9
「あっ、これは」
お皿の上にいくつか乗せられた丸みを帯びた三角の白いものをみて、ミミは反応する。
半透明の中はうっすらと黒っぽいものが見え、軽く粉がかかっているそれは、小さな大福みたいだ。
織香たちの前にも同じものをローテーブルに置いた。
「子供の日いうたら、やっぱり柏餅やチマキですやん。それを買おうと思うたら、こいつ、餡子は嫌いいうんですわ。それでも俺は息子と一緒の初めての子供の日やから、やっぱりなんかそういうのほしいてな、それでちょっとアレンジしましたんや」
またキッチンに戻り、瀬戸はマグカップに紅茶を注ぎ出した。
「餡子が嫌いなら、一体中には何がはいってるんですか?」
ミミが一番興味を持っていた。
「まあ、それは食べてみて下さいな」
いたずらっぽく瀬戸は笑っていた。
「それじゃ、遠慮なくいただきます」
ひとつ手にして、ミミは大福みたいなものを一齧りした。
「うそ、何、これ」
ミミの手に残ったそれは、茶色にコーティングされた赤いものが顔をだしていた。
「どうです、チョココーティング苺ミルク餅のお味は?」
湯気が立つマグカップをミミの前に置いて、ドスの利いた声で強面に訊いた。
「こ、これは…」
ミミは残りをパクッと口にした。
「ああ、最高! なんかもうやられました。モチモチの触感の中にぱりっとしたチョコが加わり、そこに甘酸っぱい苺がジューシーに口の中でミルキーに広がる。これ、おいしすぎる」
ミミの言葉で、皆興味を持ち、次々に口に入れだした。
「あら、美味しい」と織香が言えば、隣で祥司が「うん、うん」と口をもごもごさせていた。
最初は食べるのを戸惑っていた中井戸も、美味しいといわれたら我慢できずに口にした。
「さっぱりしているのに、コクがある甘さでフルーティ」
中井戸の目が見開いた。
「そうでっしゃろ。ちょっと俺も、これならいけるんちゃうかって自信作ですわ」
瀬戸は紅茶をローテーブルに置きながら答えていた。
「触感も素晴らしいけど、このミルクのコクは一体どこからくるんだろう」
ロクはゆっくりと味わっている。
「このミルクもちって、もしかしてコンデンスミルク入ってません?」
ミミが訊くと、瀬戸はすぐ反応して振り返った。
「そうですわ。やっぱり苺いうたら、コンデンスミルクですやん。よう気つきましたな」
「この苺も口あたりがとてもいい。噛むと本来の苺の果汁がじゅわって広がる感じ。素材もすごくいい」
「ミミさん、結構料理評論家みたいですな。でも、苺の扱いは気つけましたで。苺は水洗いしたら、そこで水っぽくなって日持ちせえへんようになりますさか い、そこは水で濡らしたキッチンペーパーを固く絞って丁寧に拭きましたんや。それだけで苺の甘みを逃がさんようになるんです」
「こだわりの仕事されてますね」
ロクも感心していた。
「そしたらチョコレートもテンパリングに気をつけられたんでしょうね」
ミミは当然のことのように訊いた。
「はい、チョコレートは温度に敏感ですさかい、カカオバターの結晶を細かい粒子に安定させるように溶かし、滑らかな口どけになるように気遣いました」
「チョコレートは溶かすのに失敗すると、次固まったときに白くなって口当たり悪くなりますもんね」
「それファットブルームでっしゃろ。そうなるとチョコレートまずくなりますからね」
専門的なミミと瀬戸の会話にロクはついていけなかった。
「瀬戸さん、もしかしてお菓子作り好きなんですか?」
聞き込みしたときは邪険に扱われて嫌な奴だと思っていたけど、お菓子のことで話が合い、ミミは瀬戸に親近感を抱いていた。
「最近、主夫していて手作りに目覚めましたけど、なんか美味しく作ろうとしたらとことん追求してしまうんですわ。そういう細かいところ拘ってしまって」
「それはいい傾向だと思います」
ロクはそういう部分が欠けているために瀬戸を尊敬の目で見つめた。
「きっかけは妻や息子に美味しいって言うてもらいたいっちゅうのもあったんですけど、俺が子供の時、自分の父親にホットケーキを作ってもらったことも影響しているんかもしれません」
「お父さんの父親って、僕のお祖父ちゃん?」
祥司が訊いた。
「おお、そうやで、今はもうおらへんから、祥司は会われへんけどな。これがまたすごい人でな、アル中やったんや」
一同、しーんとなってしまった。
「アル中って何?」
織香に向かって祥司は質問する、あどけない声が響いた。
「ええっとね、お酒が好きってことよ」
婉曲に織香は説明する。
「いつも酒抱えて暴れていた人やったけどな、一度だけ俺のためにホットケーキ作ってくれたんですわ。でも家にあるもんいうたら、お好み焼きミックスの粉し かなくて、それでも小麦粉には間違いないからそれに牛乳と卵と砂糖入れて作ったんです。いざ焼けたら、はちみつもなくて、しかたないからって、ソースかけ たんです」
「うわぁ」
ミミが思わず声を出した。
「俺も、正直それを生で見ていて、ほんま『うわぁ』でした。父親が怖かったからそれを食べたんですけど、意外にお好み焼きみたいでうまかったんです」
「それ、実質、お好み焼き……」
ミミが言うと、ロクはひじをついた。
「だけど、そのときそんなホットケーキでも俺が美味しそうに食べたのが嬉しかったんでしょうね。初めて父親らしいことができたって満足したみたいで、それ から俺のためにと酒を控えるようになりました。そんで料理作ってたらそんな父親のこと思い出して、祥司にも美味しいって思われるもの作ってやりたいなって 思うようになったんです。まあね、俺の父親はどうしようもなかったけど、それでも唯一父が俺に教えてくれた大切なことのように思えましたんや」
先ほどのしーんとした冷えた空気の中に、じんわりと温かみが広がって和らいでくる。それがそれぞれの心に入り込んで皆言葉に詰まって違う意味で静かになっていた。
「お父さんの料理、ママが作るよりていねいで美味しい」
祥司が言った。
「そうか。嬉しいこというてくれるな。でもそれはママの前では言うたらあかんで。ママは仕事もあって、忙しいだけやからな。ママの料理もおいしいで」
「うん、わかってる」
本当の父と知ったあとの祥司からトゲがとれたように、落ち着いたものが見えた。祥司はまたひとつ苺ミルク餅を頬張った。
その時、瀬戸の顔が優しく微笑んでいたのをミミとロクはしっかりと見ていた。
10
「あの苺ミルク餅、美味しかったな。もっと食べたかったけど、祥司君のためにつくられたものだから遠慮しちゃった」
ミミはロクと肩を並べて歩きながら呟いた。
「自分でまた作ればいいじゃないか」
「あれは瀬戸さんの愛情とこだわりがさらに美味しさを引き立てていて、私にはあそこまで上手く作れないかも」
「本当に人は見かけにはよらないものだな。あんな強面の人がイクメンだなんて」
「イクメン?」
「子育てを積極的にする男の人たちのことを表わしているんだ」
「ふーん」
ミミにはあまり聞き慣れない言葉だった。
「そういえば、谷原忠義さんも、息子さんの篤義さんのことを必死に守ろうとしていた。事情があって身を粉にして働いていたけど、それも子供のため、妻のためと結局は家族を守っていたんだろうね」
ロクは先日のことを振り返った。
「忠義さんの介護は辛いものがあるだろうけど、父として成し遂げたものは篤義さんにも伝わっただろうね。瀬戸さんも自分の父親から受け継いだ愛を自分の息子へと紡いだ。どちらも状況は違うけど、どっちも感動しちゃった」
