夜、八時くらい。
 ちょうど夕飯を食べ終わって「ごちそうさま」と手を合わせた時、玄関先で物音がした。

 その正体が何なのかは、すぐにわかる。


(ヒロト!! 今日は帰ってくるの早い!!)


 走って玄関へ向かえば、そこには案の定ヒロトがいて。

 靴を脱ぎながら、


「ただいま、ちょび」


 そう言って、彼はいつものように優しく微笑む。


(なんだか、懐かしい)


 ずっと昔にもこうして、帰ってきたヒロトを出迎えたことがあるような気がする。


(あっ!)


 ふと、お昼に見たドラマを思い出し、


「お、かえり、なさい、あなたっ!」


 ご飯にする?お風呂にする?
 それとも……わ・た・し?

 セリフの意味はあまりわからなかったけれど、頑張って言ってみた。

 出迎える時にはお決まりのセリフだって、テレビで言っていたから。


「…………」


 けれど、ヒロトはぽかんと口を開けたまま言葉を失っていて、なぜだろうかと首を傾げる。

 少ししてから、


「……ちょび……どこで覚えたの? そんなセリフ」


 とても悩ましげに、片手で眉間を揉みつつ呟くヒロト。


「?」


 テレビだよと答えれば、


「余計なことを覚えるんじゃありません」


 彼はそう言って私の肩を両手で掴みくるりと向きを変えると、ぐいぐい背中を押してリビングまでつれて行くのだった。



 ***



「ごちそうさまでした」


 箸を置き、手を合わせるヒロト。

 彼がご飯を食べている間に私はお風呂に入って、ぽかぽかした体にスウェットをかぶせテレビを見ていた。

 今見ているのは“げつく”ドラマ。
 月曜の九時に放送してるから、“げつく”って言うらしい。


「好きなんだよ! お前のことが!」


 テレビの中では男の人が女の人を抱きしめて、感動的な『愛の告白』をしている最中……だったのに、画面が暗転すると場所が変わり、急に暗い室内を映し始めた。


「……?」


 ベッドの上で、さっきの二人が裸になっている。


(……? どういうことだろう? なにしてるのかな? )


 どうなっているのか状況がわからなくて、食い入るように画面を見つめれば、


「んん……っ! ゴホンッ!」
(うるさい……)


 ヒロトはなぜかわざとらしい咳払いをして、チャンネルを変えてしまった。


「あっ!」


 なんで変えるの!?見てたのに!!

 ソファーに座っているヒロトの足元に座り、抗議の眼差しを向ける。
 すると、彼は赤くなった顔をふいとそらした。


「ひろ、とっ!」


 さっきのなあに?ドラマ見せて!

 ひしと足に抱きつけば、


「だーめ!」


 ヒロトはそう言って、私の額を指でぴんと弾く。


「……」


 納得のいかない私。
 ドラマを見せてくれない意地悪なヒロト。

 それじゃあ……と、彼の顔をまっすぐに見上げる。


「……すき、って……な、に?」


 好きにも色々な種類があるのだと私は知った。

 ライクと、ラブ。

 ライクは「お魚が好き」とかのことを言うらしい。
 でも、ラブの『好き』がまだよくわからない。

 ドラマではよく耳にするけれど、「愛してる」ってどういう意味?


「……」


 ヒロトはテレビのリモコンをわきに置いて、じっとこちらを見てくる。

 交わる目線。
 それから、大きな手が頬に優しく触れてきて、じわりと伝わる熱が少しずつ全身へ広がる。


(……あ、これ、)


 ヒロトのこれは、キスをする合図。


「……」
「……っ、」


 ちゅっと、小さな音を立てて唇が触れた。

 今度は両手で私の頬を包み、ぐいと顔を持ち上げる。


「……好きっていうのはね、ちょび」


 息がかかるほど顔が近くて、唇が再び重なると、隙間から熱が入り込んできた。


(……っ、これ、)


 前に一度だけされた、へんになるキス。

 頭がぼーっとして、顔もあつくて、心臓は壊れたみたいに大きく脈打って。
 恥ずかしいけど……嬉しくなるキス。


(どうしてなの? ヒロト)


 理由を聞きたいのに。
 一回唇が離れてもまたすぐに塞いでくるから、息継ぎをするので精一杯。

 視界がくらくらしそうになった頃、やっとヒロトは口を離した。


「……『好き』っていうのはね、ちょび……こういうことだよ」
(こういうこと、って……? キスをすること……?)


 ヒロトの長い指が私の前髪をそっとかき分け、額に口づけを落としてくる。


「俺は……」


 ためらうように一度言葉を飲み込んだけれど、少しの間を置いてヒロトは再び口を開いた。


「俺は……ちょびのことが、好きだよ」
「!!」


 好き……?ヒロトが、私を?
 好きだと、キスをするの?


「これからも……ずっと、側にいてほしい」


 私も、ヒロトとずっと一緒にいたいよ。


「なんだか……前にも、ちょびと会ったことあるような気がする。不思議だよな」
(私もだよ、ヒロト)
「……ちょび、好きだよ」


 側にいてほしいって思うことが、好きっていう気持ちなの?

 それじゃあ、


「ひろとっ、」
「ん?」
「わたし、もっ」


 私も、ヒロトのことを好きになっていい?
 ずっと、側にいてもいい?

 そう聞くと、ヒロトは頬を朱に染めて小さく笑った。


「なに言ってるの。いいに決まってる……当たり前でしょ」


 愛しそうに目を細め、片手で私の髪をすくヒロト。


(本当に? 好きになってもいいの?)


 嬉しくて嬉しくて、思わず立ち上がりヒロトに抱きついた。

 彼は一瞬驚いたような声を出したけれど、すぐに私の背中へ腕を回し抱きしめ返す。


「ひろと、」


 好き、好き。
 私ね、ヒロトが好き。

 ぽんぽんと背中を優しく叩き、彼は囁くように言葉をこぼした。


「よしよし……ちょびはもう、野良じゃないよ」
「――っ!?」


 ――……とてつもない、既視感。……ううん、違う。


(……前にも、同じことを言われた)


 どくりと、心臓がひときわ大きく脈打った。


(何か、)


 何かを、思い出しそう。
 とても大切な『何か』を、忘れている。


(私は、)



 ***



「――はもう、野良じゃないよ」


 これは、


「――、綺麗な毛並みだね」


 この記憶は、


「ごめん……ごめんな、ちょび。ごめん……」
(あやまらないで?)


 お願い、泣かないで?

 きっと、すぐに会いに行くから。
 そうしたら、今度はずっとあなたの側にいるから。

 だからどうか、泣かないで。笑って見せて?


(――……ちひろ、)



 ***



「……ち、ひろ……」
「!?」


 私がそう呼ぶと、ヒロトは驚いたように目を大きく見開いた。

 ああ……そうだ。私は、


「ちょび、何で……何で、俺が子供の時に呼ばれてたあだ名、知ってるの……?」
「わ、たし……わた、しっ」


 ――……全部、思い出した。