3
思い返せば不思議な出会いだとその記憶はやがてフェードアウトし、次にキッチンで必死に卵を泡立てているミミがフェードインしてくる。九重とミミが重なりロクは思わず言ってしまった。
「お前のおばあちゃんもお菓子作りが好きみたいだぞ。やっぱり遺伝かな」
「なんで私のお祖母ちゃんのこと知ってるのよ。もしかして裏で糸を引いてるのってお祖母ちゃんってことなの? ん、もう……結局、お祖母ちゃんからは逃げられないってことか」
あからさまに落胆してミミの手元が止まった。
「どうしたんだよ」
ロクに訊かれて顔を上げるも目が虚ろなミミ。
「うちは色々と厳しいしきたりがあって、私はそれに縛られて生活してきたの。お祖母ちゃんは特に厳しい人でね、家では一番の権限をもっているの。孫の私が 生まれたら、母親よりもあれをしろ、これをしろって、いつも言われて自由なんてなかった。学生時代は仕方なく我慢していたけど、短大を卒業してこれから自 分のために生きようとしたときに、急にお見合いさせられそうになってさ、それで逃げて来たの」
「お、お見合い? そんなに嫌ならはっきりと断ればいいじゃないか」
「それが出来たらどんなにいいか。出来ないから逃げたのよ。一度顔を合わせたら、もう私には権限がなくて相手のいいなりになるしかないの」
「だけど、相手がミミの事を気に入らない可能性もあるじゃないか。わざと嫌われる事をすればそういうの問題ないだろ」
ロクは簡単なことのように茶化していた。
ミミは「はぁ」と大きく呆れたため息をつく。
「そんな簡単なことじゃないの。相手も断れないのよ。お互いの家のためにね」
「それって、まるで政略結婚みたいだな」
「みたいじゃなくて、まさにそういうこと」
「えっ、一体どんな家柄なんだよ」
「だから、そういう家柄なの」
ミミは力なく泡立てながら、家を飛び出したときの事をぼんやりと頭に浮かべる。
どこか知らない土地で、自分の力だけで生きていこう。逃げるんだ。それだけで電車を乗り継いで、何の計画もなく無謀に行動を起こしていた。
この先一体どうすればいいのかと不安を抱きながら見知らぬ駅に着いたとき、突然名前を呼ばれた。
『九重……ミミ……さんだね』
一瞬にして体が強張り、心臓が早鐘を打つ。いざとなったら逃げよう。そう思って恐る恐る振り返ったとき、泣きそうな顔をした初老の男性が震えるように立っていたから意表をつかれて暫く突っ立ってしまった。
相手はミミをよく知っているかの振る舞いにミミは邪険に出来ず、暫く成り行きを見守っていた。
その男性は声にならない詰まった息を何度か吐いて、ミミにどう接していいのか逡巡していた。恐れているのか、喜んでいるのか、どっちにも取れた。あの時はあの年取った男性の意図がわからなかったけど、今になってミミは理解した。
「だからか」
あの時の事が腑に落ちてつい声が出ていた。
「何だよ、急に叫んで」
「どおりで事が上手く出来すぎていたはずだ。お祖母ちゃんが仕組んだから、その命令に怯えていたんだあの人は」
「何の話だよ」
「あたかも味方のようなふりしてさ、結局は私騙されたの? どうしてよ」
ミミはぶつぶつと文句を垂れていた。
「あのさ、もっと分かるように話してくれないか」
「だから、私が逃げる事を知っていて、その逃げ場所を最初から用意されていたってことよ。私を案内した年寄りの男性もお祖母ちゃんに命令されて仕方なく私をずっと尾行して、そしてここに来るように誘導したってこと」
「年寄りの男性?」
「そうよ、家の事情を知っていたし、私は全然覚えてなかったんだけど、向こうは私の事をずっと知っていたらしくて、しばらく邪魔されずに過ごせる場所があ るからってここを紹介してくれたの。そこに間抜けだけど力になってくれる探偵がいる、私を待っているから面倒を見てやってほしいって言われた」
「ちょっと待て。間抜けっておい、どこのじじいだよ、俺の事をそういう奴は」
「こっちが知りたいわよ。文句があるなら私じゃなくて全てを計画したお祖母ちゃんに言ってよ」
シャカシャカと再び泡立てるミミ。投げやりでやる気が見られない。
ロクもまた、自分が間抜けといわれたことで気分を害すも、何かしっくりこない違和感を抱いていた。
自分が出会った九重のおばあさんはミミが言うような厳しい人にあてはまらない。寧ろミミを守りたいとここを用意したように思えてならなかった。
ミミは何か勘違いしているのかもしれない。
『世の中の事が全くわかってなくて、ちょっと記憶が飛んでるの』
確かそんな風に九重が言っていたとロクは思い出す。
「なあ、今は暫く様子をみてみないか。それからどうすればいいのか考えたらいいじゃないか」
「だったら、ロクはいざというとき私の味方になって助けてくれる?」
「何を助けたらいいのかわからないけども、それはミミ次第だな」
「どういう意味よ」
「だから、俺に優しくして、何でも言う事をきいてさ」
何かがしゅっとロクに向かって飛んできた。ロクはそれをひょいと避ける。
「おい、木べら投げるなよ。手裏剣じゃあるまいし」
「じゃあ、こっちもロク次第だわ。あなたが優秀な探偵なら敬意を持って接します。そうじゃなかったら、見切ってどこかへ逃げるわ」
「おー、言ってくれるじゃないか」
鼻でフンと笑うも、内心気が気でなかった。
ミミの前だからとロクは少しばかり虚勢を張っていかにも自分がいい探偵だと演じようとしている。今まで一度も謎解きなどした事がないというのに。
ミミに馬鹿にされるのも嫌だったが、九重との約束を破るのも嫌だった。ロクは九重を放っておけない。
喫茶店でご馳走になった後、このマンションを紹介され、設備の説明を受けているとき、九重は感極まって少し涙ぐみ、必死に泣くまいと力を入れていた姿が印象的だった。
ミミとの間で何か言えない事情がありそうだと、ロクは見て見ぬフリをする。
『ミミは気の強い子だと逸見さんの目に映ることでしょう。だけど、あの年頃は素直になれずについ意地を張ってしまうのです。どうかその辺を理解してやって 下さい。決して逸見さんのことを嫌いとかじゃないんです。ずっと籠の中に閉じ込められていたので、男の人と接することに慣れてないのです。それでも精一杯 にあの子は逸見さんと向き合おうとすることでしょう』
『九重さんはとにかくミミさんの事が心配なんですね』
『そうかもしれないわ』
九重は口元を軽く上げてくすっと笑った。そしてじっとロクを見つめる。
『ま、任せて下さい』
期待されていると思ってついつい調子にのってしまうロク。
『それじゃ、お願いします』
九重は右手を差し出した。
ロクがその手を取って握手すると、九重はもう片方の手を添えロクの手を握って力を込めた。
『ありがとう』
涙を堪えた震える声がか細く九重の喉から搾り出された。九重は暫くロクの手を離さなかった。
4
ミミを助ける事は九重を助けることにもなる。力になりたい気持ちが湧いてきた。
初めて会ったのに、年の差を感じさせない気楽な態度の九重にロクはすでに親しみを感じていた。それを思い出しながらミミと向き合おうとする。
「ミミ、そう心配するな。きっとなんとかなるよ。ミミがこの先安心して暮らせるように、ちゃんと見守ってやる」
「な、なによ、突然優しくなって」
ロクが折れるとミミは戸惑う。ロクが見せた態度はミミをドキッとさせた。まともに見ればロクはかっこいい部類に入る。それは初めて会ったときから気づいていたけど、深く考えないようにしていた。
それが今、ミミのスイッチがまともに入って取り消せないほどドキドキと胸の鼓動を早くしていた。それを悟られるのが嫌で泡だて器をシャカシャカと激しくかき混ぜた。
それから小一時間後、部屋いっぱいに甘い香りが漂う。
「おお、焼けてる焼けてる」
オーブンを開けミミが覗き込んでいた。強烈に立ち込める焼き立ての熱気。それをまともに顔に受けてもなんのその、喜びを抑えきれない満足した笑みを浮かべてミトンをつけた両手で慎重に取り出す。
「いい感じに焼けた」
丸いホールケーキ用のデコレーション型にはこんがりと狐色に表面が焼きあがったスポンジケーキが焼きあがっていた。真ん中がこんもりとしてそこに少しだけひびが入っていたが、却ってそれが美味しそうだ。
得意になった子供のようにミミは褒められる事を期待しながら、ソファーに座っているロクに近づく。
