月花は愛され咲き誇る

 まだまだ肌寒い早春の朝。
 香夜(かや)はかじかんだ手に白い息をはぁ、と吹き掛けながら少しでも暖を取ろうとしていた。
「香夜! 何をしているの⁉ さっさと言われたことを済ませなさい!」
 養母の叱責がすかさず飛んできて、香夜は慌てて掃除道具に手を掛ける。
「ごめんなさい、お養母様」
 素直に謝罪してから、あかぎれで痛む手を冷水となってしまった桶に沈める。
 もはや感覚も無くなってきた手で雑巾を絞り、拭き掃除を再開させた。
「さあ、ついに日宮の若君がこちらにいらっしゃるのよ。綺麗に磨き上げなきゃ」
 香夜を叱責した声とは打って変わって、いくらか弾んだ声になる養母。
 『磨き上げなきゃ』などと言っているが、実際にやるのは香夜の仕事だ。
「分かっているね? 特に舞台は美しく飾り立てるんだよ? いくら月鬼(つきおに)の娘たちが美しくとも、舞う舞台がみすぼらしいんじゃ引き立たないからね」
「はい、お養母様」
 またしても厳しくなった声に素直に返事をする。
 今日の養母は楽しげでもあるが、同時にピリピリと気が立っていた。下手に反感を買うと罰としてまた仕事を増やされるかも知れない。
「昼までには終えるんだよ!」
 言い終えると、「忙しい忙しい」と口ずさみ着物の裾を払いながら養母は去って行った。
 養母からの圧が無くなって、香夜はふぅと安堵の息を吐きながら手を動かし続ける。
 言われた通り昼までに終わらせなければ、今日の昼食はないだろうから。
 たまに嫌がらせで食事を抜かれることはある。とは言え、今日に限っては別の理由だ。
 本日昼過ぎ、この月鬼の一族の里に大事なお客様が訪れる。
 この日の本で一番の力と勢力を持つ火鬼(ひおに)と呼ばれる鬼の一族。その若君が。
 何でも、嫁探しのためらしい。
 養母が飾り立てろと言う舞台で年頃の娘たちが舞い、若君はそれを見て決める。
 数代同じ一族の者と婚姻する火鬼の当主だが、それでは血が濃くなってしまうということで一、ニ代おきに別の一族から嫁取りをするそうだ。
 話を聞く限りでは前回は二番目に大きい勢力である水鬼(みずおに)から嫁を取ったらしく、他の一族では今回こそ我が一族の者をと血気盛んになっているらしい。
 しかも今回は勢力順ではなく真っ先にこの月鬼の里を選んだという。
 養母だけではなく一族の者すべてが期待するのも当然のことだった。
(まあ、私には関係ないけれど……)
 前に垂れてきた一つに結んだ自分の髪を見ながら香夜はため息をつく。
 みすぼらしい灰色の髪。
 癖のない真っ直ぐな髪といえば少しは聞こえは良いが、手入れが行き届いていないそれはよく見るとかなり傷んでいる。
 月鬼は異端の鬼だ。元々地上にいた鬼と違って、月から降りてきた一族と言われている。
 その姿はまさに月。
 異端と呼ばれて弾かれたこともあったそうだが、どの一族よりも美しいとされたその姿は憧れも集めていた。
 だが、それも久しい話。
 長い月日が経ち、地上に適応していったからなのだろうか。かつての美しさは失われていた。
 今ではかつての美しさに固執して色素の薄い者を尊ぶだけの一族となり果てている。
 香夜の灰色の髪も薄いと言えばそうなのだが、茶髪茶眼が多い中では異様にしか映らなかった。
「いくら色が薄いとはいえあんなみすぼらしい色ではねぇ……」
 そう言って嘲笑したのは誰だったか。
 言われ過ぎてもはや初めに言ったのが誰だったのかも分からない。
(両親は黒髪に焦げ茶の目だったと思うんだけどな……?)
