順番を待つように、舞台の下の位置で鈴華の舞を見つめる。
毎年、年の瀬に披露している鈴華の舞はとても綺麗だ。力も里の中では一番強いので、紋様もはっきりとした光を放っている。
(この後に舞うとか、頭が痛くなるわ)
そう思ったら本当に痛くなってきた。
いや、寒気も酷くなってきたしこれは確実に熱が上がってきた証拠だろう。
舞が終わったら養母に伝えて自室に戻れるようにしてもらおう。片付けをしないことで嫌な顔はされるだろうが、倒れたところを運ぶのも嫌だろうから休みはくれるはずだ。
そう結論を出し、とりあえず舞を終わらせなくてはと舞台を見上げていると後ろから聞き慣れた声が掛けられる。
「……香夜、あなたも舞うのですか?」
養母の淡々とした声に悪いことをした子供のような気分で振り返る。
「あ、その……長が舞えと……」
少なくとも自分の意志ではないのだ。言いつけを破るつもりはないのだと訴えた。
だが、感情の読めない眼差しをした養母は追及するでもなく、無言で近付き持っていた扇を差し出してくる。
「扇もなく舞うつもりですか? それこそみっともないでしょう」
そう言って受け取れとその扇を香夜の胸に突き出してきた。
慌てて受け取ると、養母は無言で離れていく。
養母の意図がつかめず戸惑っていると、鈴華の舞が終わったのだろう。拍手と彼女を褒めたたえる歓声が聞こえてきた。
皆も鈴華が選ばれるだろうと思っているに違いない。
里一番の力と美しさを持つ鈴華を里から出すのは忍びないが、名誉なことだと歓声の雰囲気からも感じ取れる。
(尚更私が舞う必要はないんじゃ……)
香夜はそう思ったが、長の命でもあったし養母も止めはしない。
この状況で舞わずにいるのは無理だった。
「まあ、あなたも結局舞うの?」
舞台を降りてきた鈴華がやり切った笑みを嘲笑に変えて言ってくる。
「はい……指定の年齢ならば皆舞えとお付きの方から指摘がありまして……」
「あらそう。まあ、私の後ならあなたの舞がみっともなくても誰も見ていないでしょうから……良かったわね」
と、ご機嫌そうに鈴華は言う。
その様子から彼女も選ばれるのは自分だと思っている様に見えた。
(全く……跡取り問題はどうするつもりなのかしら)
その辺りのことを全く考えていなさそうな鈴華に少しため息をつきたくなった。
だが、誰も見ていないだろうという言葉には少し安心する。
確かに鈴華の美しい舞の後ではそこまで注視されることもないだろう。
ご機嫌な鈴華を見送ってから、香夜は舞台へと上がった。
瞬間、ざわりと異様な空気が宴の中を駆け巡る。
見ずとも、聞かずとも分かる。
何故お前が舞うのだ?
そんな意図が無数の針となって突き刺さってきたのだから。
舞は注視されないと思ったが、別の意味で注目されてしまった。
香夜はいつものように心を凍らせ壁を作り、とにかく早く舞を終わらせてしまおうと思う。
頭痛も酷くなってきた。早く休まなくては寝込む事になってしまいそうだ。
香夜は仄かな月明かりを全身に浴び、集中する。
鈴華の様に美しくは舞えない。
体調も最悪で、正直辛い。
でもこの舞台に立つと、月が少し力を分けてくれる様な気がした。
この舞に楽は無い。閉じていた扇を開き、ただ月明かりの下ゆったりと舞う。
音も気配も全てを遮断して、月に舞を捧げるように扇をひるがえした。
そうして舞の半分程まで来ると、紋様がほのかに光を放つ。
みすぼらしい髪色の穢れた子でも、ちゃんと月鬼としての力はあるのだな、と自嘲した途端集中力が切れてしまった。
体調の悪さも一気に思い出して、ぐらりと体が傾いだ。
(倒れる!)