ミミは空を仰いでいた。太陽が沈みかける前のピンクと紫の重なりが綺麗だった。
「そうだよね。ふたりとも男としてしっかりした芯がある人たちだ。なんだか羨ましい」
「どうしたの、ロク?」
「いや、自分ももっとしっかりしなきゃって思って」
「何言ってるの、ロクはしっかりしてるよ。だって次々謎を解いているんだから」
「いや、本当にそうなのかな。どれもなんか、偶然にことが進んでないか?」
「だから、たとえ偶然であったとしても、ロクが現れるから事が上手く起こるように歯車が噛み合うんだと思う」
「歯車が上手く噛み合う?」
「そう、ロクがその場にいて、物事が始まっていくみたいな」
「いや、それはミミもだろ。ミミがいるから全てが始まった」
結局はミミを助手にするという条件で探偵職を手に入れた。それが本当の始まりなのだ。
ロクはミミの横顔を見つめる。夕日の光に包まれたミミはトワイライトを纏っているようだ。まるでそこにいるようでいないような黄昏の不安定な存在。いつかミミがいなくなってしまうのではとふと頭によぎる。
「何?」
「あ、いや、ほらさ」
ロクの胸が急にドキドキと高鳴り、何をどう誤魔化していいのかわからない。
「その、いなくなる……」
つい本音が口から弱々しくでてしまう。
「えっ、なくなる? あっ、ロクもやっぱり思ってたんだ」
「えっ、それって」
「うん、ほんとにないよね」
「はっ?」
「だから、鯉のぼりのことでしょ。子供の日って年々鯉のぼりを掲げる家が少なくなったけど、この地域は全くないからさ、寂しいなってちょっと思ってたんだ」
「あっ、ああ、鯉のぼり。うん、鯉のぼり、見なくなったよね」
上手く誤魔化せたとロクはホッとする。
「さてと、夕飯、何食べよう。今日こそはキャベツ食べないと」
「ええ、キャベツまだあるの? かなり日にち経ってない?」
「結構もつからね、キャベツ」
「だったら、お好み焼きにしてみないか」
「ああ、それいいかも。キャベツのホットケーキとか作れないかな。なんか今、新しい料理方法が浮かんだ」
「ちょっと待て、シロップで食べるとかいうなよ」
「でもさ、お好み焼きソースって、ケチャップとソースとはちみつで代用できるんだよ。もっと甘くしても美味しいかも」
「あの、オーソドックスでいいから」
「瀬戸さん見てたらさ、私も拘って作りたい」
「だから、普通のお好み焼きを極めたらいいじゃないか」
「何よ、普通のお好み焼きって。広島の人や大阪の人が聞いたら、どっちだよって怒るぞ」
ミミはわざと言ってロクを困らせている。
ロクもそれをわかっていてわざと困っているふりをする。
その馬鹿げたやりとりが、ふたりにとってとても心地よかった。
夕焼けが空に広がるその日、ふたりは童心に返って手を繋いで歩きたくなる気持ちに恥ずかしくなりながら、くすっとお互い笑顔を見せあった。
1
五月五日のこどもの日の朝、ミミは伸びをしてベッドから起き上がる。
「今、何時だろう」
サイドテーブルの上の目覚ましを見れば七時前だ。
身の回りのものをボストンバッグに詰め込んでここにやって来たが、ここは最初から自分の部屋だというくらい快適な空間だった。
ホテルの部屋のようにトイレもバスも付いていて、ロクと一緒に暮らしていても個別で気兼ねなく過ごせる。
寝起きの顔も、寝癖のついた髪の毛も、きっちり整えてからこの部屋を出ることができる。ロクとここで一緒に暮らせるのも、見られたくない自分を隠せるからやっていけるのだ。
衝動で家を出てきたミミにとって、ここはとても有難い場所であるのだが、それが祖母から仕組まれたことだと気がついた今、いつかはここを出て行かなければならない日が来ることに怯えていた。
ここにしがみ付いているから、多少変わった事があっても深く考えず、違和感があっても気にしないようにと見て見ぬふりをして踏ん張っていた。自分の想像を超えたこの見知らぬ土地は、ミミにとって夢のような世界だった。だから夢のごとく、全く知らないものが多すぎる。
何かが抜けているのに、よくわからない。魔法のような最新設備が整った申し分のないこの部屋で朝を迎える度、ミミは自分がどこにいるのか混乱する。ここは本当に自分の居場所なのか。この先どうしていいのか。何が起こっているのか。考えると不安に襲われ苦しくなってくる。
ずっとロクと一緒にいたいと切に願い、ミミはベッドの隣のサイドテーブルに置いていた金の懐中時計をぐっと握り締めた。
『これを預かって君に渡すようにと言付かった。これは君を守ってくれるものだ。肌身離さず持っていれば、きっといい事がある』
ここを紹介してくれた名前も知らない初老の男性から渡されたものだった。
頼れるものがないミミには、お守りのようにいい事があるという言葉だけを信じてしまう。
ミミがこれを握る時、カチカチと秒針が動いているのを感じられた。
蓋を開ければ、秒針のずれはあっても側にある目覚ましと同じ時刻を差している。
時を告げるそれは、ずっと手にしていると生きもののように思えてきた。不思議と心が安らぎ、何かに守られていると思えてくるのだ。だから出かけるときも鞄に入れて持ち歩く。そうやって自分を励ましてミミはここで毎日を過ごしていた。少しでもロクの役に立ちたいと。
そして探偵の助手という仕事も冒険心をくすぐられた。謎から始まるそれぞれの人生物語に関われば、ミミはこの世の中のそれぞれの秘められた思いに心奪わ れていく。些細なことから暴かれていく真相は、心に秘めた何かが引き出され、気づかなかった事と向き合うきっかけになっていく。
ロクと知り合ってまだ間もないけれど、ミミはこれが運命のことのように思えてならなかった。
懐中時計に思いを込めて握り締めるミミ。自分の心もロクに伝わってほしいと願いを込めていた。
「いい事があるんでしょ? だったら、ロクと……」
その時、ドアをノックする音が聞こえ、ミミは跳ね上がる。
「おい、ミミ、起きてるか」
ロクの声だ。
「起きてるよ」
ドキドキと胸を高鳴らせながらミミは返事した。
「これから、ちょっと出かけてくる」
「えっ、こんな朝早くに? どこいくの?」
「ちょっとな……」
言葉を濁して、ロクはドアの前から立ち去った。
ミミは追いかけようと咄嗟に体が動いたが、まだ身支度をすませてない姿を晒す事が憚られてしまった。どうしようかと迷っているうちに玄関のドアが閉まる音が聞こえていた。
ロクが出て行ったと分かったとたん、先ほどよりも辺りはもっと静寂になっていた。
急いで身支度を済ませ、部屋から出れば、いつもの空間が寂しいものへと目に映る。ロクがいないだけで大げさだと思いつつ、ミミにとってロクと一緒にいられることの大切さが浮き彫りになっていく。
「だけど、こんな朝早くどこへ行ったのだろう」
仕事ならば、助手の自分をつれていく。それをしないのなら、私用で出かけたということだ。目的もはっきりといわずに、朝早くにでかける用事とはなんなのだろう。
ミミはそれを探りたくて、ロクの部屋のドアの前に立った。
勝手に人の部屋に入るのは憚れるが、好奇心が抑えきれない。
ドアノブに恐る恐る手が伸びていく。ドキドキと心臓が高鳴って、体に熱がこもっていった。大きく息を吸った後、ミミはドアノブを掴んだ。
ゆっくりとまわそうとしたとき、それは固定されて動こうとしない。
「あっ、鍵が掛かっている」
そう知ったとき、ミミは一抹の悲しさが心に湧いてくる。自分を信用していないといっているのも当然だ。
