ふたりは謎ときめいて始まりました。


 その翌日の早朝、ロクはまだ部屋で寝ているミミにドア越しから声を掛けた。
「出かけてくる」
「もしかして笹田さんと喫茶店に行くの?」
「まあな」
「私も行きたい」
「でもまだ身支度してないだろ。また今度な」
「ええ、ロク、待ってよ」
 ミミの頼みも聞かず、ロクはさっさと出かけて言った。勇気を出してパジャマ姿でドアの外に出るもすでに手遅れだった。
「何よ、前日に言ってくれたら早起きしたのに」
 すぐ後を追いかけようと洗面所に立ち、慌てて歯ブラシに歯磨き粉をつけるが、口に入れる前にミミの動きがふと止まってしまう。よく考えれば、自分は歓迎されていない。
 もし、身支度する時間が待てないのなら、先にロクが喫茶店に行って、ミミが後から遅れていけば言いだけの話だ。
 ――後で、来いよ。先行ってるから。
 そういうだけでよかった。
 それなのにロクは『また今度な』とミミを最初から来るなと遠まわしに示唆していた。
「男同士で話したいことでもあったのかな」
 鏡に向かって首を傾げる。
「まあ、いっか」
 深く考えないように、歯ブラシを口にいれ無心で歯を磨き始めた。
 ところが、その後「今度いつ笹田さんと喫茶店で会うの?」と聞けば、ロクは「わからない」と曖昧だ。
「それじゃ、行く時は前日に教えてよ」
 ミミは念を押す。
 それに対する返事は「ああ」と形式的にするけども、あまり乗り気じゃない。ソファーに座って黙々と本を読んで、ミミに振り向きもしなかった。
 そして、その数日後の朝、ミミが起きて部屋のドアを開けると人の気配を全然感じなかった。ロクの部屋のドアをノックしてみても応答がない。
「ロク、いるの?」
 ドアノブを掴んでまわそうとすれば、しっかりと鍵が掛かっていた。
「ちょっと、ロク!」
 何度、ノックしながら名前を呼んでも何の反応もない。
「うそ、何も言わずに出て行っちゃったの?」
 ミミは悲しくなってしまう。でも次第に腹も立って来た。あまりにも悔しいのでミミは喫茶「エフ」に向かった。
 勢いつけてやって来たものの、中へ入る勇気がない。中の様子が知りたくてミミはガラス窓の前をゆっくりと歩いてさりげなさを装って中を覗くが、窓際の席にはロクの姿が見当たらない。
 もし見つけたところで、割り込んでいいものか躊躇する。
 仕方なく帰ろうとしたとき、喫茶店のドアが開き、そこからマスターが出てきた。
「誰か、お探しですか?」
「あの、ロク、えと、逸見ロクは来てますでしょうか」
「ああ、逸見さんですね。今日は来られてませんけど」
「ほんとですか?」
「今日は待ち合わせですか?」
「いえ、その、ちょっとどこに行ったのかと思って」
「そうですか。だったら、ラテでも飲んでいかれませんか? とても美味しいですよ」
 ニコッと笑って誘われるとミミは断れなくなり、マスターの言われるままに店に入っていった。カウンター席に案内され、ミミは恐る恐るスツールに腰掛け た。マスターが機械に向かうその背中をミミはぼんやりと眺めていた。ロクと同じ事をしていると思ったとき、その機械は家にあるのとよく似ていた。
 ロクがいつもラテをいれてくれる姿とマスターの姿が重なっていく。ぼうっとしている時に、カップが目の前に置かれた。
「さあ、どうぞ」
 ロクの事を考えているうち、つい自分の家にいるような気になっていたので、ミミは一瞬目の前のマスターをロクと勘違いして慌ててしまう。
「あ、ありがとうございます」
 ボールのように大きい白いラテカップ。なみなみと注がれた淡い茶色にミルクフォームでハートが描かれていた。
 照れくさいようでいて、粋なサービスにミミは笑みをこぼした。
 ロク以外の人が淹れてくれたラテをミミはまだ飲んだ事がない。
 添えられていた不ぞろいの茶色と白の粒の砂糖。適当につまんでカップに入れた。スプーンでゆっくりとかき混ぜ、静かにカップを口元に運んでいく。一口すすればいつもの味だと優しい口当たりに満足した。
「いかがでしょうか」
「とても美味しいです」
「そうですか。それはよかった」
 マスターが笑うと目じりに皺が寄っていた。そこに年月の積み重ねが見えてくる。優しいその微笑は慈愛に満ちていた。
 何かマスターと話がしたかったが、何を話そうか考えているうちにレジに客が立ち、マスターはそちらへと行ってしまった。手もちぶささでもあるけれど、ひとりで静かにコーヒーを味わうのも悪くはない。
「それにしても、ロクは一体どこに行ってしまったのだろう」
 ラテを飲みながら、ふといらぬ事を考えてしまう。
 笹田と会っているフリをして、実は織香と会っているのでは――。
 織香は職場の既婚の医者も、中井戸も、小学生の祥司ですらとりこにしてしまう女性だ。ミミにはない色気や気品、知性までも備えて、女性の目からみても、綺麗な人だ。
 まさか、そんな。
 色々と考えをぐるぐる巡らせている間、いつの間にかカップが空になっていた。
 このままでは不安になるだけなので、ミミは確かめに行く。
「マスター、すみません、お勘定お願いします」
「大丈夫です。お勘定は逸見さんにつけておきますので」
 ここでのロクの支払いは不要になっているので、当然ミミもまた払う必要がなかった。あえてそれを言わず、あくまでもロクを立てる。
「そ、そうですか。じゃあ、お願いします。どうもご馳走さまでした」
 ミミが一礼して去ろうとした時、マスターは呼び止めた。
「あっ、ミミさん」
「はい?」
「あの、どうか深刻にならずに、全てがきっと上手く行くと思います」
「あっ、ありがとうございます……」
 ミミは曖昧に返事して店を出た。
 カウンターで思いつめながらラテを飲んでいたのをマスターは見ていたのだろう。急に恥ずかしさがこみ上げる。それと同時に不安も押し寄せた。ただの考えすぎでありますようにと願わずにはいられなかった。

 そして、織香の住んでいる家にやってきた。ここまでくると確かめずにはいられない。
 門の近くにあったインターホンを押せば、壊れているのか手ごたえがない。家の中からも呼び鈴の音がしている気配がなかった。
「本当に鳴っているのかな」
 勇気を出して、勝手に表庭に入って吐き出し窓へ近づいた。玄関にいくよりもこっちの方が中を覗きやすい。
「窓から直接覗いてやる」
 だが、レースのカーテンが閉まってよく見えない。
 思い切ってノックしてみた。でもやはり反応がなかった。
「笹田さんもいない。留守なのかな」
 一体自分は何をしているのか。我に返ったとき、自分が嫌になってくる。こんなところを人にみられたくないと、踵を返して門を出ようとしたときだった。
 黒い車がゆっくりとミミの前を動いていく。開いている窓から運転手と目が合ってしまった。瀬戸よりもさらにきつくしたような鋭い眼光に、ミミはびくっと してしまった。走り去っていくその車の後ろを暫く圧倒されて見てしまう。後部座席にも誰かが乗っていて、振り返っている様子だった。
 車種は知らないけども重圧感のある高そうな車だ。自分の家の車みたいだとミミは感じていた。
 とぼとぼと帰宅途中、ショーウインドウに映る自分の姿が情けなく、反発して背筋を伸ばした。ひとりで街を長時間歩くのはこの街を訪れて以来だ。いつもロ クに頼り、どこへ行くにも側にロクがいた。買い物すらロクが主導だ。よく考えれば、ミミはまだ自分ひとりで何かを買ったことがなかった。
 気晴らしにコンビニへ立ち寄った。ずらっと揃う色んな商品がミミの目には新鮮で珍しく映る。何か買って帰りたい。ゼリーやヨーグルトの隣にケーキがいくつか並んでいた。
 ――賞味期限25.05.11となっている。
 不思議に思いながらそのケーキを手に取り、それをレジに持っていった。
「あの、ここに書いている日付なんですけど」
 ミミが指摘すると、女性の店員がじっと見つめて『あっ』と気がついた。
