「来年の春、遥花(はるか)の高校卒業に合わせて、この家を引き払うことになったよ」

 夕飯の時、突然父が引っ越しの話を切り出した。

「……どうして引っ越しちゃうの。この家にはお母さんの思い出があるのに」
「来年、桜ノ端市は市町村合併するだろう? 合併に伴うまちづくり計画で、この辺り一体の立ち退きが決まったんだ」

 母は五年前に急死した。突然だった。
 そんな母の思い出がたくさん詰まった家。
 いつか離れる日が来るとしても、こんなに突然、焼き魚を食べながら何気ない話として打ち明けられるなんて思わなかった。

「退去したら、父さんは空き家にしていた隣町の実家に住むつもりだ」
「私も、そこに住むことになるの?」
「そこでなんだが」

 父は言葉を切る。

「せっかくだ。思い切って、学生寮で暮らせる大学を志望してみるのはどうだ」
「……そんな……」
「遥花。お母さんの事が悲しいのはお父さんもわかる。けれど寂しさを引きずって夢を諦めるのは、」
「……嫌。ここを離れることなんて、いきなり考えられないよ」

 私は箸を置き、首を横に振る。

「お父さんは、お母さんのことが悲しくないの? もう、忘れちゃった?」
「そんなことはないさ、でも」
「聞きたくない!」

 父返事を聞くのが、怖い。
 私は立ち上がり、何も考えずに家を飛び出した。

 外に出れば黄昏時。どこかの家からシチューの美味しそうな匂いがして涙が溢れそうになる。
 今は一人になりたい。
 泣き顔を父に見られたくない。

 人の気配から逃げるように住宅地を抜け、裏山の神社の石段を駆け上がった。
 神社とは言っても、管理する神職もいない廃墟だ。死んだおばあちゃんが昔、

「あそこはもぬけのからだからね。お参りしても神様はいないんだよ」

 と話していた覚えがある。
 そんな神社は草も木も伸び放題、歪んだ石段にグロテスクな大きさの蜘蛛がいくつも巣を張り巡らせていた。
 街灯なんてない暗い参道の片隅には、不法投棄のテレビや自転車がボロボロに錆びてあちこちに転がっている。

「はあ、はあ、はあ……」

 息を切らして最上段まで駆け上がれば、開けた場所に出る。ボロボロの本殿と破れた狛犬。ここが境内らしい。
 不気味だけどここなら誰もいない。一人で泣ける。
 そう思った瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
 よろけながら石段に座って顔を多い、私は声を我慢せずに泣いた。

「お母さん……」

 ーー五年前の春に母が死んだ。
 春の桜が咲き綻ぶ春、寒暖差の厳しい朝のことだった。