昨日までの天気が嘘のように、今日の空は晴れ渡っていた。

 日差しは柔らかで、その中を流れる風はとても優しく、やけに静かだった。

 まるですべてのものを洗い流したかのような、きれいな空気が流れていた。

 いつものバスケットコートには、どこかからやってきた葉っぱがコンクリートの地面に張り付き、木の枝が散乱していた。

 その中に、舞花の姿があった。

 風になびく長い髪を抑えながら、いつものベンチに腰かけていた。

 その姿を前に、僕は足を一歩前に出すことすらできなかった。

 怖かった。

 ほんとは、そこに舞花はいないんじゃないかと思って。

 やっぱり夢なんじゃないかと思って。

 近づいたら、声をかけたら、消えてしまうんじゃないかと思って。

 それだけで僕は、泣いてしまいそうだった。

 だけど、そうして立ち止まっている僕に気づいて先に声をかけたのは、舞花だった。

 舞花は立ち上がって、いつものように「おはよう」と透明感のある声で言った。


__その声も、夢?


「あおい君?」


 僕の名前を呼ぶ声に、鼓膜が嬉しそうに震える。


 夢じゃ、ない。


 舞花は今、ここにいる。


 変な安心感に、足から崩れ落ちそうなほど力が抜けていく。

 そんな僕に、舞花がゆっくりと近づいてくる。


「これ、体操服。返しそびれちゃって」


 僕の前に差し出された紙袋の隙間からは、きれいにたたまれた白い体操服がちらりと見えた。


「ありがとう。学校、連れてってくれて」


 その言葉は、僕たちの時間が夢ではなく、思い出である証拠。

 僕は舞花の手からそれをそっと受け取った。


「今日ね、お父さんたちが迎えに来るの」

「え?」

「今日、帰るんだあ」


 別れは、こうして突然来るのだろうか。


「一週間、すごく楽しかった。夏休みの、いい思い出だよ」


 舞花はそう言ってにこりとしたかと思ったら、急に切なげな表情を作って続けた。


「私ね、今日が終わっていくのが怖かった。

 目を閉じたら、もうこのまま明日は来ないんじゃないかって思ってたから。

 でも、あおい君に「また明日」って言ってもらえて、何としても明日も生きようって思った。

 「また明日」って言ってくれたあおい君に、明日も会いに行こうって。

 だからこの一週間、今までで一番生きた感じがした」


 最後に舞花は、僕としっかり目を合わせた。


「一緒にいてくれてありがとう。

 私のやりたいことが、また一つ叶った。

 好きな人と、一緒にいられたから」


 その瞳に吸い込まれそうだった。

 今すぐ抱きしめたかった。

 だけど僕には、できなかった。

 その感触を知ってしまった瞬間、彼女が消えてしまいそうな気がして。

 そう思っていた矢先、僕の体に、柔らかな感触がすっとまとわりつく。

 腰のあたりに回された、細い腕の感触。

 鼻先をくすぐる甘い匂い。

 胸元に預けられた、愛おしい重み。


「ごめんね。遠距離は無理なんて自分で言っておきながら、こんなことして。

 でもね、私すっごく嬉しかったんだあ、あおい君が好きって言ってくれたこと」


 震える舞花の声が、僕の鼓膜を優しく振動させる。


「私も、あおい君のことが好きだか……」


 舞花が最後の言葉を言い切る前に、僕は腕に力を込めて、ぎゅっと舞花を抱き寄せた。

 舞花の存在感が、さっきよりもずっと強くなる。

 濃くなる。

 舞花はちゃんとここにいる。

 生きてるんだ。

 今僕たちは、一緒に生きている。


 すべての感触が、僕の体に刻み込まれていく。

 それと同時に、僕はもう、逃げないと決めた。

 舞花を、もう絶対離さないと決めた。


「舞花」


 その名前を呼べば、まるで花が咲き乱れるように、僕の心は幸福で満たされる。

 腰に巻き付いた舞花の腕にも力がこもって、胸元に顔をすり寄せるのが分かった。

 空を仰げば、まるで僕たちの心が通じ合ったことを祝福するかのような、真っ青な空が広がっていた。

 その空に、僕はもう一度彼女の名前を呼ぶ。


「舞花」

「ん?」

「時間は、お金で買えるんだよ」

「……え?」

「500万円の使い方なんだけどさ……」


 僕は舞花の体をいったん離して、舞花と視線を合わせた。

 舞花の目には、明らかに戸惑う色が滲み出ていた。

 僕は昨日からずっと考えていたことを、舞花にゆっくりと話し始めた。


「500万円あったら、俺は毎日、舞花に会いに行く」

「え?」

「500万円は、その交通費にする。

