「——ねえ、何アレ?」


 不思議そうに窓の外を指差したのは琴音だった。秋のそよ風がカーテンを揺らすその向こう、校庭の上にある空にはうろこ雲が広がっていた。


「アレって何?」

「どこ?」

 次いで、美咲と亜里砂が窓の向こうに視線を泳がせる。私は一番最後、ゆっくりと振り返った。


「ほら、スカイツリーの少し左。の、上。なんか、まあるい光みたいなの」


 確かに、ある。日本一高い電波塔の上に、光がある。

 空は快晴で、今は昼休み。真昼の月のようにはっきり見える。

 ——ううん、違う。

 まるで空に白い穴が空いたかのように、そこには存在感がなかった。


「UFOかな」

「でも動いてなくない?」

「そだよね。……あれっ?」


 今度もまた琴音が声を上げる。つけまつげをぱちぱちと上下させ、彼女は首を傾げた。


「なんか、でっかくなってね?」


 キーンコーンカーンコーン、と鐘が鳴る。

 私はその光を再び振り返ることなく、真面目くさって数学の教科書とノートを机の上に並べ始めた。



 六限目の化学Ⅱが終わった後、白衣を着た教師が不意に叫んだ。


「おーい、化学係。いるかー?」


 数秒経って、私はようやく自分がその閑職についていることを思い出した。


「はい、私です」

「今度の実験に使うプリントを化学準備室まで取りに来てくれ。つっても、まだできてないから六時まで待ってくれ」


 ——は? という形に口を開いて、私はぽかんとした。

 私が答えないのをいいことに、教師は「じゃ、終わりー」と言った。起立して、礼をして。やがて担任がやってきて一日の終わりのHRが始まる。なんなのよそれ、と思う。六時まで何してりゃあいいのよ。

 HRが終わり、教室に弛緩した空気が漂う。私が仏頂面をやめて、一つ嘆息していると、後ろから声がかかった。


「ねーね、しーちゃん」


 甘ったるい声に私はややうんざりと肩越しに振り向く。そこには瀬野彩花がしまりのない顔で微笑んでいた。彩花は長い髪を両手で梳きながら、しなだれかかるような声で言った。


「今日、時間あるよね? アヤカの相談、ちょっと乗って欲しいんだけど……」


 邪険にまでして断る気概というものを、私は持ち合わせていなかった。何度目かになるその相談とやらに、今日も付き合うしかないのだろう。


「全然いいよ」


 気のない二つ返事で了承すると、彩花は手を叩いて喜んだ。



 午後五時四十五分。誰もいなくなった教室に、強い西日が差し込んでいる。片隅の席に二つ、座っている人影が長く伸びていた。


「でね、カレピったら、アヤカのために映画のブルーレイ買っててくれてね。アヤカが観たいって言ってたの覚えてたらしくて『ほら、アヤカのための再放送だよ』なんて言うの。もう、ちょー嬉しくて」


 話を聞いてないでもない私は、一拍遅れてその彼氏のキザったらしい台詞にゾクリと来た。けど、そんなことはおくびにも出さず、良かったね、と平坦な声で相づちを打った。

 彩花は花咲くように笑顔になる。が、一転、眉を曇らせた。


「でもね、この前、ケータイみたら、例のマリって女とまたやりとりしてて。今度、駅前のスタバで会うみたい。しかも『カノジョいるの?』って聞かれて『いないよ』って答えてやがんの」


 彩花の彼氏には交流のある女が何人かいる。彩花はそれをケータイを覗き見て、知ってしまっている。曰く、彼氏がシャワーを浴びている間にたまたま見えたと言っていたけど、果たして本当かどうか。


