僕は受話器を置き、リクライニングチェアを倒して、眼球を引っ込めるかのように固く目を閉ざした。
 眠ろう、と僕は思った。そう口に出しさえした。せっかく邪魔な明かりを向こうから消してくれたのだ。眠らない手はないだろう。
 映画が観られないというのなら、代わりに夢を観ればいい。でもその日、僕は夢を見なかった。いや、「見なかった」のではない、「見たかもしれないが、覚えてはいなかった」のだ、正確に言えば。けどその二つの間にいったいどれだけの違いがあるだろう?
 クジャクだって森の中では踊っているのかもしれない。でもそれを見た者はいないのだ。

         §

 翌日、モニターの継続した死を確認した僕は、朝早くから運動階を訪れた。外界から隔絶され、日の光すら射し込まないこの監視塔においても、朝と夜の区別は確実に存在していた。
 早朝の体育館には、ランニングをする男が一人と、モップがけの清掃をしている男が一人いた。いや、あるいはそのモップがけも本人にとっては運動の一環なのかもしれなかった。
 どちらも初めて見る顔だ。そして二人とも、監視塔員としては比較的マシな体型をしている。
 僕はトレーニングルームへと向かった。そのエリアに入る前からランニングマシンの稼働音が聞こえていたのだけれど、そこにいたのはこれもやはり知らない中年男性だった。
 なにもランニングマシンを使わなくてもいいじゃないか、と僕は思った。体育館でランニングをしていた男と論争になればいいのに。いや、あるいはもう、そういうことはとっくにしているのかもしれない。
 僕は仕方なく昨日座ったのと同じ長イスに腰掛けたのだが、ランニングマシンで走っている男がたびたび「こいつはいったいなにをしにきたのだろう」という目でこちらを見てくるので、とりあえず近くのエアロバイクにまたがってみた。
 自転車に乗る必要のないこの監視塔で、トレーニングのためにそれに乗るという行為は、どことなく趣深く、示唆(しさ)に富んでいるような気がした。でもペダルを漕ぎながら改めて考えてみれば、海で泳ぐ必要のない人間だってプールで泳ぎを練習するのだし、そこにはひとかけらの趣深さもなく、どのような種類の示唆も存在してはいなかった。