「なんでよ!」と怒りつつも、黙って入ろうとしている行為はまさに信用の置けない行為だ。
ずるい事をしているのに、信用されていないと思われて怒るのは矛盾しているのだが、そこが複雑な乙女心というものだ。ガチャガチャとドアノブに触れながら、ミミは自己嫌悪に陥った。
「こういうときはお菓子作りでもして気分を紛らせよう」
気分を切り替えたとき、先に温かいものを飲んで、何かを食べたくなった。
キッチンの隅に置かれたコーヒーマシーン。銀色に輝く四角い装置に目が行く。何かの実験道具かと思うくらい、ミミにはちんぷんかんぷんだった。
ロクに淹れてもらったラテを飲んで以来、ミミは泡立ったミルクが癖になって大好きになってしまった。
飲まず嫌いだったコーヒー。ロクが変えてくれた嗜好は自分が変わる第一歩のような気がしていた。
思った事をつい口にして、生意気な態度になってしまうミミ。厳しいしきたりに抑制されて反発し、我がままに育ってしまったけども、それが結局は世間知らずなだけだったと悟っていた。
「ああ、ラテが飲みたいな」
優しい泡のミルクがたっぷりのコーヒーを頭に浮かべるも、自分では淹れられないので、仕方なくミミは紅茶で我慢する。ラテが頭によぎりながらケトルをコンロに置いた。
「ロク、早く帰ってこないかな」
ティーパックを箱から出し、マグカップにいれてお湯が沸くのを待っていた。あくびが出て口を大きく開けてしまう。
袋に数枚残っていた食パンを一枚取り出し、それをトースターに差し込んだ。適当にダイアルを合わせてスイッチを入れて放っておいた間、冷蔵庫からバターを取り出す。
その時、電話のベルが鳴り響く。
ロクからだと思ったミミはスティックバターを握り締めたまま壁際の台へと走っていく。そこに置いてあった電話の受話器を取った。
「もしもし」
耳に当ててもまだ電話のベルが鳴り響き、ミミは持っていた受話器を見つめた。
家の電話は全てお手伝いさんや家族が先にとり、外からの接触を制限されて電話すら自由に使えないミミは操作の仕方がよくわからない。
ボタンがいっぱいある中、落ち着いてじっくりと見れば通話と書かれたボタンがあるのに、慌しく鳴るベルの音が焦りを招き、反対側に持っているバターが邪 魔で指が動かず、そこにトースターが「ポン!」と音を立てパンが焼きあがれば、驚いて肩が揺れ、その拍子に手が滑って受話器を落としてしまった。
「あらららら」
受話器を落としただけなのに、しゃがんで取ろうとしたとき台に額を強くぶつけ、「痛!」と叫んでしまう。
ベルは足元で鳴り響き、ぶつけた部分をバターで覆いながら、痛みにもだえて受話器に手を伸ばす。
痛さは怒りに変わって、受話器に腹を立ててしまう。
「んもう」
やっと通話のボタンを見つけて押した。
「もしもし」
涙目に答えるミミ。
――……。
相手の声が聞こえない。
「もしもし?」
――……。
受話器の向こうに誰かがいるのは分かるが、何も話そうとしない。
「あの、どちら様でしょうか?」
――……あなたこそ誰なのよ。
気分を害した、ミミを責めるような言い方だった。
「誰と言われても」
――そこで何してるのよ。
「ええ? ここに住んでいるんですけど」
――嘘、嘘よ!
「ちょっと、あの、落ち着いて」
訳がわからないまま、電話は切れた。
ツーツーという音がミミの耳元で聞こえていた。
「何よ、もう」
腹立ちまぎれに強く受話器を置いて、バターを握り締めた。
気を取り直して、パンを取りにキッチンに向かえば、それは黒っぽく焦げていた。
「なんで、こげこげなの」
パンを食べる気が失せて、バターを冷蔵庫にもどせば、握り締めすぎて変形した形になって冷蔵庫の扉の棚に置かれた。
「お茶だけでいいや」
コンロの前に立ってお湯の湧き具合を確認すれば、火がついてない。
「ああー! ガスが!」
ガス爆発の危機に焦り、慌ててガススイッチに手を触れれば、それはまだ点火されていない『止』の位置だった。
「あれ? 火をつけるの忘れてた?」
それでよかったと安心し、「ん?」と思ってケトルの蓋を開ければ水が入っていない。
「うわぁ、水も入れてなかった」
ミミは数々の失態に驚きショックを受ける。
ついてないと思ったその時、ふと電話の内容に違和感を抱いた。
あれは女性の声だった。ミミがここに住んでることに衝撃を受けて腹を立てたあのやりとり。それらが今になってミミの不安を駆り立てていく。
「まさか」
今まで考えなかったことの方がおかしかった。それはロクに恋人がいる――かも。
朝、出かけたのも恋人と会う約束をしていた。相手は待ち合わせ時刻に痺れを切らしてここに電話を掛けて確認する。そしてミミの声を聞き、一緒に住んでいると知って激怒したに違いない。
「そんな」
織香に目が行くことを心配していたが、それよりももっと考えるべきだった。
ミミの目に映るロクは、線の細い頼りなげな風貌だが、そこが中性的で整った容姿でもあり、はっきりってかっこよく見える。
お菓子に例えたら、シンプルな苺ショートケーキ。でも実際はその中に味わいのあるクリームのコクと、しっとりとした柔らかな触感のスポンジがさりげなくケーキの味を引き立てている。
ありきたりの定番のかっこよさの中に真のものが秘められ、それが素朴すぎて却って目立たない。 それでも一口食せば、明らかに普通のものと違う繊細さ。まだ自分が最高の定番ケーキだと気づいてない苺ショートケーキ――それがミミのイメージだった。
他の人が聞けば分からないたとえだろうが。
だが、あの女性からの電話の真の意味がわかると、その苺ショートケーキに余計なチョコレートがかかって、別のケーキになっていく。
「ロク、あなた真っ白じゃなかったの?」
泣きたくなるような、落ち着かなさ。そわそわとしながら、ミミはスツールに腰掛けた。
「落ち着け」
ロクに問い質したら、きっと感情に流されて怒りをぶつけてしまう。思うようにならなかったとき、感情を露にするのはミミの悪い癖だ。
「そんなところを見せたら、簡単に嫌われてしまう。でも、どうしよう」
こういうとき、無になるのがいい。ミミは立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。
そして扉を開けて、冷蔵庫の中を確認する。
今自分が作れるもの。
卵と牛乳をみたとき、ミミの頭の中にはカスタードプディングが浮かんでいた。
2
ロクが手に荷物を持って「ただいま」と戻ってくると、キッチンのカウンターで頬杖をついて、スツールに座って落ち込んでいるミミの姿が目に入る。
「どうしたんだミミ」
ロクが側に近づけば、振り返って見上げるミミの目が赤く睫毛が湿っていた。次第にひくひくと肩を揺らしだした。
「一体何があったんだよ」
ロクが周りを見れば、ボールや鍋がシンクにおかれ、何かを作った痕があった。
その隣のカウンターの上には、数個の小さな丸いアルミカップが置かれている。中身が黄色いことから、プリンだとすぐにわかった。
「ああーん」
とうとうミミは泣き出した。
「おい、ミミ、泣いていたら分からないじゃないか」
ミミはひっくひっくとしながらロクを見つめる。そのときなぜか八つ当たってきっとにらんでしまった。
「なんだよ、そんな顔して。もしかしてプリン失敗したのか?」
ミミの機嫌が悪くなるのはお菓子作りが上手く行かない時だと察知したロクは、ひとつプリンを手にした。
まだ温かなそれに、スプーンを取り出して一口食べた。
