ブレーカーは見てもよくわからなかった。

 人生でブレーカーが落ちるなんてことにまだ遭遇したことなかったし、そもそも普段のブレーカーがどうなっているのかさえ、よくわかっていない。

 いくら僕が中一にして身長が165センチあったとしても、踏み台がなければブレーカーのレバーには指先も届かない。

 
「踏み台探すしかないか」


 僕の様子を見て母さんは早々に諦めて洗面室を出て行った。

 僕もその後について洗面室を出て部屋に戻ろうとすると、「一緒に探しなさいよ」とどこからかくぐもった声が聞こえてくる。

 恐らく押し入れの中を捜索中なのだろう。

 案の定、母さんは押し入れの中に体の半分を突っ込んでいた。


「暗くてよく見えない」

 
 母さんの声は明らかにイラついていた。

 母さんは、せっかちだ。

 いつも慌ただしくて、動いていないと落ち着かなくて、一分一秒を無駄にすることを嫌う人だった。

 性格はさばさばしていて、曲がったことが嫌いだし、言いたいことははっきりと言う。

 責任感も正義感も強い。

 ついでに気も強い。

 髪は僕よりちょっと長いくらいの短髪で、化粧をすると不思議と男前になる。

 すらりとしていると言えば聞こえはいいけど、本人からすると上から下まで出るところが出ていないのが悩みなのだ。

 背も高くて、僕が母さんの身長を抜いたのはつい最近の話だ。



「ああ、もう、どこー?」と押し入れの中で猛獣が唸るような声を上げる。
 

 僕はその姿を見つめて、ため息をこぼした。
 
 半袖のTシャツから伸びる腕は筋張っていてたくましささえ感じる。

 押し入れに体を突っ込む姿は、もう頼もしさしかない。

 華奢でほっそりしているのに、なぜか守ってあげたいと思えない。


 今すぐにでも抱きしめたくなるような舞花の儚げな背中とは違った。

 透明感のあるほっそりとした白い腕とは違った。

 鼓膜をさらさらとくすぐるかわいらしい声とは違った。 


 大人になったら、舞花もこうなるのだろうか。

 仕事をして、結婚して、子どもを産んで育てていく生活を送ると、こんな風になるのだろうか。

 もしかして母さんも実は昔は舞花みたいな感じで、いろんな経験を経て大人になることで、あんなせっかちで気の強い人間になってしまったのだろうか。

 
 想像できない。

 母さんと舞花が同じだったなんて。

 そして、舞花が母さんと同じようになるなんて。
 
 そこではっとした。


 そうだ、舞花は、18までしか生きられないんだ。

 舞花は、大人にならないんだ。

 自分の母親の今の年齢を経験することなく、この世界からいなくなってしまうんだ。

 舞花のことを思い出して、急に胸が痛くなった。


__18って……あと、5年とか、6年? 5……。


 僕の脳裏をかすめて消えた言葉を、僕はそのまま目の前の背中に投げかけた。


「あのさあ……」

「ん?」

「もし500万円好きに使ってもいいよって言われたら、どうする?」

「えー?」


 母さんは押し入れに体を突っ込んだまま聞き返した。


「だから、500万円あったら、母さんだったら何に使う?」

「どこにそんなお金があるのよ」

「いやないけど、例えばだよ」

「そりゃあ、あおいの将来の学費とか、バスケット留学とかするかもしれないでしょ? あとは結婚式費用とか……」


「ちょいちょい、待って。

 何、バスケット留学って。そんなん考えてないし。

 どんだけ俺のバスケ力に期待してんだよ。

 それに結婚式とか気が早すぎ」


「そう? だって男は18で結婚できるんだよ。

 あんたあと5、6年で結婚できるんだから」


「えっ、そう……なん、だ」


 そんな事実に僕はちょっと驚いた。

 驚いたというか、うろたえた。

 だって結婚って、大人になったらするものだと思っていたから。

 それが18でできるなんて。

 18って、大人なのだろうか。


 それなら僕は、あと5年で大人になるのだろうか。

 いや、まだ12だから、あと6年。

 違うな、僕の誕生日は12月だから、正確には、あと5年と8ヵ月。


「それでも気が早いだろ」


 頭が混乱を始めたので、僕はそれを振り払うように母さんにつき返す。


「子どもを育てるにはね、お金はどれだけあっても足りないってことよ」

