「オレミ君は本当によく破損品(はそんひん)を見つけるよね」と主任が言った。それが褒めているわけではないということは、声で分かる。
「はあ。確かに、袋の空気が抜けていたり、中身の形が崩れていたりするものは、一応、取り除くようにはしていますけど……」
 ローラーラインを次々と流れてくる袋詰めの商品――食パン・総菜パン・菓子パン・和菓子――それらを店舗ごとに指定された数だけケースに詰めていく手を止め、僕は答えた。
 すると主任は表情を変えず、あらかじめ決められていた言葉を紡ぐ。
 そう、僕がなんと答えようと関係がない。主任は最初から説教をするつもりでいたのだ。彼のシナリオにはもともとルート分岐など存在せず、つまり僕の返答なんてものは、どちらを選んでも同じ結果になる無意味な選択肢と同じことなのだ。
「いいか。メーカーから送られてきた商品をここで仕分け、各販売店に出荷するだろう。販売店が破損品だと判断すれば、それはここではなくメーカーに返品される。だから、わざわざ我々が破損品を見つけて返品する必要なんてないんだ。どの段階で破損したのかなんて、分かりゃしないんだしな。……それに、返品したらそのぶんだけ、新たにメーカーから商品を送ってもらわにゃならんだろう。無駄な手間だ」
 主任は言うと、僕が『破損品用』のケースに仕分けた商品を一つずつ手に取って検分し、「これも問題ないじゃないか。これも。これもだ」と呟いては、それを仕分けラインの上へと戻していく。
「でも、破損品だと分かってるんですから……。それに、お店側が困るじゃないですか。ほしい数だけちゃんと、売れる商品が届かないと」
「……販売店側だって、いくつか破損品が混じってくることくらい、分かってるだろうさ。それを見越して多めに発注してるだろう、当然」
「でも、……じゃあ、販売店も気付かずに破損品を売っちゃったら、どうするんですか」
「そしたら客が返品するだけの話だ。とにかくゴチャゴチャ言うな。全部仕分けておけ」
「いや、でも……」
「でもでも言うな」
 僕はそれでもまだ反論しようとしたのだけれど、主任はケースの中に残った破損品を突くように鋭く指さし去っていく。
 僕は仕方なく、一番近隣の店舗へ出荷されるケースにそれらを入れた。破損品分の追加発注があっても、近場なら早く届けることができる。
「おいミカズキ、そういう破損品は、いくつかの店舗に分散させたほうがいいぞ。目立たないようにな」
 通りがかりの先輩作業員が、良かれと思ってだろう、端的なアドバイスを残していく。
 一理ある。でも……
「むしろ、一つの店舗にたくさんの破損品が届いて、問題になるべきだと……僕は思いますけどね」
 僕はぶつぶつ言いつつも、結局は先輩に言われた通り、その破損品たちを学校のクラス分けみたいに分散させた。
 そういえば昔、年の離れた妹が、「オオシマイヨ」という同級生と全然同じクラスになれないと嘆いていた。それもそのはず、僕の妹もその女の子も、ピアノが弾けたのだ。ピアノが弾ける児童というのは、リーダー格の児童と同じく、クラス分けにおいて真っ先に分散させられる。
 僕はそのことを知っていたのだが、妹には教えなかった。妹がピアノをやめてしまうかもしれないと思ったからだ。
 当時妹から散々聞かされた話――「オオシマイヨとその周辺」とでも言おうか――の中で、妹はオオシマイヨに群がる人間たちのことを、「ドーナツ」と呼んでいた。リングドーナツの空洞の中心に、オオシマイヨがいる。そして特筆すべきは、「彼女とドーナツは触れ合っていない」ということだ。コンサートにおいてステージと客席最前列との間に緩衝地帯が設けられるように、オオシマイヨの立つ場所は聖域化されていた。
 しかし、アイドルに握手会などの交流イベントが存在するのと同じで、彼女とドーナツの間にも交流の機会が存在した。オオシマイヨは一年中、放課後に同級生たちの家を訪れて回っていたのだ。
「帰りの会」が終わると、教室には彼女を家に招かんとするドーナツたち(そこには彼女の同級生だけでなく、上級生・下級生・教師までもが含まれた)の輪が形成され、そして多くの男子たちが、そんなドーナツたちの輪を離れたところから眺める、第二のドーナツと化していた。
 ……妹が一度だけ、家にオオシマイヨを連れてきたことがあった。確かにあの「世界の真理を知っています」とでもいうようなすまし顔を一目見れば、誰もが彼女の虜になるだろうし、彼女に少しでも近付くため必死になるその心情も、理解できなくはなかった。
 だからこそ僕は、妹にクラス分けの仕組みを教えなかったのだ。
 でもそんな僕の気遣いとは別に、妹はピアノをやめたし、「オオシマイヨとその周辺」の話もしなくなった。