それは家庭でよく作る一般的なプリンの味だ。
「結構美味しいじゃないか。何も失敗してないぞ」
慰めるロク。
「それは失敗。お皿にひっくり返したらわかる」
ミミが言うままに、お皿を取り出し、スプーンで入れ物とプリンの端に溝をいれ、隙間に空気を流した。お皿を上に置き、ひっくり返して、軽く二、三度上下に振れば、型から落ちる気配を感じた。
そっと型を持ち上げてみれば、カラメルがプリンを伝わってお皿に流れていく。しっとりと琥珀色のソースを纏った柔らかな黄色に、ぶつぶつと空気の穴が入っていた。多分、これが原因だとロクはミミに振り返った。
「焼きすぎたってことか」
プリンは火が通り過ぎると、すがはいって穴がぶつぶつとあいてしまう。これが食感を悪くして美味しくなくるなるのだ。
「なんで、上手くいかないのよ」
今日全てにおいて、ミミはついてない。
「そうだな。この型はアルミ製だな。アルミは熱を伝えやすい。それで温度が高くなるのが早くて焼きすぎに繋がったんだろう」
「それだけじゃないもん」
「湯煎せずにオーブンにいれたとか?」
「それはした」
「じゃあ、他に何があったんだよ」
ロクもいい加減あきれ返ってくる。
「電話」
「えっ? 電話?」
「朝の七時半くらいに女の人から電話があった」
ミミはロクの反応を注意深く見ていた。
「仕事の依頼か?」
「違う。私がここに住んでいる事が信じられないって、驚いている電話」
「何だよ、それ?」
ピンとこないロクに、ミミはありのままの電話の受け答えを再現する。
それでもロクは訳がわからない顔をして、頭に疑問符を浮かべていた。
「なんで、ミミがここに住んでいる事が信じられないと驚くんだろう」
「えっ、心当たりないの?」
「なんの心当たりだよ」
「だから、ロクの知っている女の人とか」
ミミは上目使い気味にちらっと様子を窺う。
「白石さん?」
「なんでそこで、白石さんがでてくるのよ。白石さんなら私がここで一緒に住んでいること知っているでしょ」
「だから、心当たりがないっていってるじゃないか」
ロクの言葉でミミの顔が晴れて行く。
「じゃあ、ストーカーでロクの様子を探っている人?」
「そんな女がいたら、怖いよ。でも、それもないと思う。その電話、本当にここにかかってきたのか」
「掛かってきたから私が受話器とったんじゃない」
「そういう意味じゃなくて、ここの電話番号に掛かったけど、本当は他の違う人に掛けたんじゃないかってことだ」
「間違い電話?」
「そう、それ!」
ロクは紙とペンを用意し、この家の電話番号を書いた。それをじっくり見つめ最後の数字に丸をする。
「最後のこの『6』は書きようによったら『0』に書き間違えるときがある。電話番号を書いたメモを見ながら電話をかけたなら、見間違えることもありうる」
ロクは電話機に近づき、受話器を手にした。そこで操作し始める。
「電話するの?」
「ああ、確かめた方が間違った人のためにもなる」
ロクが最後の数字だけ変えてナンバーをプッシュする。最後にスピーカーボタンを押せば、呼び出し音がミミにもはっきり聞こえた。
――もしもし。
男の人の声がした。その後ろで女の人が騒いでいる声もする。
――もしかして女の人からなの、ちょっとその電話貸しなさいよ。
――だから誤解だっていってるだろ。ちょっと待て。
男女が受話器を取り合っている様子が伝わってきた。
――もしもし!
怒った女性の声。ミミには聞き覚えがあった。
「あの、恐れ入りますが、今朝、七時半くらいにこちらに電話をかけられた方ですか?」
――えっ?
「うちの助手が取りまして、何やら誤解されて切られたとあったので、そちらも勘違いして大変なことになっているんではと思って電話させて頂きました」
――あっ、あの。
電話口の女性の怒りがすっと消えたのが伝わってくる。
ロクはミミに受話器を渡した。
「もしもし、今朝、ここに住んでいるのかと訊かれたものです」
――ああ、あなたは。あの時の?
「そうです。そちらも勘違いで何かもめているんじゃないですか?」
――あ、そ、その、そうです……。
「間違って掛けてこられたみたいですよ」
――そ、そうですか。その節はどうもすみませんでした。
「いいえ、いいんですけど、どうか、誤解といて下さいね。それでは失礼します」
お互いどう言っていいのかわからないけども、どちらの心もすっかりと軽くなっていた。電話を切った後、ロクを見れば何だか恥ずかしい。きっと間違った女性も同じ気持ちだろう。
「ロク、ごめん」
「別に構わないけどさ、間違って掛けてきてキレられたら、やっぱりムッとするよな」
「あの、そういう意味じゃないんだけど……」
これ以上ロクに本当のことはいえなくなった代わりに、ミミは質問する。
「ところで、朝から一体どこに行っていたの?」
「ああ、笹田さんとモーニングセット食べてきた」
「笹田さんって、白石さん宅に住んでる変態?」
「変態はいい加減忘れろ。あれでも大変そうだぞ。昨日会ったとき、白石さんとあまり顔を合わせないようにかなり気を遣っているの見ただろ。白石さんのスケ ジュールは朝早くの出勤、遅番、夜勤、そして休みとローテーションなっているから、それに合わせてかち合わないようにしているんだって。朝の出勤のときは 白石さんがゆっくり身支度できるように早朝に喫茶店で過ごすらしいんだけど、それを昨日会った時きいていたから、ちょっとお供してみた」
「笹田さんと喫茶店ってもしかして『エフ』?」
「そうだよ」
「だったら、私も行きたかった。あそこの喫茶店好き。マスターもすごくいい人そうで、ああいう大人な人、魅力的」
「おい、かなりの年寄りだぞ、あの人」
「でも年取っても素敵な人にはかわりない。若いときはもてただろうな」
ミミの一言で、九重がマスターと仲良く話している様子が思い出される。ミミの前では祖母の事は言えないからロクは黙っておいたが、あれはふたりともいい感じに見えた。
「ああ、そうそう、そのマスターだけど、お土産もらった」
「えっ、何々? もしかしてケーキ?」
ミミは期待する。
苦笑いしながらロクはロゴもはいっていない茶色の紙袋をミミに渡した。
ミミが中を覗けば、そこにはパックに入った卵があった。
「あっ、卵だ」
「今朝、産みたての卵らしい」
「この卵、なんか青くない? 青色なんて初めてみた」
紙袋から取り出し、珍しそうにミミは眺める。宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のようだと思ったが、口にはしなかった。
「幸せの青い卵?」
ロクがぽろっと呟く。
「それ、幸せの青い鳥をもじったの?」
「なんか閃いた、へへへ」
照れくさそうにロクが笑う。その笑顔がミミを幸せにする。
ずっとついてないとひとりで嘆いていた事がばからしくなってしまった。電話も誤解で、ロクは見事にそれも推理して解決してくれた。
不安やネガティブに負けちゃダメだ。ミミは強くなろうと自分を奮い立たせ、失敗したプリンをじっと見ていた。
「そんなに気にしないでさ、この卵でまたプリン作ればいいんじゃないか? 失敗は成功の元というだろう。次はきっと上手く作れるよ」
「もう失敗は気にしてないけどもさ、この卵で作るのは勿体ないな。これはこのままご飯に掛けて食べたい」
「それいいね。卵かけごはん」
「じゃあ、お昼はそれだね。ご飯を炊かなくっちゃ」
ミミは急に元気が出てくる。急いで支度を始めた。