「俺のことはいいから、自分のためだったら何に使う?」

「自分のため? うーん、そうだなあ……」


 母さんはようやく押し入れの中から体を出してきたと思ったら、顎に手を当てて真剣に考える仕草をする。

 その手に、踏み台はない。


「お父さんに、会いに行くかな」

「え?」

「今すぐお父さんに会いに行くわ」

「……何それ」


 父さんは母さんと違っておっとりとしていて穏やかな人だ。

 いつも母さんの話に耳を傾けて、何が面白いのかそれをただひたすら笑って聞いている。

 母さんの頼みを、いつも朗らかな笑顔で受け入れている。

 母さんが父さんに注意したり叱ったりしているところは何度も見たことがあるけど、父さんが母さんに対して口ごたえや文句を言っている姿は見たことがないし聞いたこともない。

 はたから見れば、父さんは完全に母さんの尻に敷かれている。

 僕から見て二人は恋人とか夫婦っていうより、友達とか同級生って感じだった。

 実際二人は幼馴染で、お互い初恋で結婚までした。

 だけど、お互いに恋愛感情があるようには見えなかった。
 
 夫婦になると、そういうものなのだろうか。

 僕の前だからというのもあったのかもしれないし、父さんの単身赴任歴が長いから、そんな二人の素振りに僕が気づかなかっただけかもしれない。
 
 僕がいなければ、二人は恋人のように接したのだろうか。


「お母さん、こう見えて好きな人の近くにいたいタイプだから。

 本当は遠距離とか無理なのよ」


 その発言に僕の口から思わずふっと笑いが漏れた。


__舞花も、同じようなこと言ってたな。



「何笑ってんのよ」

「笑ってないけど。父さんのこと好きだったんだあと思って」

「当たり前でしょ」と母さんは恥ずかしげもなく即答した。


「500万円あったら、今すぐにでもタクシーに乗り込んで空港行って飛行機乗って。

 いや、飛行機は手続きに時間がかかるから、チャーター機とか……

 とにかく一番早い方法でお父さんのところに行くかな」


「行ってどうすんの?」

「別にどうするってこともないけど。

 いつも通りご飯食べて、しゃべって、お父さんの身の回りのことして……」


「それっていつもと変わんないじゃん。そうじゃなくて、もっと特別なこと」

「特別って何よ?」

「だから……仕事休んで贅沢したり、欲しかったもの買ったり旅行したり。

 残りの人生に悔いを残さないように、やりたいこと全部やりたいとか思わないの?」


 母さんは僕の話に「残りの人生って……」と鼻で笑った。


 わかってる、残りの人生なんて、大袈裟だって思うよな。

 まだまだ先の長い中学生が何言ってんだって思うよな。

 だけど、舞花は……


 舞花には……もう時間がないんだ。


 母さんにはわからないんだ。

 まだ先があると思っているから。

 確実に明日が来ると思っているから。

 だから、人生の残り少ない時間の中で、有意義に、後悔のないように生きるってことにピンとこないんだ。

 そのための500万円の使い方がわからないんだ。

 それは母さんだけじゃない。

 僕も同じだ。

 僕にだって、そんなのわからない。

 だって僕たちは、余命宣告なんてされていないから。

 自分の命に期限があることすら忘れて生きてるんだから。

 舞花にしかわからないんだ。

 自分の人生の残り時間を突きつけられて、その日が来るのをただ待つ辛さも、寂しさも、悲しさも。

 500万円の使い方もわからず、舞花の気持ちもわかってやれない自分が情けなくて、悔しかった。

 
 舞花のことで頭がいっぱいになった僕の目に、じわりと熱いものが広がった。

 鼻で息をすると、鼻の奥の方でずずっと水っぽい音がした。

 僕はそれらを誤魔化すために、リビングの中を眺めまわすふりをしてやり過ごした。

 静かなリビングに、母さんの声がぽつりと放たれた。


「残りの人生で、あと何日、お父さんと過ごせると思う?」

「え?」

「あと何日、家族三人で過ごせると思う?」


 薄暗がりの中で、真剣なまなざしを僕に向ける母さんと目が合った。


「お母さんは、残りの人生、一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも、お父さんと一緒にいたいと思うな。