踏みとどまることが出来なくて、床にぶつかる様に倒れる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。
だが、予測していた痛みは来ずふわりと何かに受け止められる。
白檀の香りがするのと、周囲が息を呑む気配を感じ取ったのは同時だった。
「ああ……やっと、やっと会えた」
耳に心地いい低めの声がした。
優しく響く声音。大切なものを扱うかのように抱きとめられた力強い腕。
初めて知るそれらに、香夜はただ驚いた。
見上げたそこには、とても嬉しそうな美しい人の微笑み。
彼は――燦人は、そんな香夜の頬を撫で、睦言を囁くように告げた。
「ずっと求めていた……貴女が私の妻になる女だ」
***
舞を披露する娘達。
次から次へと切れることなく繰り返される舞を全て見ているわけにもいかず、変な期待をさせないためという意味も込めて、力の気配を感じ取った瞬間だけ確認のように視線をやった。
黒髪の者から、徐々に色素の薄い茶髪の者へと変わっていく。
それでも皆求めていた気配とはまるで違っていて……。
周囲が期待を寄せているな、と思った娘ですら違った。
だが、まさかその娘で最後とは思わなかった。
(見逃した? いや、そんなはずはない。では年齢が違っていた? だが父もそれくらいの年頃だと言っていたはずだ)
自分よりもあのときの気配をはっきり感じとったであろう父が間違えるとは思えない。
驚愕をあらわにしていると、鈴華が名乗りを上げた。
跡取り娘ということで除外されていたはずの鈴華。こうしてそばにいて感じる気配も何となくではあるが違うと感じる。
だが、本人がやる気満々であったのと万が一ということもあった。
長に許可を取り、鈴華の舞も見ることとなる。
鈴華の舞は彼女の自信満々な様子に見合って素晴らしいものだった。
楽のない舞だというのに、その歩の音が、揺らめく薄茶の髪が、楽を奏でているかのように錯覚させた。
(だが、やはり違う)
舞を素直に美しいと思う反面、求めた気配ではないことに瞬時に関心が失せる。
(何故だ? 確かにいると思うのに……。やはり年齢が違ったのだろうか?)
視線は鈴華に向けておきながら、思考は次へと切り替わる。
(こうなったらしらみつぶしに月鬼の女性に舞ってもらうしか……)
そう考え始めた頃には鈴華の舞が終わっていた。
周囲が多大な期待を彼女に寄せているのが分かる。
長はとても複雑そうではあったが、彼女が選ばれると信じて疑っていない様に思えた。
この雰囲気を壊すのは気が引けたが、だからといってあの気配の主を諦めることだけは出来ない。
自信満々な笑みを浮かべながら上座に戻ってくる鈴華を視界に捉えて、困った笑みを浮かべたときだった。――周囲の空気が、一変した。
一変した原因でもある周囲の視線の先を見ると、舞台の上に娘が一人立っているのが見えた。
瞬間、ドクリと心の臓が動く。期待が溢れてくる。
白鼠の色無地に、月下美人の花の刺繡が入った黒地の帯。
他の娘達と比べると質素な出で立ちだが、月明りの下に佇む彼女の髪色にはその素朴さが何よりも合っている気がした。
真っ直ぐな灰色の髪は、煌々とした満月の明かりで白銀にも見える。
そうして静かに舞を始めた彼女に目を奪われた。
鈴華ほどの華やかさも美しさもない。舞の出来とて、事前の彼女と比べると不出来だ。
だが、それでも惹きつけられる。
「燦人様、私の舞はいかがでしたか?」
戻ってきたらしい鈴華が近くに来て何かを聞いてきたが、耳には入ってこなかった。
舞台の紋様がほのかに光り、彼女の気配を感じ取った瞬間燦人は立ち上がる。
(彼女だ……彼女だ!)
焦がれ、求めていた気配。
それが確信となって目の前にある。
記憶よりも弱い力だが、彼女の気配に間違いはない。
その喜びは、歓喜となって心を震わせた。
すぐにでも近くに行きたいが、舞を止めるわけにもいかないとただじっと見つめる。
そうしていると、彼女は突然ふらついた。
(倒れてしまう!)
