年長の夏のことだ。
その日は朝から風が不気味に吹き荒れていて、灰色の雲が空一面を覆っていた。
給食を終えた頃にはすでに激しい雨が降り出していて、風も朝よりも激しく、ごうごううなりを上げていた。
台風が近づいていた。
だからその日は降園時間を大幅に繰り上げて、全員帰ることになった。
連絡を受けた保護者がぞくぞくと迎えに来て、次々と友達が帰っていく。
残ったのは、舞花と僕だけだった。
僕は何となくわかっていた。
きっと最後まで残るのは僕だ。
そして母さんは、迎えに来れないんだ。
僕だけ、先生とこの寂しい教室に残るんだ。
そう思った。
うちの父さんは転勤が多かった。
母さんも仕事を持っているし、生活環境がころころ変わるのは子供にとっても母親にとってもストレスになるからという理由で、父さんは単身赴任している。
母さんは駅三つ向こうの総合病院で働く看護師だ。
だから僕はいつも早朝保育を利用しているし、だいたいいつも延長保育を利用している。
時にはさらに延長することもある。
母さんがいつ迎えに来るかなんて、誰にもわからなかった。
今日、こんな日でも、母さんはきっと来れない。
僕は一人ぼっち。
そんなことわかっているのに、慣れっ子なのに、その日の僕は、窓から離れることができなかった。
雨水が窓を滝のように流れていって、園庭の向こうの方にある門を隠している。
それでも僕は目を凝らして、迎えが来るのを待っていた。
早く迎えに来てほしいと思った。
一人ぼっちにしてほしくないと思った。
僕のそばでニンジンを切る舞花は、相変わらずご機嫌だった。
親が迎えに来るって、無条件に信じている。
そんな舞花の手を、僕は無意識に握っていた。
「……何?」
舞花はきょとんとした顔で言った。
「別に」
僕はそう言いながら慌てて手を離した。
「……あおい君、台風怖いの?」
舞花はそう聞いた。
「そんなわけないじゃん」
「じゃあ、寂しいの?」
「だからそんなんじゃないって。舞花はどうなんだよ。怖いんだろ、台風。
親がなかなか来なくて寂しいんだろ」
僕の強がった言葉に、舞花はツンとしたすまし顔で言った。
「怖くもないし、寂しくもないよ」
その理由に、僕ははっとなった。
「だって、ここにはあおい君がいるもん」
そして舞花は、僕の手をそっと迎えに来た。
「あおい君がいれば、寂しくなんかないよ。
だって、あおい君はいつも舞花のそばにいてくれるでしょ?
だから、舞花もあおい君のそばにいる。
あおい君は、違うの? 舞花がいても寂しいの? 怖いの?」
「え?」
怖くなんかなかった。
寂しくなんかなかった。
だけどそれは、親と離れてる時間に慣れたからでも、物分かりの良い大人びた保育園児だからでもなかった。
その理由に、僕はその時初めて気づいた。
舞花がいるからなんだ。
__「あおい君」
そう言って毎朝僕のそばに駆け寄る足音を聞く安心感。
早くそれを感じたくて、窓の外をチラチラと見ながら舞花の姿を探してた。
その弾む声を待っていた。
肩に乗せられる重みを期待してた。
__「舞花」
そう呼べば、いつでも僕に向けられる笑顔があった。
だから僕は、寂しさを感じなかったんだ。
涙なんて、必要なかったんだ。
「舞花ちゃん、お父さん来たよ」
「はーい」
元気に返事をしながら、舞花は鞄を背負う。
僕の手から、温もりがするりと抜けていく。
「あおい君、また明日ね」
そう、また明日、舞花に会える。
それだけで、その笑顔を見るだけで、僕はその背中に手を振ることができたんだ。
手を振るその手には、まだ温もりが残っていた。
いつまでも、いつまでも。
その温もりが消えないように、僕はぎゅっと手を握り締めていた。