「でも、ロクって本当にすごいな。間違い電話の番号ですら見つけるんだから」
鼻歌交じりにさらりと褒めるミミ。
ロクは持っていた受話器を本体に置きながら、そこにあるディスプレイをみていた。誰がかけてきたかは、操作ボタンを押せばそこに出てくる。普通ならそれを調べればいい。ミミは機械音痴で気がついてなかった。
「まあ、いっか」
正直に話すのを諦めた。
3
「えっ、何?」
「いや、昼ご飯食べたら午後はどうしようかなと思って」
とっさに誤魔化すロク。
「だったらさ、買い物にでもいかない? そろそろ暑くなってきたし、新しい服が欲しいんだ」
「そういえば、中井戸さんがギフトカードくれたじゃないか。それを使えばいいよ」
瀬戸とその息子の祥司の一件。メモを見つけたことで中井戸がその真相を探ってほしいとの依頼だった。結果的には上手く解決できたが、織香や依頼者の中井戸までもが関わって、一騒ぎあっての賜物だった。
瀬戸の家から出た後、依頼料をどうすればいいかと中井戸に言われた。自分ひとりで解決できなかったロクはいらないと拒否すれば、中井戸も払わなくて済むと一瞬喜びかけた。だが、織香がそれをダメ押しした。
『逸見さん、ビジネスなんですからやはり依頼料は受け取るべきですよ』
織香がそういえば、中井戸は見栄を張る。
『そ、そう。依頼したのは僕ですから、それはちゃんと払う義務があります』
織香を意識して格好をつけていた。
『でも皆さんの助けがあったから、解決したわけで』
ロクはなんとかしてくれとちらりとミミを見た。
本来ミミが言うべき事を先に織香に言われたことで、ミミは仕事を奪われたみたいで少しむっとしている。
『ロクがしたいようにすればいいんじゃないの?』
つい意地悪になってしまう。
「おいっ」と突っ込みたいが皆の前でそれも出来ず、ロクは仕方なく屈服した。
『わかりました。それじゃ提示した通りにヨロシクお願いします』
『それじゃちょっと取ってくるから』
中井戸は自分のアパートを指差して慌てて走っていった。遠ざかる中井戸を背にロクは織香と向き合う。
『白石さん、お休みのところ本当に申し訳なかったです』
ロクが頭を下げたので、ミミも形だけはそれに習った。
『却って、楽しかったくらいです。どうかこれからも頑張って下さいね』
『有難うございます』
『それじゃ私はこれで失礼します』
織香は一礼して去っていった。角を曲がるとその姿は見えなくなり、ミミはほっとして肩の力を抜いていた。
その後、中井戸が現れ、織香が帰ってしまったことにがっかりしてしまう。
『なんで引き止めてくれなかったんだよ』
『もしかして、中井戸さんは白石さんの事が好きなんじゃ』
ミミが言うと、中井戸ははっとして慌て出した。
『いや、この間の診察のことで、お礼をきっちりといいたかったからさ』
『でも中井戸さんと白石さんって結構お似合いだよ』
ミミの言葉に中井戸の顔がパッと明るくなった。もちろんリップサービスだ。その裏には織香と上手くいってくれたら嬉しいという願望も隠れていた。
『ほんと?』
『あともうちょっと痩せたら、中井戸さんの魅力に気がつくかも。だからダイエット頑張ってね』
『うん、が、頑張ってみる。それじゃこれ』
中井戸はカードを出した。
ミミは『ん?』と顔をする。
『現金が今なくて、ギフトカードで悪いんだけど、ちゃんと三千円分入っていると思うから』
『ああ、わかりました。それじゃ頂きます』
ロクはそれを受け取った。現金を受け取るよりもいいような気がした。
ミミが訝しげにカードを見つめている。三千円がきっちり入っているのか訊きかねない様子だったったので、ロクは中井戸とそこでさよならし、さっさと家路についた。
カードにお金が入っていなくてもロクはどうでもよかった。
でもそれを確かめるにはミミと買い物にでかけるにはいい機会だ。
ミミもまたロクとデートができるとルンルン気分になっていた。
4
朝は空回りについてないと思いつつ、昼から運が向いてきたミミ。その日の午後、しっかりとロクと買い物して白いかわいらしいワンピースを手に入れた。ロクの見立てでもあり、助手としての働きの見返りでもあった。
「本当に買って貰ってよかったの?」
ミミは服の入った袋を力強く握り締め喜びを隠し切れない。
「買った後で何度も聞かなくていいよ。でもそういう白い服持ってなかったっけ?」
「ううん。こういうかわいらしいのは初めて」
たまたまセール品を見ていたときに、ラックに掛かっていた服をどこかで見たことあるとロクが手に取ったのがきっかけで、ミミが即気にいったものだ。
買い物客で賑わう人だかりの中を歩きながら周りを見れば、他の店に並んでいる白いドレスが目に入る。やはりそれも同じようなものに見えるから違いなど自分にはわからないとロクはふっと笑っていた。
「あっ、逸見さんとミミさんじゃありませんか」
声を掛けられてふたりが振り返れば、派手なアロハシャツを着たサングラスの男が目に入った。
「おっす!」
その隣で元気に挨拶する祥司。
「ああ、瀬戸さん。どうもこんにちは。昨日はすみませんでした」
ロクが挨拶する。
「何をおっしゃるやら、それはこっちの台詞ですがな。とにかく、本当に助かりました。お陰で今は調子に乗られて、このざまですけど」
両手の荷物を見せていた。
「祥司君のおもちゃかな?」
ミミが訊くと、うれしそうに祥司は「うん」と返事した。そして前方にあった服屋にすぐ気を取られていた。
「お父さん、あの服見て。あれ、ママに似合いそう」
「もう、あかんて。予算オーバーやて」
「でもさ、もうすぐ参観日だよ。いい服着てふたりで見に来てよ」
「どうやろうな。ママ、仕事忙しいからいけるかまだわからんで」
「ええ、ふたり一緒じゃなきゃ、いやー」
祥司は不服そうだ。その裏で本当の父と分かったことをとても喜んでいるのが伝わる。
「ママは明日帰ってくるから、それまでちょっと待っとき」
瀬戸の見かけは怖いが、親子の会話は聞いてて笑みが浮かんでくる。
「そしたらさ、お兄ちゃんとお姉ちゃんも来てよ。多い方が僕もなんか応援されてるみたいでやる気でるし」
「親族の人しか無理なんじゃ」
ロクがいうと、瀬戸は「それはええやんか」と賛成する。
「逸見さんとミミさんも是非是非いっしょに参観日行きましょ。俺が見に行くと、親御さんたち誰も話しかけてくれへんしなんか気まずくて寂しいんですわ。一緒に行ってくれたら心強いですわ」
修羅場を潜ってきたような人が、参観日を恐れている。
「でも、よそ者が行っていいんですか?」
「それは大丈夫。俺の親戚やいうたらわかりませんって」
それも困ると、ロクとミミは顔を見合わせた。
「だけど私、子供たちの授業風景見てみたいな」
「でっしゃろ、ミミさん、是非是非来てやってください」
「僕のクラスは三年二組だよ」
「祥司君、三年生なの? もしかして久太郎君って子、知ってる?」
「ああ、久ちゃんか。うん、同じクラスだよ……あっ、もしかして久ちゃんが言っていた魔法使いって、お兄ちゃんのこと?」
祥司ははっとした。
「なんや、祥司、魔法使いって」
「久ちゃんがいうには、このお兄ちゃん、魔法が使えて色々と人を助けるんだって」
「ああ、それやったら確かに、逸見さんは魔法使いかもしれませんな」
瀬戸も納得していた。
「あっ、そうだ、祥司君、久太郎君の消しゴム見つかったか聞いてないかな?」
ロクはあの消しゴムがどうなったか知りたくなった。
