***

 婚約者だった唯人は、絵に描いたような優等生だった。母子家庭で大変なことが多かっただろうに、そんなことを感じさせないくらいに勉強も学校生活も一生懸命頑張っていた。生きている、という言葉があんなにしっくりくる人はいないんじゃないかと思うくらいに、彼の生き様は私を虜にした。
「紬はさ、俺にとって木陰なんだ。なーんか疲れたなって思うとき、紬のそばにいれば自然と心が休まる。絶対に必要なんだ。俺にとってはその木陰が」
唯人が口癖のように言うことは最初、褒め言葉なのかどうか分からなかった。私はもっと、彼にとって心のど真ん中にいると分かる言葉で褒めて欲しかった。けれど、彼と付き合ううちに、彼が「木陰」をどれほど欲していたのか理解した。母親と二人で過ごしてきた幼少期、小学生になってできた義理の父親と「家族」をやった数年間。どの時間も、彼は精一杯泳いでは何度も息継ぎをしなければ、普通でいられなかったのだと思う。親の前でも友達の前でも肩の力を抜けなかったのだろう。
だから私が、彼の「木陰」として、これからずっと支えていこうと心に誓ったのだ。

「また、サボりですか?」
あっという間に4月が去り、ゴールデンウィークが明けるともう中間テスト前。先生たちはテストの問題をつくるのに必死になる時期だが、生徒も同じ気持ちでいてくれるとは限らない。
昼休み前の4限目の授業だった。三年二組の教室で、ある生徒がいないことに気がつき、私は思わず声を上げる。長谷翔。また彼だ。彼は授業中に居眠りを繰り返したりサボったりが常習していた。どうして。中学三年生にもなって。いくら進学しないのだとしても、空気を読むでしょう、普通。
私が本当にサボりの理由を問いたい張本人は、ここにはいない。だから、生徒たちは私の怒りが早くおさまるのを待つしかない。
……無駄なことはやめよう。心の中だけでため息をつく。これ以上、他の生徒を巻き込むわけにはいかない。
「……授業を始めます」
私は、黒板に大きく『檸檬』と書いてその下に「梶井基次郎」と記した。今日から『檸檬』の単元が始まる。昔、瑠璃子先生が私にしてくれた話が、鮮明に頭に残っている。初めての三年生。初めての『檸檬』の授業。できれば、このクラスの全員に聞いて欲しかった。
私は、初めて檸檬をかじった瞬間を思い出す。あの超酸っぱかった味。やっぱり私は、甘いレモンパイがいいと、唯人に話した時、彼はぷっと笑いを堪えきれずに吹き出した。そりゃ、そうだろう。生のレモンなんて、魚にかけるか味付けでかけるかしかしちゃダメだよって笑いながら諭された。
授業が始まるところだというのに、余計なことばかりが頭に浮かぶのがもどかしかった。
 
 授業が終わると昼休みにどっと疲れが襲ってきた。ご飯を食べる手が、いつもより遅い。井上先輩が「どうかしたの」と声をかけてくれたけれど、「なんでもないです」と答えるしかなかった。