「ほら、ちょっと見てよ」
「な、何だよ」
うつらうつらしていたロクはミミの大きな声にびくっとした。
「ほら、ほら、いい感じに焼けたよ」
焼きたてのケーキを押し付ける。
「おい、そんなに近づけるなよ。熱そうじゃないか」
「だって焼きたてだもん」
ホカホカと湯気が立ち込めるスポンジケーキを持ったミミ。その甘い香りと共にロクは知らずと和んでしまう。
「わかった、わかった。なかなか上手く焼けてるよ」
「でしょぉ」
嬉しさが隠せず、ミミの顔が緩んでいる。
「で、それどうするんだよ」
「もちろん生クリームやフルーツで飾りつけするの」
ケーキを持ちながらロクの前で軽やかにミミは舞い踊る。持っていたケーキを激しく横に揺らし、調子に乗って上へとその力を向けた。
「そんなことしてたらケーキ落と……」
ロクが言い終わらないその時、スポンジケーキが型からすぽーんと上に飛び出しミミは「あー」と声を出した。
それはロクにはスローモーションに目に映り、気がついたら咄嗟に立ち上がってスポンジケーキに向かって手を差し出していた。
「あちー! アチアチ」
悲鳴が部屋いっぱいに響く。
ロクは恐るべき速さで手を動かし、必死の形相でそれをミミが持っていたケーキ型に再び入れた。
「おい、焼きたてのケーキで遊ぶな」
「遊んでたわけじゃないけど、あー危なかった」
「何が危なかった、だ。こっちは手が火傷だ」
ロクは手のひらをひらひらとふっていた。
「大丈夫? ごめん」
ロクの手が赤くなっている。ミミは申し訳ないと顔を歪めた。
「まあ、落とさなくてよかったよ。だけどさ、それさ……」
ロクは慌ててケーキ型に戻したスポンジケーキを見つめ黙り込んだ。
「どうしたの?」
ミミも手元に視線を落とす。
スポンジケーキは斜めになってケーキ型にきっちりと収まっていなかった。ミミが軽く揺らせばストンとはまり込んだ。
「なんかとても丈夫だな、それ」
熱々だったそれは、衝撃を与えながら手のひらで跳ねるように何度もむちゃくちゃに揺らしていたが、全く形が崩れなかったことをロクは不思議に思っていた。
焼きたてのケーキは膨らみきって安定していない柔らかさがある。ましてやスポンジケーキのようなふわふわとしたものは壊れないようにと型から取り出すのにも神経を使うはずだ。
そう考えるとロクはそのケーキが硬いように思えてならなかった。
「無事でよかった。本当にありがとうね。ロクって割と頼りになるんだね」
恥ずかしげにミミは言う。自分も照れくさかったのか、ケーキを持ってキッチンへと戻った。
「いや、それよりもそのケーキ、味は大丈夫なのか」
「もちろん大丈夫よ」
「ちょっと味見した方がいいんじゃないか?」
「ああ、もしかしてケーキ食べたいんでしょ」
「いや、そうじゃないけどさ」
「恥ずかしがらなくていいからさ」
ミミは網目のケーキクーラーに乗せようとケーキ型を逆さまにしてスポンジを取り出した。
「これじゃ反対だ」
それを素早くくるっとひっくり返した。ロクはその乱雑な様子を見ていて、ケーキが硬い事を確信した。
ミミは刃にぎざぎざがついたナイフを持ち、中心の盛り上がっていたところを削り落として平らにしようとする。
「ケーキのこういうところがおいしいんだよね。はい、どうぞ」
丸く切り取った部分を掴み、それをロクに差し出した。
ロクは仕方なくそれを手にする。表面はクッキーみたいなパリッとした硬さだった。そして口にした。
ミミはロクが食べるのを固唾を飲んで見守っていた。
「美味しいとは思うけど……」
ロクは言いにくそうに語尾を濁す。
こういうケーキの端くれ、パリッとした部分は基本美味しい部類だ。だが、市販されているケーキと比べるとやはり質が違う。
「何、その奥歯にものがはさまったような言い方は」
「違うんだよ。味は本当に悪くないよ。でもこれでデコレーションケーキ作るんだろ。ちょっとこれでは硬くてパサパサなんじゃないかなって思うんだ」
「ええっ、ケーキってクリームやフルーツつけたら、それだけで美味しいじゃない」
ミミは感覚でケーキを作っている。
「でもさ、スポンジの部分がパサパサしたら触感悪くならないか? そうすると美味しさも……」
ミミは急に気分を損ねて、投げやりにスポンジの真ん中にナイフを当てると二枚におろし始めた。
切りにくそうにボロボロと端からケーキクラムがこぼれ、切り口がガタガタになっていた。ミミの気持ちはどんどん消沈していく。
切り終わってミミはため息を一つ吐いた。
「本当だ。これすごくパサパサだ。切ってて分かった」
「でもいいじゃないか。味は悪くなかったし、食べられない事はないよ」
ロクも罪悪感を覚えて慰めようとする。
「食べられても、食感悪かったら美味しくないんでしょ。いいよ、無理しなくても。なんかちょっと疲れちゃった。少し休んでくる」
ケーキをそのままにしてミミは肩を落として部屋に行く。そのうち小さくドアが閉まる音が聞こえた。
その一部始終を見ていたロクもまた気まずくなってくる。そこまで貶すつもりで言ったわけではなかった。つい思った事が口から出ただけだ。
「ああ、やっちまった」
なんとかしたいと思ったとき、パッとアイデアが閃き、スマホを取り出し何かを検索し出した。
「ええっと、確かトレス何ちゃらだったな」
そして探していた情報が見つかると、棚を開け缶詰を探し出した。
5
一方でミミはベッドの上に寝転び、枕を頭に被せて足をバタバタさせていた。道具も材料も全て揃っていたしケーキ作りの本に書いてあったレシピ通りに作ったし、焼けばスポンジもいい色だった。
型から取り外ししやすいように、バターを塗って粉をまぶしてそれも完璧だった。だから簡単につるりと型から抜け出たわけだけど、あれならあのまま床に落ちた方が救われていた。
必死で受け止めてくれたけど、それが却って落ち込む結果になるとは思わなかった。
ケーキを作ろうと思ったのは、設備のいいキッチンや予め用意されていた材料を見ていると、無性にお菓子作りの意欲が湧いたからだ。
もともとお菓子作りは趣味ではあるが、ロクの前で少しいい格好したいと思ったとき、お菓子作りの本に載っていた写真がとても素敵で作りたくてたまらなくなった。これを作ればすごいと思われるかもしれない。独りよがりの思いあがりだった。
自分にも作れると思って挑戦したけども、卵白をかき混ぜている時に雑念が入って集中できずにいい加減になってしまった事を今になって反省する。最後は疲 れてこれでいいかと投げやりになってしまった。ふわっと仕上げるにはメレンゲが大事だというのに、しっかりそれが作れてなかった。
「ああ、自己嫌悪」
また足をばたつかせていた。
あの年老いた男性からもらった地図を手にしてここへきたけども、その道のりがよくわからず、一向に目的地に着かずに途方にくれていた。方向音痴と言えば それまでだが、見知らぬ場所は何度地図を見ても、見たこともない景色だと何があるか頭に定着せずに混乱してくる。どうしようかと思っていたとき、雲から太 陽が顔を覗かせた。不思議なことに辺りが眩しくなると同時に突然視界が開けていった。目を細くして見た先に、このマンションがあることに気がついた。
あれに違いないと、思って夢中で近づけば、やっと地図通りに歩くことができた。目の前ばかり気にして街の全体を見ていなかったのがその原因だったのかもしれない。
信号を渡り、角を曲がっているうちに街の中にポンと広場が現れた。木がたくさん植えられてまるで森のようだ。住宅街にある子供の遊び場の公園と違ったそ の風貌は、芸術色が濃く、噴水やオブジェが置かれて広々としていた。その向こう側に建っていたビルはまるでリゾートホテルのようだとミミには思えた。ゆっ くりと近づき突然足を止める。
中に入ろうとするが、ここで合っているのか急に自信がなくなり躊躇してしまう。今時の最新設備がミミの想像を超えすぎて怖じ気ついてしまっていた。
自分が今どこにいるのか分からず混乱している時だった。マンションのエントランスから男性が出てきた。それがロクだった。
まるで以前会ったかのようにミミに近づき、親しみを込めて笑うその顔にミミの心臓がドキッと跳ね上がった。体が急に火照っていく感覚を覚え、息が荒くなる。