「それは酷いね」

「でもね、いいところもあるんだから。この前も生理中だったから、やめてくれたし。そーゆー気遣いができる人、いいでしょ?」


 彩花の目が今度は猛禽類のように光って、下から覗き込むように私を探る。急に滑り込んできた生々しい話に、私はあーとか、まーとか言って言葉を濁した。

 正直言って、私には分からないのだ。

 セックスどころか恋もしたことない私には、何も分からない。

 人を好きになるってことが、本当に理解できないのだ。

 そんなに悩み、苦しみ、消耗するくらいなら。

 人を好きにならなくたっていいとすら思ってしまう。

 彩花のいつもは丸っこい目が三日月のような形に細められる。

 胸の内を見透かされているような気がして、私はとっさに目を伏せた。

 腕時計の文字盤が目に入る。私は長針と短針が指し示す時刻を、天の助けだと思った。


「ごめん、もうすぐ六時だから。化学準備室、行ってくるね」

「分かったぁ。しーちゃん、相談乗ってくれてありがとぉ」


 猫なで声で彩花がそういうのに、私は小さく笑みを返した。



 長い廊下はしんと静まり返っていた。夕日が作り出す影を踏むようにして私は突き当たりの化学室に入った。

 ——しゃ、しゃ、と何かを削る音が響いている。

 私は肩を跳ねさせ、その音がする方を見た。

 黒緑色の長い机が並び、それぞれに椅子が六脚ずつと水道のついた洗面台が備え付けられている。部屋の一番端に、人影が見えた。

 誰もいないことをいいことに、堂々と机に腰掛け、椅子に足を置いているのは——男子だった。俯いているせいで黒い髪が目元を隠し、またかけてる眼鏡が光を弾いているのでその表情はあまり分からない。背は私より少し高いくらいだろうか。手元にはきらりと光る刃物があり、左手に持っている何か木材のようなものを淡々と削っているのだった。

 誰かがいるとは思わず、私はぽかんとその場に立ち尽くした。その男子は、作業が一段落したらしく、ようやくこちらを向いた。

「——なんだ?」

 低く、耳に心地よい声が印象的だった。私は目を瞬かせたまま、はっとして息を呑む。


「鷺沼……?」


 そうだ。鷺沼。クラスメートの鷺沼だった。

 鷺沼は眼鏡の奥からじっとこちらを見据えると、ああ、と感嘆の声と共に言う。


「誰かと思えば、市井か」


 そうして納得したように一つ頷くと、鷺沼は作業を再開させる。


「プリント、まだもう少しかかるぞ。うんうん唸ってたからな、先生」

「何やってんのよ、あの人……」

「五時まで会議だったんだと。許してやれ」


 軽い口調でそう言う鷺沼に、私は毒気を抜かれて、仕方なく椅子を引いて腰掛けた。

 長い机を一つ挟んで鷺沼の姿がある。

 鷺沼の手指は意外に長く、細くて繊細そうなくせに、男子らしく節くれ立ったところもある。その指が丁寧に丁寧にカッターを動かしている。削り滓は薄く、西日を透かしてきらきらと輝いていた。なんだろう。とても不思議な光景だった。なんだかずっと見ていたくなるような——

 自分のあらぬ思考を遮るように、私は鷺沼に話しかけた。


「ねえ。何、やってんの?」


 鷺沼は手を止めて、削っていたものを掲げた。T字型のそれをこちらにかざし、いたずらっぽく笑った。


「竹とんぼ」


 その笑い方がまるで幼い男の子のように輝いているのに、私は矢継ぎ早に言葉を返した。


「何それ、わけわかんない」

「部活動だよ、科学部の」

「え、あんた部活してたの?」

「まぁ、ほとんど帰宅部だけどな。部員一人だし」

「……てゆーかそれ、物理じゃない? どっちかっていうと」

「化け学じゃない、科学だ」


 鷺沼はにやりと笑ってまた竹とんぼ作りを再開する。


「俺が代わるよ」

「……へっ?」

「化学係。最初からそうすれば良かったな」


 すまなさそうに鷺沼がそう言うので、私は何故か慌てて手を振った。


「いいよ、別に。てか、ここまで待ったし」

「あんまり遅くなると、帰り道が危ないぞ」

「あはは、心配してくれんの」

「当たり前だろ」


 何を況んや、とばかりに鷺沼の眉が顰められる。この前、変質者の注意喚起がされてたぞと続ける鷺沼の声が右から左に素通りした。

 私は椅子を蹴るように立ち上がった。鞄を持って、さっと踵を返す。


「……じゃあ、頼んじゃっていい?」

「そうしろ」

 軽く言って、鷺沼はまた作業を再開させたようだった。しゃ、しゃ、しゃ。その音を背中で聞く。最初の一歩が踏み出せない。鞄を持つ手にじっとりと汗をかいてきた。私は小さく口を開き、けど何も言えずに閉じる。それを三回繰り返した後、


