年明けすぐに、志望校の合格通知が届いた。
平日の昼間、父も仕事でたった一人で受け取った春の便りだった。
私はたまらず神社の石段を駆け上がり、境内に立つ神様に会いに行った。
「合格したよ、神様!」
「そうか。おめでとう」
合格通知を掲げる私に、神様は相変わらずの優しい眼差しで迎えてくれた。
午後の陽光を浴びた神様は、いつもよりもずっと綺麗で。
「……あ………」
「遥花?」
「あ、ううん……なんでも、ない」
境内の草木はすっかり枯れ果てていて、神様はその中にぽつんと佇んでいた。
ひとりぼっちの姿がいつもよりずっと淋しく見えて、言葉を失っていたのだ。
私は気を取り直して、神様に向かって深く頭を下げた。
「神様ありがとうございます。私は晴れて大学生になれました。これも神様の力のおかげです」
「俺は何もしてねえよ。努力したお前が掴んだ結果だろ」
「ううん。神様が見守ってくれてるって思えたから、一緒じゃないときでも頑張れたの」
私はきっぱり言い切った。
一人黙々と勉強をする日々も。面接の前の不安な夜も。
全部の不安は、裏山の方角を見て神様のことを思い出すことで乗り切ってきた。
この人に絶対、嬉しい報告をしてみせるんだって決意して。
「神様って、祈ることで『きっと大丈夫』って勇気をくれる存在のことだと思うんだ。だから色んな意味で、神様は私の《《神様》》だよ」
「……そうか。勇気をくれるのが、神様……か」
そこでお互い言葉が途切れた。
沈黙した瞬間、私は途端に意識してしまって次の言葉が出せなくなる。
神様に告白すると決めていた。絶対、私の気持ちを言葉にしたいと思ってた。
ーーでも、いざとなったら難しい。
「そ、そういえば、神社綺麗になってきたね」
私は誤魔化すように、境内を見回して言葉にする。実際、年末ごろから急に神社は綺麗になり始めていた。ほぼ廃材の塊のようになっていた本殿は取り壊され、あちこち枯れ草だらけだったも、見事に刈り取られている。
不法投棄のゴミは今では空き缶一つ見かけないし、小さめの重機もいくつか見かけるようになった。
ーーそうか。妙に整然と片付けられていたから、神様が寂しそうに見えたんだ。
私が一人納得していると、神様が景色に目を向けながら返事した。
「そりゃあキレイにもなるさ。ここ、春から新しい神社が建つからな」
「本当!?」
「ああ」
「よかったね。また賑やかになるだろうね」
「……ああ」
新しくなるというのに、神様はちっとも嬉しそうじゃない。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、じっと遠くを見つめている。
「神社が新しくなって、嬉しくないの? 神様もこれから参拝客が増えて、神通力ももっと強くなるんじゃ」
「馬鹿。誰が土地の名を失う神様を祀るかよ」
「………え?」
北風が吹く。神様のサラサラの黒髪が靡く。
綺麗な顔を風にさらしながら、神様は自嘲する様に目を眇めて笑った。
「俺は『桜ノ端命』。祀る人間もいない、祠すらないまつろわぬ神だ。桜ノ端の地名だけが、俺を神としてこの地に留めてくれていた。己の名前が消える時、俺も消える」
「待って。……嘘でしょ……そんな聞いてない、よ」
「言ってなかったからな」
「どうして」
「言ってどうする」
吹き荒ぶ木枯らしが、落ち葉を舞い散らせ、神様のジャンパーの裾や髪を揺らす。私は合格の喜びも寒さも忘れて立ちすくんでいた。
神様が教えてくれなくとも。
私がほんのちょっと考えれば、わかることだったんだ。
桜ノ端を守る神様が、桜ノ端の地名を失って、大丈夫でいられるはずもない。
だって神様はーーもう、私以外の誰も、詣でることのない神様なのだから。
「ここにはじきに新しい神が勧請される。多分子安安産の木花開耶姫だろうと、俺の神通力が告げている……あれだけ眩い女神が来るならば、俺は市町村合併の前に消えてしまうだろうな」
神様はまるで他人事のように、からっとした口調で私に告げる。