自分の中の欠けていたピースがピタリとそこに当てはまったようなハッとする驚きがあった。
それが衝撃過ぎて、ミミは以前どこかで会ったような感覚に捉われた。
まだこの時、それがどういう意味だったのかミミは深く考えなかったけど、今ベッドの上で足をバタバタさせながらようやく気がついた。
「一目惚れだったんだ!」
ミミは恥ずかしさから体がキュッと熱くなり、自分の失敗にいてもたってもいられない。当分はロクの前に顔を出せないと、ほとぼりが冷めるまでジタバタしていた。
そうしているうちに疲れていつの間にか寝てしまっていた。
6
「おい、ミミ、何してんだよ」
コンコンとドアをノックする音と一緒にロクの声が聞こえる。
ミミははっとしてベッドから飛び上がった。
「えっ、何か用なの?」
ミミは髪の毛を触り、服の乱れがないか慌てて確認する。
「おい、早く出てきてくれ、依頼人が来た」
「うそ、依頼人?」
その言葉にミミはドアの扉を勢いで開けた。
「うそじゃないぞ」
困った顔つきのロクが無理に笑いながら、リビングルームを指差している。
ミミは部屋から顔を出し覗き込む。そこにはロングヘアーの女性がソファーに座っていた。ミミを見ると立ち上がり一礼する。
ミミも部屋から飛び出し、慌ててペコリとお辞儀した。
「ど、どうも、いらっしゃいませ」
初めてのことに動揺してしまった。
「ミミ、とにかくお茶をお出ししてくれないか」
「あっ、はい」
ロクも緊張しているが、ミミも同じだった。
「あの、お構いなく」
タイトスカートを穿いたその体つきは、ロクが好みそうなメリハリした女性らしさが強調されている。黒っぽいストッキングを履いたすらっとした足も色っぽい。
ミミは急に落ち着かない嫉妬にも似た危機感を感じてしまった。そわそわしながらケトルに水をいれる。
「どうぞ、お掛けになって下さい。とにかく話を聞きましょう」
ロクに言われ、女性は腰を下ろした。
ソファーはコーヒーテーブルを挟んで対面式に置かれている。ロクは女性の向かいに座わった。
リビングルームとして使っているその空間は依頼人が来ると事務所に変貌し、慣れないことにロクは足を無意識に揺らしてしまう。
「あの、私、白石織香と申します。看護師をやっています」
「俺は逸見です。そしてあそこにいるのが助手のミミです」
正式に紹介を受け、織香はお茶の支度をしているミミに軽く会釈した。
「あの、ここをどうやって知ったんですか?」
お茶の葉を急須に入れながらミミが訊くと、織香は手提げバッグからチラシを出した。
「これが家のポストに入っていたんです」
ロクはそれを受け取り声に出して読んだ。
『お困りのことならご相談下さい。良心的な値段でご依頼承ります。逸見探偵事務所』
住所と電話番号の他に虫眼鏡を持つシャーロックホームズのようなキャラクターが添えられて、いかにも手作り風のチラシだった。
ロクはミミに振り返り、ミミが作ったのかといいたげな顔を向けたが、ミミも知らないと首を横に振っていた。
そうなると、九重のおばあさんしか心当たりがなかった。これがそのサポートのひとつなのだろうとロクはすぐに理解した。
「そうですか。それはどうもありがとうございます」
「それであの料金なんですが、おいくらくらいでしょうか」
「あっ、その、そうですね、まずは無料でご相談を承り、その後お見積もりをさせて頂きます。あとは白石さんが正式にご依頼するかどうかご判断下さい」
実際何も考えてなかったロクは、とにかく先にどんな依頼なのか知りたかった。
「わかりました。実は最近、誰かが見ている気配を感じたんです」
「ストーカーですか?」
「いえ、その、付けられているとかじゃなく、家にいる時なんです。窓を開けていたとき、ふと庭の茂みから微かな物音が聞こえて、そちらを見れば何かが逃げていって核心に変わりました」
「泥棒でしょうか」
「私も怖くなって気をつけて戸締りをしっかりし、その日は友達にも泊まりにきてもらったんです。結局何もなかったので、ただの動物だったのかもと思い始め ました。実際、どこかの猫が窓から入ってくる事が多々あったので思い過ごしだったのかとそれで片付けたんですが、先日、変な手紙がポストに入っていて、な んか怖くなってそれで困っていたところ、逸見探偵事務所のチラシも入っていたのでそれでふらっとここを訪ねたというわけです」
「その手紙とは?」
「はい、これです」
織香はまた鞄から紙を取り出し、それをテーブルの上に置いた。
『まじょさん、ねこを男の人にもどしてください。ねこがかわいそうです』
子供の字なのか、わざとそういう風に筆跡をかえているのか、どっちにも取れた。ロクはそれを声に出して読み上げた。
「どういう意味だろう?」
ロクが首を傾げる。
「だから、私もそれを知りたいんです」
「はい、それは分かってます」
ロクは自分が探偵だったと姿勢を正した。
うーんと考えるが、実際何のことか全然わからない。依頼人の手前、わからないと根をあげることはできず、ただ困ったと脂汗が出てくる。
「いたずらの可能性もあるかもしれません」
「一体なんのいたずらなんでしょう。実際見られている妙な感覚もありましたし、何かが庭に入ってきたことも考えれば、これはいたずらではすまされない問題があるように感じるんです」
織香はすぐに答えが知りたいとじっとロクを見つめながらも、本当に謎を解いてくれるのかと半信半疑に表情が硬かった。
「ええと、白石さんのお住まいですが、一階のアパートですか?」
「借家なんですが、平屋の一軒家です。知り合いからの紹介で、持ち主のご夫婦が暫く海外で住むことになったので安く借りてます。その間、郵便物や家の面倒を見てくれということで、掃除はもちろんですけど、時々風を通したり、庭の草木に水をやったりしてます」
「平屋とは、最近は珍しいですね」
「昔ながらの日本家屋をリノベーションしているみたいです」
「この、まじょ、ですけど、これは魔法使いの魔女を意味しているとして、白石さんはこういう呼ばれ方を誰かにされてますか?」
「いえ、全くないです」
ロクは腕を組み考え込む。内心、全然わからず、謎が解けるのか非常に不安で気が気でなかった。
「どうぞ」
ミミがお茶を織香の前に差し出した。
「ありがとうございます」
織香は頭を下げるだけで手をつける気配がなかった。そこにロクを探偵だと信じ切れてない疑いがあった。
ミミはロクの隣に座り、テーブルの上に置かれていた手紙を手に取った。そして話しに加わる。
「この猫を男の人に戻すって、返すってことでしょうか? 以前猫が家に入ってきたと仰ってましたが、もしかして隠れて飼っているとか?」
「いいえ、それはありません。動物は飼ってはいけないという約束なので、いくらノラ猫がやってきても、餌を与えたことも一切ありません」
「それじゃ、この男の人というのは誰を指しているのでしょう。家にお友達を呼んだとき、その時に来た人ですか?」
できたら恋人であってほしいとミミは願う。
「いえ、家に来てもらったのは女友達です」
「それじゃ、彼氏とかいます?」
「いいえ、それがいないので」
プライベートな質問に織香は戸惑うも、ちらりとロクの様子を窺った。ミミはそれを見逃さなかった。これはロクに興味を持っているかもしれないと不安になっていた。
「じゃあ、きっと織香さんの知らないところで誰か知らない男の人が好意をもっていて、その男の彼女がこの手紙に書いている『ねこ』さんという名前なので は? だから第三者からみてねこさんという彼女がいるのに、勝手に白石さんにお熱を上げているからかわいそうに思って、誘惑をするなっていう遠まわしの脅 迫なのではないでしょうか? だから白石さんのことを誘惑する女の例えとして魔女さんと皮肉っているんですよ。誘惑している心当たりないですか?」
ミミにはその気持ちがものすごくよくわかるだけに、訊き方が意地悪っぽくなっていた。実際、ロクを誘惑する魔女に見えていた。
「おいおい、ミミ、勝手に話を飛躍させるな。白石さんにとっては寝耳に水だ。勝手にお熱を上げられていたとしても、白石さんは被害者で彼女には何の落ち度もないんだから、誘惑などの心当たりとかあるわけないだろう」
「あっ、あります」
織香は言った。
「ええっ、あるんですか」
ロクは驚いていた。