 うっすらと残る記憶を呼び起こす。
 八年前、当時十歳だった香夜一人を残してこの世を去って行った両親。
 灰色の髪を持って生まれきた香夜を心から愛してくれた人達だ。
 事故で崖下に落ちてしまった荷馬車。
 ほぼ即死だった両親と違い、香夜だけはどういうわけか無事だった。
 香夜が蔑まれ疎まれるのはそういったことも原因になっている。
「両親の命を奪って生き残った娘」
 と。
 みすぼらしい髪の色は呪われた証なのだと。
 当時幾度も言われた言葉を思い出し、手が止まっていることに気付く。
「早く掃除終わらせなきゃ」
 頭を振って嫌な記憶を振り払い、呟いた。
 こんな調子では本当に昼食に間に合わない。
 そこからあとは、一心不乱に掃除に精を出した。
 頑張った甲斐あってか、何とか昼食には間に合った。
 だが、十分な量を食べられたかと言うと答えは否。
 食事もほどほどに養母に呼び出されてしまったからだ。
「香夜です。お呼びと聞き参りました」
 養母の部屋の前で襖越しに声を掛ける。
「入りなさい」
 淡々とした声に香夜はしずしずと従った。
 中に入り襖を閉めるとその場で居住まいを正す。
 両親を亡くした香夜を引き取った養母は月鬼の長の妻でもある。
 亡くなった母の友人だったとも聞いたが、引き取ってからの自分への仕打ちを考えるとよく思っていないのは確かだ。
 もしかすると、母の命を奪って生き残ったと言われている自分を(うと)んじているのかもしれないと、ことあるごとに思っていた。
 養母はそんな香夜が部屋に入るのを(いと)わしく思う人だ。近くにおいでとは絶対に言わない。
 だからその場で声がかかるのを待っていたのだが……。
「何だい。もっと近くに来ないと用件も伝えられないだろう。来なさい」
 座ったまま軽く振り返った養母は珍しく更に近くへ来いと指示を出す。
「は、はい」
 文句を言われたことに若干の不満はあるものの、驚きの方が勝り戸惑いながら近くに座る。
 するとすぐに用意していたらしい包みを渡された。
「日宮の若君が滞在する間はそれを着て仕事をするんだ。みすぼらしいなりでうろつかれたら品位を疑われかねないからね」
 不満そうに言い放つと、養母はまた机に向かい書き物を始めてしまう。
「はい、では失礼致します」
 聞いているのか定かではないが、一応断りを入れて頭を下げる。
 養母の書き物の邪魔にならないようあまり音を立てず襖を開けると、「香夜」と珍しく名前を呼ばれた。
「あ、はい……」
 先ほどから珍しいことばかりだと思いながら返事をすると、彼女はこちらを見もせず言葉を発する。
「……お前は舞うんじゃないよ」
 静かに告げられた言葉に、やはりいつもの養母だと思った。
 日宮の若君が所望しているのは十六から二十の年頃の娘。十八になったばかりの香夜も当然それにあたる。
 若君の前で舞うなということは、選ばれるわけがないのだから舞う必要はないということだろう。
 だが、もとよりそんなことは分かっている。
 こんなみすぼらしい髪色で舞っても、美しい茶色の髪を持つ他の娘たちの引き立て役にしかならない。
 香夜は自嘲し、「分かっています」と返事をすると今度こそ養母の部屋を後にした。
 屋敷の隅にある自室へと香夜は足早に向かう。
 もう昼は過ぎているのだ。
 早く着替えてしまわねば日宮の若君が到着してしまう。
 出迎えは里の者が総出で行うのだと長が張り切って言っていた。
 遅れてしまっては、いつものようにきつい叱責が飛んで来てしまうだろう。
 一応香夜の養父でもあるのだが、長は香夜のことを小間使いとしか思っていないようだった。
 養母も似たようなものだが、長は香夜に「お養父様」と呼ばれるのすら嫌う。
 父と呼んでいいのは彼らの愛娘である三津木(みつき)鈴華(すずか)だけなのだと。
 香夜に対してはあくまで養ってやっているだけといった態度だ。