そう思った瞬間には飛び出し、全力の速度でもって舞台の上に向かう。
何とか抱きとめるとその軽さに少し驚いた。
だが、求めていた存在が今腕の中にいるのだと思うと喜びの方が勝る。
「ああ……やっと、やっと会えた」
感慨深い思いで発した言葉に、彼女が顔を上げた。
驚きに満ちたその顔は、美しいというよりは可愛らしい。
だが、その可愛らしさこそが愛おしく感じられ、燦人は彼女の頬を撫で大事な言葉を告げる。
「ずっと求めていた……あなたが私の妻になる女だ」
その言葉にひと際驚いたように茶色い目を見開くと、彼女はそのまま気を失ってしまった。
その体が、とても熱かった。
熱い、寒い、苦しい。
香夜は熱に浮かされながら、何とかその苦しみに耐えていた。
用意してもらった薬は飲んだ。あとは額を冷やしつつ熱が下がる様寝ているしかない。
(あれ? でも薬は誰が用意してくれたのだっけ? 額の手拭いも――っ)
ふと疑問に思ったことを考えるが、頭痛に追いやられ思考は途絶えた。
そのまま意識がはっきりしない状態で寝込んでいると、部屋に誰かが入って来る気配がした。
その人は額の手拭いを替えると、優しく頭を撫でてくれる。
(誰だろう?)
自分にそんな優しく接してくれる人などこの里にいただろうか?
倒れる直前に見た燦人の優しい微笑みを思い浮かべるが、彼であるはずがない。
大体にしてあれは夢か幻としか思えないのだ。……それに、撫でた手は女性のものだった。
(本当に、誰だろう?)
思うが、頭痛で瞼が開けられない。その姿を見ることが叶わない。
自分に優しくしてくれる女性などいただろうか?
(ああ、でも……)
もっと小さい、両親が亡くなってすぐの頃。
夜泣き疲れて眠る自分を撫でてくれた人がいた気がする。
この手は、その人と同じような気がした……。
三日ほど経ち、やっと熱は下がった。
とはいえまだ咳や節々の痛みが残る。
養母にはうつされても困るから布団から出るなと告げられた。
ついでに、あの宴の後のことも聞かされる。
「全く、お前があのまま気を失ってしまうから燦人様は慌てるわ怒りを露わにするわ……。里の者達も騒然とするばかりでてんで使えやしないし」
愚痴られてしまった。
だがそんなことよりも、自分が日宮の若君である燦人の婚約者となっていることの方が驚きだった。
「とにかく燦人様はお前を選びました。今はしっかり病を治して嫁ぐ準備をなさい」
そう告げて立ちあがろうとする養母を引き留める。
「あ、あの! 本当に私なのですか? あれは夢だったんじゃあ……」
養母が嘘をつくとは思えないが、信じることも出来ずに聞いてしまう。
案の定嫌そうに眉を寄せられたが、「事実ですよ」と簡潔に答えられてしまった。
「じじつ……」
それでも信じられないでいると、襖の向こうから声が掛けられる。
「失礼、奥方どの。そろそろ良いだろうか?」
襖越しのくぐもった状態でも分かるその声は燦人のものだ。
内心えっ⁉ と驚く香夜だったが、こちらの様子など気にも留めず養母は彼に返事をしていた。
「はい、ようございます」
そうして開いた襖の向こうには確かに気を失う前に近くで見た顔。
少し申し訳なさそうな顔をしている彼は紛れもなく日宮の若君・燦人だった。
「ですが病み上がりですのでほどほどに。うつされてしまいます」
「少々話がしたいだけだ。それほど長居するつもりはない」
そんなやり取りをした後、「失礼する」と断りの言葉を放ち燦人が部屋の中へ入って来る。後ろには炯が付き従っていた。
「では私は失礼させていただきます」
しかも養母はそう言って出ていってしまうので、未だついていけていない香夜はどうしていいのか分からない。
「すまない、病み上がりだというのに……無理をさせるつもりはない。横になっていてくれ」
「え? いえ。そのようなこと――けほっ」
そう咳をしてしまったのが悪かったのか、「いいから」とやや強引に寝かされてしまった。
うつすつもりか? とでも言いそうな炯の無言の圧力が怖かったのも理由の一つだったが。