「すみません、賞味期限昨日までとなって過ぎてますね」
「あっ、そうなんですか?」
「えっと、どうしましょう」
「これが一番美味しそうだったので……」
 その店員は奥にいた店長を呼んで、賞味期限が切れてることを言った。
「あっ、どうもすみませんでした。賞味期限は目安で味は劣るかもしれませんが、食べられないことはないと思うので、よかったら半額にさせていただきますが」
「あっ、そうですか。じゃあ、買います」
 今更いらないとも言えず、ミミは肩にかけていたポシェットから財布を取り出した。よく見れば一万円札しかはいってない。
「袋はどうされますか?」
「お願いします」
 店員はレジを打ち、目の前のモニターに『138円』と記された。
 細かいのがなくて申し訳なく、ミミは一万円札を出した。店員はそれを受け取り眉間に皺を寄せて、あまり歓迎しない仕草をする。
「すみません、他に持ち合わせがないんです」
 謝るミミを見てすぐ店長が店員から引き継ぎ、女性の店員を隣のレジに移動させた。
「ああ、構いません。大丈夫ですよ」
 ミミは再度、鞄の中を探り、そこに百円が二枚落ちているのを見つけた。
「ああ、ありました。二百円」
 ミミは一万円を戻してもらい、二百円を差し出した。
ホッとしていると、隣のレジでもミミと同じような状況になっている客がいた。
「あら、細かいのがないわ。一万円でいいかしら」
「いいですよ」
 さっきの女性店員はミミのときと違って一万円を手にして笑顔で受け答えしていた。ミミはそれを見ていて顔をしかめていた。
 また変な感覚がよぎり、困惑してくる。突然の不安。浮かない顔をして店を出れば、ばったりと中井戸に出会った。
「あっ、ミミさん。奇遇ですね」
「中井戸さん、おはようございます。どこかお出かけですか」
「もちろん仕事ですよ」
「そうですか」
 中井戸がどんな仕事をしているのかミミには想像つかない。
「さっき、逸見さんに会いましたけど、今日は別行動の調査ですか?」
「えっ、どこでロクに会ったんですか?」
「僕のアパートの近くです。隣に知らない男性もいました」
「それで何をしてたんですか?」
「さあ、詳しくは分かりませんが、僕の上の階はまだ開いているのかとか訊いてきたので、部屋を探していたのかもしれません」
「そうですか」
 ミミの表情がぱっと明るくなった。
「中井戸さん、ありがとう。よかったらこれどうぞ」
 ミミは先ほど買ったばかりのケーキを差し出す」
「な、なんですか、急に」
 中井戸に押し付け、ミミは走っていく。後ろでミミを呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まらなかった。
 織香といつまでも一緒に同居できないと思った笹田のために、ロクは部屋探しを手伝っているのだろう。
 それを勝手に変な想像をしてしまった。
 ミミはいつもロクのこととなると一喜一憂してしまう。それが馬鹿げていると後で思うのに、どうしようもなくいつも心が乱される。
「仕方ないじゃない。好きなんだから」
 お守りの金の懐中時計がショルダーバッグに入っている。いつか自分の気持ちがロクに届くようにミミは鞄の上に手を重ねた。不安に惑わされずに、一日一日を大切に明るく笑っていたい。
 ロクの事を思うとミミは駆け出さずにはいられなかった。

「今日は晴れてよかった」
 白いワンピースに、ショルダーバッグを斜めに掛け、ミミはうきうきとしている。
「まるで自分の子供の授業を見に行くみたいにはりきってるな」
 ロクはその隣で肩を並べて歩いていた。
「だって子供たちかわいいじゃない。自分の子供だったらもっとはりきるかも。それで夫婦揃って見にいけたら最高だろうな。キャー、うちの子が答えたわ、なんてはしゃぎそう」
「まさにそういうの親ばかっていうんだろうな」
「いいじゃない。うちは父も母も淡々として、テストでいい点とってもあまり褒めてもらえなかった。それよりも、なぜそんなところ間違えたのって責められた」
「厳しい家庭だな」
「どっちも高い教育受けて育ったから、できて当然って考えなんだと思う」
「いつ聞いても、ミミの家庭は複雑そうだ」
「だから、ロクと過ごして謎解きできる生活って楽しい。このまま……ずっと続けていたい、なぁ!」
 気持ちが高ぶってホップスッテップと突然歩幅を大きくし最後にジャンプするミミ。白いワンピースの裾が大胆に揺れて、はっとして手で押さえていた。
「おいおい、はしゃぐのもいいけど、瀬戸さんがご好意で誘ってくれたんだから、学校内で恥になることはするなよ」
「わかってるって」
 ふたりが学校の門の前に近づいたとき、前に歩いていた人たちが、ギョッとしてその後何かを避けるようにスタスタと歩いていく。みんながみんな門に入ろうとすると同じリアクションをしていた。
 ロクとミミも校門に入ってドキッとした。
「ああ、ミミさん、逸見さん。よう来てくれました」
「せ、瀬戸さん、どうも」
 ふたりは頭を下げた。
「ミミさん、白いドレスがよう似合っとりますがな。お嬢さまみたいですやん」
「実はそうなんですけどね」
「おい、ミミ」
 ロクは嗜める。
「瀬戸さんも、その縦じまの黒いスーツがよく似合ってらっしゃる」
 先ほどはその姿にびっくりしたというのに、ミミもお返しに褒めた。
「いつもカジュアルなシャツ着てますやろ。今日くらいはきっちりと正装していったらなあかんと思いまして」
 あまりにもその道がするその姿は見るものを怖がらせていた。
「あっ、なんかいい香りがする」
 ミミはくんくんと瀬戸のスーツを匂った。
「ああ、これはハーブの匂いですわ。虫除けにラベンダーやペパーミントなど使ってサシェを作って服と一緒にしまってたんです。ナフタリンの匂いよりはええでっしゃろ」
 ミミと瀬戸が仲良く会話している側を、参観日を見に来た保護者たちが避けて通っていた。
「あ、そうや、折角ミミさん可愛らしいドレス着てはるし、記念におふたりの写真撮りましょうか」
 瀬戸はポケットからデジカメを取り出した。息子の写真を撮るために用意していた。
「そこの桜の木の前に立って下さいな。花は散ってしまいましたけども、新緑もええ感じですわ」
 瀬戸に言われ、ロクとミミは木の前に立つ。みずみずしい緑の葉っぱが光を受けてキラキラとしていた。
「じゃ、撮りますよ。おふたりさん、笑って、はい、チーズ」
 瀬戸はシャッタを切った。
「ええ感じに撮れましたわ」
 ふたりに近づき、カメラの画面に映った画像を見せた。
 確かにいい感じで映っているかもしれないが、ミミの顔ははっとしていた。
「あの、それ、写真にできるんですか?」
「ああ、また後でプリントしてお渡ししますね。ああ、もうこんな時間や。そろそろ授業が始まりますわ。それから、これ使って下さい」
 瀬戸は手に持っていた手提げからスリッパを取り出し、ロクとミミに渡した。ふたりは有難くそれらを手にした。
 昇降口で靴を履きかえる。準備万全に瀬戸は袋も用意してくれて、そこに靴を入れて持ち運ぶ。
「逸見さんとミミさんが来てくれてほんま助かりましたわ」
「いえいえ、こちらこそお誘いありがとうございます」
 ミミが礼を言う。
「もしかして、奥さんはこられないんですか?」
 ロクが訊いた。
「そうなんです。祥司はそれでがっかりしてまして落ち込むわ、妻も、最近疲れが溜まっているのか、出張から帰ってきてずっとなんかしんどそうなんですわ」
「大丈夫ですか?」
 ミミは気を遣う。
「俺も心配なんですけど、本人が大丈夫いうてますから、無理だけはしたらあかんとだけいいましたんや。でも今の仕事が片付かん限りゆっくりでけへんとかいうてました」
「奥さん何をされてらっしゃるんですか?」
「なんか輸入の商品扱ったり、現地の工場と掛け合って契約を結んだりしてるみたいなこというてたな」
 責任がある大変な仕事だとミミは思った。
 ロクとミミは瀬戸に案内され、階段を上っていく。