 故に、長の香夜への態度は基本的には無関心。機嫌が悪い時などは手こそ上げないが、当たり散らすかのように怒鳴られる。
 あの野太い声で怒鳴られると、香夜はいつも身がすくんでしまう。
 だから急がなくては。
 だが、そういうときほど邪魔が入るのだ。
 大きな松の木が立派な庭園を眺められる縁側を小走りで進んでいると、突然壁のようなものにぶつかった。
「ぶっ!」
 それなりに勢いよくぶつかってしまったため、そのまま少し後ろによろける。
 しかも顔面からぶつかったせいで鼻が痛い。
 涙目で顔を抑えながら前方を見ると、そこには何もない。ただ続く縁側が見えるだけ。
(あ、もしかしてこれって……)
「ふふふ……香夜ってばぶつかるまで気付かないなんて」
 見えない壁の正体に気付くと同時に、庭園の方から軽やかな声が掛けられる。
 彼女の名にもある鈴を転がしたような可愛らしい声。
 ゆるくうねった髪は薄茶色。茶色の目も光の塩梅(あんばい)によっては金に近く見える。
 かつての美しさに一番近しい娘として一族から一目置かれている彼女は、長が殊の外可愛がっている愛娘だ。
 一応香夜の方が先に生まれたので鈴華は義妹ということになるのだが、年は同じなので姉妹の上下感覚はほぼない。
 どちらにしろ鈴華は香夜を下に見ているので姉妹感覚は皆無だが。
「本当に。結界があることすら気付かないなんて無能にもほどがありますわ」
 そして彼女の周囲にはいつも付き従っている取り巻き――もとい、友人達がいた。
 結界とは月鬼の女性だけが持つ特殊能力だ。
 香夜には分からなかったが、今ぶつかってしまった見えない壁も結界なのだろう。
 分からなくとも、昔から似たような方法で嫌がらせをされてきたので嫌でも理解した。
「三津木の姓を名乗っているというのに……本当、鈴華様とは大違い」
 ここぞとばかりに持ち上げる少しふくよかな友人も結界は張れなかったはずだが、蔑むように香夜を見ている。
 香夜に心だけでなく目に見える傷もつけてきたのは決まってこういう同年代の娘達だ。
 流石に今傷をつけられてはたまらない。
 何より、早く着替えなければ集合時間に間に合わない。
 多少の反感はあるものの、それを見せると長引くので面倒だ。
 香夜はいつにもまして感情を押し殺し、黙って嵐が過ぎるのを待つ。
「お母様に呼び出されたみたいだけれど……その包みは何かしら?」
 優美に微笑みつつも目ざとく香夜の抱える包みを指摘する。
 ことごとく大事なものを壊されてきた記憶が蘇り、思わず包みをギュッと掴む。
 だが、大丈夫と自分に言い聞かせた。
 この着物は日宮の若君を迎えるためには必要なものだ。養母がそう判断して自分に渡したものなのだから、ちゃんと理由を話せば汚されたりはしないはずだ。
「……これは着物です。みすぼらしいなりでうろつかれては品位に関わると言われて渡されました」
 言葉を選ぶように慎重に紡ぐ。
 こう言えば大丈夫だろうとは思いつつも、やはり不安はなくならない。嫌な感じに鼓動を速めながら鈴華の言葉を待った。
「そう……確かにそれは必要なものね。あなたには私が若君の接待をするための裏方の仕事をしてもらわなければならないもの」
 そのようななりで来られたら確かに目障りだわ、と形の良い眉を寄せて告げられる。
 鈴華は長の跡取り娘であるが故に今回の嫁探しの舞には不参加だ。その代わりに長から若君の接待を任されている。
 その手伝いも本来なら今周囲にいる友人達がするのだろうが、今回はことごとく舞の参加者となっている。
 そういうわけで香夜にお鉢が回ってきたというわけだ。
 鈴華の言葉にホッとしたのも束の間。彼女は香夜を小ばかにしたような微笑みを浮かべる。
「私にとっても大事なものなのだから、ちゃんと守りなさいよ?」
 その言葉と入れ違いに友人の一人が進み出て桶を構えた。
 今までの経験から瞬時に何をされるか悟った香夜は、包みを抱え込むようにして彼女達に背中を向ける。
 バシャ!