「すみません……」
謝罪の言葉に「いや……」と声を掛け少し間を開けた燦人は、言葉を探るように話し始めた。
「その……貴女が寝ている間に里の者から貴女のことを聞いた」
眉尻を下げ、悲しそうに揺れる目を見れば何を聞いたかは想像できる。
呪われた子。穢れた娘。
そんな言葉も聞いたのだろう。
(それで私のために悲しんでくれるなんて……優しい方なんだな)
しばらく触れていなかった優しさに、僅かに心が温かくなるのを感じた。
「八年前何があったのかも……」
そう言葉を告げられて、ああ、と力が抜ける。
両親がいないことも聞いたのだろう。
そして、流石に親のいない娘を嫁には出来ないと思ったのかもしれない。
一応長が養父ではあるが、彼は自分を娘などと思ってはいないのだから。
いいのだ。元々夢か幻かと思っていたことだ。
ここは一思いにはっきり告げて欲しい。
そう覚悟を決めて燦人の言葉を待っていると……。
「……辛い思いをしたね」
労わるようにそう口にした燦人は優しく香夜の頭を撫でる。
瞬間、凍らせ続けてきた心にある氷の壁に、ピキリとヒビが入った気がした。
「……え? あの……それだけ、ですか?」
「それだけ、とは?」
不思議そうに聞き返される。
「その、親のいない娘など貴方のような方の妻には相応しくありません。しかも穢れた娘などと言われるような私なんて――」
そこから先は口を開けなくなってしまった。
燦人の指が、そっと香夜の唇を閉ざしてしまったから。
「自分を卑下する言葉を口にするものではないよ。それに私は貴女以外を妻にするつもりはない」
「え……?」
「すぐに気を失ってしまったから覚えていないのかな? 言っただろう? ずっと求めていた、と」
言われて思い出す。
そう言えばそんな言葉を聞いた気がする。
「八年前からずっと求めていたんだ。やっと会えた。もう離すつもりはない」
「っ⁉」
語る燦人の瞳に確かに自分を求める熱を感じて、どうしていいか分からなくなる。
誰かに優しくされることすらなかったというのに、異性にこのような眼差しで見つめられたことなど無い。
心臓がドクドクと早くなって、全身が熱くなってきた。
「ん? 顔が赤くなってきたね? すまない、また熱が上がってきてしまったかな?」
香夜の唇から指を離し、心配そうに燦人は眉を下げる。
そんな優しい彼に心配を掛けたくなくて、香夜は戸惑いながらも口を開いた。
「い、いえ……。その、これは熱が上がったのではなくて……。殿方にそんな風に見つめられたことが無いので……その……」
恥ずかしいのです、と最後は消え入るように口にする。
すると燦人は黙り込んでしまった。
呆れられてしまったのだろうかと思いそろそろと彼の表情を伺い見た香夜は、そのまま息を止めることとなる。
その美しい顔には、困ったような、でもとても嬉しそうな笑みが浮かべられていたのだから。
しかも何故かその目には少し意地悪そうな色も浮かんでいる。
「そうか……参ったな」
形の良い唇が、確かな熱を込めて続きを口にした。
「そんなことを聞いては、付け入りたくなってしまうな」
「っ! っ? っ⁉」
この方は一体何を言っているのだろう。
(付け入るって何? え? どういう意味の言葉だっけ⁉)
もはや言葉の意味すら分からなくなってきた。
「……燦人様」
その様子を今まで黙って見ていた炯が、するりと入り込むように言葉を発する。
「このままでは本当に熱が上がってしまわれそうです。そろそろお暇いたしましょう」
「ん? ああ、そうだね」
炯の言葉に同意した燦人は、名残惜しそうに香夜を見ると「では、また明日様子を見に来るよ」と言い残し部屋を出て襖を閉じた。
姿が見えなくなったことでほっと息をつく香夜だったが、襖の向こうから僅かに声が聞こえて耳をそばだてる。
「炯、困った……」
燦人のものと思われる言葉に、やはり何か思うところがあったのではないかと心に壁を作る。
