そう言うと彼は口の中で何かをつぶやき、唇に手のひらを添えて何かを吹く仕草を見せる。

 瞬間。
 吐息が宵闇に淡くぼぉっと光る。
 光はまるで桜吹雪のようにひらひらとゆらめいて飛んでいき、石段の麓へと消えていった。

「あ……」

 私は呆然として、その光を見送っていた。
 まるで動画アプリで編集したような光景だった。

「今のは……」
「帰ってもらったよ。1時間くらいは、お父さんは遥花のこと忘れてるから。その間に泣き止んで、しれっとした顔で家に帰りな」
「帰ってもらった、って……」
「俺の今の神通力じゃ、これが限界。まあ祀られない土地神にしちゃあ頑張った方だよ」

 神通力? 土地神?
 彼の説明を聞いたことで、私はますます混乱してしまった。気づけば涙は引っ込んでいる。

「あの……」
「ん?」

 色々考えた末に、私はようやく一言、ありきたりな質問を彼へと投げかけた。
 
「あなたは、一体……」
「神様」
「……かみさま?」

 黒髪の彼は、復唱した私に「そう」と頷いた。

「この山から、桜ノ端市一帯(このとち)に住む人々を見守ってきた、いわゆる土地神様ってやつかな」
「お名前は?」
「色々あるけど、とりあえず『神様』でいいよ」

 自らを土地神と名乗る彼を、あらためて上から下まで眺めてみる。

 20歳前後だろうか。ちょっとかっこいい友達のお兄さんとか、雑誌のちょっとしたモデルさんとか、そういった所で見かけたことがあるような人。神様なんかにはまず見えない。
 けれど。こんな山の中の草ぼうぼうの廃墟にいるのに、底の白いスニーカーは汚れていない。

「神様……」

 些細なことだけど気づいた時、私はぞくりと背筋が震えるのを感じた。
 神様は私を見て言った。

「しばらくの間、一人になりたかったら来てもいいよ。子どもはどうしても、誰にも見られない泣き場所ってないしね。ただし来るなら昼間にして」

 昼間の方が桜も綺麗だよ。
 なんて暢気なことまで教えてくれる。

「またね。バイバイ」
「は、はい……ありがとうございました」
「はは、畏まらなくていいよ。桜ノ端の人間にとって、俺は親であり、兄貴みたいなものなんだしさ」

 よくわからないことを、この人は言う。
 私は狐につままれたような気持ちで一礼して石段を降りていく。

 途中で振り返ってみる。
 彼は姿を消すこともなく、あっという間に暗くなる宵闇にシャツの白を浮かびあがらせながら、
 「ほら、早く帰りな」

 なんて言いながら手を振ってくれる。

「神様って、何? ……土地神様ってなんなの? ここ、天神社だったはずじゃ……?」

 訳がわからない。
 けれど私はありがたく神様の言葉に甘えて、たびたび彼の元に通うようになった。