 校舎内は自分の子供のためにとたくさんの父母たちで溢れていた。赤ちゃんやまだ未就学の子供も親に連れられて、兄や姉の授業を見に来ている。
 廊下でずらっと並んで教室を見ている人達。その後ろでは隙間を探して首を動かしている人達。教室中では一番後ろに立っている人達。みんな窮屈そうにそれぞれ自分の子供を見るために色んな思いを抱いて立っていた。
 三年二組の教室に来ると、開いている窓から久太郎、祥司、楓がそれぞれ見えた。授業はすでに始まっていて、黒板の前で女性の先生が磁石を使って説明して いた。理科の授業だ。先生の化粧が若干濃いような感じがする。保護者たちがくるので力が入っているのだろう。歳はまだ若く、パッと見た感じ新米の先生とい う雰囲気だ。この先生が消しゴムをたくさん用意するようには見えないとミミは感じていた。
 ロクもこのクラスで変わった事がないか、どの大人がこの問題にかかわっているのか、それらしい人はいないか見ていたが、わからずじまいだった。
 ミミはもっとよく見ようと後ろの出入り口に顔を近づけると、ドア付近に立っていた楓の母親の美佐子と目があった。
 声を出せないのでお互い会釈で済ませたが、美佐子はミミのために詰めて場所を空けようとすると、周りにいた人が気を遣って一斉にもぞもぞして動いた。
「(すみません)」
 衣服が擦れたくらいの小さな声を出してミミは美佐子の隣に立った。その時、保護者たちのざわつきを感知したのか、久太郎が後ろを振りむき、ミミを見てびっくりしていた。
 ミミは小さく手を振って愛嬌を振りまいた。
「それでは、この磁石を用いて隣の人とペアになって実験しましょう」
 先生の合図で、教室内は少し騒がしくなった。
 後ろから教室を見ると子供たちの様子が良く見えた。自分のときよりも、数が少ないとミミが人数を数えれば、三十五人だった。
 ペアになればひとり余ってしまう。でも三人で実験をしているところがあって、ほっとした。そこに祥司が入っている。
 祥司なら、わが道を行く無茶な実験をしそうな気がしていたが、不思議と祥司以外のふたりが積極的に手を動かして、祥司はただ見ているだけだった。
 ふと瀬戸の様子を見れば、窓際でもどかしそうにしていた。
 母親が来ないことで元気がないのか、この日の祥司はいつもと違って大人しい。心ここにあらず、考え事をしているようにぼんやりとした様子だった。
 実験をしている生徒たちの様子を先生はアドバイスを添えながらゆっくりと見回っていた。質問する生徒の声が聞こえたり、生徒同士が意見を出し合ったりと、授業は活気があるのに、祥司だけが暗いのだ。
 時々、保護者が気になって振り返る生徒がいるが、久太郎はその中でも振り返る頻度が高かった。 ロクが来ていることもわかって、それもびっくりしていたが、その後、また振り返ったときにミミとロクを見つけた以上に息を飲んで驚いていた。
 一体誰を見て驚いているのだろうと、ミミがその視線を探れば、そこにはきっちりとスーツを着こなした紳士風の男性が佇んでいた。そういう人は周りにいなかったので、今来た様子だ。みんな物静かに授業を見ている中で、一際異質な程に緊張した姿だった。
 目を丸くして驚いていた久太郎の顔がいつの間にか弛緩して、喜びに変わっているところを見ると久太郎の父親だろうか。
 ミミがあまりにもじろじろとその男性を見れば、視線を感じたのか目が会ってしまった。ミミは焦って愛想笑いをして、何事もなかったように前を向いた。
 その後、子供たちはそれぞれの実験の結果を報告し、先生が箇条書きに黒板に書いていった。
 面白い事を言う子もいて、保護者も交えた笑いがあって、授業は楽しいものとなった。最後は先生がまとめを言うと、ちょうどチャイムの音が鳴り授業が終わったところで、空気が柔らかくなった。
 たくさんの人に見られての授業は緊張したことだろう。終わったとたん子供たちは開放感にざわつきだした。

 その後、終わりの会が続けて始まり先生は保護者に挨拶をして、放課後にクラスについて質問や意見を承ると言っていた。そして起立、礼をして全てが終わる。帰る準備が整った子供たちは自分の親の元へと寄って行く。
「あっ、お姉ちゃん」
 楓が美佐子の元に来たとき、ミミを見て驚いていた。
「楓ちゃん、こんにちは」
「お姉ちゃん、あれからどうなったの?」
 まだ罪悪感が残る楓は消しゴムの事を心配している。ミミはどう言おうか考えていた時だった。久太郎が「お父さん」と呼ぶ声が聞こえて、ふとそっちを見てしまった。
 クラスは保護者と子供たちが入り混じり、ざわざわとしている。廊下も他のクラスの保護者が移動してたくさんの人で溢れている。その中で、ランドセルを背負う久太郎と父親の姿が廊下で浮き上がるようにミミの目を引いた。
 楓も久太郎を見ていたが、まだ良心の呵責を感じ引っかかっている様子だ。早く久太郎から消しゴムの情報を引き出して、代わりのものを用意しなければとミミは思っていた。
「楓ちゃん、あの消しゴムね……」
 きっと見つけて上手くいくことを伝えようとしていると、久太郎がまた大きな声を出していた。
「これ、お父さんが見つけたの?」
「ああ、落ちてたぞ。拾ってケースの中見たら、お前の名前が書いてあって、びっくりした」
「ええ、どこにあったの?」
「学校の門の近くで落ちてたぞ」
 その会話は、事情を知っているものには驚きだった。
「お母さん」
 楓は泣きそうになりながら美佐子に抱きついた。
「ミミさん、どうしたらいいでしょう」
 美佐子も不安な表情を向けた。
 ミミも突然のことにどうしていいのかわからず、ロクの姿を探した。ロクはその時、黒板の前で先生と話していた。
 ミミは自分で解決しようと覚悟を決めた。
「ええと、あの、ちょっと待っててもらえますか?」
 楓と美佐子を置いてミミは廊下に出て行く。緊張しながら久太郎の元へと足を向けた。
「あの、久ちゃん」
「あっ、ミミ姉ちゃん。参観日に来てたんだね。びっくりした」
「あっ、ど、ど、どうも、は、初めまして。久太郎の父の、……宇野海禄(うのみろく)と申します。お噂は聞いております。いつもお世話になっております」
 海禄はきっちりしたみかけなのに、突然ミミがやってきて驚いている様子だ。
「いえ、そんな何もしてませんが」
 ミミもまた恐縮してしまう。
「そうだ、お姉ちゃん、消しゴム見つかったんだよ。ほら」
 久太郎はミミに消しゴムを見せた。
 青と白と黒のトリコロールのそれは、シンプルな良く見かける消しゴムだった。
「よかったね」
「校門の近くで落ちてたのをお父さんが見つけてくれたんだ。でもさ、今日は赤ちゃんの世話で来れないお母さんの代わりにおじいちゃんとおばあちゃんが来てくれる約束だったのに、まさかお父さんが来てくれるなんて思わなかった。お仕事大丈夫なの?」
「ああ、仕事がこの近くだったから、ちょっとだけと思って、見に来た。でもすぐに戻らないと」
「じゃあ、無理して来てくれたんだ。お父さんが現れて本当にびっくりしちゃった。いつもは仕事で忙しいもんね」
「それじゃ、もう行くから。ええと、ミミさん、お会いできてよかったです」
「あっ、こちらこそ」
 ミミは慌てて頭を下げた。
「久太郎、寄り道しないで早く家に帰れよ」
「うん」
 海禄は一度教室の中を見て、そして去っていった。きっちりとした身なり、精悍な顔立ちがとてもしっかりした大人に見えた。
「僕のお父さん、かっこいいでしょ。刑事なんだよ」
「ええ、そ、そうなの」
 刑事という響きに圧倒されるミミ。
「近くで仕事って、もしかしたら事件なのかな」
 久太郎の言葉はさらりと怖い。
「あっ、そうだ、久ちゃんちょっと話があるんだけど」
「何?」
 あどけない瞳はこれからの負担をもっと重くした。ミミが振り返ると、楓と美佐子が重い足取りで久太郎の前にやってくる。
