私は結局、高橋さんの言った通りの人間だ。
特別じゃないといいながら、羽柴先輩に特別扱いして貰えていることにどこか安堵している。
そのくらいは、許してもらえると、きっと心のどこかで思っていた。だって私には、告白する権利が、ないから。
それを、正面から言われただけ。
傷つく権利だってないのだ。だって、私は――。優越感に浸ることはなかったけれど、特別感には酔っていた。
一人、どうにか納得いく答えを、一時的に家に帰るまでの間だけでも泣かないでいられるだけの理由を考えた。午後の半分もあるというのに、鼻の奥が、ツンと痛む。
お昼休憩の鐘はさっき、高橋さんがここを出て行く前に鳴った。廊下も食堂へ移動する社員の気配がある。間違っても資料室に用事のある人はいないだろうと油断していた。
資料室のドアが開く。少し奥まった位置に立っていた私は、どうやり過ごすか、もし誰もいないと思われて鍵を掛けられたらどうしようかと少し焦った。
「宇佐見……?」
声を聞いて、どうして、と泣きそうになる。今一番会いたくない人だ。泣きそうなのに、苦しいのに、それでも、ここに来た人が羽柴先輩で良かったと思うなんて。
棚の間を覗く、足音がゆっくりと近づいてくる。壁側から五つある棚の一番奥になる間に居た私は、途中で振り返り戻ることもしない、はじめから私がここにいる事を知っていた様子の羽柴先輩に見つかった。
第一声を、とにかくここにいた言い訳を、とない頭で考える。ぐるぐると言葉が巡って、けれど口を開けばロクな言葉が出てこないような予感。むしろ、先輩を見ただけで気が抜けたような気もする。
羽柴先輩は、様子見をして辺りに目をやって言葉を選んだ。目を合わせないように、してくれたのだと分かった。
「高橋さんと、何、話した?」
「え、と……書類の、話を?」
高橋さんがさっきまでここにいたことは知っているのか。
高橋さんなら聞かれたら答えるのかもしれない、だって後ろめたいことは何もなかった。
本当にただ、話をしただけだったから、問題にもならない。
丁度手には紙束とファイルがある。仕事としても受け取っていたものだから丁度いい。
羽柴先輩の話をしていたなんて、絶対に言うものか。言ってなど、やらない。誰に対しての、意地なのか分からないが張る。
二人して口を閉じる。ドアの向こう、廊下を通り過ぎていく人の声が少しくぐもって聞こえるくらいだ。
少しして先輩は私が何も言わないと分かって「あ゛ーー」とそれでも抑え気味に呆れた様子で音を吐き出した。
左手が腰に、右手は頭に伸びてガシガシとかき乱しているあたり、面倒くさいことにでもぶち当たっているようだ。
そんな乱れたおぐしで午後からの仕事に戻るというのか!? とちょっとばかり混乱が私の中で巻き起こる。
さっきまでの高橋さんとのやりとりが一瞬でどこかへ飛んで行ってしまうほどに、いや、実際飛んではいないのだけれど、ちょっと隅に避けてしまうほどには、その光景は珍しくて新しかった。
羽柴先輩が困ることなんて、そうそうないからだ。先輩は一瞬の取り乱しをすぐに立て直した。
「宇佐見」
「は、はい!」
つかつかと私の前まで歩を進めた先輩が、呼びかけに思わずしゃんと伸びた私の背に手を回して引き寄せた。
先輩の胸に押し付けられる形で、私は先輩と、書類とファイルをサンドした。
それから何があったのか、私も記憶があいまいだ。
先輩がどうしてか、主語を抜いて謝った。高橋さんとは何もないから誤解だけはしないで欲しい、と言われた。
混乱に混乱を極めた私は瞼をぱちぱちするばかりで、こんなに近くで先輩をみたのも久しぶりだと感慨深くなって見上げていたら急に引っぺがされた。
べりべりっと音でもしそうな程、その手つきはどこか焦るようで、雑だった。
先輩、女性と思っていないかもしれませんが、一応、女性です。あと行動が一貫していないので気味が悪いです。人間、二人いて片方が感情的であれば一人はそれをみて冷静になれるとかなんとかいう、あれだろうか。
「悪い、調子に乗った」
「……」
「これ午後やる分だろ。これは俺が貰っとく。午後は別のヤツをデスクに置いとく」
そういわれて、私と先輩とでサンドしたファイルたちは先輩に強奪され、そうして資料室からも追い出されてしまった。その資料で何をするか、はいいのだろうか。
ぽやぽやしたまま、営業の部屋に戻って鞄を取り食堂へ向かう。
ぼーっとしたまま昼食と昼休みを終えて、加宮さんには心配されたまま午後の仕事に戻る。
デスクに資料とメモがあって、優先順位は下でいいということだ。
ちゃんと確認しようと羽柴先輩に聞きに行くも「今受け持っているものからで、その資料分は出来る所までで構わない」ということだった。
気まずさの表れなのか、こちらに見向きもしない。