「やっぱり残る」


 と言って、椅子に座り直した。鷺沼は珍妙そうに私を見つめた。


「なんなんだ」

「だって、文句の一つもいいたいじゃない」

「……伝言なら聞いてやるぞ」

「自分でっ、直接っ、言いたいのっ」


 駄々っ子のように言うと、鷺沼はやれやれと言わんばかりに首を左右に振った。


「早く帰った方がいいと思うけどな」

「——じゃあ、あんたが送ってよ」

「は?」


 鷺沼はぽかんと口を開けた。いや、うん、いやいや、そう思ってるのは他ならぬ私自身だ。何、私。一体何を言い出してるの。そう混乱する頭をよそに、私の口は止まらない。


「責任取って、送ってよ」

「何の責任だ」

「監督責任。保護責任。男子の責任!」

「わけわからん」


 わ、私だって分かんないわよ! と、言いたくなるのを押さえ、私はようやく口を噤んだ。心の中は全面的に鷺沼に同意だ。

 本当に、わけわかんない……


「——まぁ、いいよ、それで市井の気が収まるんなら」


 私ははっとして顔を上げた。鷺沼は少しだけ可笑しそうに肩を揺らしてから、また竹とんぼ作りに戻った。

 そこからはあまり会話はなく、私はただただ鷺沼の手先を見ていた。思ったよりも退屈しない時間が過ぎていく。やがて日が落ちて辺りが暗くなり、やけに明るい月の光が降りる頃になって、化学準備室から「やっとできたー!」と先生が出てきたので、私は開口一番「遅い!」と怒鳴りつけてやった。




 校門を出る頃には、見慣れた住宅街が夜の闇に沈んでいた。静かな通学路を、私はいつもより足早に歩いている。隣の鷺沼は今日という日の最後の煌めきを確認するように、じっと空の向こうを眺めていた。

 沈黙は意外と心地よかった。何を話すでもなく私たちは帰路を消化していく。早足だったからだろうか、鷺沼との下校時間はあっという間に終わった。


「私、ここだから。……ありがと」


 小さく付け加えた私のお礼には答えず、鷺沼はふと空を仰いだ。


「あれ、なんだろうな」


 え? と返して、鷺沼の視線を辿る。

 そこにはスカイツリーとうすらぼんやりとした月と——

 そして、あの丸い光があった。

 私はそれを見て、しばし呆然と佇んだ。

 ……大きくなってる。

 確か五限目と六限目の間の休み時間に見た時は、昼間に見える月と同じぐらいだった。

 それが今は月の二倍ぐらいまでになっている。

 白くて、ただただ丸くて、そこにある光。

 その一種異様さに私は眉を顰めた。


「なんか不気味だね」

「まぁ、何かの天体なんだろう」

「そうなんだ」


 短いやりとりの後はやはり沈黙が落ちた。

 私は自宅の前で鷺沼と向き合っていることがなんだか急に恥ずかしくなり、さっと踵を返した。


「じゃ、また明日ね」


 もうすでに玄関に向かって歩いていた私の背中に声がかかる。


「あぁ、また明日」


 鷺沼の足音が遠ざかっていく。私は玄関のドアを開ける前にちらりと後ろを振り返った。鷺沼はすでに角を曲がっていたらしく、姿は見えなかった。はぁ、と短い溜息をついて、家の中に入る。


「あら、しぃちゃん、おかえり。遅かったのね」


 リビングでは、母がソファに座ってテレビを見ていた。夕方のワイドショーの最後と思しき画面に、装飾された文字がでかでかと躍っている。

『謎の丸い発光物体、世界各地で観測される』

 曰く、NASAやJAXAがあの光を観測しているが、どうも天体ではないらしい。今日だけで直径百メートルは大きくなっている。まだあの光が何なのかは判明していない——

 母があっ、そうだご飯ご飯、と慌ててソファから立ち上がった。私はしばらくワイドショーを見ていたが、あの光についてそれほど分かっていることがないためか、番組はさっさと次のバラエティーにその座を譲り渡していた。



 翌朝、外がやけに明るくて五時前に目覚めてしまった。カーテンの隙間から目映い日差しが差し込んでいる。何事かと窓を開けると、生まれたての太陽の何倍もの大きさであの光が空に輝いているのだった。