「いえ、私が誘惑とかじゃなんですけど、職場で、既婚の医者から思わせぶりな事を言われました。彼は奥さんがいますし、遊ばれるのが見えているので、無視 しているんです。だけどもしかしたら、そのお子さんが母親の事を心配して私が誘惑してると思いこんで手紙を書いたんでしょうか?」
「そのお子さんと会った事は?」
ロクはもしかしてと身を乗り出す。
「全く無いです。でもその推理だとちょっと当てはまったので、万が一と思いまして……」
織香はさらに考えを巡らしていた。
「会った事もない人の家を子供が突き止められるのかな? その医者に言い寄られている事を他の誰かは知ってますか?」
ミミが質問した。
「まだ誰にも言ってません。でも雰囲気で分かる人にはわかるかもしれませんが」
「職場では親しい方とかいらっしゃいますか?」
「はい、仲いい同僚は数名おります」
「その方たちから医者から言い寄られているのを最近心配されましたか?」
「いいえ、それはないです」
「だったら、職場ではまだそういう噂は流れてない可能性が高いです。もし流れていたら、私が白石さんの友達ならすぐに確認取ります」
ミミは勝手に話を進めていた。
「でも、たまたまその噂を知らなかったとか考えられるかもだぜ」
ロクは口を挟む。
「雰囲気で分かる人には分かるのなら、一番仲のいい同僚の方たちが気づかないっておかしい。友達ならそういう変化はすぐに気がつくと思う」
ミミは淡々と話す。
「そういえば、その中のひとりは情報通な人で、その人の耳に入ってないのはそういうことなのかもしれません。なにせ、一番詮索好きなところがありますから」
織香もミミに同意した。
「だったら、医者の息子さんの線もありえないですね。夫が浮気をしたら一番に気がつくのは奥さんだと思います。この場合まだ白石さんに相手もされない常態ですから、奥さんは白石さんのことすら知らない可能性が高いです」
ミミは思った事をズバッと言った。
「じゃあ、この手紙は何が目的なのでしょう」
結局は振り出しに戻ってしまった。
ロクは暫く考えた後、この場を取り繕う。
「現場を見て周りで何か不審な事が起こっていないか聞き込み捜査をしないと、話だけでは情報が不十分です」
「そうですか。それでこの謎の料金はどれくらいになりそうですか」
「ええと、子供のいたずらということも頭に入れて、これでしたら、三千円ですね」
ロクは織香の様子を窺う。
「そんなものでいいんですか」
織香は予想以上の良心的な値段にかなり驚き、一気にロクへの高感度を上げていた。
「それじゃお願いします」
織香は正式に依頼する。
この後のことはロクとミミに任せ、仕事があるからと織香は去っていった。
7
とりあえず次に繋げ、ロクは少しほっとする。依頼人を前にして推理を働かせるほどロクは慣れていない。
これが安楽椅子探偵ならすでに答えが分かっているのだろうと思うと、自分の不甲斐なさが悔しい。
「なあ、ミミ、初めてにしては結構さまになってた対応だったな」
自分よりもいい質問しやがってと、少し嫉妬した。
「そうかな? で、ロクはこの謎をどう解くの?」
「いや、どうしようかな。とにかく家の鍵を渡されて、必要なら入ってくれとまで言われたけど、参ったな」
「それだけ、私たちを信用してくれたってことだと思う。そしてやっぱりこんな手紙がはいってたら気持ち悪いし、早く原因を知りたいのよ。ロクにも期待しているんじゃないかな。とにかく今から白石さんの家の周辺を見にいこう」
ロクとミミは織香の家へと向かった。マンションを出て徒歩十分くらい歩けばビルが建ち並んだ街の喧騒が遠くなり、閑静な住宅街へと移り変わっていく。ちょうど下校時刻なのか、ランドセルを背負った学校帰りの子供たちがまばらに歩いて家路についている姿がちらほら伺えた。
「車が来てるのに急に走って危なっかしいな」
「ロクも子供頃はあんな感じだったでしょ」
「俺は大人しい優等生だったぞ」
「はいはい」
すれ違う無邪気な子供たちの姿をミミは微笑んでみていた。
「そういえばこの辺ってコンビニが多いね」
「そうか、こんなもんだろ」
「家の建ち方もデザインが箱みたいで、モダンと言えばそうなんだろうけど、変ってるね。時々すれ違う車もコンパクトでカクカクしてる」
「最近の家はこんなもんだよ。で、ミミは免許もってるのか?」
「持ってない」
「じゃあ、普段どんな車が走っているのかあまり興味ないだろ」
「うん、そういえばそう。家の車にはお抱え運転手がいて、いつも送り迎えされてる。景色も目に映して流しているような毎日だった」
「どこのお嬢様なんだよ」
ロクが突っ込むと、ミミは軽く笑って受け流していた。
「こうやって自分の足で見知らぬ街を歩くと変な気分。竜宮城から戻ってきた浦島太郎になったみたい」
封印している記憶と向き合おうとしている前向きな姿勢なのかもしれない、とロクは思った。
ミミはロクの想像を超えた上流階級のお嬢様といっていい。その点についてはロクも詮索しない事を決めていた。
それも九重の忠告のひとつであった。
『できたら、自分から話すまであまり過去の事を訊かないでやって下さい。ミミも自分が置かれている立場が通常と違うと気がついています。いつか必ず過去のことと向き合う日がきます。それまで彼女にできるだけ合わせるように適当にあしらって下さい』
マンションの鍵を九重から渡される時に、色々な注意事項を話された内のミミに関しての項目がそれだった。
ミミがここへやってくる当日、ロクは待っているよりも迎えにいこうとエントランスを出ようとしたときだった。マンションのエントランスで入るのを躊躇っ ている女の子が目に入る。それがすぐにミミだと判別できたのは予め写真を見ていたお陰だった。すぐさま近寄っていきなり馴れ馴れしさを出した。依頼された 仕事だったから、そこはサービスで親しみをこめて接した。ミミも初めてにしてはすでにロクの事を知っていたような態度に、物怖じしないものを感じた。
すぐさまミミを部屋に招きいれるも、見ず知らずの異性とこれから共に生活するのはかなりおかしな状況だ。それを深く考えないようにし、なるべくビジネスだからと思い込んだ。
ミミにもここがそれぞれの部屋に鍵がかかる安全なつくりと強調し、プライベートにはお互い干渉しない事を申し出た。
ミミもある程度の理解があり、すぐにそれを受け入れ仕事の話をし出した。
『それで探偵の助手って何をすればいいんですか?』
最初はミミも敬語で緊張していた。
『そうだな、まずは俺のおもてなしを受けてもらおうか』
早く打ち解けたいと、ロクはキッチンに常備されていたエスプレッソマシンでお得意のラテを作った。家庭用とは思えない本格的な機械だが、カフェでアルバ イトをしていたロクにはお手の物だった。商品としてコーヒー飲料を売っていた腕を少し自慢したくて、ロクは自分が入れたコーヒーを気に入ってもらえると自 負していた。
ダイニングテーブルに座り、ロクがコーヒーを入れるところをミミは珍しそうに黙ってみていた。 やがてそれが自分の前に差し出されたとき、ミミは困惑した。
『あの、私、コーヒーも牛乳も嫌いなんです』
申し訳なさそうに首をすくめていたミミ。
『そ、そっか、それは悪かった。じゃあ、紅茶なら大丈夫かな』
得意分野が否定されたような一抹の寂しさがロクの胸にこみ上げた。急に気まずい空気も漂い、ロクは躓いたみたいにぎこちなくなっていた。
その慌てているロクを見ていると、ミミはいたたまれなくなって、カップを手にした。折角の好意を無下にするのは失礼だ。しかもしょっぱなで。この変な状況にも関わらず一生懸命自分を歓迎してくれていることに歩み寄らねばとぐっと腹に力をこめた。
カップをじっと見つめれば、白い泡がふわふわとしている。普段コーヒーを飲まないミミにとってラテは不思議な飲み物に見えた。ふーふーと冷まして一口飲めば、口辺りがまろやかで、自分の知っているコーヒーじゃないことに目を丸くした。
『あの、これ、砂糖を入れてもいいですか』
『ああ、もちろん』
ロクは小皿に数個の角砂糖を入れたものを差し出した。ミミはひとつ、ふたつとつまんで入れてスプーンでかき混ぜる。
もう一度それを飲んだとき、ミミの目が見開いた。
『これ、本当にコーヒーなの? なんて口当たりまろやかで美味しい』