珍しくぶっきらぼうな指示だと感じながら、午後二時を過ぎたあたりに高橋さんはもう一度だけ部署に顔を出して、本社へと帰って行った。
予告なく現れた台風は、こうして私の心を乱して消えてしまった。
先輩からの資料分も定時の内に終えることができた。渡しに行くと顔も上げずに「ありがとう」とだけ言われ「お疲れ」とそのまま押し出される流れになって退社する。
こうしてすんなりと、定時で帰路につけるわけだ。
着替え、会社を出て、電車に乗り、マンションまでの道をとぼとぼ歩く。
夕飯になにか作る気も起こらず、冷蔵庫にあった煮物の残りだけお腹にいれて、お風呂も入らずに、私は寝た。
ベッドに潜り込み布団をかぶり、そういえば、と思い出したことがある。
羽柴先輩は、今もあの香水を使ってくれているようだった。学生の頃に、私が背伸びをして渡した、唯一の高価なプレゼント。だからもちろん、私が贈ったものではなく羽柴先輩が新しく買い直したのか似たものを買ったのだろう。
それは、元カノさんたちからのお話で決めたものだったけど、卒業する先輩へのお祝いも兼ねていた。今思うと大変背伸びをしたプレゼントをしたものだ。
部屋の隅にこの瓶を置いてくれるだけでもいい、とおかしなことを言ったことは覚えているが、先輩は気に入ってくれたようでそれ以降時々つけてくれているようだった。
もう数年経っているし、さすがに新しく買っているのだろうけれど、同じものを選んで買ってくれているというのはちょっと、嬉しい気もする。今日まで何も感じていなかったけれど、気付いたら嬉しさがぶわぶわっと湧いてきた。
贈った人間が、忘れかけていた事だけれど。爽やかでいい香りだな、くらいしか今の今まで思えていなかったのは、なんという大変残念なことだろう。
その日の夢に、先輩が出て来たけれど、先輩はやっぱり笑って言うのだ。
「宇佐見はお姫様っていうよりは町娘かなあ」
そうですよね、と夢の中で私は返す。現実にはどう返したか、記憶は曖昧でもう覚えていない。先輩がその後言った言葉も、もう霞の向こうで、重要だったかそうでないのかも思い出せない。
だとしたら今日のあれは夢か、夢の中でみた夢なのか。
先輩が、私を、抱きしめるなんて。どんなに身勝手な幻覚だろう。
私に謝るのは筋違いも良い所だ、羽柴先輩が高橋さんと何かあったとしても、そうじゃなくて他の誰かと何かあったとしても、私には全く、ほんとうに、これっぽっちも。
本来は無関係なのだから。
特別じゃないといいながら、羽柴先輩に特別扱いして貰えていることにどこか安堵している。
そのくらいは、許してもらえると、きっと心のどこかで思っていた。だって私には、告白する権利が、ないから。
それを、正面から言われただけ。
傷つく権利だってないのだ。だって、私は――。優越感に浸ることはなかったけれど、特別感には酔っていた。
一人、どうにか納得いく答えを、一時的に家に帰るまでの間だけでも泣かないでいられるだけの理由を考えた。午後の半分もあるというのに、鼻の奥が、ツンと痛む。
お昼休憩の鐘はさっき、高橋さんがここを出て行く前に鳴った。廊下も食堂へ移動する社員の気配がある。間違っても資料室に用事のある人はいないだろうと油断していた。
資料室のドアが開く。少し奥まった位置に立っていた私は、どうやり過ごすか、もし誰もいないと思われて鍵を掛けられたらどうしようかと少し焦った。
「宇佐見……?」
声を聞いて、どうして、と泣きそうになる。今一番会いたくない人だ。泣きそうなのに、苦しいのに、それでも、ここに来た人が羽柴先輩で良かったと思うなんて。
棚の間を覗く、足音がゆっくりと近づいてくる。壁側から五つある棚の一番奥になる間に居た私は、途中で振り返り戻ることもしない、はじめから私がここにいる事を知っていた様子の羽柴先輩に見つかった。
第一声を、とにかくここにいた言い訳を、とない頭で考える。ぐるぐると言葉が巡って、けれど口を開けばロクな言葉が出てこないような予感。むしろ、先輩を見ただけで気が抜けたような気もする。
羽柴先輩は、様子見をして辺りに目をやって言葉を選んだ。目を合わせないように、してくれたのだと分かった。
「高橋さんと、何、話した?」
「え、と……書類の、話を?」
高橋さんがさっきまでここにいたことは知っているのか。
高橋さんなら聞かれたら答えるのかもしれない、だって後ろめたいことは何もなかった。
本当にただ、話をしただけだったから、問題にもならない。
丁度手には紙束とファイルがある。仕事としても受け取っていたものだから丁度いい。
羽柴先輩の話をしていたなんて、絶対に言うものか。言ってなど、やらない。誰に対しての、意地なのか分からないが張る。
二人して口を閉じる。ドアの向こう、廊下を通り過ぎていく人の声が少しくぐもって聞こえるくらいだ。