やはり自分が婚約者では困ることがあるのだろう。
覚悟を決めて言葉の続きを待っていると……。
「私の婚約者が思っていた以上に可愛すぎる」
「っ⁉」
作ったばかりの心の壁がぶち壊されるほどの衝撃的な言葉に、香夜はまた熱が上がってくるのを感じた。
あまりにも気恥ずかしくて、誰も見ていないのに布団を頭から被ってしまう。
「はぁ……良かったですね」
襖の向こうから、炯の呆れたような声が聞こえた。
***
ばんっと派手な音を立てて障子戸を開いた鈴華は、そのまま縁側から庭に下りた。
(全く! どういうつもりなのかしら)
何もかもが腹立たしくて、草履で土を踏み鳴らすように歩く。
宴で舞を披露した後、皆が自分に期待しているのが分かった。
鈴華自身も、自分こそが選ばれるだろうと思っていた。
初めて燦人を見た瞬間からその美しさに心を奪われた。
この美しい人の隣に立つのは自分が一番ふさわしいのではないか。
すぐに、そんな思いが頭の中に浮かんだ。
そして宴の席では、案の定燦人は舞を披露した誰をも選ばなかった。
その瞬間確信した。やはり彼が求めていたのは自分だったのだと。
父は子煩悩だから自分を手放したがらないが、日宮の次期当主の妻ならば名誉なことだと思ってくれるだろう。
跡取りの問題はあるかも知れないが、自分以外ならば誰がなっても同じだろう。
だから、選ばれるために舞を披露して燦人の下へ戻ったのに……。
ドンッ
鈴華は思い切り、大きな松の幹に拳を打ち付ける。
今思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返るほどに。
皆も期待する中、燦人の下へ戻り自分の舞はどうだったかと聞いた。
貴女こそ私の妻になる女だという言葉を期待して。
なのに、燦人の視線は自分ではなくよりにもよってあのみすぼらしい香夜に向かっていて……。
あろうことか自分を無視してあの娘の下へ行ってしまった。
(しかも、あんなみすぼらしくて貧相な香夜が燦人様の妻⁉ 有り得ないでしょう⁉)
それでもはじめ、周囲の反応は鈴華と同じものだったから良かった。
香夜が選ばれるなどあり得ない。あの娘を嫁に行かせるなど月鬼の一族の恥だ、と。
もしかしたら大人達が燦人を説得してくれるかもしれない。そうすれば、香夜を選んだのは間違いだったとあの方も認めるかもしれない。
そう思いながら大人達の話し合いを聞いていた。
だが、長である父は決めるのは若君なのだからと煮え切らない態度。
そうしているうちに母が声を上げた。
「よろしいでしょうか?」
母なら自分の味方をしてくれるだろう。
いつも香夜に厳しく当たっている人だ。日宮の次期当主の妻などあの娘には務まらないと一番分かっているはず。
そう思ったのに……。
「私達が何を言おうと決めるのは燦人様です。それに考えてもみてくださいな。あの娘を里から連れ出してくれるということですよ?」
その言葉に場が一時シン、と静かになる。
そうして誰かがポツリと口にした。
「……そうか。あの呪われた娘が里からいなくなるのか」
すると途端に話の流れが変わってしまう。
「穢れた娘をこの里に置いておかなくて済むということか」
「あのみすぼらしい髪色を見なくても済むのか」
などと、香夜が里から出ることを喜ぶような声が上がってくる。
その様子に鈴華が戸惑い焦りを感じていると、場をまとめる様に母が父に問うた。
「あなた、いかがでしょうか?」
「うむ」
こうなると、鈴華を外に出したくない父の言葉は決まっている。
「燦人どのが決めることだ、こちらが何を言っても無駄だろう。それにあの目障りで使えない娘を連れ出してくれるというなら願ったりではないか。この里から花嫁を出したという体裁も保てる。一石二鳥だろう」
そう言ってその言葉を里の方針として決定してしまった。
鈴華のようにまだ納得しきれていない者もいたが、長が決めてしまったのなら文句は言えない。
そして方針が決まってから数日。