 終業時刻。腹を空かせたトラックが次々とやってきて、運転手は、身長以上に高く重ねられたケースのタワーを乱暴に積み込んでいく。
 確かに、僕がいくら目を光らせて破損品を取り除いたところで、この積み込みと搬送の過程で、どのみちまた新たな破損品が生まれることだろう。開店前に商品を届けなければならないので、運転手たちも急いでいる。
 深夜。僕は二つの目を光らせ近付いてくるトラックの間を縫い、帰路に就いた。
 砂漠の中のオアシスのごとくきらめく二十四時間営業のコンビニに寄り、並べられたばかりの漫画雑誌を立ち読みして、免罪符としてのクロワッサンを買う。
 多くのパンの中からなぜクロワッサンを選んだのか。それは僕自身にもよく分からなかった。
 確かに、僕の名前はクロワッサンに関連があるといえなくもないのだけれど、僕自身はどちらかといえばその関連性を嫌っているのだ。
 コンビニを出たところで、僕は「ああ、そうか」と気がついた。
 三日月。雲一つない夜空に浮かぶその弓なりの輝きが、まるでサブリミナル効果のように僕の潜在意識を刺激していたに違いない。
 僕はコンビニの袋からクロワッサンを取り出して掲げ、三日月の隣に並べてみる。
 クロワッサン。両端の曲がり具合が致命的に足りないそれは、三日月というよりは日焼けしたサナギみたいだった。
 まあ、クロワッサンをその名の由来通り三日月形に作ったって、現代の流通・販売においてはただ効率が落ちるだけだ。
 たとえばもし人間が弓なりの体形をしていたとしたら、どんなに電車に乗り辛いだろう?
 帰る。帰ろう。僕はクロワッサンを食べながら生活道路を歩いた。
 近所では有名な空き地が見える。かつては大型ショッピングモールが建てられるとのうわさがあった繊維工場跡地なのだが、近くに別のモールが誘致されたせいか、建物が壊され瓦礫(がれき)もきれいに撤去された状態のまま、もう何年も手付かずとなっている。
 僕が小学生だったころ、よく友達と通用門を乗り越え、中の空き地で野球をやった。けれど今ではその門すら取り壊され、空き地全体を取り囲む愛想のないブロック塀と同じ高さの新たな塀で、その土地は封印されている。
 入口を塞がれた、広大な空き地。
 僕はかつて通用門があった一辺をたどり、どこかに入口はないのだろうかと注意深く脇見歩きをする。いくら土地利用の見込みがないとはいえ、普通は関係者用の出入口くらい、ちゃんと設けているものだ。それこそ、本当に土地を封印するつもりであるのならば話は別だが。
 通用門があった部分だけが明度の高い新しい塀となっていることを除けば、なんの変化もない灰色の壁が、ただただ延々と続いている。それでも僕は角を曲がり、次の辺も入口を探した。手頃な石を一つ拾い、まるで迷路を抜けるための一つの策であるかのように、それをかりかりとブロック塀に押し当てながら歩いていく。
 なぜそうしたのかは分からない。きっとなんとなくだ。しかし往々にして、その「なんとなく」が新たな発見をもたらす。

 ……窪(くぼ)んでいる。
 ブロック塀の継ぎ目はわずかに溝になっていて、その溝がまるでブロックの集合体であることを誇示するかのごとく、壁面に無数の長方形を描き出しているのだが、そのブロックの四方の継ぎ目だけ、明らかに溝が深くなっていた。当てていた石が、妙に引っかかったのだ。
 不思議に思ってそのブロックを軽く押してやると、はまっていただけらしいそれはいとも簡単に向こう側へと落ちた。
 ブロック塀の、僕の腰よりわずか低い位置にある部分に、長方形の穴がぽっかりとあく。
 なんだ、これは? 僕は戸惑った。鉄砲狭間じゃあるまいし……。老朽化にしたって、こんなきれいに、まるでくり抜かれたみたいな歯抜けのブロックができてしまうものなのか?