 音と共に背中に冷たさを感じた。
 透明なもので匂いも特にないため、ただの水だと分かる。そのことに幾分ホッとした。
 酷い時には真夏に放置してしまって酸味を帯びてしまった汁物を、もったいないからという訳の分からない理由で掛けられたこともあったから。
「まあ香夜ってば。そんな守り方じゃあ大事な着物が濡れてしまうわよ? 結界を張ればいいのに」
 香夜が結界を張れないことを分かっていながら、クスクスとそれは楽しそうに笑う鈴華。
 周囲の友人達も同調して笑い合う。
 いつもの嫌がらせだ。八年もたてば流石に慣れた。
 でも、それとは別に心はどんどん冷えていく。
 怒りも悲しみも凍りつかせ、壁を作る。
「さ、あと少しで日宮の若君が到着するわ。皆行きましょう?」
 ひとしきり楽しんだのか、満足した様子の鈴華は香夜を無視して皆に声を掛ける。
 去って行く足音が遠ざかり、気配が無くなってから香夜は安堵の息を吐く。
 すると一気に寒気が走り体が震えた。
「……早く着替えなきゃ」
 このままでは風邪を引くし、何より時間がない。
 香夜は寒さに耐えながらまた屋敷の隅にある自室へと急いだ。
 養母の用意してくれた着物は奇跡的に無事だった。
 裾などの端くらいは濡れてしまったかも知れないと思っていただけに、良かったと息をつく。
 しかも着物は養母が自分にと選んだとは思えぬほど上質のものだった。
 白鼠(しろねず)の色無地といった素朴なものだったが、黒地の帯には白い艶やかな花が刺繍されている。
 この八年袖を通したことのない上物に、本当に良いのだろうかと不安がよぎる。
 だが濡れてしまった髪も拭かなければならなかったし、本当に時間がない。
 不安や迷いを押し込めて、とにかく着替えて集合場所へ向かった。
「何をしていたんだ⁉ お前が最後だぞ⁉ 私の言葉を家の者が一番に守らなくてどうする!」
 急ぎはしたものの、本当に間際の時刻になってしまった。
 そのため他の里の者達はすでに集合済み。香夜が最後となってしまい、予測していた通り長に怒鳴りつけられるという状況に(おちい)る。
 野太く力強い声に怒鳴られるとそれだけでびくりと肩が震えた。
 周囲の者はまたかと(わずら)わしそうに眉を顰めるのみ。
 もしくは、鈴華達のようにクスクスと笑いを忍ばせる者だけだった。
 分かっている。
 疎まれている自分の味方は、この里にはいないのだということは。
「全く、どうせ遅れるならそのみすぼらしい髪も隠してくれば良かったものを。とにかくもうかの若君はご到着なされる。お前はせいぜい人の陰に立ち目立たぬようにするのだ」
「はい……」
 幸か不幸か、時間がないことが理由でお叱りは早々に終わった。
 その事に安堵の息を吐きつつ、人垣の奥へと向かう。
 香夜が通ろうとした場所は道が開かれる。
 穢れた娘という声も聞こえた。
 そんな娘に僅かでも触れたくないのだろう。
 里の者達の態度は香夜の心を更に凍らせる。
 これだから皆がいる所へは極力行きたくないのだ。
 厳しくても手は上げない養母に仕事を言い付けられ、黙々と一人で仕事をしていた方がどんなに気が楽か。
 日宮の若君が来なければこのようなことをしなくても良かった。
 そう思うと、どうしても考えてしまう。
(もう来るならさっさと来て、早く帰ってくれないかな……)
 と。
 日宮の若君は自動車でやってきた。
 閉ざされた月鬼の里ではほとんどの者が見たことがなく、物珍しさで一時騒然となりかける。
「静まれ! うろたえたところを見られては侮られるぞ!」
 だが、長の一喝でぴたりとざわめきが止まる。閉ざされた里故に、長の言葉は絶対でもあった。
 自動車が停まり、先に十代前半といった少年が降りてくる。
 日宮の若君は二十歳だと聞いたから、お付きの者か何かだろう。
 少年は長がいる側の後部座席のドアを開けると、深く頭を下げた。
 そこからおもむろに出てきた人物が日宮の若君。この国で最高の力を持つ火鬼の一族の次期当主だ。
 優美な物腰とその美貌に、里の者すべてが息を呑む。