 廊下は先ほどよりも人が減っていた。学校から解放された気楽さ。それぞれが帰宅するざわついた放課後。ガヤガヤとした中で楓は真剣に久太郎と向き合った。

「久太郎君」
「どうしたの、葉山さん?」
「あのね、消しゴムのことなんだけど」
「あっ、そうだ。あの消しゴム、見つかったんだよ。ほらっ」
 久太郎は楓にそれを見せると楓の目が潤み出した。
「あのね、その消しゴムね。私がとってなくしたの」
 楓は正直に言った。
「ん? 消しゴム、ここにあるけど?」
「その、消しゴムがなくなったのは私がとったからなの。ごめんなさい」
「えっ? 葉山さんの言ってる意味がわかんない」
 久太郎にとって楓の説明では要領を得てなくて状況を把握できない。ミミは助け舟を出す。
「あのね、久ちゃん、その消しゴムね、楓ちゃんに魔法を掛けたの」
「魔法?」
 そう恋という魔法よとミミは心で呟く。
「だから楓ちゃんは魔が差してそれを持ってしまったの。楓ちゃんはすぐに返そうとしたのに、消しゴムが帰りたくなくて飛び出してどこかへいっちゃったの。その事を久ちゃんにずっと言えなかったの。でもずっと謝りたいって思っていたんだよ」
 遠まわしに説明するが、ミミ本人も自分の言っていることに無理があるから苦しい。
「久太郎君、本当にごめん」
 楓は涙ながらに謝ると、となりで美佐子も「ごめんなさい」と頭を下げていた。
「なんだかよくわからないけど、消しゴムは戻ってきたし、この消しゴムも外に出て楽しんで帰ってきたんだと思う。おばあちゃんが話してくれたんだけど、物 にも魂が宿って、持ち主を運命に導く力があるって言ってたんだ。きっとこの消しゴムもそうなんだと思う。だから気にしないで」
 どこまでも久太郎の心は澄んで優しい。久太郎の祖母の言葉を聞く限り、いいおばあさんなのだろう。ミミまでも久太郎の言葉に心が温かくなった。
「久太郎君……ありがとう」
 楓の目に溜まった涙がこぼれていく。でも気持ちはすっきりしてほっとした涙だった。
 楓は正直に言った。解釈の仕方が違っても久太郎はそれを受けいれた。これで楓の問題は解決したのだ。
「楓ちゃん、よかったね」
 ミミもほっとする。
「よぉ、久太郎」
 ロクが現れた。
「ロク兄ちゃん、ほらこれ見て」
 消しゴムを見せる久太郎。
「もしかしてこれって、なくしたっていう消しゴム?」
「そうだよ。お父さんが門の近くで見つけたんだ」
「お父さん? その人今どこ?」
 ロクは詳しい話を聞きたいと辺りを見回す。
「仕事があるからもう帰っちゃった。僕もそろそろ帰らないと。早く帰るってお父さんと約束したし。それじゃ、葉山さん、また明日ね。ミミ姉ちゃんもロク兄ちゃんもまたね」
 最後に美佐子と目を合わし軽く頭を下げる久太郎。
 そこにいたものはみんな、去っていく後姿を見ていた。
「あの、逸見さん、ミミさん、色々とお世話になりました」
 美佐子が改めて礼を言う。
「一体、どうなってんだ?」
 ロクはまだ把握しきれてない。
「あとで説明するから」
 ミミは肘鉄をつく。
 楓と美佐子はお礼を言うと、すっきりとした顔をして帰っていった。
 ミミはふたりを見送った後、手短に経緯をロクに話すと、ロクは腑に落ちないと顔を歪ませた。
「楓ちゃんが謝れたからこれは一件落着。それで、ロクは先生と何を話していたの?」
「久太郎の消しゴムのことに決まってるだろ。先生が用意したのかってことを確認したけど、何も知らなかったそうだ。それで放課後このクラスに入った大人がいなかったか確かめてたんだ。先生の知ってる限りでは不審な事は何もなかったらしい」
「そっか、大量の消しゴムは誰が用意したかはわからないままか」
「それで、その久太郎の父親って刑事って本当か?」
 ロクがいうと、「刑事?」と後ろで瀬戸の反応する声が聞こえた。
 その隣で、祥司がボソッといった。
「久ちゃんのお父さんでしょ」
「なんや、お前の友達の親はデカなんか」
 瀬戸が聞き返すと、祥司は不機嫌に「うん」と首を振った。
「祥ちゃん、もしかして、どこか具合が悪いの。授業でもなんかいつもと違った雰囲気だったよ」
 ミミがいうと、祥司ははっきりしない表情で首を横に振る。それが嘘なのが誰の目にも映った。
「もう、祥司、そんなに怒らんでも。ママも大変やねんって。その代わり、逸見さんとミミさんが来てくれたやんか。いつまでもそんな暗い顔してたらあかんで」
「そんなんじゃないもん」
 祥司は走っていってしまう。
「祥司、廊下走ったらあかんやん。もう、しゃーない子やで」
「祥ちゃん、お母さんによほど来てほしかったんでしょうね。瀬戸さんと並んで参観日に来ているところを見たかったんですよ」
 ミミは察して、祥司をかばった。
「そうだとしても、あんなに暗いあの子を見るのは初めてですわ。いや、待てよ、一回あったかな、そういえば、その時あのメモを書いたときかもしれません わ。急に黙り込んで元気なくなりよったんですわ。あの時もそういえば、ママが海外に出張に行くと決まったときでしたわ。あいつマザコンやったんですな」
「確か、お母さんはお疲れみたいって言ってましたね」
 ミミが言った。
「そうですわ。あの子なりに母親のこと心配してたんですな。本当なら俺が働いて母親が家にいる方がええんですけど、俺の方が家事するのうまいとかいうて、外で働かせてもらえへんのですわ」
 それぞれの家庭の事情もあるだろうと思いながら、ミミは聞いていた。
 その時、ロクの表情は硬く考え事をしている様子だった。

 ロクとミミが瀬戸たちと別れて家路についたのは午後四時を回ったところだった。
「さっきから黙り込んでいるけど、まだ消しゴムの謎について考えているの?」
 ミミが訊いた。
「色々と気になる事があるんだけど、ちょっと今から出かけてくる」
「ええ、どこに行くの? 調査なら私も一緒に行くのに」
「ミミは先に帰っていてくれ。よかったら夕飯作って待っていてくれないか?」
「えっ、夕飯? いいよ。何が食べたい?」
「ミミに任せる」
「わかった」
 ミミが承諾すると、ロクは来た道を戻っていった。
 料理を作ってくれといわれると、ミミは断然やる気に燃える。ロクが喜ぶような料理を作ってみたい。ついでにデザートも作れば完璧だ。何を作ればいいかミミは考えながら歩いていた。
 大通りからひとつ中に入った街並みは、個人の店とマンションの建物と住宅が密集している。看板や幟、至る所の自動販売機が飾りとなってごちゃごちゃして いた。そんなに広くない道を自動車が不定期に通っていく。自転車もすれ違い、それらが重なると一気に道が混み合う。その重なる瞬間を避けようとミミが道の 端に寄って前後の様子を見ているとふと違和感を覚えた。
 ミミの後ろで男性が不自然に身を隠したように見えたからだった。その時は偶然かもしれないと自信がなかったが、自動販売機の前に立ち、商品を選んでいるふりをして後方をもう一度ちらりと見れば、先ほどの男性が不自然にミミの視界から消えるように建物の陰に近づいた。
 ――付けられている。
 そう思ったとき、黒い車がすっと走ってきてミミの横で止まった。
 見た事がある車だと思ったその時、後部座席のドアが開いた。出てくるのかと思えば、乗っていた人が奥へと詰める。
 怖くなって逃げようと思ったときは、先ほど後ろをつけていた男がすでにミミの側にいて、ぐっと腕を掴んだかと思うと、車の中へと無理やり押し込んだ。
 突然のことに驚きすぎてミミは声が出せずに、気がついたら両隣の男たちに挟まれてシートに座っていた。
 車はすぐに発車し、ミミはつれていかれてしまった。
「ああー!」
 やっと事態の深刻さに気がついたミミは悲鳴を上げるも、すぐに男に口を塞がれてしまった。
「むむむっむ、ぐぐむぐぐぐ(ちょっと何するのよ)」
「白石さん、お静かに、悪いようにはしません。ちょっと一緒に来て下さい」
 運転手の隣にいた濃い顔の男性が声を掛けた。
 ――白石?