 ……いや、違う。これは足場なんだ。

 僕は試しにそこへ右足を置いた。つられるように左足が自然と浮き、高められた視線の先に、まるで「ここにつかまれ」とでも言うかのような、継ぎ目に沿った切れ込みのあるブロックが見つかった。
 僕はそれも向こう側へと落とすと、あいた空間に右手をかけて、ブロック塀にへばりつく。
 もしや。…………、思った通りだ、また腰の下辺りに、足場が見つかった。僕はそこへ左足を置く。すると右手をかけていた空間が、今度は第三の足場となった。まるでボルダリングだ。
 そのようにして、僕は塀を跨いだ。塀から手を放した隙に強い風が吹き、肘から提げていたコンビニの袋がクラゲみたいに舞い上がっていってしまったけれど、そんな小さな罪悪感は、好奇心の前では全くの無力だ。
 忍者にでもなったつもりで静かに慎重に敷地内へと降り立つと、今まで見えなかったものが見えるようになった。ブロック塀に隠れて見えなかったというわけではない。それは塀なんかの何倍も高く、空を突き破るかのようにそびえ立っていた。
 剣山のごとき、無数の塔。……いや、それらの大本は繋がっている。
 城だ。低く広大な土台から、おびただしい数の塔が伸びているのだ。
 まるで世界中の高層建築物を一ヶ所に集めて、そこに大量の生コンクリートをでろでろと注ぎ、それらの下部を無理矢理にひとつながりにしたかのような――そんな豪快さと危うさが混在した塔の群れに、僕は恐れおののかずにはいられなかった。
 数歩後ずさる。すると背中に硬いなにかが当たり、ハッと後ろを振り返ってみると、……それはなんのことはない、今し方乗り越えた、穴あきのブロック塀だった。
 僕は「驚かすなよ」と呟きながら城に視線を戻す。が……、……なんてことだ。城は忽然と消えてしまった。
 ……本当に、なんてことだ。よそ見をしてしまったがために!
 わなわなと、おぼつかない足取りで城があったほうへ歩み寄ると、幸福にも、城は再び僕の前に姿を現した。
 なるほどなるほど、分かってきたぞ。近付けば見える塗料かなにかが、塗られているのだろう。
 そうと分かれば焦ることはない。いくらか余裕が生まれてきた。僕は時間が経つのを忘れ、獲物が突き刺さるのを身を潜めて待っているかのようなその城を見上げ続ける。
 だが人間、眺めてそれで満足というわけにはいかない。やがて僕は入口を求めて城を周回し始める。これもやはり、一見してそれと分かる入口というのはない。しかしブロック塀の一件が僕に確信めいたものを与えていた。
「入口は必ずある」――だから注意深く探すのだ。
 そうして僕は時間をかけ、レンガ調のシールが貼られただけの面を見つけ、回転扉となっていたそれにほとんど巻き込まれるようにして、城の中へと入った。
 最近のコンビニだ、と僕は思った。昔に建てられたコンビニは、建物の外装にレンガ調のタイルを使っている。タイルなのでもちろん本物のレンガ造りとは違うのだが、凹凸があり、いかにもそれらしく見える。
 でも最近のコンビニは、平らな壁面にレンガ調のシールを貼っているだけで、凹凸がないため、斜めから見ればすぐにレンガではないと分かるのだ。
 といっても、その話を誰かから聞いたのは、いったい何年前のことだったろう? ひょっとしたらもう、レンガ調のタイルを使ったコンビニなど、とっくに絶滅してしまっているのかもしれない。

「今晩は、オレミカズキ様。お待ちしておりました。ささ、こちらへ」
 そう言って出迎えてくれた初老の男は、現場作業後の僕に負けず劣らず、みすぼらしい身なりをしていた。
 寝起きみたいなぼさぼさの髪には白髪が混じり、立ちくらみの真っ最中というようなふらふらとした足取りで僕を案内する。
 なぜ僕の名前を知っているのか? それはあえて問わなかった。問えば動揺を悟られることに繋がる。
 城内は光源に乏しく、こもった空気のにおいがしたが、暗さゆえに不潔な感じはせず、余計なもののない通路はすっきりとしていて、まるでテーマパークのアトラクションの順番待ちをすいすいと通り抜けているかのような気分だ。
「オレミ様のお部屋は、『月の階』にございます。ささ、お早く」
 そのエレベーター乗り場は、あたかも壁の一部であるかのように巧妙に隠されていた。男がカードをかざし、割れるように扉が開いてようやく、そこがエレベーター乗り場であることに気付く。
 ひょっとしたら他にもエレベーター乗り場があって、僕はそれに気付かないまま通り過ぎてしまったのかもしれない。あれだけたくさんの塔があるのだ。エレベーター一基ではとても足りない。
 僕は後ろ髪を引かれる思いのままエレベーターに乗り込み、階数ボタンのないその内部を興味深く見回していると、男がやはり一枚のカードをパネルにかざして、箱は動き出した。
 ……動き、出したのだろうか? 音もなく、縦Gも感じられず、本当に動いているのか疑わしい。
 しかし僕がそうして疑っているうちに、箱は迅速に「月の階」へと僕らを運び、「さあ着いたんだから早く出て行っておくれよ」とでも言うようなため息めいた音と共に扉を開いた。
 いったいここは何階なのか。階数表示はない。外の景色も見えない。もしかしたら地下かもしれない。
 ビジネスホテルの廊下にも似た、機能重視の通路へと出る。地上か地下かはともかく、空調は隅々まで行き届き、暖かみのある明かりに照らされた赤い絨毯(じゅうたん)は、毛足の長さゆえか一歩進むたびに僕のぼろぼろの作業靴を強く押し返した。