「舞花がいつも話してた、あのあおい君? あなたも覚えてるでしょ? 舞花が「好きだ」っていつも言ってた、あのあおい君」


「それは保育園の時話だろ?」


 歩美が興奮気味に僕に話しかけてくるのを、僕は疎ましく感じた。

 そう、それは昔の話だ。

 大きくなるにつれて「あおい君が好き」なんて口にしなくなったし、小学校に入ってしばらくはあおい君の名前を聞いていたけど、いつの間にか舞花の口からあおい君の名前が出ることはなくなっていた。

 だけど今の僕は、舞花の口から久しぶりに聞くその名前に胸騒ぎを覚えていた。


「舞花は、今もあおい君のことが好きなの?」


 歩美の問いかけに舞花は何も答えない。

 フロントミラー越しに舞花を見やる僕の目に、思わず力がこもる。

 結局舞花は歩美の問いには答えず、ぽつりぽつりと話しだした。


「前住んでたマンションの近くに公園があったでしょ? そこに、バスケットコートがあったの覚えてる? そこに行ったら、たまたま偶然あおい君がいたの」


 僕はそわそわする胸を落ち着けるために、近くのコンビニの駐車場に車を止めた。

 こんな状態で運転するのは危険だと思った。


「実は、おばあちゃん家にいるときは、毎日会ってたんだ。

 それで……これからも、会えるといいねって」


 僕ははっとして思わず振り返って舞花を見た。


「もしかして、それが目的でおばあちゃん家に?」

「違うよ」


 僕の言葉に、舞花の厳しい声と鋭い眼光が突き刺さる。
 
 しばらく変な空気が流れたのち、「それで、定期?」と後部座席に体を向けた歩美が尋ねる。

「うん」と舞花は強くうなずいた。


「でも、定期なんて大袈裟じゃないか? そんな頻繁に会うわけじゃないし。

 定期って毎日通勤とか通学に使う人が買うもんなんだよ。

 「また……」なんて、次いつ会えるかもわからないのに。

 もったいないよ。

 それなら、その都度、切符を買ったほうが……」


「そうだよ」


 僕の言葉を遮るように、舞花は言った。


「毎日、会いに行くの」


 その言葉の意味が、僕も、きっと歩美も、よくわからなかった。


「それは、夏休みの間だけ、ってこと?」


 歩美は慎重に聞いた。


「違うよ。これからずっと。毎日、会いに行きたい」


 舞花の力強い声に、僕は口を半開きにしたまま何も言い返せないでいた。

 唇と前歯が乾燥し始めていて、口元が何かで張り付いて上手く動かせそうにもなかった。

 男親として何か言うべきだと思っている僕は、その準備のために何度も唇をなめたし、みんなに聞こえそうな大きな音でごくりとつばを飲み込んでのどを潤していた。

 だけどそんな僕より先に声を発したのは、歩美だった。


「ねえ、今から、会いに行かない?」


 歩美の静かで穏やかな声が、エアコンとエンジンの音に混ざりあった。


「今から、あおい君に会いに行かない? 私、あおい君に会ってみたい。会って、話してみたい」


「そんな急に……」


 その提案にうろたえているのは、僕だけだった。


「だ、だいたい、何で歩美が会いに行きたいんだよ。歩美には関係ないことだろ? そんな興味本位で会いに行きたいなんて、親としてみっともないぞ」


「あら、関係ないことないじゃない。あなたは娘の好きな人を見てみたくないの?」


 正直見たいとは思わない。

 それに、まだ舞花の口から「好き」とは聞いていない。

 そんな僕を置いていくように、歩美は嬉しそうに話し続ける。


「舞花とコイバナをするのが、私の夢だったんだから。いいじゃない」


 そう言って、舞花と視線を交わす。

 味方を得た舞花も嬉しそうに「うんうん」と首を何度も縦に振る。

 だけど次の瞬間、はしゃぐ声とは裏腹に、切なげな瞳が僕に何かを訴えかけてくる。


「思い立った時に動かなきゃ、もう次はないかもしれないでしょ?」


 ぼそりと呟かれたその言葉に、僕は何も言わずに車を発進させる準備をする。

 そして僕は、昔住んでいたマンンションの方に車を走らせた。

 運転をしながらも、僕の胸騒ぎは続いていた。