今では納得しきれていなかった者達も、里で一番の美しさと力を持つ鈴華を手放さなくて済んだのだ。と喜ばしいことのように語っている。
悔しい、腹立たしい。
鈴華はまたドンッと幹を叩き、恨めしい思いを吐き出した。
「あんな子、嫁に出したところで突き返されるのが落ちよ」
そうだ。たとえ燦人が選んだとしても、日宮の家の者が認めるかはまた別の話だろう。
そう考え、心の平穏を保とうとしたときだった。
「ええ、あなたのおっしゃる通りです」
「っ⁉」
呟きに言葉が返ってくるとは思わなかった鈴華は驚き、声の主をすぐさま確認する。
少し離れた場所にいつの間にか佇んでいたのは、燦人達が乗ってきた自動車の運転手だった。
燦人の紹介では遠縁の者だと聞いたが、日宮の姓も名乗っていなかったため立場としては低いのだろうと思い特に名を覚えようともしていなかった。
三十路は超えていると思われる容姿。何だかんだ言っても鬼の一族であるからなのか、それなりに魅力的な顔立ちはしていた。
「変転も出来ないほど弱体化した月鬼の一族の血を取り入れようなどと……全くうちの御当主様は何を考えているのやら……」
鈴華の言葉に同意するような言だったので味方かと思いきや、続いた言葉は月鬼の一族全てを貶める様なものだった。
「……突然現れたかと思ったら、随分と失礼な物言いをなさるのね? 日宮家の縁者でも、遠縁ともなれば礼儀もなっていないのかしら」
失礼には失礼で返す。鈴華は冷笑も加えて運転手の男を見た。
それで僅かでも男が悔し気な表情を見せれば鈴華の気も幾分晴れただろうが、男は嘲りを少し隠しただけで「これは失礼した」と謝罪の言葉を口にするのみ。
「……本当に失礼だわ。私、そんな方と話すことなどありませんので」
面白くない鈴華は男の相手をすること自体が嫌になってすぐにこの場を去ることにした。
だが、男の方は鈴華に用があるらしく引き留められる。
「お待ちください。あなたとて、あの娘が日宮の嫁になるのは嫌なのでしょう?」
思わず、足を止めてしまった。
確かに、その点のみなら男と同じ思いと言えなくはない。
「あなたはこうは思いませんか? 選ばれるのが自分ではないのなら、いっそ誰も選ばれずにいてくれた方がいい、と……」
「……」
「あのような弱い娘が選ばれるくらいなら、月鬼の一族から花嫁を出さなくてもいいのではないか、と……」
正直、思っていた。
だから鈴華は、男を信用ならないと思いながらも話に聞き入ってしまう。
「そして私のように火鬼の一族のほとんどが、月鬼から嫁を取りたくないと思っている」
「……何が、言いたいのかしら?」
だから、男の要望を聞き出そうとしてしまった。
そんな鈴華に男は比較的優し気に微笑み、望みを口にする。
「一部とはいえ利害が一致しているのなら……手を組みませんか?」
それこそ、鬼と言われるに相応しい笑みを浮かべて。
***
また様子を見に来るという言葉の通り、燦人は次の日もその次の日も香夜の部屋を訪ねてきた。
「あの、燦人さま。こう毎日様子を見に来ずともちゃんと準備も進めておりますから……」
香夜は何故自分が選ばれたのだろうという疑問を解消出来ずにいながらも、養母の言う通り嫁入りのための準備を進めていた。
「そういう心配をして来ているわけではないよ? 貴女に会いたいから来ているんだ」
「あのっ、ですからそういうことを言われると……私、どうしていいか分からなく……」
燦人の甘く優しい様子は最早いつものことで、それに香夜が戸惑い気恥ずかしい思いをするのもいつものこととなっている。
いつも熱がぶり返してしまったのではないかと思うほどに顔が熱くなり、その熱のせいで赤くなった顔を見られたくなくて俯くと、そっと燦人の指が頬を掠める。
くすぐったくてつい顔を上げると、溶けてしまいそうなほどに甘い微笑みがあった。
「ああ、本当に可愛いな」
思わず零れ出たというような言葉に、香夜はまともに息も出来ぬほどになる。
(こっ、この方は私の息の根を止めるおつもりなのかしら?)