「って、おいおい」
神様は私に目を向けて、軽く目を瞠ってーー苦笑いをして近づいてきた。
親指で涙を拭って、私の頬を包み込む。温かい体温に、私は堰を切ったように泣き出した。
「ごめんなさい、神様。ごめんなさい……私、全然気づかなくて。いっぱい、神様に……神様を傷つけること、言ったと思う」
市町村合併に向けて地域がどんどん新しく変わっていくことを、私は喜ばしい変化として口にしてしまっていた。目の前の神様の気持ちを、全く考えていなかった。
「お前、ここで泣いてばっかりだな」
神様は私を抱きしめ、頭を撫でて言う。
「いいんだよ。俺は消えかかっていても神の端くれだ。人間が新しい未来に進んでいくことを、喜べないほど落ちぶれちゃいない。それに俺も悟られたくなかったんだ。最後のたった一人の参拝客の遥花との時間を、同情されるだけで終わらせたくなかった」
「神様……」
「遥花。俺は『消える哀れな神様』として遥花と大切な時間を過ごしたかったわけじゃない。最期まで、頼れる土地神様でいたかった。……格好つけさせてくれて、ありがとな」
神様は涙を拭ってくれる。
「神様、私。合格したら言いたかったことがあるの、」
その時。いかにも神様らしい態度を取り続けていた表情に、普通のお兄さんらしい感情が戻る。続きを言おうとした私に、言葉を被せて止めてきた。
「いうな。《《それ》》を言うなら、人間相手にしろ」
「嫌だ、言わせて。合格したら言いたいと思ってたの。私は神様が、」
「辞めろ! 頼むから。……言葉にしたら言霊になる。遥花の心に余計な爪痕を残してしまう」
耐えきれないという風に、神様は首を真横に振って背を向ける。
「神様!」
「帰れ。もう、俺に関わるな、」
「……っ……! いずれ死に別れるなら、お父さんはお母さん好きにならなきゃよかったの!?」
「っ……!」
一方的に立ち去ろうとした神様の背中が強張る。私は神様の背中に縋った。
ぴたりと寄り添っても、神様は抵抗しなかった。
「お父さんとお母さんが、幸せな時間を過ごしたのは間違いだったの? お父さんが、今でもお母さんがいない寂しさを堪えて頑張って生きてるのは、余計な爪痕、なの?」
「俺は……神だ。……人間とは、違う」
「違わない。神様が人間じゃなくても。いつか消えちゃうんだとしても、私の初恋は間違いなく神様だよ」
神様はゆっくりと体を離し、私に改めて向き合った。
先程までの頑なさは嘘のように、神様は私を真っ直ぐに見てくれた。
手のひらが、優しく私の手を包み込んでくれる。
木枯らしは今もまだ吹き荒んでいるけれど、ちっとも寒くなかった。
「神様。私は神様が好きです。初恋です。……付き合って欲しいです」
「そうか。……ったく、泣けるほど光栄だ」
神様は困ったような、諦めたような風に笑う。まるで普通のお兄さんのような笑顔だ。それでも神様は繋いだ手に力を込めてくれた。
「……彼女に、してくれますか?」
「俺でいいなら、喜んで」
神様は甘く抱き寄せて、私の頭を撫でてくれた。身体中が震える気がした。
でも、これだけじゃ足りない。だって今までだって抱きしめて頭を撫でてくれていたから。
「もっと、彼女扱いしてくれてるって証明して」
「何が欲しい?」
「…………キス、してほしい」
「いきなり大胆だな」
「駄目?」
「神様やってるといろんなお願いを聞くもんだけど、口付けを乞われたのは初めてだ」
その時、視界がふわりと暗くなる。目を細くした神様の顔が近づいてきてーー私は、目を閉じてキスを受け入れた。
神様のキスは神通力が籠っているのだろうか。触れるだけで、びりっとして、ふわっとする。
たっぷり押し付けられた後に、唇が離れていく。少し恐々と震えているようだった。
目をゆっくりと開くと、神様が至近距離で切なそうに笑っていた。
「……もしかして、キス、初めて?」
「ああ」
「ふふ、おかしい。神様、すっごく長生きなのに」