 二度寝を決め込むも、一時間そこらでまた目が覚めてしまい、仕方なく私は身支度を整えて、リビングへと向かった。

 ソファに座ってテレビをつける。朝のワイドショーはあの光の話題一色だった。天体や宇宙について詳しい専門家が多数招かれて、それぞれの見解を語っている。彼らの話を総合すると「何も分からない」だった。いい歳したおじさんたちが雁首そろえてそんなことを言っているのかと思うと滑稽だった。

 私は朝食を食べ、少し早く学校へ向かった。

 つまらない授業を聞いて、適当にノートを取って、休み時間には琴音達と喋って、たまに割り込んでくる彩花のノロケ話に付き合う。ふと教室の一番前の端っこを私は時折見やった。そこには鷺沼が座っていて、本人と同じく見た目が地味めの男子数人と何やら喋っていた。授業よりも友達の話よりも、私は正直、その席が気になって気になって仕方なかった。


「ね、今日スタバいかない?」


 放課後、美咲がそう誘ってくるのに、私は、あー……と困ったように言った。


「私、また、化学係なんだよね」

「え? また?」

「うん。昨日のプリントにミスがあったとかってさ、言われて」


 あくまでも不本意な口調でそう言うと、素直な美咲は、何それひどーい、と口を尖らせた。若干の罪悪感を抱きつつ、私は教室を出た。ちなみに一番端っこ前の席にはもう人影はなかった。何やってるんだろう、自問自答しながらも私は化学室へと向かった。

 昨日と違って、廊下は煌々と明るかった。その原因はいわずもがな、あの光だ。時折、廊下の窓から身を乗り出して、光を見つめている生徒がいる。私もちらっと見やったけれど、やっぱり今朝よりも大きくなっていた。

 化学室もまた昨日より明るかった。まぁ、光のせいというよりは時間が早いというのもある。もぬけの殻だったらどうしよう。そんな心配とは裏腹に、鷺沼は化学室の隅っこで今日も何かしているようだった。


「市井?」


 入ってきた私に少し驚いた様子で鷺沼が言う。私はどうしていいかわからず、入り口の前に突っ立っていた。どうしよう、なんで来たんだろう、と後悔の念がどっと押し寄せた。これじゃなんだかストーカーみたいだ。

 ふと私は昼休みに琴音からもらった飴がスカートのポケットに入っていることを思い出した。それを握りしめ、つかつかと歩み寄ると、鷺沼の目の前でぱっと手を開く。


「昨日のお礼」


 鷺沼はぱちぱちと目を瞬かせる。次の言葉が思い浮かばず、私はへの字の形に口を噤んでいた。


「もらっとく」

 鷺沼はそう言って飴を受け取った。

「お礼のお礼だ」


 続けて、昨日作っていたと思しき竹とんぼを渡してきた。
 小さい頃、一度だけ遊んだことのあるその懐かしい玩具をじっと見つめる。


「本当に飛ぶの?」

「試してみるか?」


 私は柄の部分を両手で挟んだ。右手をずらして、柄を思いっきり掌の間でこする。手と手が離れた瞬間、竹とんぼは化学室の中をふわりと飛んで、教卓の向こうに落ちた。


「なかなかの飛距離だな」


 鷺沼は満足げに言った後、飴の包装紙を開けて、中身を口へ放り込んだ。すっぱい、と鷺沼は口をすぼめた。その表情があまりにも渋いので、私は肩を揺らして笑ってしまった。


「謀ったな」

「ごめんごめん、梅味って忘れてたの」


 ころころと笑う私を、鷺沼はじっと見つめていたが、やがてふいっと顔を逸らしてしまう。え? 怒ってるの? ちょっと不安な気持ちでいると、鷺沼が口ごもるように言った。


「……じっくり食べるとなかなか美味い」


 なんとお気に召したらしい。私は安堵半分、面白さ半分でまた声を出して笑ってしまった。

 それから私と鷺沼はたわいもない話を繰り返した。楽しいのに穏やかな、不思議な時間だった。気がつけば下校時刻を報せるチャイムが鳴り響いていた。あの光のせいで、時間の感覚が失われていたのかもしれない。