 ミミの耳には確かにそう聞こえた。
「むむむっむ、むむむむむぐ!(ちょっと、白石じゃないわよ!)」
「おい、うるさいから、薬でも嗅がしておけ」
 後部座席のもうひとりの男が、ごそごそと何かをポケットから出しそれを布にかけてミミの口を塞いだ。
 ミミは恐怖に慄いて暴れたが息を吸い込めば、なにやらいい匂い。
「ん?」
 一瞬肩の力が抜けた。不思議に思って口を塞いでいる男を見れば目で何かを訴えるような仕草をした。この男は自分の味方だ。直感で感じる。
 何かの意図があると悟ったミミは、目を閉じて頭をガクッとさせた。眠ったふりだ。
 ――でもこれ、バニラエッセンスだよね。ああ、いい香り。
 ミミは暫く様子を見ることにした。
「おい、なんか甘ったるい匂いがしないか?」
「今、ケーキ屋かパン屋の側通りました」
「そうか。なんか腹減ってくるな」
「お前ら、後ろでごちゃごちゃ言うんじゃない。遊びじゃないんだぞ、分かってんのか」
「へい、すいやせん、兄貴」
 ミミは何が起こっているのか、それを探ろうと男たちの会話を注意深く聞いていた。

 ミミと離れた後、ロクはスマホを取り出し電話を掛けた。それはすぐに繋がった。
「もしもし、笹田さんですか? 逸見です。そちら変わりありませんか?」
 ――はい、今、瀬戸とその子供が家に入って行ったところです。それ以外は何も変わりありません。
「瀬戸さんが何か気づいた様子はどうでしょう?」
 ――見る限りは何も変化ない感じですね。
「でも、息子の祥司君が何か感づいている様子です。今日、学校でかなり元気がなく、あきらかに母親を心配していました。以前も母親の海外出張が決まった時も落ち込んだそうです」
 ロクはあのメモの事を思い出していた。あれは継父と思っていたときの瀬戸の事で抱いた気持ちではなかった。あの時はそのメモを書いた動機は瀬戸に対する嫌がらせと、本人に追及することなくその場にいたものがそう思いこんでしまった。
『全てが意地悪じゃない。メモを書いたときも本当に助けてって気分だったんだ』
 あの後瀬戸が本当の父親と説明したことで、この件はうやむやになってしまったが、あの時助けてと思った気持ちは母親に関することに違いない。
 母親は出張から帰ってきてずっと疲れた様子でいたこと。参観日に父親と一緒に来てと昨晩、いや、今朝まで母親に言い続けてねばっていたに違いない。
 だが、母親は仕事が忙しいといってこなかった。参観日に父親と一緒に来られないのはがっかりするかもしれないが、ロクもミミもお願いされて行ったのにあそこまで落ち込むのはおかしい。ロクは違和感を抱いていた。
 もしかしたら、祥司は何か知っているのではないだろうか。
「笹田さん、俺、今から瀬戸さんのところに行って祥司君と会ってきます」
 ――しかし、瀬戸に知られたら事態はかなりややこしくなります。
「事態はすでにややこしくなってます。白石さんもこの件に巻き込まれてしまったんです。白石さんだって、今危ない状態じゃないんですか?」
 ――それは大丈夫です。他の刑事が警護に当たってます。それに今日は夜勤でずっと病院にいます。
「とにかく、瀬戸さんの目を盗んで祥司君とだけ話せるようにもっていきます。俺もそっちにいきますので」
 ――わかりました。今は逸見さんの協力なしではありえません。私がへまをしたばかりに、逸見さんにも迷惑を掛けてしまいました。すみません。
「いえ、俺も探偵の端くれ、警察の力になれるのなら本望です」
 ――逸見さんを見ていると、うちの署の伝説の話を思い出します。
「伝説?」
 ――昔、事件の解決に大いに貢献した探偵がいたらしいんです。確か名前は斉須(せいす)ヒフミだったかな。
「セイスヒフミ?」
 聞いた事があるような気がすると、ロクは繰り返した。
 ――その探偵が関わると、事件が次々に解決したそうです。
「今は、その探偵はどこにいるんですか?」
 ――私もそこまでは詳しくないんですけど、すでにお年で引退されてるそうです。
「そんなすごい人なら俺も是非会ってみたいな……あっ、そろそろ、そちらに着きます」
 ――こちらも窓から見えました。それでは何かありましたらすぐご連絡下さい。ここから見張っております。
「了解」
 ロクは通話を切り、アパートの二階の窓を見つめた。その下の階は中井戸の部屋だ。電気がついていないところを見ると留守らしい。
 ロクはぐっと気持ちを引き締める。
 今を思えば、織香が持ってきたあの手紙から全てが始まっている。笹田は刑事だ。あの家に入り込んだのは捜査の一環だった。
 捜査令状を持っていたが、織香にも危険があり、それを本人に知らせればもっと危険に晒されるために、ああするしかなかったと、ロクが笹田を捕まえた時に言っていた。
 ミミが久太郎を家に帰そうと外に出た間に、笹田はロクにその目的を説明した。
 笹田聖と名乗っているがそれはあの家の持ち主の息子のふりをしているからだ。本当は山下努という。白石に本当の事を話せないためにそのまま齟齬のないようにロクは笹田と呼んでいる。
 当の本人の笹田聖はすでに捕まって今は警察で拘留中だ。
 笹田夫妻は海外に住んで薬物や違法なものを日本に輸出する役目を担っている。それを息子の笹田聖が経営する会社名義で偽装して受け取り、その道のものたちにさばいていた。
 織香はこの件については全く無関係でただ家を貸りている存在に過ぎないが、もし笹田が組織を裏切り不利益な事をしたときは危害を加えて笹田に擦り付けると脅していた。そのため織香にも警察の警護が入っていた。
 山下が家に入り込んだのは本人の笹田が実家にも不法なものが置いてあると供述し、それを押収することだった。
 最初はこっそりと忍び込み、押入れに身を潜め、織香が家を出たとき探りをいれた。だがすぐには見つからず、暫く潜伏することにした。押入れから天井裏に続く入り口を見つけ、そこが隠れるのに適していた。
 長居をするつもりはなかったそうだが、捜査に手惑いどうしようかと油断をしているときに、ロクが入り込んだというわけだった。
 ロクは全てを知った上で、山下に協力することにした。織香に危険があるのなら身近にいた方がいいということで笹田夫妻の息子のふりをして一緒に暮らす方向へ持っていった。
 そうすれば堂々と家にいられ、織香のいない時に捜査ができるということだった。
 唯一事情を知るロクは山下にとって心強い味方だった。探偵ということもあり、頼りにもなった。 時々ロクはミミの知らないところで山下の力になっていた。
 ロクは今、瀬戸の家の前にいる。笹田夫妻の仕事が滞ったことで、組織は次のターゲットに瀬戸の内縁の妻である比井あかりに目をつけた。その情報が山下に入り、そこで中井戸が住んでいるアパートの二階を借りて、確かな証拠をつかもうと様子を探っている最中なのだ。
 その情報が嘘であってほしいとロクは願うも、祥司の行動が違和感に変わり、あかりと組織に接点があると睨んでいる。
 手遅れにならないうちになんとしてでも瀬戸とその家族を助けたい。その意気込みで、インターホンを押した。
 ――あかりか?