再びカップに口をつけ、病み付きになったように味わっていた。
『よかった』
ロクは素でほっとして、顔を弛緩させた。
『ごめんなさい』
ミミはカップを置いて畏まる。
『な、何が?』
『私を歓迎してくれているのに、つい失礼な態度を取ってしまって。私、世間知らずで、つい本音が出ちゃうんです。反抗期もあるかもしれません』
『いいよ、別に。嫌いだって言っていたものを美味しいって新発見してくれた方が、嬉しさも倍増した。これでも、コーヒー入れるのはプロ級なんだぜ』
『どおりで美味しいはずです』
『だろ、だって、美味しくなーれっていつも魔法をかけているからね』
『まるでコーヒーの魔法使いですね』
ミミと知り合ったばかりの頃を思い出しながらロクが歩いていると、いつしか織香の家の前に到着していた。
8
「ここだ」
ミミが入り口に走りよっていく。
茶色い壁のかわらの平家。今風に綺麗にリフォームされていた。それとは対照的に家の周りには少し年季が入ったブロック塀が囲んでいた。
そのブロック塀の入り口付近からそっと覗きこんで中を確かめる。
玄関は少し入り口から離れ、全体的に広い土地に家が建てられていた。洗濯物もたくさん干せる広めの庭。木や低木に囲まれちょっとした日本庭園風だ。その庭に面して大きな吐き出し窓があり縁台が置かれていた。
「いい雰囲気がある家だね。あの縁台に座ってビール飲みながら過ごすのもいい感じだ」
ロクが言えば、ミミも「バーベキューもできそう」と答えていた。
ふたりは家の外見を捜査じゃなく好奇心で見ていた。
「平屋だけど、屋根が高いところをみると梁天井になっているのかも」
「鍵があるんだから、後で中を見せてもらおうよ」
「おいおい、よそのお宅はそうそう勝手に入るものでもないだろう」
ロクはあまり乗り気がしなかった。
「えっ、つまんない」
「それよりも、何か変わった事がないか、この家の周辺を探ってみよう」
ロクは塀にはめ込まれていた郵便受けを覗きこんだ。そして玄関へと向かい、辺りを見回した。
ミミは低木や茂みをかき分け「にゃーお」と猫の鳴き声を真似をしだした。
「おい、何やってんだよ」
「だって、手紙に猫ってあったから、どんな猫か一応調べないと」
「猫を調べて分かったら苦労しないよ」
ロクが呆れていたとき、ふと門の入り口から視線を感じた。振り返ればランドセルを背負った男の子がこちらを見ていた。
ロクが見つめ返しても男の子はふたりが何をしているのか気になるのか、その場に立ち止まっていた。
「おい、ミミ、小学生の男の子がなんか見てるぞ」
小声で伝えるロク。
屈んでいたミミは立ち上がりにこっと微笑んで小学生を見つめた。
「えっと、何か用かな?」
「ねぇ、もしかして黒い猫を探しているの?」
期待が混じった男の子の力強い声に、ロクもミミもはっとした。
ミミが猫の鳴きまねをしながら探したが、色までは何も分かっていない。
「なんで黒い猫だと思うんだ?」
ロクがはっとしてつい力強く訊くと、男の子は急に怖じ気ついて逃げようと後ずさった。
「待って。そうよ、猫を探しているの。ねぇ、何か知っていたら教えてくれない?」
ミミはできるだけ優しく問いかける。男の子は思い留まりミミを見つめた。
「じゃあ、あの男の人の知り合いなの?」
男の子が何を言っているか分からず、ロクとミミは顔を見合わせた。
「とりあえず、お前、ちょっとこっちこい」
ロクが手招きし、ミミも隣で首を縦に振ってそうするように勧めた。
男の子はゆっくりと近づいた。
「まず、名前訊いてもいいかな?」
ミミは男の子の目線にかがんで顔を近づけた。
「きゅうたろう」
「えっ、オバケの?」
ミミはつい反応していた。
だが、男の子はキョトンとし、ロクも「はぁ?」と呆れてミミを見ていた。
「なんだよ、オバケって」
「ええー、オバケのQちゃん知らないの? 毛が三本の」
「はぁ? 知らないよ。お前、知ってるか?」
ロクは男の子に確認するが、男の子も首を横に振っていた。
「うそぉ! 有名な漫画じゃないの。ドラえもんと同じ作者の」
ミミはふたりが知らないことにびっくりしていた。
「ドラえもんは知ってる」
「僕も」
ふたりは顔を見合わせて頷いた。なぜか息が合っている。
「まあいいけど、きゅうたろう君ってどんな漢字書くの? もしかしてアルファベットのQ?」
ミミが訊くと、ロクは「なんでアルファベットのQが漢字なんだよ」と突っ込む。
「ええと、久しぶりの久に普通に太郎です」
「今、何年生?」
「三年生です」
ミミが尋ねた質問に久太郎ははきはきと答えていた。
「それじゃ、さっき俺たちが黒猫を探しているか訊いたよな。それで『あの男の人の知り合い』ってどういう意味だ?」
今度はロクが質問する。
「お兄ちゃんたちこそここで何してるの? 一体誰なの?」
久太郎は素直に質問に答えて良いのか今になって躊躇していた。
「ごめん、ごめん。えっとね、こっちがロクで、私がミミ。ちょっとここに住んでいる人に頼まれて、それで調べものしてたの」
「もしかして、あの魔女?」
その言葉に、ロクとミミは反応した。
「あの手紙を出したのはお前か!」
ロクは早速手がかりがつかめて飛び掛らんばかりに興奮する。ミミはすぐにそれをけん制した。
「ちょっとロク、落ち着いて。久ちゃん怯えてるじゃない」
急に大声を出されて、久太郎は体を強張らせていた。
「やっぱり子供のいたずらじゃないか。ああ、よかった。これで解決だ」
ロクはすんなり事が運んだことで安心した。
「いたずらじゃないもん。あの魔女が男の人を猫に変えたんだよ。僕見たんだ」
久太郎は必死に訴える。
「久ちゃん、落ち着いて。このお兄さんはとりあえず放っておいていいからね。とにかく、私に、なぜあの手紙を出したのか教えてくれない?」
理由がなければ、手紙なんて出さないだろう。あどけない子供の目だが、そこには悪気のない信念を感じた。久太郎の言い分を聞けばもっと納得できるはずだ。ミミは真剣に久太郎と向き合った。
「あのね、ある日、ここを通りかかったら、男の人がそこの窓から入っていったの」
「えっ、窓って、これのこと?」
庭に面した吐き出し窓をミミは指差した。
「うん、その時、開いてたの。暫くすると女の人が先がもこもこってした棒をもって振り回している姿が見えた。その時何かぶつぶつ言って詳しくは聞き取れな かったけど、最後は『猫になーれー』ってそこだけ聞こえて、そしたら暫くしてから黒猫が窓から飛び出してきたの。きっと男の人が猫に変えられて追い出され たんだと思う。あの女の人は魔女なんだよ」
ロクは家を見ながら考え込み、ミミも慎重になっていた。
「何かの思い違いじゃないかな。もこもこした棒はきっとダスターで掃除をしていたんだと思う」
「僕もはっきりとさせたくて、ついここに入っちゃったんだ。ほら、そこに小さな木の茂みが並んでいるでしょ。それでそこに身を隠して暫く家の中を見ていたの」
「それ覗きだぞ」
ロクが突っ込む。
「うん、悪いと思ったけど、もし本当に男の人が猫に変身してたら、事件でしょ。やっぱり放っておけないよ」
久太郎は悪くないと胸を張った。
「それでどうだったの」とミミ。
「うん、女の人はひとりだったし、男の人の姿は見えなかった。そのうち『誰かいるの?』ってばれそうになって、それで逃げたの」
「ふんふん」
ロクは頷く。
「時々、その黒い猫がこの辺りにいて、きっと人間に戻りたいんだろうなって思うと、ついかわいそうになって、猫を男の人に戻してくださいってお手紙を書いたの」
「なるほど。そういうことか」
ロクの目が鋭くなっていた。
ロクは玄関に向かい、鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
「ロク、家に入るつもり?」
ミミが驚く。
「ミミと久太郎はここにいろ」
「何するの?」
ミミの心配もよそに、ロクは引き戸を開けてスタスタと中に入っていった。
「お兄ちゃん大丈夫かな」
魔女の家と信じ込んでいる久太郎は怖くなってミミの服の裾を引っ張った。
ミミを頼っているそのしぐさがかわいい。
「大丈夫だよ。ロクはああ見えてもしっかりしているところがあるんだよ。コーヒーを美味しく入れるのがすごく上手いんだから」
「コーヒーを美味しく入れる人ってすごいの?」