 毎日のデート代にする。

 それで、毎日「また明日」って言う。

 そして次の日も、会いに行く。

 その次の日も。

 俺も言いたい。

 「また明日」って。

 そうやって、毎日会いたい。だから……」


 僕は一旦言葉を切った。

 用意した次の言葉を、大切に取り出すように。



「だから、18まで生ききろ」



 僕の言葉に、舞花の瞳が大きくなる。


「18までしか生きられないんじゃない。

 18まで生きるんだ。

 18はもうすぐなんかじゃない。

 あと5年、いや、舞花の誕生日も12月だから、5年と8か月もある。

 舞花はまだいなくならない。

 舞花はまだ生きるんだ。それで……」


 僕は次の言葉を言いよどむ。

 だって、恥ずかしすぎるだろ。




「18になったら、俺と、結婚して」




 ……なんて。



 肝心の一言なのに、僕は言う直前になって思わず舞花から目をそらして、思いのほか小さな声になってしまったことをすぐに悔やんだ。


 舞花の反応は、ない。


 やっぱり聞こえてなかったかもしれない。

 こんな大事な一言をもう一度言い直さないといけないなんて情けない。

 そう思いながら恐る恐る舞花の方に視線を向けると、舞花の瞳は濡れて揺らめいていた。

 だけどその表情は、どことなく嬉しそうだった。

 半分開いた口元には、にわかに笑みがこぼれていた。

 そしてその口元からこぼれるように言葉が出た。


「それ、いいね」


「え?」


「いいね、それ。すごいよ、あおい君」


 舞花は高ぶる気持ちを少しずつ開放するように、きらめく大きな瞳を僕に向けてくる。


「その500万円の使い方、すっごくいい」


 俺の両手を取ってぴょんぴょんと小さく飛び跳ねる舞花に、僕は一気に力が抜けていく。


「そ、そうかな。よかった」


 僕は小首を傾げながら戸惑いの苦笑いを返すことしかできなかった。


「あおい君、私の誕生日覚えててくれたんだね」

「当たり前だろ」


 僕は得意げだった。


__舞花のことなら、僕は何でも知ってるよ。

 そしてこれからも、舞花のことがもっと知りたいんだ。

 舞花の生きた時間を、僕はすべて覚えていたい。

 だから、一緒にいたいんだ。


「覚えてるに決まってんじゃん。

 舞花の誕生日は、俺と二週間違いなんだから」


「えっと……それ、どういう意味か分かってる?」

「どういう意味って?」

「私の誕生日、あおい君の二週間前なんだよ」

「だから、何?」

「もう……だからあ……あおい君の誕生日より先に、私の寿命が来ちゃうってこと」


 それを聞いて、頭の血がさっと引く。

 しかも、舞花の口から「寿命」なんて言葉を聞いて、さらに胸が痛くなる。

 眉間にも唇にも力がこもる。
 
 生まれた日だけは、もうどうしようもない。

 どうしたって、変えられない。



「そんな顔、しないで」


 舞花のその言葉に、僕は顔を上げた。

 舞花は穏やかな瞳で、僕を見上げている。

 それからふっと息をひとつ吐いて、落ち着いた声で舞花は言った。


「二週間ぐらい、頑張れるよ」

「え?」

「二週間ぐらい、寿命、延ばしてみせるよ」


 穏やかに笑う舞花の笑顔は、僕に手を差し伸べるように優しい。

 その笑顔に、僕もつられて笑った。

 笑おうと思った。

 こぼれそうになる涙を押し殺して。

 そしてもう一度引き締め直して、僕は、改めて言う。

 これが、最後のチャンスだ。


「だからさ、舞花、18まで生きられないとか言うな。

 18歳まで生きろ。

 生ききろ。

 俺の誕生日まで、待っててよ。

 俺、毎日会いに行くから。

 毎日、明日会う約束するから」


 穏やかな笑顔のままの舞花の瞳に、また涙が戻ってくる。


「あおい君との明日があるなら、私は生きられるよ」


 舞花は僕の目をまっすぐ見て、力強く言った。

 まるで僕を安心させるように。

 その瞳をまっすぐ見つめ返したけど、僕は思い直してすぐにそらした。


「って言っても、実際には500万円なんて持ってないから、「毎日……」なんて強気なこと言っちゃったけど……

 ……でも、お小遣いとか使って、できるだけ毎日会えるようにする」


 僕が高らかに宣言すると、舞花は僕にキラキラとした視線を向けて言った。



「私、持ってるよ、500万円」



「…………へ?」


 僕の頭の辺りから、たくさんの「?」が、青空に舞い上がっていく。