「いえ、逸見です」
 ――逸見さん? はい、今行きます。
 玄関のドアがすぐに開いた。花柄のエプロンをしている瀬戸の姿が現れた。
「どうも突然すみません」
 ロクは頭を下げた。
「どないしたんですか? あれ、ミミさんは?」
「いえ、俺、ひとりなんです。ちょっと祥司君に訊きたい事があって」
「うちの祥司、何か悪いことしたんですか?」
「いえいえ、違うんです。あの、消しゴムのことについてもう少し当事の事を詳しく訊きたくて」
「ああ、あの不思議な話ですな。さあ、中へ入ってくださいな」
 なんとか取り付く事ができた。
「もしかして、お料理中?」
「そうなんです。落ち込んでるときは祥司の好きなハンバーグでも作ろうと思いまして。よかったら逸見さんもどうです?」
「いえ、あの、ミミが今夕飯作ってるんです」
「ああ、そうですか。おふたりさんも仲がよろしいですな。ミミさん、かわいらしいし、ええ子じゃないですか。それで結婚はいつ?」
「えっ!? そ、そこまでは」
「なんですか、一緒に住んではるんでしょ。だったら早く式を挙げといたほうがいいですよ。うちは、事情があってまだ挙げてませんけど、やっぱり若いときに形だけでもウエディングドレス着せてやりたかったなって今になって後悔です」
「でも、今からでもいいじゃないですか」
「まあ、そのうち結婚式は挙げてもいいかなとは思ってるんです。だけど、足を洗ってカタギになったとはいえ、まだまだ一筋縄ではいかん状態でしてね。どこ で、昔の敵と出くわして何をしでかすかわからんのですわ。それでこのまま籍も入れず、事実婚のままでいいかと思ってるんですけど。祥司が父親と認めてくれ たらそれで俺も満足ですわ。いや、俺のことはどうでもいいんですけど、経験上、逸見さんタイミングは逃さんといて下さいね。好きだと思ったら勢いも大切 でっせ」
「は、はい」
 アドバイスを受ける立場になってしまった。
「そうや、祥司でしたな。今、部屋にいてゲームしてますんやけど、下りてくるようにいいますわ」
「いえ、俺が直接部屋に行ってみます。ちょっとしたことを訊くだけなので、すぐに帰りますので」
「そうですか。そんなら、その階段上がったすぐの部屋です」
「すいません、お忙しいところ、お邪魔して」
「遠慮しゃんといて下さい。俺、あまり友達おりまへんやろ。こうやって逸見さんやミミさんと仲良くできて嬉しいんですわ」
 瀬戸の笑顔が素敵だった。なんとしてもこの笑顔を守りたいとロクは思う。
 瀬戸がキッチンで料理をしている間、ロクは階段を上り、祥司の部屋に向かった。
 ドアを軽くノックし、少しだけ開けた。
「祥司君、入るよ」
 隙間から覗いた祥司はベッドの上でうつぶせになってゲーム機を操っていた。ロクが姿を見せると、体を起こしベッドの淵に座った。
 ロクは階段を見て瀬戸がいない事を確かめてから、部屋の中に入っていく。
 祥司が怖がるといけないので、ドアは閉めなかった。
 祥司が虚ろげな目でロクを見つめる。
「祥司君、これから訊く事はふたりだけの話にしてほしいんだ」
「うん、いいけど、何?」
「祥司君が今心配していることなんだ。それはお母さんのことじゃないかな」
「えっ、ど、どうして」
「祥司君はお母さんが仕事で困っている原因を知っていて、それが大変なことだってわかってるんじゃないのかい?」
 ロクの質問は祥司を動揺させた。図星だ。
「俺がお母さんを助けてあげる」
「お兄ちゃん、ほんと? 本当にママを助けてくれる?」
「約束する」
「あのね、ママね、悪い人に脅されてるかもしれない」
 ロクの思った通りだった。
「ある日、ママに電話が掛かってきて、その後、ちょっとコンビニ行くって言って出て行ったの。僕は何か買ってもらえるかなと思ってこっそり後をつけたら、 ママ、変な男の人たちと会っていて何かを話してたの。心配で、ママの元に行ったら、その人達、近くに止めてあった車に乗ってすぐどこかに行ったの。何の話 してたのってきいたら、仕事の話だから心配するなって、お父さんにも心配かけちゃだめだから変なこといっちゃだめだよって。そしたらその後、海外に出張が 決まって僕なんだか嫌な予感がしたんだ」
 祥司の勘が働いたのだろう。それだけ異様な雰囲気を感じたに違いない。
「たまに黒猫がこの辺歩いていたんだ。その事を久ちゃんに言ったことがあるんだけど、そしたら魔女に変えられた黒猫かもしれないとかいって、その魔女が白 石のお姉ちゃんだとか教えてくれて、だったらメモをお姉ちゃんのところに咥えてもってもらってこっそりと魔法で助けてくれないかなって思ったんだ。でも届 かなかったみたいで連絡がなくて、それでお姉ちゃんに直接会って話そうと思ったの。仮病つかっちゃったけど、そしたらお兄ちゃんたちが来て邪魔したよね」
話がどんどん繋がってくる。
「ごめん。だから、今、助けにきたんだよ」
「ママ、出張から帰ってきて、ものすごく疲れてるんだ。きっと嫌な仕事してきたんだと思う。僕、そんなママを見るのが辛くて。きっとまたあいつらが来てママを脅すんだ」
 脅す――。
 輸入業に携わるあかりは組織には都合がいい。そして何より弱みがあり、それが瀬戸だ。瀬戸を守るためにあかりは犯罪の手伝いをせざるを得なくなった。一度手伝えばこの先ずっと脅され続けてしまう。
「大丈夫だよ。お母さんを脅すような奴らは俺がやっつけてやる」
 とにかく、祥司の話で裏が取れた。あとは山下に連絡すればいいだけだ。
 ロクは祥司としっかり約束をし、そして階段を下りていく。その時その先の玄関のドアが開いて、あかりが帰ってきた。
「あら、お客さん?」
「あ、どうも、お邪魔してます」
 小学生の息子がいると思えないくらいあかりは若く、茶髪と赤いネイルが派手に見える。ロクはあかりを目の前にして恐縮していた。
「お帰り、あかり」
 瀬戸がフライ返しを持って出迎える。
「この方は?」
「ほら、話したやろ、探偵の逸見さんや。この方のお陰で、カミングアウト上手いこといったんや」
「ああ、この人が。どうもその節はお世話になりました」
「いえ、特別に何もしてないんですけど」
 どう答えていいかわからないロク。
「なんやあかり、ちょっと顔赤いで。飲んできたんか」
「仕事の付き合いで、ちょっとだけ」
「んもう、疲れてるんやから、内臓に負担掛けるアルコールはあかんで」
「ええやん、和君、ちょっとくらい。飲まなやってられないこともあるの」
 あかりは靴を脱いで家に上がる時にふらついた。
「おいおい、結構飲んできたんとちゃうんか。ほんましゃーないな」
瀬戸は片手で支える。
祥司が階段を下りて、母の姿を見てショックを受けていた。
「ああ、祥ちゃん、今日は参観日いけなくてごめんね」
 瀬戸の肩越しにあかりは祥司と向き合った。
「ママ、ママ」
 祥司は心配でとうとう泣き出した。
「おいおい、祥司、何も泣かんでええやん」
 瀬戸はあかりと祥司の世話におろおろしていた。
「祥司君、大丈夫。ママはちょっと休んだら元気になるから」
 ロクは祥司をしっかりと見つめた。
「うん、そうだよね。大丈夫だよね」
 祥司は涙を拭いあかりの側に行って、瀬戸の代わりに体を支えようとする。
「祥ちゃん、手伝ってくれるの。ありがとう。和ちゃん、水もってきて」
 祥司に支えられ、あかりは居間へと連れて行かれた。
「逸見さん、なんか恥ずかしいところ見せて、すいませんな」
「いえいえ、それよりも早く水を持って行って下さい。俺はこれで失礼しますので」
「今度またゆっくりミミさんと遊びに来てくださいね。ミミさんにその時は一緒にお菓子作りましょうって言っておいて下さい」
「ありがとうございます。ミミも喜ぶと思います」
「あっ、そうや、これどうぞ」
 瀬戸は、エプロンのポケットから写真を取り出した。桜の木の前でロクとミミが並んで写っているものだ。
「ミミさん早く見たいやろうと思って、さっきコンピューターでプリントしたんですわ」
「ありがとうございます」
「和君、水」
 あかりが呼んでいた。
「今もって行くって。ほんましゃーないねんから。それじゃ逸見さん、気つけて帰ってな」
 瀬戸は申し訳ない顔をしてキッチンに戻る。
 ロクは靴を履いて、そっとドアを開けて去っていった。門の外へ出たとき、一度振り返った。色々な事情があるかもしれないが、瀬戸はとてもいい夫でありいい父親だとロクは思った。なんとしでてもそれを壊してはならない。
 スマホを取り出し、山下に電話を掛けようとしたその時、夕方の日が暮れかけたぼんやりとした暗さの中でスーツを着た男が現れた。

「逸見……さんですね」
「あなたは?」
「久太郎の父の宇野海禄(うのみろく)と申します。山下にはそのままここを見張るように指示を出しました。あとは任せて下さい」