「しょうがないだろ。こういう機会、全ッ然なかったんだから」
なんだかおかしくなって、私たちはふわふわとした気持ちのまま額を寄せ合ってひとしきり笑った。
抱きしめあって、太陽を見上げながら何をするでもなく一緒にいて。
まるで一生分のキスを先取りするように、神様は私にたくさんキスをしてくれた。
けれど夕日の翳りは私たちの時間に終わりを告げる。父が帰る時間の前に、スーパーに行って、何か夕飯になるものを買わないといけない。
「じゃあ、帰るね」
名残惜しく神様に背伸びしてキスした私に、神様は神様らしい穏やかな眼差しを落とした。
「遥花。お前が覚えてくれている限り、俺はずっと、お前だけの神様だよ」
制服襟、リボンのあたりをトン、と小突かれる。私はそこに手を触れる。
息も白い2月の夕暮れなのに、神様と触れ合っていた体はまだぽかぽかしていた。
「独り占めできるんだね、神様を」
「……ああ」
私は神様に、できるだけ精一杯明るい笑顔を見せた。
ーー神様はいつか、私のここだけに住む神様になるのだ。
それから私は晴れの日は毎日、彼氏になった神様に会いに行った。
あと僅かで卒業する制服を纏って、お弁当を作って。お父さんに借りたタブレットで一緒に動画なんて見たりして。
「大学見学してきたよ。寮も今年からできるからピカピカだった!」
「動画まで撮ってきたのかよ」
「神様、桜ノ端の外は神通力で見られないんでしょ? 見て欲しかったの」
「うっま。遥花お前、料理上手かったんだな」
「へへ。お母さんがいる時から、一緒に台所に立つのが好きだったんだ。だから調理師になることも考えたんだけど、お母さんの家庭料理のクセを、できるだけ消したくなくて看護師志望に変えたんだ」
「そうか。台所に立つたびに、そこにお母さんがいるんだな」
「神様、本当に他の女の子と付き合ったことないの?」
「本当だって。あんまり言わせるなよ」
「本当に本当? ……別に、元カノに嫉妬したりしないよ?」
「どうしてそう思うんだよ」
「だって神様、綺麗だしかっこいいし、なんだかすごく女慣れしてそうだし。それに、……………、」
「……慣れてる男だったら、もっと上手くキスできると思うけど?」
私たちは本当に、ごく普通の恋人同士のように過ごした。
その間にもどんどん地域の至る所に新しい市の名前が書かれ、田んぼだらけだった道はあっという間に区画整理されて、真新しいアスファルトの道やマンションで作り替えられていった。
住み慣れた家からも少しずつ荷物が減っていき、2月末には生活必需品以外の荷物は全部、梱包するなり新しい住まいに送るなりで片付いた。
スッキリした棚の上に飾られた、お母さんの笑顔はどこかさっぱりして見えた。
「遥花、今日も友達に会いに行くのか?」
朝家を出ようとした時、休日の父に玄関先で呼び止められてドキッとする。今日も勿論、神様に会いに行くつもりだったから。
「えっと、あー、うん」
普通に遊びに行くと言えばいいのに、なんだか言葉を濁してしまう。彼氏がいることがバレちゃう。
内心どきどきする私に、父は意外な言葉をかけてくれた。
「なるべく友達とは会って、遊んでおきなさい。今、遥花にとっては……この桜ノ端で過ごしてきた人生の節目なのだから」
「お父さん……」
「ただし、夕飯には間に合うように早く帰ってきなさい。くれぐれも、悔いが残らないようにね」
「勿論。お父さんの夕飯を作るのだって大切な思い出の時間だから」
私は父に見送られて家を出る。
「お父さん、なんとなく、彼氏できてるの気付いてる気がするよね……」
けれどまさか、彼氏が裏山の神様で、しかももうすぐ消えてしまうなんてことまでは知らないだろう。
私は歩きながら、路地が以前よりずっと広くなったように感じた。
「あ……そっか。空き地が増えてるから」
近所の家も立退きの影響で、次々と空き地になっている。
去年の春にシチューの匂いがした家も、今は地域猫があくびをしてヘソ天で寝そべっている。