「白夜みたいだな」


 まるで昼間のような窓の外を眺め、鷺沼がふとそう言った。白夜、沈まない夜。遠い異国の話であるはずのそれが日本で起きている。


「変なの」


 私は短く返した。楽しかったはずの時間に、何故か水を差すような気がして。


「明るいけど、今日も送るか」


 鷺沼は机から降り立ち、床に置いてあった鞄を拾い上げた。私は自分で声が弾んでいるのを自覚しながら言った。


「いいの? ありがと」

「——市井」

「ん、何?」


 歩き出していた私は呼ばれて肩越しに振り返った。鷺沼は奥歯に物が挟まったような口調で尋ねてきた。


「ええと、名前。なんていうんだ?」

「え、私? 詩歌だけど」

「へえ……いい名前だな」


 何気なくそんなことを言われて、私は思わず転びそうになった。制服のリボンの下にある心臓が急にうるさくなる。


「さ、鷺沼は?」

「肇。筆、みたいな字の」


 鷺沼が言うその漢字は、残念ながら私の辞書には載っていなかった。だから、その響きだけが私の頭に残る。はじめ。どういう意味だろう。やっぱりはじめてとかそういうことなんだろうか。はじめての——


「あっ、あのさ」

 連れ立って化学室を出る。私は声が上擦るのを隠せなかった。

「……また、来てもいい?」

「なんだ入部希望か?」

「そ、そう。入部希望」


 慌てる私の様子がおかしかったのだろうか、鷺沼は例のにやりとした笑みを浮かべた。


「弱小部活だからな、大歓迎だ」


 私はほっと胸を撫で下ろす。

 また、あの時間を過ごせる。きっと明日も、明後日も。

 そんな期待だけが私の心を占めていた。




 事態が急変したのはやっぱりあの時からだろう。

 スカイツリーが光に食われた。

 先端をごっそりと、削り取られたのだ。

 それが世界中を一気に混乱に陥れた。

 まるで留まるところを知らない膨張する光は、空を浸食し、やがて人の作り出した背の高い建造物という建造物を浸食していく。

 この世に夜は訪れない。あの光がある限り。

 夜の十時だというのに、真っ昼間みたいな景色の中、私は家族と一緒に避難所である公民館を目指していた。近くのマンションは十階部分中四階までが食われていて、光が地面に到達するのも時間の問題だった。

 いつもの通学路では人が葬列のように粛々と歩いている。学校も会社も——社会というものがすでに機能していない。

 薄情だけれど、私の頭を埋め尽くすのは、家族のことでも友人のことでもなかった。

 鷺沼。

 三日も前から会えていない。

 私は鞄の中にあった竹とんぼを取り出す。

 もしも、今日、世界が終わるんだとしたら。


「お母さん、ごめん」


 私は葬列から外れ、立ち止まった。


「どうしたの、しぃちゃん……?」


 母の声は不安に揺れている。もうすぐ自分が、みんなが、世界が終わるかも知れないという恐怖に。


「行きたいところがあるんだ、だからごめん」


 短くそう告げて、私は走り出した。避難所と反対方向に去って行く私の背に「しぃちゃん!」と悲鳴じみた母の声が追いかけてくる。私はそれを振り切るようにただ足を動かした。

 角を曲がり、坂を上って、学校への一本道へ。校舎にもまた光が届きそうになっている。三階は——化学室はまだ無事だ。私はがむしゃらになってまた走りだした。昇降口を抜けて、土足のまま階段を駆け上がる。上がる、ということはそれだけ光に近づいているということ。死に向かっているということ。そこに目的の人がいるかどうかも定かじゃないのに、それでもやっぱり私は——

 化学室の扉をがらっ、と勢いよく開く。

 そこに——

 果たして、鷺沼は、


「——市井」


 驚いたような声に、私はひゅっとか細く息をついた。

 鷺沼はいつもの場所、いつもの定位置に座っていた。行儀悪く机に腰掛け、椅子を足台にして。

 彼が背負っているのは膨大な光の奔流だ。

 化学室に並んだ窓は煌々と輝いている。

 私は走った。手を伸ばした。鷺沼が机から降りて、床に立つ。広げられた腕の中にそのまま飛び込んで、首に腕をからめる。

 ゆっくりとした瞬きが、


「鷺沼」


 唇が、触れ——



 そして、全ては光に包まれた。