「うん、すごいよ。だって、おいしくなーれって魔法が使えるからね」
「ええ、じゃあ、あのお兄ちゃんも魔法使いなの?」
「そうだよ。だから大丈夫」
「うわぁ、すごい」
とりとめもない話なのに、久太郎はとても素直でありのままを受けいれていた。
ふともれたお互いの笑顔がふたりの緊張を解きほぐした。
しかし直接口には出さなかったが、内心ミミはこの状況を心配していた。久太郎の話に少しだけひっかかりがあって、それがとても悪い予感を感じさせたからだ。
その時、「うわぁ!」と驚きの声が聞こえ、急にバタバタとした騒がしい音が聞こえてきた。
9
ミミははっとして、玄関から顔を出して中を覗き込む。
「ロク、大丈夫なの?」
床に転げ落ちたドタバタする音と何を言っているのかわからない叫びが激しく聞こえる。
「お兄ちゃん、怪物に襲われているの?」
久太郎がミミと同じように玄関から恐々と覗き込んでいた。
「ロク!」
いてもたってもいられずに、ミミは慌てて靴を脱いで框を駆け上がる。それにつられて久太郎も後を履いていた靴を降り飛ばしてついていった。
廊下を走り襖が開いた部屋に入り込めば、畳の上でロクが男を押さえ込んでいた。
ミミは圧倒されて、おろおろしていると、久太郎が叫んだ。
「あっ、この男の人だ。人間に戻れたんだ」
あどけない子供に、ロクと男の動きが止まる。ロクに押さえ込まれていた男はあっさりと抵抗するのをやめると、ロクも捕まえていた手を離した。
男は観念して畏まり正座をする。久太郎は近寄って声を掛けた。
「お兄ちゃん、人間に戻れてよかったね」
「えっ? 何のこと?」
「あっ、もしかして記憶がないの? あのね、お兄ちゃんは魔法で猫に変身させられていたんだよ」
「猫?」
男の頭に大きな疑問符が見えるようだった。だが、久太郎は自分が間違っていなかったと大喜びだった。
「うん、そうだね。魔法が解けてよかったよね。言ったでしょ、ロクはすごいって」
ミミが取り繕う。
「うん、ロク兄ちゃんすごいな」
目をキラキラさせた尊敬の眼差しを向けていた。
「さあ、もう解決したから、早くおうちに帰った方がいいよ。あとのことは私たちに任せて」
「ええ、もうちょっと一緒に居たいな」
「そしたらさ、また今度一緒に会おう」
「ほんと? 約束だよ」
「うん、約束」
ミミは久太郎を玄関へと連れて行く。久太郎が家に帰るのを見届けて暫くしてから、再び家の中に入っていった。
ロクとその捉えられた男はすでに話をしている最中だった。
「今、話を聞いていたけど、こいつこの家の倅だって」
「どうも、笹田聖と申します」
ミミにペコリと頭を下げた。
「実家に帰ってきたら、両親がいなくて代わりに白石さんが住んでいてびっくりしたんだと」
「はい、久しぶりだったので、両親を驚かそうとして開いていた窓から忍び込んだものの、知らない女の人がいて咄嗟に押入れに隠れてしまいました。仕事に追 われた生活でここへは戻ってくる予定がなかったんですが、最近仕事が上手く行かず、それで両親を頼ろうと戻ってきたんです。まさか家を貸しているなんて知 らなかったんです」
体のでかさとは裏腹に、情けない顔をした笹田が気の毒に思えてくる。
「それで、いく当てもない笹田さんは、黙ってここに寝泊りすることにしたのさ。ちょうどこの天井裏にスペースがあるんだと。静かにそこに隠れて、白石さん が仕事に出かけると好きに羽を伸ばしてたわけだ。そのうち出て行くつもりでいたらしいけど、ずるずると今に至るというわけさ。そうだな」
「はい、その通りです」
ロクに代弁してもらい、笹田は虚しく笑った。
「そっか、やっぱり久ちゃんは見間違えてたんだ。人間が猫に変身するわけないもんね」
ミミが笑った。
「猫? そういえば、私が入ったとき、猫が家の中で走りまわってました。」
笹田が言った。
「そこだよ。猫は時々入ってくるって白石さんも言ってたし、ちょうど追い出そうしているときに笹田さんが忍び込んで外で見ていたものには偶然が重なって変 身したように思えたんだろう。そこで久太郎が見た男というのが浮いてくる。猫が出て男が出てこないなら、もしかしたらこの家のどこかに隠れているんじゃな いかって思ったんだ。実際住んでるものに気がつかれずに屋根裏で潜む事件とか過去にあったのを思い出して、そしたらビンゴだった」
「はい、ちょうどトイレに入って油断してました。まさかドアを開けられるとは」
トホホとでも聞こえてきそうに笹田はうな垂れた。
「謎は解決したけども、白石さんにはどう伝えればいいの?」
ミミはロクに視線を向けると、姿勢を正した笹田が発言した。
「あの、自分で正直に話します。それで、申し訳ないですがおふたりも一緒にいてくれませんか。その方が彼女も安心するかと」
「それは構わないが、白石さん、今日は夜勤のシフトじゃないかな」
ロクは相談に来た時間帯からそう推測する。
「夜勤の時は翌朝大体十時くらいに帰ってきます」
「じゃあ、その頃にもう一度来るよ。どうせ俺たちも報告しないといけないし」
全ての謎が解けたロクは少しだけ肩の荷がおりていた。でもまだどこか不安が残っていそうだ。
「よろしくお願いします」と帰りに笹田から頭を下げられ、ロクとミミは去っていく。
陽が落ちかかるセピア色の風景の中、ふたりはゆっくりと歩いていた。
「ああ、これで一件落着」
ロクは両手を空に突き出して伸びをしていた。
「まさか、こんな落ちがあるなんて思わなかった」
ミミも今になっておかしくなってきた。
「だけどさ、ひとつだけまだわからないんだ」
「何が?」
「『猫になーれ』っていう呪文。なんで白石さんはそんなこと言いながら猫を追い出したのだろう」
「久ちゃんも言ってたじゃないですか。そこだけしか聞き取れなかったって。多分だけど、その前に『かしこい』とか『言う事をきく』とか『迷惑かけない』とかそういう言葉を言ってたんじゃないかな」
「そんなこと言うかな」
「手にスティックみたいなのを持つと、女の子って呪文を唱えたくなるの」
「ミミもか?」
「うん、私の場合はお玉や木べらとか持って、料理をしてるときかな。『おいしくなーれー』って」
「なるほど。そういわれたら、俺もだ。コーヒー作るときはそんな気分だ」
「あっ!」
ミミは突然声を上げた。
「どうした?」
「私、ケーキ、放りっぱなしだった。あれ、魔法きかなかった。へへへ」
「心配するな、片付けておいたから」
「そっか、ありがとう……」
急にミミの元気がなくなっていった。ロクはそれを横目に口元を上向けていた。
そして家に帰ると、すっかり日が暮れていた。一日の疲れがそこでどっと押し寄せる。
「お腹すいたね。今日何食べよう」
家に入りながらミミが呟く。
共同生活なので、臨機応変にどちらかが何かを作ったり、または自由に自分だけ食べたりと、その辺は家にある材料を使いながら好きにしていた。
当分は困らない量のお米、無農薬野菜や果物、お肉やソーセージなどのギフトセットなど、九重がロク宛に勝手に送ってくることもあり、キッチンは食材で溢れていた。
ミミが冷蔵庫を開けて中を覗いた時だった。ラップに覆われた丸いケーキ型が入っていた。
ミミはそれを取り出し、ラップをはがした。
表面が白いクリームで覆われているそれにミミは驚いた。
「ロク、これ、どういうこと?」
「ああ、それ。ちょっと手を加えておいたよ。まあ、一口食べてみな」
ミミは引き出しからスプーンを取り出し、それをケーキの端に突っ込んだ。不思議なことに、それはすっと中へ入っていった。スプーンを持ち上げて取り出せ ば、ミルキーな液体がジュワっとスポンジから染み出している。生クリームとミルクに浸されたスポンジ。それがとてもおいしそうでミミはパクッと口にいれ た。
「えっ、おいしい。何これ、口の中でジュワッてとろけて、なんて柔らかいの。それにミルキーなこの味が優しくて病み付きになる。なんでこんなにクリーミーでおいしいの?」
「それ、トレスレチェっていうメキシコのケーキさ」
「トレスレチェ?」
「スペイン語だ。英語にするとスリーミルクっていって、三種類のミルクにスポンジケーキを浸しているんだ。レシピも様々だけど、基本はエバミルク、コンデンスミルク、生クリームのこの三つのミルクを使うのさ。さらに上にはホイップした生クリームで飾りつけさ」