 鬼は基本的に皆美しい顔立ちをしているが、彼は別格と言って良かった。
 遠くからでも分かる玉のような美しい肌。スッと切れ長な目は黒い瞳を冷たい印象に導くが、柔らかそうな微笑みがその印象を和らげてくれる。
 光が当たると少し赤く見える黒髪は清潔そうに整えられていて、全体的に洗練さを見せつけた。
 若君の佳麗(かれい)さに、長ですら一時言葉を失う。
「大勢での出迎え、感謝します。私が日宮の次期当主、日宮燦人(あきと)です。この度は我が一族の願いを聞き届けてくださり、ありがとうございます」
 力も権力も燦人の方が上なのだが、相手が一族の長ということもあってか少しへりくだった言い方をしていた。
 ただ、それでも彼の威容(いよう)は変わりなかったが。
「あ、ああ……。いえ、その願いはこちらとて望ましいもの。歓迎いたします、燦人どの」
 燦人の威厳と美しさに飲まれていた長だったが、長としての矜持を取り戻したのかすぐに立ち直っていた。
 その場で簡単に養母と鈴華を紹介する長に、燦人も供の者を紹介する。お付きの者である少年は(けい)というらしい。
「ご滞在中は私がお世話を任されております。さあ、まずはご案内いたしますね」
 紹介が終わるや否や、鈴華があからさまな喜色を浮かべてそう言った。
 腕を取るといった無礼は働かなかったが、確実に距離が近い。その様子に周囲の者の方が慌てた。
 特に長は、跡取り娘である鈴華が嫁に選ばれてしまうのではないかと冷や冷やしている様子だ。
 燦人は舞を見てから決めると言っていたのだから、少なくとも鈴華が舞わなければ選ばれることはないだろうに。
 燦人が所望した舞は月鬼の女なら誰もが教えられる伝統的なもの。蔑まれつつも、香夜ですらきちんと教えられた。
 その舞は月鬼の力の一端を垣間見せる。
 満月の夜舞台で舞うことで、舞台に描かれた紋様が光を放つのだ。
 年の瀬の満月の日に、毎年一番力のある娘が舞っているから香夜もその美しい様子を見たことはある。
 以前は養母が勤めていたその役割は、ここ数年で鈴華に代替わりしていた。
 そういう仕組みなのだから、まずは舞台で舞わなければ選ばれることすらないだろう。
(まあ、結界を張ることすら出来ない私には無縁の話よね)
 先導する鈴華に付いて行くように去って行く燦人を見送りながら、香夜は無感情にそう思った。
***
「では、宴の準備が整いましたらまた参りますね」
 燦人を宿泊するための部屋へ案内した鈴華は、聞き心地の良い声でそう告げると障子戸を閉め去って行った。
 気配も消えると炯はあからさまにため息をつく。
「あの娘、燦人様に馴れ馴れしく……」
 悪態をつきながら彼女が去って行った障子戸を睨みつける炯を燦人は苦笑気味にたしなめた。
「まあ、あれくらいなら可愛いものだろう。同じ一族の者はもっと遠慮がないからなぁ」
 炯と二人きりになり少し言葉を崩した燦人は、火鬼の一族の女性達を思い出す。
 燦人は他の一族から嫁を取ると決まっているのに、積極的に迫ってくる者もいた。
 そういう者達の言い分では、他の一族から嫁を取るのは次代でも良いだろうとのこと。現当主である父が決めたのだから覆すことなど出来ないというのに。
 思い出し苦笑していると、炯が改めて燦人を見て口を開いた。
「それにしても、本当に望みの娘がいるのですか? ざっと見た様子ではそれらしい姿の者も力の強そうな娘も見当たりませんでしたが……」
 主人の意を否定してしまう言葉になってしまうためか僅かに心苦しそうだ。
 だが、燦人はそれを咎める事もせずはっきりと言ってのける。
「いる。絶対にいるはずだ。かつて感じた気配は他の鬼では有り得ない」
「ですが、聞いたところによると角のある本来の鬼の姿に変転する事も出来ないそうではありませんか⁉︎」
 燦人の言葉でも納得できないらしい炯は声を荒げた。
 人の世に紛れるため、鬼達は普段角を隠し暮らしている。
 だが、大きな力を使うときは本来の鬼の姿となる。