「消しゴム? ああ、あのことだね。お兄ちゃんが魔法をかけたことですごいことになってたよ」
「すごいこと?」
ロクが首を傾げると、祥司は一生懸命説明し始めた。だが、話し方が下手で要領を得ていない。
「なんか、祥司の話長くなりそうやな。そうや、折角ここで会ったことやし、お茶でも飲みませんか」
瀬戸が提案し、フードコードに行くことになった。
こどもの日の休日は込み合っていたが、瀬戸が現れると不思議と人がよけて、空きのテーブルが忽然と現れる。
「詰めてもうて、えらい、すいませんな。みんなここ空いたで」
瀬戸に言われ、ロクとミミに視線が集まった。
ふたりが恐縮している側で、祥司は満面の笑みで父の元へと行った。
「それじゃ、なんか買ってきますわ」
瀬戸がいうと、ミミも一緒についていく。
ロクと祥司はその間テーブルについて、話をし始めた。やっぱり何度聞いてもロクは眉間に皺を寄せていた。
5
その次の日の朝のこと。ミミがキッチンで片付け物をしていると、ロクはスツールに座って自分の淹れたコーヒーを飲みながら考え事をしていた。
「一体どうなっているのか、さっぱりわからない」
「何、昨日の祥司君の話?」
「うん、なんか要領をあまり得てないのと、不思議な展開ですごくこんがらがった」
「子供だから、仕方ないよ。直接久ちゃんに訊けばいいんじゃないの? 参観日に会えるよ」
ミミはご機嫌だった。
瀬戸に誘われた参観日に、ロクに買ってもらったワンピースを着ていくつもりだからだ。
ロクは熱いコーヒーをすすり、まだ「うーん」と唸っていた。それとは対照的にミミは能天気に独り言を呟く。
「プリンいつ食べようかな」
昨日、プリン作りに失敗したことを瀬戸に言えば、アドバイスを貰ってその日のうちにもう一度作ったのだった。
『プリンを極めるには、まず自分がどの固さを作りたいかはっきりさせるんですわ。究極の滑らかさを好む人もいれば、昔懐かしい固めを好む人もいる。そこか ら卵と牛乳の比率も違ってきますし、味わいも変化する。ミミさん、プリン作るときはなめたらあかん。覚悟が相当いりまっせ』
凄みを利かせた瀬戸の顔つきはぞくっとするものがあった。ミミはしゃきーんと背筋を伸ばしてコツを聞いていた。
「液を注ぐ時は泡立たないように慎重に流し込んだ。入れ物は熱が均等にいきわたるようにガラスの耐熱器、湯煎するときも下には温度を和らげるための布巾を 敷いた。表面が乾燥しないようにアルミホイルで蓋を作った。もちろん温度も焼き時間も気をつけた。もう、完璧! ああ、食べるのが楽しみ」
すでに昨晩、荒熱が取れたのを試食し、舌触りも滑らかですも入らず上手く焼けていた。それを一晩冷蔵庫に入れて冷やしている。
お菓子が上手く作れたときのミミはご機嫌だ。キッチンで踊るように洗い物をしていた。
その時、インターホンのベルの音が部屋に響き渡った。
「あっ、依頼のお客かな?」
タオルで手を拭きながら、ミミはモニターへ近寄り、画面を覗き込んだ。
「あら、あの子は」
ミミはスタスタと玄関へ向かい、ドアを開けて直接対応した。
「こんにちは、えっと、たしか葉山さん……だよね」
母親に連れられてやってきた楓。顔を上げるなりミミを見て泣きそうになっていた。
「はじめまして。私、母親の葉山美佐子と申します。この子が娘の楓です」
頭を下げた美佐子のセミロングの黒髪がつややかに揺れた。そういえば娘も同じ髪型でよく似た親子だ。
「お忙しいところ失礼します。是非ともこちらの探偵さんとお話がしたいのですが」
「は、はい。どうぞ、お入り下さい」
美佐子の思いつめたその表情が深刻な問題を抱えていそうだ。楓が辛そうに母親の後をついていく。
ミミに勧められて、ふたりはソファーに緊張して座った。
「楓ちゃん、何か飲む? オレンジジュースかアップルジュースがあるよ」
ミミが優しく問いかけるも、楓は厳しい顔をしながら首を横に振った。
「どうぞ、お構いなく」
美佐子もまた硬い表情を崩さない。
「どうも、初めまして。逸見ロクと申します」
ロクがさりげなく現れ、美佐子が立ち上がって挨拶しようとするのを制してソファーに腰を掛けた。
「ええと、楓ちゃんは久太郎君のお友達だよね」
ロクの言葉が引き金となって、楓はいきなり泣き出した。
「これ、楓」
美佐子がそれをやめさせようとする。
「お母さん、とにかく、楓ちゃんのしたいようにさせてあげてください。泣く事は必ずしも悪いことじゃありません。ストレスの解消で心を軽くしてくれるものでもあります」
「楓ちゃん、大丈夫だからね。全然怖くないよ」
ミミも宥める。
「もしかしたら、消しゴムのことかな」
ロクが訊くと、楓は泣きながらコクリと首を振った。
「一度娘とお会いしているそうですね。逸見さんの事を娘が伝えてきたんです。逸見さんなら助けてくれるかもと娘がいうもので、それでこの探偵事務所にいらっしゃることを知ってお話だけでもと思って伺いました」
美佐子が補足している間、前日の祥司の話をロクは思い出していた。
ミミと瀬戸が飲み物を買いにいっているとき、ロクが祥司とテーブルについて聞いた話だ。
久太郎の消しゴムは結局は戻ってこなかったが、その代わり、朝登校すれば、すごい数の新しい消しゴムが久太郎の机の中に入っていたと祥司は言っていた。
『それで消しゴムから手紙が入っていたんだけど』
『ちょっと待って、消しゴムから手紙?』
ロクは祥司の言い方が間違っていると思って問い質す。
『うん。〝今は帰れません。でも心配しないで。とても楽しんでる。それまでこれを使って。消しゴムより〟みたいな事が書いてた。これってお兄ちゃんが魔法を掛けたからでしょ。久ちゃんがそうだってみんなに説明してた』
祥司の話がありえなさすぎて、ロクは困惑していた。誰かが故意にやったに違いない。だが、一体誰がそんなことをしたのかがわからない。たくさんの消しゴ ムを子供が簡単に用意できるわけがないから、必ず大人が絡んでいる。しかしいくら考えても、この展開の謎は心当たりがなく解けなかった。
『みんなもびっくりして、うらやましいっていう子もいたから、久ちゃん、クラスのみんなと消しゴム分けたの。僕ももらったんだけど、そしたら、数がピッタリだった。久ちゃんも奇跡だってすごく喜んでた』
祥司は久太郎がとても優しい子で、いつも人を助けているという話をし、クラスでも人気者の様子が窺えた。当然女の子にももてているのだろう。
楓が久太郎を好きになるのも頷ける。そして他の女の子との張り合いで久太郎の消しゴムをつい握り締め、身近に感じたい要求が高まってしまった。それが悪い事とわかってもそこまでして久太郎のものがほしかったとロクは心理を推測する。
その気持ちは分別が曖昧な子供にはつい魔がさしてしまうようなものだ。
楓が泣き止んで落ち着いてきている隣で美佐子が口を開いた。
「あの、実は、楓がクラスの子の消しゴムを盗ってしまったんです」
「先日、久太郎君からなくした消しゴムを探してほしいと相談を受けたんです。その時、楓ちゃんも側にいて、話を聞いているうちに、楓ちゃんが久太郎君の消しゴムを持っているのではと俺も思ってました」
「さすが、探偵さんですね」
美佐子は恥ずかしさの裏で話が通じると安堵した。
「そのとき、楓ちゃんに返すチャンスをと思って、久太郎君に消しゴムが戻ってくるといいました。そうすることで楓ちゃんに良心を問いました。楓ちゃんは気がついて、返そうとしたんだよね」