「私のあのケーキを作り直してくれたの?」
「ああ。俺もちょっとデリカシーに欠けたよな。一生懸命に作っていたのに貶しちゃってさ」
「ううん、そんなことない。お陰でこんなおいしいケーキになるなんて、すごいよ、ロク。本当にありがとう。こんなの初めて。メキシコのケーキなんだ。よく知ってるんだね」
ミミはまたスプーンを突っ込んで食べていた。
「まあね、小さい頃にそれを食べた事があるんだ。って、おいおい、夕食前にそれはちょっと食べすぎなんじゃ。それ全部食うつもりか」
「ど、どうしよう。おいしすぎてとまらない。スポンジを口に入れると、優しいミルクが舌の上でじゅわって広がるのがたまらない」
「あれ? そういえば牛乳嫌いとか言ってなかった?」
「そのままでは飲めないの。だけどお菓子やスープに入れると大丈夫なの」
ミミはまたスプーンを突っ込んでいる。
「独り占めにするなよな」
ロクもスプーンを取り出し、ケーキをすくうと口に入れた。
「おっ、これはうまいな。このスポンジケーキの硬さがいい感じにミルクで柔らかくなってる」
ふたりは笑い合ってお互いを見つめていた。その時、ミミの鼓動はとても速く動いていた。
「ミミ……」
ロクに名前を呼ばれ、ミミはドキッとする。
「は、はい」
「このケーキ、なんだか俺たちみたいだな」
「えっ」
「ミミの失敗は俺が尻拭いしてさ」
「ちょ、ちょっと何、それ」
「だから、俺がどうしていいかわからないとき、ミミも色々と質問してその場を繋いで助けて尻拭いしてくれた。ふたりで協力すればこのケーキみたいに探偵事務所も何とかなって最高になるってことさ。だから諦めずにふたりで頑張っていこうぜ」
ロクは白い歯を見せてにっといたずらっぽく笑った。その笑顔がミミには眩しい。
「も、もちろん」
ミミは持っていたスプーンを握り締めてそれを宙に掲げた。恥ずかしさと嬉しさと興奮が複雑に入り混じっていく。まるでトレスレチェケーキで使った三種類のミルクのようにそれらが合わさると気持ちよく体に沁みていくようだ。
「じゅわ~」
「なんか、ウルトラマンみたいだぞ」
ロクに突っ込まれるのも心地いい。
どちらも成り行きで出会い、成り行きで仕事する。その成り行きはこの先どこへ行くのかふたりはわくわくと楽しくなっていた。
1
空は澄み渡り、くっきりとした青空が広がる爽やかな昼前。冷たい風が肌寒く、太陽の日差しがぽかぽかとそれを補う。
ロクとミミは肩を並べて街を歩き、時々ミミはロクの様子を窺っていた。気づかないふりをしていたロクだったが、頻繁にそれが起こることにたまりかねて横目に声をかける。
「何だよ」
「別に」
「言いたい事があるならはっきり言え」
「じゃあ、言うけど、あれでよかったのかなって」
ミミは織香の依頼を振り返り、謎は解けてもすっきりとしない何かを感じていた。
「成り行きのこととは言え、勝手に入ってしまって、事がややこしくなると思って隠れてしまった。元々は自分の家だし、行く場所も他にないとしたら、あのまま隠れているしかなかったじゃないか」
「そこは白石さんも戸惑いながら話を聞いて、強く責めはしなかったけどさ」
「ほら、本人たちがそれでいいとなったら、俺たちはきっかけを作ったことでよかったってことさ」
織香の依頼は確かに解決できた。それはいいとしてもミミはその後が気になっていた。
家に潜んでいた笹田聖に頼まれ、事情を一緒に説明することになったロクとミミは、今朝、織香の帰りを家の前で待っていた。
『真剣に話し合いするときに、こんな服でいいのかな』
ミミはかわいらしい柴犬のイラストが胸についたピンクのパーカーを着ていた。舌をだして愛嬌ある柴犬の顔が大きく前面に出ていた。
『あまりシリアスにならないための真理作戦だ。可愛いものをみれば落ち着くもんだ』
『だからといって、同じものをロクも着る?』
色こそ違えど、ロクも青い同じデザインのものを着ていた。それらは九重からの贈り物だった。いつ着ればいいのか送られてきたときは躊躇したが、九重からのメッセージを見れば
――仕事に悩んだ時はこれをミミと着てみて。気持ちが明るくなるわよ。
とあった。まさにロクはあまりいい気がしなくて、その言葉を信じて着ることにした。
ミミには祖母からの贈り物ということは伏せている。
『それだけシリアスで重い話だからだよ』
ロクの言葉で側に立っていた笹田が恐縮していた。
三人が玄関前で立ち並ぶ。やがて織香が帰宅し、ずらっと三人勢ぞろいに驚いた。
夜勤明けの織香は徹夜で疲れていたはずだ。見知らぬ男がひとり増え、何がどうなっているのか、よくわからないままの対応だった。
三人は家に上げられ、畏まって畳の上で皆が正座する。織香は笹田から一通りの釈明を受けていた。真実が話されたとき、そこにいた笹田にどう反応していいのか分からず、言葉を失って目だけが見開いて凝視していた。
笹田は土下座して何度も謝り、ロクも他人事ながら仕方なかったことだとフォローを入れていた。 ミミは側で黙ってそのやり取りを見ていた。ミミが心配したのは、織香が笹田をどう扱うかだった。
女性視点で考えれば、気持ちの悪い変態行為だ。見知らぬ者が潜んで自分の生活を素知らぬ顔で覗き見していたなんて、普通なら怖くてトラウマだ。
だが、織香はしっかりとしていた。それとも寝ていない頭で深く考えられなかったのだろうか。笹田の犯した罪に激怒することはなかった。土下座している笹田を前に淡々と声を掛けた。
『そうですか。それで笹田さんはこれからどうするおつもりで』
織香は笹田に出て行けと遠まわしに言っていたとしても、元々は笹田の実家でもある。はっきりと言えないものをミミも側で聞いて感じていた。
『あの、よろしければ、当分の間ここで住まわせて頂けませんか?』
それが笹田の答えだった。
ミミは『えっ』とずうずうしいと思ったが、織香は暫く無言で考え込んでいた。
『部屋に鍵をつけたら、プライベートな領域は干渉されない。共同スペースも白石さんが家にいる時は笹田さんにできるだけ遠慮してもらえばいい』
『ちょっとロク、何言っているのよ』
ミミが嗜める。
『いや、俺たちが一緒に共同生活しているくらいだ。男女が家をシェアしながら住むのは可能だって言いたいだけだ』
『えっ、ふたりは同棲を?』
織香が言った。
ロクはその言葉の響きにドキドキしてしまう。
『ちょっと待って下さい。俺たちは訳あってひとつ屋根の下で別々の部屋で暮らしているということです。な、ミミ』
『でも一緒に暮らすって、意味的には同棲で間違ってないんじゃないの?』
ミミはここでロクと暮らしている事を織香の前で少しアピールし、入り込む余地がない印象を刷り込もうとしていた。
織香の前ではすましているが、内心ロクが織香に興味をもったらどうしようと恐れていた。悔しいけど、ミミは織香が美しい女性だと認めていた。
『ミミさんは、そのことについてはなんとも思ってないんですか?』
織香に質問され、ミミはドキッとしてしまった。
『えっと、楽しいとは思ってます』
『楽しい?』
『一緒に仕事をしていることもありますが、お互いを支えあって冒険しているようなワクワク感もあるんです。ひとりだったら路頭に迷っていたけど、ロクのお 陰で色んな新しいものを見られるというのか。実際、違う世界に迷い込んで変な気分なんですけど、それ以上に今は楽しいです』
だからロクを誘惑するような真似はやめてね、とそれを心の中で呟いておどけたようにヘヘヘと笑った。
『こら、調子に乗るな』
ロクが軽くミミの頭を叩いた。
『なんだかわかりませんが、おふたりは上手くいってる感じですね』
織香が言い終わるのと被るようにミミは『はい』と自信たっぷりに返事する。
『やはりよく知らない男性と一緒に生活するのは世間体にもあまりいい印象を与えないような気がしますが、実家に帰ってこられた息子さんを追い出すこともで きかねます。私も笹田ご夫妻との約束でこの家を綺麗に保たないといけないのと、その条件でお安く貸していただいているので、今すぐに次の場所へ引っ越すこ ともできません。そうすると逸見さんやミミさんのようにシェアをした方がいいのかもしれませんね』
結論を出しても織香はそれでいいのか自信がなさそうだ。
『すみません。私もできるだけ邪魔にならないようにしますし、目処が立ったらいずれ出て行きますので、どうかよろしくお願いします』