 火鬼であれば目が赤くなり、髪も赤みを帯びる。そして全ての鬼に共通して、額に角が生えるのだ。
 だが、本来の姿を失って久しい月鬼はその姿すら忘れてしまったようだった。
「月鬼は特殊だからな。幾度も滅びかけた事がある。力も伝承も廃れてもおかしくはない」
 燦人の言葉に炯は何かを言いかけ、止める。
 そんな炯に燦人は柔らかな笑みを向けて告げた。
「何にしても、今夜分かることだ」
「そう、ですね……」
 納得は出来ないようだったが、今夜月鬼の娘達の舞を見ればはっきりするのだ。炯は口を閉ざし、夜の準備へと取り掛かった。
 燦人は静かになった雰囲気に身を任せ、かつて感じた気配に思いを馳せる。
 何でもない普通の日だった。
 十二の年、本格的に次期当主としての教育も始まり、庭で鬼としての力の使い方を学んでいるときだ。
 突然、はるか遠くに覚えのない気配を感じた。
 その気配に惹かれるがまま、視線をそちらの方角へやる。するとすぐに大きな足音が聞こえ、障子戸を勢いよく開き父が現れたのだ。
 父も同じ方角を驚愕の表情で見ていることから、あの気配を感じたのだと分かった。
 遠すぎたからなのか、火鬼の中でも感じ取れたのは父と自分だけだったらしい。
 すぐ後に父に月鬼の話を聞かされた。
「月鬼の女は他の鬼と交われば強い鬼を生むと言われている。しかもあの気配……なあ、燦人よ。あれが欲しくはないか?」
 にやりと笑う顔は悪いことを考える大人のものだった。だが、その目には悪戯好きそうな感情も見える。
 燦人は強い鬼がどうとか、そんなものはどうでも良かった。だが、父の言葉に瞬時に頷く。
 あの気配を感じた瞬間に抱いた思い。それがまさに父の言葉通りだったのだから。
「はい、欲しいです」
 そう答えたところまで思い出し、焦がれた気配を探ってみる。
 近くにいる気はするのだ。
 だが、はっきりとした形にならない。
「早く会ってみたいな……」
 焦がれ、求めた気配。
 夜がとても待ち遠しく思えた。
 出迎えが終わり屋敷に戻ると、香夜はすぐに夜の宴の準備に駆り出された。
 掃除や座椅子の準備などは午前中に終わっているが、料理や酒などの準備はこれからなのだ。
 下準備は終わっているものの、普段動くべき若い娘達はことごとく舞の準備に忙しい。
 そのため年の瀬の宴よりも忙しい状態となっていた。
「香夜! お前はそろそろ鈴華の所へお行き。あの子の指示通りに動くんだよ⁉」
 日も暮れかけたころ、養母がやってきて大声で指示を飛ばす。
 昼のこともあるので鈴華の近くには行きたくなかったが、今日の香夜のお役目はその鈴華の手伝いだ。行かないわけにはいかない。
 養母に聞こえるように「はい!」と返事をすると、身だしなみを軽く整え鈴華の部屋へと向かった。
 せわしなく動いた後で人が少ない方へと来たからだろうか、急に寒くなったように感じる。
 いや、背筋がぞわぞわするこの感じは寒気だ。
 昼とはいえ冷たい水を掛けられ軽く拭いただけで終わらせてしまったのだ。風邪を引く前兆かもしれない。
(こんな時に……せめて今日一日持ってくれればいいんだけど)
 舞不参加の自分しか鈴華の手伝いをする者がいない。
 自分がいなくなれば接待のための料理や酒を鈴華が厨房まで取りに行かなくてはならなくなる。でも、それでは接待の意味がない。
 運ぶ人手はどうしても必要なのだ。
「あなたは私の指示通りの料理やお酒を運んでくれればいいわ。そのみすぼらしい姿で燦人様の視界に入らないで頂戴」
 鈴華の指示は簡潔にそれのみだった。ある意味有難いといえば有難い。
 それにしても、と鈴華を盗み見る。
 いつも以上に着飾っている鈴華に、これは本当に接待のためだけの身支度かと疑問を抱く。
 これでは長も慌てるはずだ。
「何を見ているの? 私の指示はそれだけよ。初めに用意する料理などは決まっているでしょう? さっさと準備に取り掛かりなさい」
 嫌悪も露わに眉を寄せた彼女に追い立てられ、香夜は鈴華の部屋を後にする。
 そうして準備が整えられて行き――運命の宴がはじまった。