 海禄はアパートの方に視線を向けた。ロクもその方向を見れば、窓のところで手を振る仕草がちらりと見えた。
「山下……あっ、笹田さんのことか。そうか、あなたも刑事さんなんですね。あの、ちょっと話したい事が」
「私もです。よろしければ、私の車に乗ってお話しませんか」
 前方に白いセダンが停まっていた。ロクは助手席に乗車した。
 海禄はエンジンを掛け、車を走らせた。前を見つめる表情が緊張している。その隣でロクは瀬戸の妻の脅しについて、海禄に報告する。
「瀬戸の妻のことはこちらでも把握しましたので、後は上手くいくはずです」
「本当ですか?」
「はい。彼女はとても賢い人です。すでに警察に相談し脅しにも屈服しませんでした」
「でも、かなり疲れて大変そうですけど」
「全てが終わるまでは安心できないのでしょう。そのうちいい知らせが届いて元気になられるはずです」
「ということは、上手く事が運んでいるのですね」
「そういうことです」
 それを聞いてロクは肩の力が抜けてほっと自然に息をついた。
 暫く会話が途絶えたあと、海禄は話題を変えた。
「久太郎が逸見さんをとても気に入ってまして、家でも話をしてくれるんです」
「久太郎……君、とてもいい子ですよね。素直で心が真っ直ぐで澄んでいて、本当に優しい。きっとお父さん、お母さんの育て方がいいんですね」
「そうでしょうか。私はまだ父と言う実感がわきません。もうすぐ一歳になる娘もいるというのに」
「娘さんもいらっしゃるんですね。きっと久太郎君のように素晴らしいお子さんに成長されることでしょう。お仕事忙しいと思いますけど、子供ってしっかりと親を見ているんじゃないでしょうか」
「本当にそう思いますか? もし逸見さんにお子さんがいたらどう接するんでしょうか」
「そうですね、俺はまだまだそういう結婚とか子供とかピンとこないんですけど、でももし自分が親になったら、それなりに努力しているんじゃないでしょうか」
 ロクは谷原忠義の犬の死から息子を守ってきた話や瀬戸のわざと継父から始めた子育てのことを振り返り、父親としてのあり方を少なくとも学んだと思っていた。
「もし自由に子供と会えないとしたらどうでしょう。子供は寂しい思いをしていると思いませんか?」
「宇野さんは刑事でしょうから、急なこともあって大変だとお察しします。だけど、会えた時は会えなかったときの分まで、俺は思いっきり子供と遊んでやりたいです。できる限りの事をやるしかないんでしょうね」
「子供がそれに不服を抱いて父親と向き合えないと思ったらどうでしょう」
「そうですね、いずれ時が経ち、自分が親になったときに考え方が変わるかもしれません。子育てって、口で言うほど簡単じゃないですよね。父親にも事情がありそれを全部子供に話せなくて、いつか何らかの形で伝わる事があるかもしれません」
 それが谷原忠義のケースだったとロクはしみじみ思う。
「そうですね。時が経ちなんらかの形で父を理解する……そういうことあるかもしれませんね。すみません、変なこと色々とお伺いして」
「いえ、全然そんなことないです」
「折角ですので、ご自宅までお送りします」
 海禄はスピードを上げた。
「場所をご存知なんですか?」
「色々と逸見さんの事は職業上調べさせて頂きました」
「そ、そうですか」
 急に居心地悪くなるロク。
「ご安心下さい。何も犯罪者としてではなく、山下のことで色々とお世話になりましたので、どういった方なのかと、ただの好奇心です」
「それでどういう事がわかりましたか?」
「探偵業を無理やりさせられたってことでしょうか」
「無理やりというほどでも。いい条件だったのでつい。本当は探偵業が務まるほどの能力なんてないに等しいんですけど」
 ロクはつい白状してしまう。
「逸見さんは、斉須ヒフミをご存知ですか?」
「その名前、笹田さん――いえ、山下さんから聞きました。以前もどこかで聞いたことがあった気がするんです」
「かつて名探偵といわれ、警察署内でも伝説になっています。その探偵が活躍していた頃、私はまだ子供でした。次々と事件を解決していく話を聞き、いつしか 自分もそんな探偵になりたいと憧れたものです。高校生になって、斉須と話したとき、自分は全く能力のない探偵だと言った言葉が印象的でした。たくさん事件 を解決しているのになぜ能力がないといったのか、長年の疑問です」
 海禄が言った後、ロクは暫く考え、そして口を開いた。
「助手が『事が上手く起こるように歯車が噛み合う』と以前言ってたんです。俺がそこにいるから物事が導かれていく。そうすると不思議と偶然の重なりが発生 して解決へ向かうんだそうです。俺もかろうじて謎を解いたんですけど、結局は関わった人達の意識の集合体が形になって解けただけのようがします。決して自 分ひとりの力じゃないと、その探偵はそんなことを言いたかったのかもしれません」
 ロクの意見を聞いて、海禄はふっと息を漏らして微笑んだ。
「逸見さん、お会いできて本当によかった」
 車はマンションの近くまで来ていた。
「もし、まだお時間ありましたら、コーヒーでもいかがです? ミミに、あっ、助手の名前なんですけど、山下さんが刑事ということをずっと黙ってたんですけどそろそろ報告しないといけなくて、宇野さんが一緒にいてくれると、解決に向かっていると説明しやすいんですが」
「わかりました。そしたら少しだけお邪魔します。
 海禄があっさりと承諾してくれて、ロクはほっとした。
 車を道路の脇に止め、そこから歩いてあたり障りのない会話をしながらマンションのゲートに向かう。そして自分の部屋のドアの前に来たとき、鍵を取り出して開錠する。レバーハンドルを押し下げドアを開け、ロクは部屋の暗さに驚いた。
「あれ? 真っ暗だ。ミミ? いるのか?」
 すぐさま電気をつけ、ミミを探す。
 海禄は玄関先でその様子を心配しながら見ていた。
「何か、問題ですか?」
「おかしい。ミミがいない」
「買い物で遅くなっているんじゃないですか? 電話をすれば居場所はすぐに……」
「それが、ミミはスマホを持ってないんです」
 その時、スマホの電話のベルがなった。
ロクと海禄はそれに反応してスマホを取り出す。
「あっ、私でした。山下からです」
 海禄が通話を始めた。
「もしもし、ああ、今、逸見さん宅だ。えっ、なんだって。白石さんが? すぐに病院へ確認してくれ」
 海禄は電話を切った。
「白石さんがどうしたんですか?」
「本当の笹田のメールアドレスにメッセージが入ったそうです。それによると、白石さんを拘束した。危害を加えてほしくなければ、早くブツを渡し、仕事を再開しろとの内容だったそうです」
「そんな、警護しているんじゃなかったんですか」
「そのはずです。誘拐が起これば現行犯で即逮捕は確実です。笹田が逮捕された情報はやつらには漏らしてません。ただ連絡が取れない、逃げたと思わせていました」
「じゃあ、なぜ」
 その時、また海禄のスマホに電話が掛かってきた。
「もしもし、ああ、そうか。わかった。また後で連絡する」
「なんて?」
「今、病院で張り込みの連中に確認を取りましたら、白石さんは忙しく病院で働いているとのことでした」
「それじゃ、ただのはったりでしょうか?」
「はったりなんて、そんな事するような奴らじゃないんですが」
「じゃあ、一体誰を拘束したと……」
 ロクがそこまでいったとき、ありえないと否定しながらも、嫌な予感がよぎった。部屋の隅々を見渡し、ミミの部屋のドアを開けた。
 それはすんなりと開いたが、中には誰もいなかった。
「こんなこと馬鹿げていると思うんですが、まさか、白石さんと間違われて助手のミミが拘束されたということは考えられないでしょうか? 白石さんとは接点もあって勘違いも考えられるかも」
「すぐ、確認とります。確か、今日学校でお会いしたとき、白いドレスを着てらっしゃいましたね。そのままの服装ですか?」
「はい、そうです。あっ、写真があります」
 瀬戸から貰った写真をシャツのポケットから取り出し見せた。
 海禄はそれをスマホに写した。スマホを操作しながらロクに質問する。
「ミミさんと別れたのは何時ごろですか?」
「四時過ぎだったと思います。コウシラン通りで別れました」
「香子蘭通り、四時過ぎですね。この辺りの監視カメラを調べさせます」
 海禄はメールを送った後、すぐに電話を掛けて署のものと話し始めた。
 それを側で聞きながら、ロクは動揺する。もし、ミミに何かあったらと考えると、気が気でならない。キッチンを見つめ、文句を言い合った姿、お菓子を作っている姿、初めてラテを飲んだときのハッとした時の顔などが色々と頭に浮かぶ。
 暫くしたのち、海禄は悲痛な表情をロクに向けた。
「監視カメラに、白いドレスの女性が車に乗り込む画像が見つかりました。時刻も四時を過ぎた頃と一致しています」