笹田はまた頭を下げた。
織香の戸惑いを見ていたミミはそこではっとした。自分の都合のいい事だけしか考えてなかったため、本当は嫌だとはっきりといえなかった当事者の織香に申し訳なくなっていく。
これでよかったのかと罪悪感だけが後味悪く残っていた。
後の話し合いは織香と笹田に任せ、ミミとロクは一件落着を無理やり押し付けて帰ろうとする。
『あっ、逸見さん、待って下さい』
玄関に向かっていたとき、織香に引き止められる。
ロクが振り返れば、織香は財布を持って中身を出そうとしていた。
『あの、依頼料をお払いしないと』
三千円を差し出されるも、慣れないロクは受け取りにくい。それでも出されたからには恐縮してお金を受け取った。
後ろの方にいる笹田と目が合い、笹田もどこか申し訳ないような顔つきだった。
『それからですね、あの、もうひとつ調べてもらいたい事があるんですけど』
謎を解き、安かったことで探偵に依頼するハードルが低くなったのか、織香は気軽に持ちかける。
『まだ何かあるんですか?』
ロクは落ち着かない様子で受け答えしていた。
2
いつまでも浮かない顔をして歩いているミミにロクは少し苛立った。
「もういいじゃないか、終わったことなんだから。それよりも次の依頼だ」
「また上手く解決できたらいいけど、次はマカダミアナッツチョコレートの謎か……」
「とにかく、行けば何かの手がかりはあるだろう。ミミ、しっかり見ろよ」
「ロクこそしっかり見てよ」
ふたりは織香から受けた依頼で現場に向かう。厳密には紹介されたと言う方が正しい。
織香の知り合いの家は、同じその町内ですぐに見つかった。
「ここじゃないですか、谷原さんのお宅って」
表札の名前を見たあとミミは門の内側に視線を向けた。大きさが違う長方形の箱を上と下にくっつけたシンプルなシルエット。灰色の外壁で石の塊に見えたその家はミミにはとても珍しく目に映った。
ミミがその家を見ている間、ロクはインターホンを押していた。スピーカーから声がすぐに響く。
「はい」
「白石さんの紹介で参りました」
「ああ、探偵の逸見さんですね。はいはい、お待ち下さい」
白石がすでに電話で連絡していたとみえて、そこからは話が早かった。
四十前後の少しふくよかな女性、谷原瑞枝が、玄関のドアを開けて出てきた。少し緊張しながらも、助けがきた喜びを顔に浮かべて、ふたりを家の中へと招き入れる。
ロクもミミも形式的な挨拶をしたあとは「お邪魔します」と家の中に入っていった。
そして玄関から近い部屋の引き戸を瑞江は開けた。
「あれが義父の谷原忠義です。起きている時間の方がどんどん短くなって、ずっとあんな感じで寝ているんです」
織香からの情報だと、癌を患う忠義は自宅で緩和ケアをしている状態だ。かなりの末期だと言っていた。痛み止めの薬はすでに麻薬の成分が入って、その副作 用でせん妄が出たり、記憶が飛んでアルツハイマーのような症状が出たりするらしい。しかし、稀に正常に戻る時もあり、家族も変化の激しさに振り回されてへ とへとだと言っていた。
部屋は質素な和室だが、電動で操作する介護ベッドがとても場違いに目を引いた。静かに死を待つ姿が物悲しい。
『私が看護師だからご近所のよしみで時々相談を受けることがあるけども、私にも分からなくて、どうか力を貸してもらえませんか?』
織香から一通りの事を聞いたが、プライベートに関わる事は本人からの依頼しか受けないとロクは突っぱねた。
『それじゃ、私から連絡を入れておきます。どうしても知りたいらしいので、きっと逸見さんの助けを借りたいと思うはずです』
織香は親身になってロクに頼んだ。
そういうこともあって、直接依頼を瑞江がするか尋ねに来たふたりだったが、緩和ケアの状態を見て他人事ながら重々しくなっていた。こんな状態を他人に見せてまで解決したいその気持ちにロクは真剣に向き合う。
「それでは谷原さんの方から何があったか、詳しく話していただけませんか」
ロクの言葉で瑞江はふたりをダイニングルームへと案内する。
「今、お茶を入れます」
「いえ、お構いなく、とにかく状況をお話下さい」
「そうですか、それじゃ」
瑞江はふたりに椅子に座るように手を差し出して、自分もまた向かい側に座った。
「まだ義父が正常な時でした。夫――義父にとったら息子にあたるわけですが、会社の同僚から土産を貰ったと、自分の父にも何気に見せたんです。それはハワ イ土産でよく見かけるマカダミアナッツのチョコレートでした。それを見た義父は突然取り乱し、泣き叫んだんです。『カズコー!』と名前を叫んだ後にしきり に『ごめん』『ごめん』と謝ってました。義母は数年前に他界しましたが、名前は明恵なので、カズコではないんです。それで夫にとったら母の名前じゃなくよ その女の名前を呼んでとてもショックを受け、それが誰でどういう関係なのか知りたいんです」
ロクもミミもどういう反応を示していいのかわからず、声に詰まる音が喉から漏れていた。
話した瑞江も俯き加減で気まずそうにしていた。
「もしかしたら薬の副作用で妄想をみているのか、その辺の事を看護師の織香さんに訊いてみたんです。そういうこともあるかもしれないけど、脳が混乱し時々昔に戻ってその時の記憶が鮮明に蘇る事もあると言ってました。現在の自分から過去の自分に逆戻りするんだそうです」
「その記憶を引き出したのがチョコレートなんですね」
ロクはちらりとミミを見た。気づいた事があるかと目で問いかける。
その合図でミミは思いついた事を口にする。
「忠義さんは昔、カズコさんという方からマカダミアナッツチョコをバレンタインデーにもらったけども、それをいらないと突っぱねたとかで、今になって申し訳なくなっているとか」
「どうなんでしょう。そういう話で済ませたらいいんですけど、夫は浮気の方を疑っているみたいで、はっきりとしない間は快く自分の父と向き合えないとか言 うんです。義父はこの先長くないと思うんですが、残りの日々をそんな気持ちのままで夫に過ごしてほしくなくて、それで藁をも掴む思いで、カズコという女性 の事を知りたいんです」
瑞江の重い話に、軽く推理したミミはしゅんとしてしまう。
「すみません、茶化したつもりではなかったんです。可能性のひとつとして……」
「いいんですよ。たくさんの可能性からひとつに絞っていくのが探偵さんのやり方ですから、お気になさらないで下さい」
瑞江は優しい笑みをミミに向けた。
「忠義さんの友達や仕事仲間など、誰か話を聞ける方はいらっしゃいませんか?」
もっと情報がほしいとロクは訊く。
「夫も連絡が取れる限りの人にはすでに訊いたみたいなんですけど、誰もカズコという名の女性の心当たりはなかったそうです。誰もが口を揃えて、真面目な人で絶対浮ついた話はなかったとまで言い切ってたそうです」
「お友達がそこまでいうのに、息子さんは父親を信じきれないんでしょうか」
ミミが言った。
「夫にしたら少しだけ自分の父親にわだかまりがあったみたいなんです。仕事第一なところがあって、家族よりも仕事を優先し、母親もそれに従って我慢してい たそうです。いつも『仕事だから』と父親ばかりを庇って、家族で出かける約束もドタキャンされて鬱憤は溜まっていたみたいです。今回の一件で、もしかした ら仕事と偽って他の女と会っていたのかもと馬鹿な事を考えてしまい、一度疑うと過去の父親に対するわだかまりが再び蘇ったみたいです」
瑞江も話すのが辛そうだ。ロクとミミは静かに聞いていた。
「母親が先に脳梗塞でなくなってしまいましたから、苦労かけた母親のことを思うともし浮気であったなら許せないとどうしても引っかかってしまうみたいです」
ロクとミミは何も言えなくなって、ただしんみりとしていた。辺りの空気もどんよりしていた。
「あら、やっぱりお茶を入れましょう」
気を遣って瑞江はすくっと立ち上がり、ロクとミミが遠慮をしても従わなかった。
「あの、ちょっとお手洗いをお借りしてもいいですか」
少し尿意を感じていたミミは今がチャンスとばかりに言った。
「どうぞ、どうぞ。そこを出て階段の手前のドアがトイレです」
「それでは失礼します」
トイレは玄関にも近かった。
ミミは忠義が眠る部屋に一度視線を向けてからトイレのドアを開けた。