少しして先輩は私が何も言わないと分かって「あ゛ーー」とそれでも抑え気味に呆れた様子で音を吐き出した。
左手が腰に、右手は頭に伸びてガシガシとかき乱しているあたり、面倒くさいことにでもぶち当たっているようだ。
そんな乱れたおぐしで午後からの仕事に戻るというのか!? とちょっとばかり混乱が私の中で巻き起こる。
さっきまでの高橋さんとのやりとりが一瞬でどこかへ飛んで行ってしまうほどに、いや、実際飛んではいないのだけれど、ちょっと隅に避けてしまうほどには、その光景は珍しくて新しかった。
羽柴先輩が困ることなんて、そうそうないからだ。先輩は一瞬の取り乱しをすぐに立て直した。
「宇佐見」
「は、はい!」
つかつかと私の前まで歩を進めた先輩が、呼びかけに思わずしゃんと伸びた私の背に手を回して引き寄せた。
先輩の胸に押し付けられる形で、私は先輩と、書類とファイルをサンドした。
それから何があったのか、私も記憶があいまいだ。
先輩がどうしてか、主語を抜いて謝った。高橋さんとは何もないから誤解だけはしないで欲しい、と言われた。
混乱に混乱を極めた私は瞼をぱちぱちするばかりで、こんなに近くで先輩をみたのも久しぶりだと感慨深くなって見上げていたら急に引っぺがされた。
べりべりっと音でもしそうな程、その手つきはどこか焦るようで、雑だった。
先輩、女性と思っていないかもしれませんが、一応、女性です。あと行動が一貫していないので気味が悪いです。人間、二人いて片方が感情的であれば一人はそれをみて冷静になれるとかなんとかいう、あれだろうか。
「悪い、調子に乗った」
「……」
「これ午後やる分だろ。これは俺が貰っとく。午後は別のヤツをデスクに置いとく」
そういわれて、私と先輩とでサンドしたファイルたちは先輩に強奪され、そうして資料室からも追い出されてしまった。その資料で何をするか、はいいのだろうか。
ぽやぽやしたまま、営業の部屋に戻って鞄を取り食堂へ向かう。
ぼーっとしたまま昼食と昼休みを終えて、加宮さんには心配されたまま午後の仕事に戻る。
デスクに資料とメモがあって、優先順位は下でいいということだ。
ちゃんと確認しようと羽柴先輩に聞きに行くも「今受け持っているものからで、その資料分は出来る所までで構わない」ということだった。
気まずさの表れなのか、こちらに見向きもしない。
珍しくぶっきらぼうな指示だと感じながら、午後二時を過ぎたあたりに高橋さんはもう一度だけ部署に顔を出して、本社へと帰って行った。
予告なく現れた台風は、こうして私の心を乱して消えてしまった。
先輩からの資料分も定時の内に終えることができた。渡しに行くと顔も上げずに「ありがとう」とだけ言われ「お疲れ」とそのまま押し出される流れになって退社する。
こうしてすんなりと、定時で帰路につけるわけだ。
着替え、会社を出て、電車に乗り、マンションまでの道をとぼとぼ歩く。
夕飯になにか作る気も起こらず、冷蔵庫にあった煮物の残りだけお腹にいれて、お風呂も入らずに、私は寝た。
ベッドに潜り込み布団をかぶり、そういえば、と思い出したことがある。
羽柴先輩は、今もあの香水を使ってくれているようだった。学生の頃に、私が背伸びをして渡した、唯一の高価なプレゼント。だからもちろん、私が贈ったものではなく羽柴先輩が新しく買い直したのか似たものを買ったのだろう。
それは、元カノさんたちからのお話で決めたものだったけど、卒業する先輩へのお祝いも兼ねていた。今思うと大変背伸びをしたプレゼントをしたものだ。
部屋の隅にこの瓶を置いてくれるだけでもいい、とおかしなことを言ったことは覚えているが、先輩は気に入ってくれたようでそれ以降時々つけてくれているようだった。
もう数年経っているし、さすがに新しく買っているのだろうけれど、同じものを選んで買ってくれているというのはちょっと、嬉しい気もする。今日まで何も感じていなかったけれど、気付いたら嬉しさがぶわぶわっと湧いてきた。
贈った人間が、忘れかけていた事だけれど。爽やかでいい香りだな、くらいしか今の今まで思えていなかったのは、なんという大変残念なことだろう。
その日の夢に、先輩が出て来たけれど、先輩はやっぱり笑って言うのだ。
「宇佐見はお姫様っていうよりは町娘かなあ」
そうですよね、と夢の中で私は返す。現実にはどう返したか、記憶は曖昧でもう覚えていない。先輩がその後言った言葉も、もう霞の向こうで、重要だったかそうでないのかも思い出せない。
だとしたら今日のあれは夢か、夢の中でみた夢なのか。
先輩が、私を、抱きしめるなんて。どんなに身勝手な幻覚だろう。
私に謝るのは筋違いも良い所だ、羽柴先輩が高橋さんと何かあったとしても、そうじゃなくて他の誰かと何かあったとしても、私には全く、ほんとうに、これっぽっちも。
本来は無関係なのだから。