ロクに言われて楓はまたコクリと頷いた。
「でもなんらかのハプニングで返せなかったんだね。一体何があったのかな?」
「消しゴムをなくしたの……」
楓の声が震えている。
「あらっ」
ミミも驚いて声が漏れた。
「どこでなくしたかわかるかな?」
ロクは質問を続ける。
「わからない」
「じゃあ、消しゴムを手にしたとき、どこに入れてたの?」
「ポケット」
「なくなったと気がついたのはいつ?」
「家に帰ったとき」
「それまで、ポケットを触ったとか、ハンカチを出そうとしたことなかったかな?」
「覚えてない……」
本当にそうだろうか。無意識に楓はどこかでポケットを触って、その時落としたに違いない。
「不思議なことに久太郎君の机になぜかたくさん消しゴムが入っていたとかで、クラスの皆に配ったそうです。楓は良心の呵責からもらえないと断ったんです。 何も知らない久太郎君は楓の手を取って、『これは葉山さんの分、だから受け取って』と直接消しゴムを握らせてくれたそうです。久太郎君はクラスでも人気者 だから、楓だけ丁寧に渡されたのを見た女の子たちが嫉妬して、後でわざとそうなるようにしたとか責められたそうです。それをまた久太郎君が『葉山さんはそ んなことわざとしないよ。遠慮しただけだよ』って庇ったんです。自分の事を信じてくれるのに、消しゴムを私欲で盗ってしまった事を非常に後悔して、それ以 来毎日ずっと悩んでいるんです。それでなんとしても消しゴムを見つけて、久太郎君に返して謝りたいんです」
「お兄ちゃんは魔法使いですよね。お願いです。消しゴムを見つけて下さい」
赤く目を腫らした楓はロクに必死に頼み込む。その隣で美佐子も頭を下げていた。
「んー、これは難しいな。手がかりがなくて、落としたにしろ範囲が広すぎて、探しきれない」
今までは偶然であったにせよ、謎を解決してきたが、落としたものを見つけるのは至難の業だ。ロクは腕を組みソファーの背もたれに深くもたせかけた。
「楓ちゃん。消しゴムを手にしたのは、四時間目が始まる前かな? その時のこと詳しく話してくれる?」
ミミは力になりたいと質問する。
「はい。休み時間に久太郎君が男子たちとおしゃべりしてすごく盛り上がってたの。そのとき、祥司君っていう子が加わったの。急にこそこそと固まって真剣に 話し出して、何を話しているのだろうと思ってさりげなく近づいたら、机の端に消しゴムが落ちそうになってて、それで咄嗟に掴んでしまったの。それをまた机 に置けばよかったのに、つい握り締めちゃって、机に戻すタイミングがずれてすぐ横切ってしまったの。あとで落し物箱に入れておけばいいと思ったのに、周り に人がいて出来なくて、なぜか落し物箱に入っているんだ、自分は盗ってないって思い込んだら、独り言みたいに『落し物箱に消しゴム入ってる』って言ってし まって」
「じゃあ、そこから楓ちゃんはどんな行動をした?」
「消しゴムをポケットに入れたまま、給食食べて、休み時間友達と過ごして五時間目と六時間目の授業を普通に受けた」
「ポケットの中を触るようなことした?」
「消しゴムが入っていると思うと、触れられなかった」
楓は下を向いてしまった。
「だけど放課後、久太郎君に消しゴムを返したかったんじゃない? だから久太郎君の後を追っていた。なかなか勇気が出せなくて躊躇っていたその時、私たちがそこで久太郎君と出会ったために、益々出来なくなったんじゃないのかな?」
ミミはあの時、電柱の陰で様子を窺っていた楓を思い出していた。
「うん……」
楓にとったらロクとミミの存在は邪魔だった。折角返そうと思っていた気持ちをしくじられた。そこに魔法の話になって、話が変な方向にいってしまい、ロク の助言がただのお節介になって、すぐその場で返せなくなる裏目にでてしまった。挙句の果てになくしてしまい、ロクの助言通りにもできずどれだけ辛かったこ とだろう。
ミミは申し訳なくなってしまう。
「楓ちゃん、大丈夫だよ。消しゴムは自分で飛び出しちゃったんだよ。それに、消しゴムは楓ちゃんに魔法をかけたのかもしれない」
「私に魔法?」
「そうだよ。わざと楓ちゃんに握るように魔法を掛けたの。時々あるんだよ、物がね、意思を持って人間をコントロールすること。人間はその時なぜそんな事をしたかわからないの。楓ちゃんは消しゴムに利用されたの」
ミミの話を横で聞いてたロクは複雑な心境だった。
でも楓は真剣にその話を聞いていた。
「消しゴムは広い世界に飛び出したかったの。だから、そのうち帰りたくなったら、久ちゃんの元に帰ってくる」
「ほんと?」
「うん。だから帰ってくるまでちょっと待とう。その時、久ちゃんに訳を話して謝ればいいよ」
「久太郎君、許してくれるかな」
「絶対、許してくれると思う。それに消しゴムも悪いと思って代わりの仲間を呼び集めたんだろうね。だからあんなにいっぱい机に入ってたんだと思う。クラスのみんなはその時たくさんの消しゴムを見てどうだった?」
「すごくびっくりしてた。それから、みんなひとつずつ久太郎君からもらって、とても喜んでた」
「久ちゃんはどうだった?」
「びっくりしながらも、楽しそうに笑ってた」
「でしょ。だから、楓ちゃんは心配することないって。もし、消しゴムが戻ってきたら、一緒に久ちゃんに説明しよう」
「消しゴム戻ってくるかな」
「戻ってくるよ、きっと」
ミミが強く言うと、楓の顔が弛緩し気持ちが軽くなったのが窺えた。
「ねぇ、楓ちゃん、プリン好き?」
「うん、大好き」
「お姉ちゃんが作ったのがあるんだけど、一緒に食べない?」
「うん、食べる」
顔が明るくなった楓を見て、美佐子はほっとしていた。
ロクだけが複雑な気持ちを抱いてひっそりとため息をついていた。
6
「楓ちゃんも美佐子さんも、プリンが美味しいって言ってくれて嬉しいな。美佐子さんなんて作り方教えて下さいっていうくらいだもん。大成功だ」
ふたりが帰った後、ミミは陽気に洗い物をして片付けていた。
「おい、どういうつもりだよ。あんな嘘ついて」
「嘘? それならロクだって久ちゃんに魔法を消しゴムにかけたなんて言ってたじゃない」
「あれは、その遠まわしに楓ちゃんの良心に訴えただけで」
「それが、楓ちゃんにとったらお節介だったの。あの時、私たちがあの場にいなければ、楓ちゃんは久ちゃんに声かけて、すんなりと消しゴムを返せたはずだった。それを邪魔したのは私たちで、その間に消しゴムをなくしてしまった」
「だからといって、あれはやりすぎだろ。落とした消しゴムが本当に戻ってくるわけないだろ」
「だから、それは私たちが同じのを買って偽装するの。今度、久ちゃんに会ったら、どんな消しゴムで、使用具合はどうだったか、さりげなく聞けばいいだけ。ロクだって言ってたじゃない。戻ってこなかったらさ、『お詫びに俺が買ってプレゼントするよ』なんて」
「確かに言ったけどさ……」
ロクはもごもごしてしまう。
「あの問題は消しゴムが戻る、戻らないじゃなくて、楓ちゃんの心を軽くしてあげるのが一番だったの。嘘も方便っていうでしょ。美佐子さんも、ちょっと無理があると思っていただろうけど、娘の気持ちが晴れた事はすごく喜んでたじゃない」
「それで、それは人助けで、ビジネスじゃないと? だから依頼料をとれなかったんだ。ふーん」
やり込められるのが嫌で、ロクは反撃する。
「だって、あれは無料相談の域でしょ。子供の前でお金の話なんてできない」
「そんな事では、運営が任せられないぞ」