きっとこの光景も、今だけの景色で。ーー毎日毎日が、最後の瞬間に溢れているんだ。
3月になって梅が咲いて綻んで、桜がじわじわと、桜ノ端市を埋め尽くし始めた頃、ついに境内には重機が入り現実のデートは限界になった。
すると神様は、私の夢の中に顔を出すようになった。
夢の世界待つ神様はいつも、違う服を着て、違う時代の境内で私を迎えてくれた。
今日の神様は、長く伸ばした髪を結わえた、真っ白な狩衣姿だ。
「遥花」
「神様!」
名前を呼んでくれる腕の中に、思いっきり抱きしめられに行く。夢の中だから私の体は軽くて、神様と一緒に柔らかく宙に浮かぶ。
神様は私と手を繋ぎながら、ふわ、ふわ、と空へと舞い上がった。
「今日はどの時代の話をしてくれるの?」
「俺が覚えている限り一番古い時代に行こうか。桜ノ端が河口の町で、細く削れた細い土地だった時代」
「そんな時があったんだ」
「ああ。……目を閉じて、体を委ねて」
夢の世界がぐにゃりと歪み、眼下にはどこまでも続く、何もない土地が広がった。教科書で見るような集落が、ぽつぽつと桜ノ端の片隅に集まっている。
「あの人たちが、神様を必要とした最初の人たちなんだね」
「ああ。……あの時代からずっと、俺はこの土地を見守ってきた」
神様は誇らしい顔をして、眼下に広がる世界を私に教えてくれた。
どの時代でも変わらず、彼が土地と人間たちを愛してくれていたことが伝わってくる。
「地名を誰かしら覚えていてくれる人がいる限り、土地神としての力は残ってたからな。祭りをされなくなっても、自分という神様がいることを忘れられても。地名が言霊になって、俺をここにとどめてくれていた」
そのとき。私たちが見下ろす景色が白く染まっていく。夢の終わりの時間だ。
「遥花」
神様は私の名前を呼ぶ。出会った時と同じ、飾り気のない白いロングTシャツとデニム姿へと戻っていた。
「どうしたの? いつもの姿になったりして……」
穏やかに微笑む彼に嫌な予感を覚え、私は神様の手をにぎる。
まだ市町村合併の4月には早い。まだ、一緒にいられるはず。
「明日、遥花の卒業式だよな?」
「うん。卒業証書、絶対持っていくからね。工事の人がいたってなんとかなるでしょ」
「お父さんのためにも、しっかり最後まで頑張ってこいよ」
神様は私を引き寄せ、ぎゅっと、腕の中に包み込んだ。
唇が触れる。夢の中なのに神様の匂いも、感触も、全部本当のように感じる。
「卒業おめでとう、遥花」
甘い桜の匂いがしてーー目覚まし時計より早く、私は眩い朝日に目を覚ました。
卒業式の、朝だった。
卒業式の朝。
父はスーツの胸ポケットに忍ばせた、母の写真をそっと見せてくれた。
「ちゃんと二人で見に行くよ。高校生活最期の時間を楽しんできなさい」
そう告げた父は、不意に目を細めて私の頭を撫でた。私を通して、思い出を見ているような遠い眼差しだった。
「お母さんに本当によく似たな、お前は」
「お父さん……」
「泣くのはまだ早いよ。遅刻しないうちに行きなさい。お父さんも間に合うように出るから」
「うん。……それじゃあ、行ってきます」
家の玄関を抜けると、眩しい太陽がすっかりまばらになった住宅街を白々と照らしている。良い天気だ。
友達と会っていつものようにはしゃぎながら登校して、少し浮き足立った教室に入った。
卒業式は始まってしまえば流れ作業のような時間だった。
今年度で「桜ノ端高校」の名前も改名されるということで、通常の卒業式より多く長く、来賓の言葉が続く。私たちの卒業式というよりも、卒業生も大人も巻き込んだ、桜ノ端高校という存在そのものへの別れの儀式みたいだ。
列席者の列で父を見つけてからは、私はただ体育館の窓を彩る満開の桜の花に目を向けていた。
お経のような言葉を聞き続ける体育館の中と反対に、よく晴れた空に咲く桜は綺麗だった。
「本当にもう終わっちゃうんだね、桜ノ端」
誰かのささやき声が聞こえる。またひそひそと、誰かの返事が聞こえた。
