翌朝、昨晩あまり眠れなくて、ぼーっとした頭を抱えながら学校へ向かった。
毎朝8時に出勤し、朝礼が始まる前に今日の時間割を確認する。授業は全部で4時間。5限目だけが空いていた。主要語科目の先生は毎日ほぼ全ての時間に授業が入っているが、時々空きコマがあるのが普通だった。とはいえ、その空き時間には予習をしたりテストの問題を作成したりと、やることは尽きないため、心はずっと忙しない。とくに私のような新参者は特急列車のような日々を送っている。
「えー、今月末には進路懇談会があります。すでにお知らせのプリントは配布済みです。三者面談ですので、各自担任をしている者は生徒と日程を確認しておいてください」
朝礼で、3年生の学年主任である江藤(えとう)先生が懇談会のリマインドをしてくれた。そうだ。目先の中間テストのことに気を取られていたが、テストが終わるとすぐに3年生は進路懇談会なるものが開かれるのだ。私、自分が中学だった頃、すっごい嫌だったなあ。先生と母親と私。「先生と私」や「母と私」という構図には慣れているのだが、その三者が集合するとなると、なんとなくむずがゆい気分になる。先生とお母さんが話している間、机の下で膝をぎゅっとつねっていたのが懐かしい。
その時、私は「生徒」だった。しかし今回は、立場が全然違う。あの時はただ黙って先生と親が話をするのを聞いていれば良かったが、今度は私が話の流れをつくらなきゃいけない。ああ、気が重い……。
なんだか余計に頭が重たくなった気がして、朝礼が終わると私はいつものようにレモンティーを淹れた。ふう。やっぱり朝からこれを飲むと頭が冴える。これで今日も乗り切れますように。

 その日、3年2組で授業がなかったので、帰りのHRで三者面談の話をしたが、生徒たちはほとんど興味がないようだった。それも、そうか。私だって子供の頃、面談よりも今日の放課後の時間に何をするか、夕ご飯は何かということにしか関心がなかった。目の前の行事を一つずつこなしていくことで精一杯なのだ。それにしか興味がないのがむしろ正常だろう。
心の中でため息をつきながら、挨拶をして放課となった。さ、これから職員室に戻って明日の準備をせねば、と思ったが、ふと視界の隅に長谷翔の姿が見えたので、声をかけることに。
「長谷君、今日は起きてた?」
「はい。あ、でもしんどかったっす」
彼は一見話しかけづらいオーラを放っているのだが、一度話してみると意外にもよく喋る。前髪が長いからか? 髪の毛で目が半分隠れているせいで根暗なイメージがついているのかもしれないが、実際は性格の明るい子だ。すらっとしていて肩幅もあるため、所属しているバスケ部ではレギュラーとまではいかないものの、かなり上手なのだと花野さんが教えてくれた。
「あーあ、また? ゲームもほどほどにしないと。勉強、ちゃんとついていけてる?」
「違いますって。昨日は好きな漫画の発売日だったから」
「いや、一緒の意味でしょう。というか、勉強は」
「……母親みたいなこと、言わないでくださいよ」
彼の口から出た「母親」という言葉に不覚にもドキリとしてしまう。どうしたんだろう。私今、彼のお母さんのような口調になっていたんだろうか。それとも、発言の内容が似ていたのだろうか。教育熱心なお母さんらしいから、きっとどっちもだろう。少なくとも、私はショックを受けた。
昔、瑠璃子先生が私の担任だった頃。私は先生の言葉に親とは違う不思議な力を感じていた。それはきっと、私だけではないはずだ。瑠璃子先生は勉強のしない子を決して嗜めたりはしなかった。「勉強をしなさい」だなんて、ありふれた言葉で私たちをがんじがらめにしない。彼女はいつも、「勉強がいちばん大事だなんて、先生は思わない。ただ、勉強ほど努力が報われると感じるものは、これから先そうないわよ」と静かに教えてくれていた。その言葉を聞いて、はっとしたのを覚えている。
勉強をしなさいだなんて、あの人は言わない。
でも、それ以上に効き目のある魔法の言葉で、生徒の背中をそっと押す。そういうところが憧れでもあったんだ。
「……ごめんなさいね」
ふと、気がつけば長谷君に向かって謝っている自分がいた。
「いや、べつにそこまで真剣に謝ってくれなくても!」
長谷君からしたらほんの冗談で言った言葉だったのだろう。それが私があまりに真面目に反省するものだから、彼だって戸惑ったに違いない。
「そっか。ねえ、今度少しゆっくり話せないかな。3年生だし、もし困ってることがあればその時にいろいろ話して欲しい」
実は前々から、彼とは話をしたかった。勉強のこと、部活のこと、進路のこと。どうしたら授業中眠らないで済むようになるのか。
「分かりました。明日の昼休みなら大丈夫だと思う」
意外だった。彼が素直に私の提案にのってくれるとは思ってもみなかったから。きっとまたゆるっとかわされるのだとうと思っていた。
でも、鼻の頭を掻きながら肯く彼を見ていると、もしかしたら彼の方も私に話したいことがあるのかもしれないと感じて。自惚れかもしれないけれど、ちょっと嬉しかった。
「ありがとう。じゃあ明日、どこか教室を借りておくから、よろしくね」