「なんで、そんなに意地悪なこというのよ。ロクが私の立場でも絶対に同じことしたと思う」
ミミはそれ以上話したくないと洗い物に集中する。カチャカチャとお皿の音が激しく鳴っていた。
この部屋の太陽が雲に隠れて寒々とし、急に場の空気も冷え込んだ。後ろを向いたままのミミを見て、ロクは罪悪感にいたたまれなくなった。
「ごめん、ごめん、ミミが上手く処理したから、ちょっとアレだ」
「何よ、アレって」
「だから、アレだよ。悪かった」
明確に言わないロクに呆れつつも、頭を下げたロクが可哀想に思えてミミは簡単に許してしまう。
「別にいいけどね。ところでさ、今日は五月六日でしょ。楓ちゃん、学校休んで来たのかな」
「何、いってんだ。ゴールデンウイークは今日までだぞ」
「えっ、そうだっけ。今日は月曜日だっけ?」
「火曜日だよ。五月三日土曜の憲法記念日、五月四日日曜のみどりの日、五月五日月曜の子供の日と続いたから振り替えが今日」
ミミはいまいちぴんとこずに、こんがらがっていた。
「一日休みが増えようが、俺たちには関係ないからな。それにしても久太郎の大量の消しゴムは一体誰が用意したんだろう」
「参観日の時にわかるんじゃない? この謎を解くには、誰が久ちゃんの消えた消しゴムのことを知っているかってことだと思う。久ちゃんの話を聞いた誰かが、私たちと同じように推理して、ああいう粋な計らいをしたんだと思う」
「もしかして、担任かな?」
ロクは可能性を色々と探っていた。
「さて、逸見探偵。報酬はないですけど、この謎を解きたいですか?」
「ああ、もちろん。助手のミミ君」
ふたりは顔を見合わせ最高のコンビとでも言いたげに笑い合った。
7
その翌日の早朝、ロクはまだ部屋で寝ているミミにドア越しから声を掛けた。
「出かけてくる」
「もしかして笹田さんと喫茶店に行くの?」
「まあな」
「私も行きたい」
「でもまだ身支度してないだろ。また今度な」
「ええ、ロク、待ってよ」
ミミの頼みも聞かず、ロクはさっさと出かけて言った。勇気を出してパジャマ姿でドアの外に出るもすでに手遅れだった。
「何よ、前日に言ってくれたら早起きしたのに」
すぐ後を追いかけようと洗面所に立ち、慌てて歯ブラシに歯磨き粉をつけるが、口に入れる前にミミの動きがふと止まってしまう。よく考えれば、自分は歓迎されていない。
もし、身支度する時間が待てないのなら、先にロクが喫茶店に行って、ミミが後から遅れていけば言いだけの話だ。
――後で、来いよ。先行ってるから。
そういうだけでよかった。
それなのにロクは『また今度な』とミミを最初から来るなと遠まわしに示唆していた。
「男同士で話したいことでもあったのかな」
鏡に向かって首を傾げる。
「まあ、いっか」
深く考えないように、歯ブラシを口にいれ無心で歯を磨き始めた。
ところが、その後「今度いつ笹田さんと喫茶店で会うの?」と聞けば、ロクは「わからない」と曖昧だ。
「それじゃ、行く時は前日に教えてよ」
ミミは念を押す。
それに対する返事は「ああ」と形式的にするけども、あまり乗り気じゃない。ソファーに座って黙々と本を読んで、ミミに振り向きもしなかった。
そして、その数日後の朝、ミミが起きて部屋のドアを開けると人の気配を全然感じなかった。ロクの部屋のドアをノックしてみても応答がない。
「ロク、いるの?」
ドアノブを掴んでまわそうとすれば、しっかりと鍵が掛かっていた。
「ちょっと、ロク!」
何度、ノックしながら名前を呼んでも何の反応もない。
「うそ、何も言わずに出て行っちゃったの?」
ミミは悲しくなってしまう。でも次第に腹も立って来た。あまりにも悔しいのでミミは喫茶「エフ」に向かった。
勢いつけてやって来たものの、中へ入る勇気がない。中の様子が知りたくてミミはガラス窓の前をゆっくりと歩いてさりげなさを装って中を覗くが、窓際の席にはロクの姿が見当たらない。
もし見つけたところで、割り込んでいいものか躊躇する。
仕方なく帰ろうとしたとき、喫茶店のドアが開き、そこからマスターが出てきた。
「誰か、お探しですか?」
「あの、ロク、えと、逸見ロクは来てますでしょうか」
「ああ、逸見さんですね。今日は来られてませんけど」
「ほんとですか?」
「今日は待ち合わせですか?」
「いえ、その、ちょっとどこに行ったのかと思って」
「そうですか。だったら、ラテでも飲んでいかれませんか? とても美味しいですよ」
ニコッと笑って誘われるとミミは断れなくなり、マスターの言われるままに店に入っていった。カウンター席に案内され、ミミは恐る恐るスツールに腰掛け た。マスターが機械に向かうその背中をミミはぼんやりと眺めていた。ロクと同じ事をしていると思ったとき、その機械は家にあるのとよく似ていた。
ロクがいつもラテをいれてくれる姿とマスターの姿が重なっていく。ぼうっとしている時に、カップが目の前に置かれた。
「さあ、どうぞ」
ロクの事を考えているうち、つい自分の家にいるような気になっていたので、ミミは一瞬目の前のマスターをロクと勘違いして慌ててしまう。
「あ、ありがとうございます」
ボールのように大きい白いラテカップ。なみなみと注がれた淡い茶色にミルクフォームでハートが描かれていた。
照れくさいようでいて、粋なサービスにミミは笑みをこぼした。
ロク以外の人が淹れてくれたラテをミミはまだ飲んだ事がない。
添えられていた不ぞろいの茶色と白の粒の砂糖。適当につまんでカップに入れた。スプーンでゆっくりとかき混ぜ、静かにカップを口元に運んでいく。一口すすればいつもの味だと優しい口当たりに満足した。
「いかがでしょうか」
「とても美味しいです」
「そうですか。それはよかった」
マスターが笑うと目じりに皺が寄っていた。そこに年月の積み重ねが見えてくる。優しいその微笑は慈愛に満ちていた。
何かマスターと話がしたかったが、何を話そうか考えているうちにレジに客が立ち、マスターはそちらへと行ってしまった。手もちぶささでもあるけれど、ひとりで静かにコーヒーを味わうのも悪くはない。
「それにしても、ロクは一体どこに行ってしまったのだろう」
ラテを飲みながら、ふといらぬ事を考えてしまう。
笹田と会っているフリをして、実は織香と会っているのでは――。
織香は職場の既婚の医者も、中井戸も、小学生の祥司ですらとりこにしてしまう女性だ。ミミにはない色気や気品、知性までも備えて、女性の目からみても、綺麗な人だ。
まさか、そんな。
色々と考えをぐるぐる巡らせている間、いつの間にかカップが空になっていた。
このままでは不安になるだけなので、ミミは確かめに行く。
「マスター、すみません、お勘定お願いします」
「大丈夫です。お勘定は逸見さんにつけておきますので」
ここでのロクの支払いは不要になっているので、当然ミミもまた払う必要がなかった。あえてそれを言わず、あくまでもロクを立てる。
「そ、そうですか。じゃあ、お願いします。どうもご馳走さまでした」
ミミが一礼して去ろうとした時、マスターは呼び止めた。
「あっ、ミミさん」
「はい?」
「あの、どうか深刻にならずに、全てがきっと上手く行くと思います」
「あっ、ありがとうございます……」
ミミは曖昧に返事して店を出た。
カウンターで思いつめながらラテを飲んでいたのをマスターは見ていたのだろう。急に恥ずかしさがこみ上げる。それと同時に不安も押し寄せた。ただの考えすぎでありますようにと願わずにはいられなかった。