「終わるって言っても合併で名前が色々変わるだけじゃん。大したことないよ」
「確かに、合併したらどんどん人が増えそうだよね」
みんな、合併に対しては寂しさよりも賑やかになっていく興奮の方が大きいみたいだ。
私だってそうだった。桜ノ端という言葉がただの地名でしかなかった時は。
「それでは、卒業生による校歌斉唱」
一斉に、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がる。
聴き慣れたピアノの伴奏が始まり、私は体育館に掲げられた校歌の額へと目を向けた。
『西に山青く天満宮見守る 東に流れる端川の学舎』
歌詞に、不意に雷に打たれたような気持ちがした。
「……神様、」
私の呟きは、伴奏の音色に掻き消える。
校歌なんて一年に一度歌うか歌わないかだから、ほとんど気にしたことがなかった。だから気づかなかった。
ーー天満宮の見守る山。
神様は言っていた。あの廃神社は元々天満宮だったと。その時の歌詞がまだ、ここには残っているんだ。
校歌で歌われる世界は、長い年月神様が見守ってきた、景色そのものなんだ。
気づいてしまえば、歌詞の一つ一つがまるで神様を歌う言葉に聞こえる。
桜ノ端を貫く端川。広がる田園。
山と田んぼと川しかない、けれどそれが、あなたという土地神様が守ってきた土地そのもの。
「う……」
涙がぼろぼろと溢れていく。
卒業に感極まった周りのクラスメイトも泣いているので、私の涙は目立たない。
これから消える土地の思い出をみんなが語り、その土地の歌を歌う。
校歌に描かれている風景ーー田園も、裏山も、町の名前も彼が全て愛したものだ。春をもって全て消えていく。
まるで葬儀みたいだ。
私が泣いてもどう足掻いても、神様が消える運命は変わらない。
どんなに泣いても恋しくても、お母さんが死んだ運命が変わらないように。
けれど、私はお母さんを思って看護師を目指す。
私はずっと、初恋の相手を覚えて生きていく。
運命は変えられなくても、未来は変えられる。
お母さんの思い出も、神様の思い出もーー私はずっと、生きて行く限り忘れない。
式典が終わった後に落ち合った父も、目尻を赤くしていた。
父も、母のことを思い出していたのかもしれない。
「卒業おめでとう、遥花」
「お父さんも、『女子高生のお父さん』卒業おめでとう。いつもありがとう」
私たちの卒業式は終わった。
けれど私は、もう一人、会って伝えたい人がいる。
卒業式後に父に断りを入れて、私は弾かれるように神社へと駆け出した。
神社の花びらは季節よりなぜか早く散り始めたらしく、桜吹雪が舞う石段はまるで桜の絨毯を敷き詰められたようになっている。
「神様!」
私は声に出して神様を呼んで、制服で石段を駆け上がった。
右手には卒業証書。
石段が途切れた咲き、花吹雪が舞う境内はすでに真新しい本殿が完成していた。
あちこちに三角コーンが立っている。まだ覆いが剥がされていない御手水やピカピカの社務所が設られている。
真新しい全てに、桜の花びらが降り注いでいた。
「……神様、神様。 私卒業したよ。出てきて」
呼んでも出てこない。手足が震える。
「神様! 神様!」
まるで別の空間になってしまった、境内のあちこちを巡って、私は神様の名前を呼び続けた。
朝、夢の中で抱きしめてくれたのに。キスもしてくれたのに。
あんなに優しく、私の名前を呼んでくれたのに。
「神様、……うそ。神様……」
段差に足を取られ、私は境内で思い切り転ぶ。
堰を切ったように私は声をあげて泣いた。
太陽の熱で温かくなった境内の土は、神様の胸の暖かさに似ていた。
ーーそれから、しばらくして。
ひとしきり泣いて泣き疲れて、私は緩慢に体を起こした。
もしかしたら、神様は私に見えなくなっただけで、いるかもしれない。
私は明日にはこの町を出て、父の新居で寮生活の準備をすることになっている。
今日は、桜ノ端の住人として『卒業』する日でもあった。