「嘘だろ。どうして」
「逸見さん落ち着いて下さい。今、周辺の監視カメラから行方を調べてます。すぐ居場所が分かるはずです」
 その時、ロクのスマホにメール受信の音が鳴った。ロクはすぐそれをチェックする。全く知らないアドレスからだった。それを開いた時ロクは困惑した。
「なんだこれ。『すぐさま南埠頭の倉庫へ行け。斉須ヒフミ』……なんで俺のメールアドレスを」
「斉須ヒフミからのメールなんですね。それはきっとミミさんがそこにいると知らせているに違いありません」
「しかし、なぜ俺のメールアドレスを」
「そんなことは後回しです。とにかくそこへ。こちらからも応援を要請します」
 海禄の行動は早かった。体がすぐに反応する。それとは対照的にロクは何をどう動いていいのか固まっている。いろんなことが頭の中でぐるぐるするのに、ロクはそれを整理できない。取り乱し、体の自由が利かずただ突っ立っていた。
「逸見さん、何をしているんですか。早く!」
 海禄の声でハッとし、スイッチが入ったように叫んだ。
「ミミ!」
 ロクは海禄の後を追いかけた。

 夕日が沈む準備に入った頃、雲は黄金色の輝きを見せ、空の青がどんどん濃くなって紫を帯びてくる。辺りがだんだんと暗くなる頃、ミミを乗せた車は海に面した倉庫の中へと入って行った。
 目を瞑って寝たふりをしていたミミはいつ起きていいものかそのタイミングを計っていた。
 車のドアが開く。体を持ち上げられ、足が引っ張られる感触に不快を感じながら、バニラエッセンスを嗅がした男に身を任せる。
 倉庫の冷たい床に体が横たわり、できるだけぐたっとしていると、紐で手足を縛られた。
「お前らここで見張ってろ。おい、行くぞ」
 ボスらしき男と、多分運転手がそこを離れた。「バタン」と言うドアが閉まる音がしたあとエンジンがかかり、次第にそれはフェードアウトしていった。
「ヒコ、お前さ、腹減ったとか行ってたよな。なんか買ってきていいぞ」
「そうか、この辺、店あるかな」
「コンビニくらいあるんじゃないか。ついでに俺にもなんか買ってきてくれないか」
「ゴローは何が食べたい?」
「適当にあるもんでいいよ。俺の好み知ってるだろ」
「まあな、お前、男の癖に甘いもん好きだからな」
 ミミの後をつけて車に押し込んだのがヒコ、バニラエッセンスを嗅がせたのがゴローだとミミは認識する。
 ヒコが遠ざかったのか、ゴローが声を掛けた。
「もう起きても大丈夫っすよ」
 ミミは目を開けた。ただっ広い空間に積み上げられた段ボール箱が壁際で並んでいる。他にも梱包された円柱の大きな物体や、パレットが積み上げられてい た。入り口付近にはフォークリフトが斜めになって乗り捨てられたように置かれていた。暮れかけた夕日がかろうじて倉庫内に入って辺りがセピア色に染まって いる。
 ゴローを見れば、まだミミと歳が変わらないくらいに若い。ミミが身を起こそうとするとゴローが支えた。
「あの、私、白石さんじゃないんですけど。勘違いの誘拐です」
「あんたが誰であろうと白いドレスを着ていた。俺は白いドレスの女が拉致されたら、その時バニラエッセンスを嗅がせると全て上手く行くといわれたんだ」
「誰に?」
「昔お世話になった探偵さんとその奥さんに」
「なんで?」
「俺、別に組織の人間じゃないんだ。ただの助っ人要員。だからあまり犯罪には手を染めたくなくて、仕方なくダチの手伝いしてるだけなんだ。その手足の縛りだけど、動かしたら外れるようにしたから、頑張ってみて」
「そんな、取ってよ」
「おれ、ちょっと席外す。その間に、逃げてね」
「ちょっと、待って。なんで自力? 助けてくれないの?」
「おれが手を加えたことばれたら俺がやばいじゃん。ヒコが戻ってくる前に早くしてね」
 中途半端なゴローの助けに困惑しながら、ミミは手足を動かした。だがそれは思ったほど簡単に外れない。
「嘘つき! 簡単じゃないじゃない」
 後ろで縛られた手を何かに擦りつけようと辺りを見回したとき、入り口で話し声が聞こえた。ヒコが戻ってきた様子だ。
「コンビニを見つけられなかった。あまり離れたら怖いから、戻ってきた。あの女の様子はどうだ?」
「うーんと、目が覚めたみたいだったけど……」
「おい、何で邪魔するんだ?」
 ヒコが倉庫に入ろうとしているのをゴローがドンと手をついた。
「ごめん、なんか体に虫がついてて」
 ゴローは誤魔化す。
「おっ、そうか」
 簡単に信じるヒコ。
「俺さ、面倒なことごめんなんだけどさ、もう帰っていい?」
「ゴロー、もうちょっと付き合ってくれよ。ひとりだと怖い」
「じゃあ、なんでこんな仕事引き受けたんだよ」
「だって脅されて怖いもん」
 泣きそうなヒコ。
「どっちみち怖がってどうすんだよ。こうなったらふたりでバックレないか?」
「そんなことしたら、ボコボコにされるじゃないか」
「でもさ、あの女、白石じゃないって言ってたぜ」
「だって、あの家から出てきたんだぜ」
「だから、あの女もたまたまそこにいただけだろ」
 ミミはこのとき、そういえばひとりで織香の家に行ったときの事を思い出していた。あの時に見た黒い車に乗っていた強面の男たちだと認識した。
「人違いしたからといって、俺の責任でもないし、あいつらが勝手に命令しただけだから」
 ヒコは開き直る。
「で、いつまでここに監禁しとけばいいの?」
「さあ?」
 手伝っている割にヒコはよくわかっていない。
「これってさ、組織は俺らが勝手にやったとか言ってさ、俺たちだけが罪を被るんじゃないの?」
 ゴローの方が物分りがいい。
「その前に証拠が残らないように始末すんじゃねえ?」
「誰が?」
「やっぱり、俺たち?」
「俺やだぜ。ヒコがひとりでしろよ」
「俺だってやだよ」
 ヒコとゴローの会話はどこか抜けていてた。ゴローが時間を稼ぐためにわざとそんな会話をしているのかもしれないと、ミミは必死で紐を解こうとパレットの角の部分にこすり付けていた。
 ――全然切れないじゃないの!
 このままではゴローが折角くれたチャンスを生かせない。
「とにかく、見張っておかないと」
 ヒコが中に入ろうとしてくる。焦るミミ。ゴローもまた上手くいっている事を願った。
 その時、白い車がこっちに向かってくるのが見えた。
 ヒコとゴローが他の仲間かとそれに気を取られていたが、その車が目の前に停まって、すぐさまふたりの男が勢いつけて飛び掛ってきた。
「おい、ミミ、九重ミミを誘拐したのはお前らか」
「ミミ? 九重ミミ?」
 ゴローが呟いた。
「そうだ。どこにいる」
 ロクがすごい剣幕で胸倉を掴むが、ゴローは困惑した表情でロクを見ていた。
 その隣で海禄がヒコを取り押さえていた。
「白いドレスの女性を拉致したのはお前らだな。彼女はどこにいる」
 ヒコが顎で倉庫の中を示した。
 ロクはゴローを突き飛ばし、倉庫の中へと入っていく。すでに夕日は落ち外は薄暗く、倉庫の中は闇のようになって中が見えなかった。
「ミミ! どこだ、ミミ!」
 ロクが声をかけても返事がない。
 その頃、パトカーのサイレンの音が遠くで聞こえたかと思うと、どんどんこちらに近づいてけたたましくなっていた。
 ロクはスマホのライトをかざして辺りを照らすが、ミミの姿はそこにはなかった。
「おい、ミミはどこなんだ」
 ゴローに走りより、怒鳴った。
「えっと、白いドレスの女ですか? その人ならさっきまで、すぐそこにいたんですけど、いないんですか? じゃあ、逃げたんじゃ……」
 数台のパトカーが回転灯を赤く放ちながら騒がしく集まった。無造作に停めて中から出てきた他の刑事が海禄の元へとすぐさま駆け寄る。ゴローとヒコは取り押さえられて、力ずくでパトカーへと引きずられていった。
「おい、ミミをどこへやったんだよ」
 ロクはゴローに吼えた。
「だから、知りませんって」
「知らないってことはないだろう。無理やり連れてきたじゃないか」
「あの人はミミさんじゃなくて、ただ白石と間違えられて連れてこられた人です」
「だから、それがミミなんだって」
「ええっ? ミミさんてあんなに若くないですよ。だって俺、九重ミミさん知ってますから」
「お前、何を言ってるんだ?」
 ロクは混乱したが、ゴローも不思議そうな顔をして、刑事に頭を抑えられてパトカーに乗せられた。
 ロクは倉庫の周りを探し出す。
 海禄も他の刑事に指示を出し、周辺を見回った。だが、ミミを見つける事ができなかった。
「ミミ! どこに隠れてるんだ。もう大丈夫だぞ。あっ、まさか、海に落ちたとか」
 ロクが水辺を覗きに行こうとしたとき、海禄が肩を抑えた。
「逸見さん、ミミさんはここにはいない」
「でも、もし間違って海に落ちてたら」
「それはないと思います」
 その時、倉庫の中から海禄を呼ぶ声がした
「警部!」
 海禄とロクはすぐさま駆けつけた。