ミミを助ける事は九重を助けることにもなる。力になりたい気持ちが湧いてきた。
 初めて会ったのに、年の差を感じさせない気楽な態度の九重にロクはすでに親しみを感じていた。それを思い出しながらミミと向き合おうとする。
「ミミ、そう心配するな。きっとなんとかなるよ。ミミがこの先安心して暮らせるように、ちゃんと見守ってやる」
「な、なによ、突然優しくなって」
 ロクが折れるとミミは戸惑う。ロクが見せた態度はミミをドキッとさせた。まともに見ればロクはかっこいい部類に入る。それは初めて会ったときから気づいていたけど、深く考えないようにしていた。
 それが今、ミミのスイッチがまともに入って取り消せないほどドキドキと胸の鼓動を早くしていた。それを悟られるのが嫌で泡だて器をシャカシャカと激しくかき混ぜた。
 それから小一時間後、部屋いっぱいに甘い香りが漂う。
「おお、焼けてる焼けてる」
 オーブンを開けミミが覗き込んでいた。強烈に立ち込める焼き立ての熱気。それをまともに顔に受けてもなんのその、喜びを抑えきれない満足した笑みを浮かべてミトンをつけた両手で慎重に取り出す。
「いい感じに焼けた」
 丸いホールケーキ用のデコレーション型にはこんがりと狐色に表面が焼きあがったスポンジケーキが焼きあがっていた。真ん中がこんもりとしてそこに少しだけひびが入っていたが、却ってそれが美味しそうだ。
 得意になった子供のようにミミは褒められる事を期待しながら、ソファーに座っているロクに近づく。
「ほら、ちょっと見てよ」
「な、何だよ」
 うつらうつらしていたロクはミミの大きな声にびくっとした。
「ほら、ほら、いい感じに焼けたよ」
 焼きたてのケーキを押し付ける。
「おい、そんなに近づけるなよ。熱そうじゃないか」
「だって焼きたてだもん」
 ホカホカと湯気が立ち込めるスポンジケーキを持ったミミ。その甘い香りと共にロクは知らずと和んでしまう。
「わかった、わかった。なかなか上手く焼けてるよ」
「でしょぉ」
 嬉しさが隠せず、ミミの顔が緩んでいる。
「で、それどうするんだよ」
「もちろん生クリームやフルーツで飾りつけするの」
 ケーキを持ちながらロクの前で軽やかにミミは舞い踊る。持っていたケーキを激しく横に揺らし、調子に乗って上へとその力を向けた。
「そんなことしてたらケーキ落と……」
 ロクが言い終わらないその時、スポンジケーキが型からすぽーんと上に飛び出しミミは「あー」と声を出した。
 それはロクにはスローモーションに目に映り、気がついたら咄嗟に立ち上がってスポンジケーキに向かって手を差し出していた。
「あちー! アチアチ」
 悲鳴が部屋いっぱいに響く。
 ロクは恐るべき速さで手を動かし、必死の形相でそれをミミが持っていたケーキ型に再び入れた。
「おい、焼きたてのケーキで遊ぶな」
「遊んでたわけじゃないけど、あー危なかった」
「何が危なかった、だ。こっちは手が火傷だ」
 ロクは手のひらをひらひらとふっていた。
「大丈夫? ごめん」
 ロクの手が赤くなっている。ミミは申し訳ないと顔を歪めた。
「まあ、落とさなくてよかったよ。だけどさ、それさ……」
 ロクは慌ててケーキ型に戻したスポンジケーキを見つめ黙り込んだ。
「どうしたの?」
 ミミも手元に視線を落とす。
 スポンジケーキは斜めになってケーキ型にきっちりと収まっていなかった。ミミが軽く揺らせばストンとはまり込んだ。
「なんかとても丈夫だな、それ」
 熱々だったそれは、衝撃を与えながら手のひらで跳ねるように何度もむちゃくちゃに揺らしていたが、全く形が崩れなかったことをロクは不思議に思っていた。
 焼きたてのケーキは膨らみきって安定していない柔らかさがある。ましてやスポンジケーキのようなふわふわとしたものは壊れないようにと型から取り出すのにも神経を使うはずだ。
 そう考えるとロクはそのケーキが硬いように思えてならなかった。
「無事でよかった。本当にありがとうね。ロクって割と頼りになるんだね」
恥ずかしげにミミは言う。自分も照れくさかったのか、ケーキを持ってキッチンへと戻った。
「いや、それよりもそのケーキ、味は大丈夫なのか」
「もちろん大丈夫よ」
「ちょっと味見した方がいいんじゃないか?」
「ああ、もしかしてケーキ食べたいんでしょ」
「いや、そうじゃないけどさ」
「恥ずかしがらなくていいからさ」
 ミミは網目のケーキクーラーに乗せようとケーキ型を逆さまにしてスポンジを取り出した。
「これじゃ反対だ」
 それを素早くくるっとひっくり返した。ロクはその乱雑な様子を見ていて、ケーキが硬い事を確信した。
 ミミは刃にぎざぎざがついたナイフを持ち、中心の盛り上がっていたところを削り落として平らにしようとする。
「ケーキのこういうところがおいしいんだよね。はい、どうぞ」
 丸く切り取った部分を掴み、それをロクに差し出した。
 ロクは仕方なくそれを手にする。表面はクッキーみたいなパリッとした硬さだった。そして口にした。
 ミミはロクが食べるのを固唾を飲んで見守っていた。
「美味しいとは思うけど……」
 ロクは言いにくそうに語尾を濁す。
 こういうケーキの端くれ、パリッとした部分は基本美味しい部類だ。だが、市販されているケーキと比べるとやはり質が違う。
「何、その奥歯にものがはさまったような言い方は」
「違うんだよ。味は本当に悪くないよ。でもこれでデコレーションケーキ作るんだろ。ちょっとこれでは硬くてパサパサなんじゃないかなって思うんだ」
「ええっ、ケーキってクリームやフルーツつけたら、それだけで美味しいじゃない」
 ミミは感覚でケーキを作っている。
「でもさ、スポンジの部分がパサパサしたら触感悪くならないか? そうすると美味しさも……」
 ミミは急に気分を損ねて、投げやりにスポンジの真ん中にナイフを当てると二枚におろし始めた。
 切りにくそうにボロボロと端からケーキクラムがこぼれ、切り口がガタガタになっていた。ミミの気持ちはどんどん消沈していく。
 切り終わってミミはため息を一つ吐いた。
「本当だ。これすごくパサパサだ。切ってて分かった」
「でもいいじゃないか。味は悪くなかったし、食べられない事はないよ」
 ロクも罪悪感を覚えて慰めようとする。
「食べられても、食感悪かったら美味しくないんでしょ。いいよ、無理しなくても。なんかちょっと疲れちゃった。少し休んでくる」
 ケーキをそのままにしてミミは肩を落として部屋に行く。そのうち小さくドアが閉まる音が聞こえた。
 その一部始終を見ていたロクもまた気まずくなってくる。そこまで貶すつもりで言ったわけではなかった。つい思った事が口から出ただけだ。
「ああ、やっちまった」
 なんとかしたいと思ったとき、パッとアイデアが閃き、スマホを取り出し何かを検索し出した。
「ええっと、確かトレス何ちゃらだったな」
 そして探していた情報が見つかると、棚を開け缶詰を探し出した。