 もちろん、あおいとも。

 家族で、普通の生活をしたいと思うな。

 一緒にご飯食べたり、話したり、テレビ見たり。

 家のこともみんなで一緒にやって、家に帰ったら「ただいま」って声が聞こえて、「おかえり」って迎えてくれるような。

 そういう、普通の生活」


 母さんは黙ったままの僕の顔を覗き込むようにして見やる。


「今まで、そんな風にあおいを出迎えたこと、なかったでしょ?

 あおいも、帰ってから「おかえり」なんて、この12年間で何回言われた?」


 明るい調子の声とセリフとは裏腹に、その表情には申し訳なさが滲み出ていた。

 初めて見る母さんのそんな表情に、僕の胸が苦しくなる。


「あおいには、寂しい思いをさせてたと思うわ。今もだけど。

 他の家では当たり前のことを、全然してやれなかったからね」


「別に、寂しくなんか……今さら何言ってんだよ」


 僕は笑って言ってみせた。

 だって、母さんに、そんな顔は似合わないから。

 それなのに、母さんは相変わらず申し訳なさそうな笑顔を僕に向ける。


「だからね、500万円あったら、少しでも三人で過ごす時間を作りたいな」

「なになに? 三人で贅沢するとか? ぱーっと旅行にでも行くの?」


 いつも通りの母さんを取り戻したくて、僕は軽い調子で言った。

 母さんを、何とか笑わせたかった。

 そのために、自分も必死に笑って言った。

 それなのに母さんは、いつまでも真面目に答える。


「だから言ってるでしょ? 贅沢とか、特別なことなんかしなくていいのよ。

 三人で、いつも通りの生活をするだけ」


「そんなん……俺たちの生活に、500万もいらないじゃん。

 うち、質素なんだから」


「質素で悪かったわね。でも、それでいいのよ。これからも質素だし」


 ようやくいつもの調子を取り戻した母さんに、僕はほっとした。

 
「じゃあ、何に使うんだよ? 500万は」

「だから、交通費よ」

「……交通費?」

「一日でも、一時間でも、一分一秒でも長く一緒にいられるようするには、最速の移動手段で、最短距離を行くのがいいでしょ?

 距離と時間を埋めるのが、交通費。

 交通費って、こういう時に使うのよ。

 お金で、時間を買うってこと」


「お金で、時間を、買う……」


 僕は母さんの言葉を何度も頭の中で繰り返した。

 ぼんやりとその意味を考える僕に「あおい」と言う、母さんの力強い声が耳に届いた。
 

「世の中にはね、気持ちが通じ合っていても一緒にいられない人ってたくさんいるのよ。

 いろんな理由ですれ違ってたり、タイミングが合わなかったり、どうにもならない事情があったり。

 私はね、お父さんが帰ってくるたびに、いつも思うのよ。

 好きな人のそばにいられるって、奇跡なんだなって。

 好きな人と、同じ場所で、同じ時間を、同じ気持ちで過ごすって、すごいことじゃない?

 それって、当たり前なことじゃ、ないのよ。

 十分、特別なことなのよ。

 そもそも、好きな人と気持ちが通じ合うこと自体、奇跡みたいなもんだから」


 「だからさ」と言って僕に向けられた母さんの瞳は、薄暗がりの中でもキラキラと輝いて見えた。


「家族三人で過ごせる時間があれば、お母さんはそれ以上何も望まないわ。

 そのためなら、500万円全部交通費に費やしてもいい。

 好きな人と一緒にいられるって、それだけの価値があるのよ。

 それは、最高で贅沢な人生だと思わない?」



 母さんのその言葉に、僕の心は確かに揺れ動いていた。





「……で、あおいは?」

「え?」

「あおいは何に使うの? その500万円」
 


__僕は……