この後に舞うとか、頭が痛くなるわ)
 そう思ったら本当に痛くなってきた。
 いや、寒気も酷くなってきたしこれは確実に熱が上がってきた証拠だろう。
 舞が終わったら養母に伝えて自室に戻れるようにしてもらおう。片付けをしないことで嫌な顔はされるだろうが、倒れたところを運ぶのも嫌だろうから休みはくれるはずだ。
 そう結論を出し、とりあえず舞を終わらせなくてはと舞台を見上げていると後ろから聞き慣れた声が掛けられる。
「……香夜、あなたも舞うのですか?」
 養母の淡々とした声に悪いことをした子供のような気分で振り返る。
「あ、その……長が舞えと……」
 少なくとも自分の意志ではないのだ。言いつけを破るつもりはないのだと訴えた。
 だが、感情の読めない眼差しをした養母は追及するでもなく、無言で近付き持っていた扇を差し出してくる。
「扇もなく舞うつもりですか? それこそみっともないでしょう」
 そう言って受け取れとその扇を香夜の胸に突き出してきた。
 慌てて受け取ると、養母は無言で離れていく。
 養母の意図がつかめず戸惑っていると、鈴華の舞が終わったのだろう。拍手と彼女を褒めたたえる歓声が聞こえてきた。
 皆も鈴華が選ばれるだろうと思っているに違いない。
 里一番の力と美しさを持つ鈴華を里から出すのは忍びないが、名誉なことだと歓声の雰囲気からも感じ取れる。
(尚更私が舞う必要はないんじゃ……)
 香夜はそう思ったが、長の命でもあったし養母も止めはしない。
 この状況で舞わずにいるのは無理だった。
「まあ、あなたも結局舞うの?」
 舞台を降りてきた鈴華がやり切った笑みを嘲笑に変えて言ってくる。
「はい……指定の年齢ならば皆舞えとお付きの方から指摘がありまして……」
「あらそう。まあ、私の後ならあなたの舞がみっともなくても誰も見ていないでしょうから……良かったわね」
 と、ご機嫌そうに鈴華は言う。
 その様子から彼女も選ばれるのは自分だと思っている様に見えた。
(全く……跡取り問題はどうするつもりなのかしら)
 その辺りのことを全く考えていなさそうな鈴華に少しため息をつきたくなった。
 だが、誰も見ていないだろうという言葉には少し安心する。
 確かに鈴華の美しい舞の後ではそこまで注視されることもないだろう。
 ご機嫌な鈴華を見送ってから、香夜は舞台へと上がった。
 瞬間、ざわりと異様な空気が宴の中を駆け巡る。
 見ずとも、聞かずとも分かる。
 何故お前が舞うのだ?
 そんな意図が無数の針となって突き刺さってきたのだから。
 舞は注視されないと思ったが、別の意味で注目されてしまった。
 香夜はいつものように心を凍らせ壁を作り、とにかく早く舞を終わらせてしまおうと思う。
 頭痛も酷くなってきた。早く休まなくては寝込む事になってしまいそうだ。
 香夜は仄かな月明かりを全身に浴び、集中する。
 鈴華の様に美しくは舞えない。
 体調も最悪で、正直辛い。
 でもこの舞台に立つと、月が少し力を分けてくれる様な気がした。
 この舞に楽は無い。閉じていた扇を開き、ただ月明かりの下ゆったりと舞う。
 音も気配も全てを遮断して、月に舞を捧げるように扇をひるがえした。
 そうして舞の半分程まで来ると、紋様がほのかに光を放つ。
 みすぼらしい髪色の穢れた子でも、ちゃんと月鬼としての力はあるのだな、と自嘲した途端集中力が切れてしまった。
 体調の悪さも一気に思い出して、ぐらりと体が(かし)いだ。
(倒れる!)
 踏みとどまることが出来なくて、床にぶつかる様に倒れる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。
 だが、予測していた痛みは来ずふわりと何かに受け止められる。
 白檀の香りがするのと、周囲が息を呑む気配を感じ取ったのは同時だった。
「ああ……やっと、やっと会えた」
 耳に心地いい低めの声がした。
 優しく響く声音。大切なものを扱うかのように抱きとめられた力強い腕。
 初めて知るそれらに、香夜はただ驚いた。
 見上げたそこには、とても嬉しそうな美しい人の微笑み。
 彼は――燦人は、そんな香夜の頬を撫で、睦言を囁くように告げた。
「ずっと求めていた……貴女が私の妻になる(ひと)だ」