「……そうだね。最後なのに、泣いてばっかりじゃ駄目だね」
私は立ち上がって無理矢理に笑顔を作る。
涙を拭いて、体にいっぱいについた花びらを払い落とし、いつも神様が座っていあたりの石段へと目を向けた。
幸いにも、石段はまだ古いガタガタのものが残っている。
私はいつも座っていた場所に腰を下ろし、そっと、制服のリボンを解いた。
真っ赤なリボンは、ごう、と吹き抜けた桜吹雪に攫われていく。
神様が、最期にリボンを受け取ってくれた気がした。
「……ありがとう」
返事がなくてまた泣きそうになるけれど、私は笑顔で神社を振り返った。
「神様、前に言ってくれたよね。志の中で、お母さんはずっと生き続けるって。覚えていて見守ることしかできないカミサマより、人はなんでもできる生き物なんだ、って……」
私は確かにあなたに恋をした。そして私は、これから前を向いて進んでいく。
「初恋をあげるね、神様。私……ずっと神様を覚えているから」
さよならなんて必要ない。これから神様は、ずっと私の中で生きている。
舞い散る桜吹雪に、髪を撫でられた気がした。
「まさか、最期がこんな終わり方になるなんてな」
ーー桜ノ端高校にて、卒業式が行われている時。
花吹雪の舞う神社にて、土地神は透き通っていく手のひらを見つめながら口にした。
彼を土地神たらしめていた要素は今、全てが失われようとしていた。
もぬけの空だった神社には、新たに強力な神が勧請され、土地神の存在は浄化される。
地名として人間に呼び親しまれていた言霊の力も、市町村合併により失われる。
そして。
最後に自分に頼ってくれていた人間が、桜ノ端の土地神から卒業する。
土地神はずっと遥花に隠していたた。土地神の存在を認める人間が土地を離れて消えてしまうことが、土地神にとって致命的だということを。
「好きな女のおかげで生きながらえて、好きな女が去って消える、か……」
彼女が高校卒業を迎えて市外に旅立つその朝まで、神として生きながらえられたのは奇跡だった。そもそも一年前、遥花に「助けて」と請われた時は、ほとんど消えかかっていたのだから。
誰かの「神でありたい」と願う気持ちが、これほどの力を与えてくれるとは知らなかった。
「それだけ、俺は誰かに必要とされたかったんだろうな」
好きな女が「卒業」すると同時に消えるというのは、どれだけ幸福なことだろうか。
「遥花、」
土地神はひとり、高校の方角を見つめて目を閉じる。
遥花の涙声まじりの歌声が、土地神の耳に届いてくる。
「俺は……最後まで、お前の神様でいられたかな」
彼女の涙まじりの歌声は、今まで聴いたどんな祝詞よりも耳に馴染んだ。
頭の先から爪先まで、愛した娘の言葉で紡がれながら逝くというのは、土地神としては至上の幸福だった。
「さよなら、遥花」
遥花に呼ばれるまま、俺は消えたい。
さよなら、俺を最後まで神様にしてくれた大切な人。
そして消える最後の刹那。土地神は不意に、遥花の言葉を思い出す。
『神様って、祈ることで「きっと大丈夫」って勇気をくれる存在のことだと思うんだ。だから色んな意味で、神様は私の《《神様》》だよ』
ーー祈ることで勇気をくれる存在。
土地神は思う。自分が春までは消えずにいられると、自然に思い続けることができたのは遥花という存在がいたからこそだった。
次の春までは、消えないと信じ続けることができた。
「はは、そうか。……それなら遥花は、俺の神様でもあったんだ」
声に出して土地神は笑う。その声はひどく幸福な色をしていた。
「俺の初恋をあげるよ、神様」
未来に向けて、俺の初恋を連れていけ。
最期まで俺を俺であり続けさせてくれた、たった一人の、俺の恋人。
呟きは陽の光に溶け、季節外れの桜吹雪が、誰もいない境内に舞い散った。
桜ノ端市は4月1日より、1市2町が統合され、さきみ市へと生まれ変わった。
《《桜ノ端の土地神様》》はもういない。
さきみ市にはもう、さきみ市の名を持つ土地神は生まれなかった。