ずっと求めていたという言葉の通り、燦人は自分を必要としてくれているのだろう。
燦人の砂糖と蜂蜜を混ぜたかのような甘さに、たった数日でもそれが理解出来た。
だが、だからこそ謎は深まる。
一体自分の何が良くてそこまで求めてくれるのか。
これ以上絆されてしまう前に、その辺りをはっきりさせようと思った。
「あっ、あのっ! その……やはり疑問なのです。一体私のどこが良くて選んでくださったのか……。美しいわけでもないし、力だってないですし……」
「ずっと求めていたと言っただろう? それに、貴女に力はあるよ」
「え?」
前半の言葉は予測出来たもの。だが、後半は予測どころか思ってもいないことだった。
「今は閉ざしてしまっている様子だけれど、貴女には力がある。八年前に感じた力ある気配は、確かに貴女のものだ」
「え? え?」
理解出来ず戸惑う香夜に、燦人はゆっくり八年前のことを話してくれる。
遠くても感じた気配。燦人と当主しか感じ取れなかったが、確かに力があったという話。
一通り聞いて、それでも信じられないでいる香夜に燦人は重ねるように言葉を加えた。
「先程も言ったが、今は閉ざしているだけだ。開いて力が扱えるように私も手助けするから、どうか否定しないでくれ」
手を取り、優しく微笑まれる。
自分の手を包む燦人の手は温かく、香夜の心を少しずつ溶かしていった。
嘘を言っているとは思えない。例え嘘だったとしても、そんなことをして燦人に利があるとも思えない。
だが、それを信じるとなると……。
「でも、それが本当だとしたら……私はやはり両親を見捨てた穢れた娘ということに……っ」
ずっと否定し続け、でも心のどこかでその通りかもしれないと思っていた事実。
母が、自分だけは助けようと結界を張ってくれたのだと思った。
だが、母の力は子供だった自分の全身ですら守れるほどのものではなく、香夜に傷一つないなどということはあり得なかったのだ。
だからその点がずっと疑問だった。
それが、燦人の話を真実とすると辻褄が合う。聞くところによると、おそらく時期も同じ頃だ。
「私は、両親を守ろうともせず……自分だけっ……!」
言葉が詰まり、涙が溢れる。
どんなに理不尽な目に遭おうとも耐えてきた涙。両親のことを言われても、グッと耐えてきたはずだったのに。
「香夜……すまない、失礼するよ」
いたわし気な声で名を呼び、燦人はそう断りを入れると香夜を自分の胸に引き寄せた。
「っ⁉」
「自分を責めるな。十という齢で力を制御出来る者はいない。その頃の貴女には、自分を守るのが精一杯だったというだけだよ」
宥める様に背中を軽く叩きながら、燦人は優しく語り掛ける。
その優しさが、溶け始めている心にするりと入り込んできた。
「うっ……ひっく、ああぁ……」
優しさに甘えては駄目だ。
そう思うのに、涙は止まってくれなくて……。
これ以上心を許しては、後で傷つくことになるかもしれない。
そう思うのに、燦人の優しさに縋ってしまう。
これはもう手遅れなのかもしれない。
心に作った壁はまるで役に立たず、燦人という存在を受け入れてしまっている。
信じても良いのだろうかという迷いすらも、彼は甘い囁きと微笑みで溶かしてしまう。
いずれ傷つくようなことになったとしても、後はもう自業自得なのだと……。
そんな覚悟をするべきなのかもしれないと、香夜は泣きながら思ったのだった。