「つまり、『し』『ち』『つ』や長音が含まれる名前が嫌い、ということか」
「それだけじゃないわ。『じ』『ふ』や促音(そくおん)・拗音(ようおん)が含まれる名前も嫌いね」
「きっと『n』が含まれる名前も嫌いなんだろうね?」
「後ろに『b』『m』『p』がこなければ、大丈夫よ」
「じゃあ、『親愛』が『竹刀』になったりするのは?」
「うーん、そう言われると……、嫌い……かしらね?」
 やれやれ。要するにヘボン式どうこうというより、ローマ字に直したときに表記ブレが発生したり、誤読される可能性のある名前全般が嫌いなのだ。彼女のほうがよっぽど監視塔員向きの性格じゃないか。
 でも考えてみれば、「オオシマイヨ」をローマ字に直してしまうと、なんだかもうなにもかも「おしまいよ」な感じになってしまうので、彼女がそれを嫌う気持ちも分からないではない。
「けどむしろ、そういう要素が全くない名前のほうが、珍しいんじゃないか」
「オレミカズキ」彼女はさっき僕がそうしたように、間髪入れずそう言った。
 僕は最初、なぜそこで自分の名前が呼ばれたのかが分からなかった。
 そして「ああ、」と、一拍遅れて反応を示す僕に、彼女は目を向けることもなく――スローダウンする足場を軽やかに蹴り、「あなたの名前、とても好き」と、なにげなく告げる。
 それは僕が自分の名前を好きになるのに――そして彼女に好感を抱くようになるのにも、十分すぎる理由だった。
 ……まあより正確にいえば、「o」が含まれている時点で、僕の名前も「オオレミ」とか「ヲレミ」とか、誤読される可能性はあるんだけどね。
 そう考えると、やはりローマ字に直して表記ブレや誤読が起こらない名前というのは、とても少ない気がする。
 今パッと思いつくのは、そうだな……ムラカミハルキ、だけだ。

 彼女がランニングマシンを止めると、トレーニングルームは急に静かになった。遠くから球技組のかけ声が聞こえてきたけれど、それはなんだか別世界での出来事のように思えた。
「なにか話があるのなら、サウナにでも入って話さない?」
 彼女は運動によってわずかに乱れた着衣を整えながら言う。
 普通、初対面の人間に自分のルーチンワークを乱されたら不快な気持ちになると思うのだが、その言葉からは迷惑そうな様子はかけらも感じられない。それでまた僕は彼女のことが好きになった。