貯金500万円の使い方



「今日も練習、見に行っちゃだめ?」


 いつも通りバスケットコートにやってきた僕は、昨日と同じ体操服姿の舞花に目を見張った。

 洗濯をしてから返すと言って僕の体操服を持ち帰った舞花は、今日もそのまま僕の体操服を着てやってきた。

 その姿に呆然とする僕に、舞花がそう言った。
 

 そりゃ来てくれるのは嬉しい。

 だけど……、



「今日はダメ」


 僕の口調は自分でもビックリするくらい厳しかった。

 たぶん、舞花も驚いたのだろう。

 体をびくりとさせて、戸惑いの表情を浮かべている。

 だけど僕はそれにひるむことなく続ける。


「もう学校には来ちゃだめだよ」

「もしかして、バレた? 叱られた?」


 気まずそうに、僕の顔を覗き込むように舞花が聞いた。

 舞花の顔が近づいてきて、僕は飛びのきながら答えた。


「そうじゃないけど……。

 小学校の友達のほぼ全員が同じ中学に行ってるんだぞ。バレないわけないし」


「そっか。……そうだよね。ごめんね。

 柏原君に迷惑かけちゃったね。

 もしかして……、ここに来るのも迷惑だったかな?」


「え?」

「迷惑だったよね。

 ごめんね、練習の邪魔してて。

 もう明日からは来ないから」


 そう言って立ち去ろうとする舞花の腕を、僕は咄嗟につかまえた。

 その時、振り返った舞花の大きな瞳にぶつかった。

 その瞳は、少々潤んで見えた。


「そんなんじゃ、ないから」


 舞花は口ごもる僕に、何かを求めるような目を向けてきた。


__そんな目をされても……


 その痛いほどの視線に、心臓がどくどくと音を立て始める。


「俺がもう、連れてきたくないんだよ」


 その言葉に、舞花の瞳の中の寂しさが増すのがわかって、僕は慌てて言った。


「いや、だからそうじゃなくて……

 他の人に、桜井さんを見せたくないんだよ」


「え?」


 僕は観念するように答えた。


「かわいいって注目されると、困るんだよ。

 他の男子に、目付けられて欲しくないんだよ」


 僕は頬にじわじわと熱が帯びてくるのを感じながらも、一気にそう言った。

 舞花と目なんて合わせられなかった。

 ちらりと舞花の反応を確かめると、そんな僕の姿を、舞花の強い視線がとらえて離そうとしない。

 まるで、僕の次の言葉を待つように。


「だから、その、つまり、俺は、桜井さんのことが……」


 そこまで言って、僕は言葉を切った。


__違う。


  何かが違う。


  だから、先が言えない。


  何だろう、この違和感は。





__「桜井さん……」。






「柏原君?」


 舞花の声にはっとなって我に返る。


「あ、ごめん。何でもない。

 とにかく俺の勝手なんだけど、もう学校には連れていけない」


「うん、わかった。

 ごめんね、わがまま言って。

 柏原君も……」


 そう早口で言う舞花のまぶたが、少しずつ落ちていく。

 そしてそのまま、一気に力をなくしたようにその場に足から崩れ落ちていく。

 僕は咄嗟に腕を出して、舞花の体を何とか受け止めた。


「舞花?……舞花、大丈夫?」


 舞花を支えるように抱きかかえると、うっすらと目を開けた。


「舞花?」

「あ、ごめん。なんか、急に立ち眩み。 

 いつの間にか、息するの、忘れてたみたい」


 舞花は弱々しく言葉を途切れさせながら、だけどおかしそうに笑いながら言った。


「なんか、ドキドキしちゃって。

 柏原君に見つめられて、真剣な顔見て、次の言葉、期待しちゃったりなんかして。

 心臓が、もう、飛び出してきそうで」
 

 顔をふにゃりとさせながら話す舞花の姿に僕はほっとして、思わず空に向かって息をふーっと吐いた。

 その様子を見ていた舞花がくすくすと笑う。


「え? なに?」

「びっくりした?」

「そりゃびっくりするでしょ。急に倒れるから」

「私もびっくりした」


 そんな舞花の様子は、全然びっくりしてなさそうだ。

 むしろこの状況を楽しんでいる。


「ただの立ち眩みだ……よ?」 


 舞花は僕の顔を不思議そうな目で見つめた。 


「柏原君、泣いてるの?」

「え? 泣いてないよ」

「だって、目が、真っ赤」


 そう言われた瞬間、頬を生暖かいものがすーっと走っていく。

 それを舞花が人差し指でそっとすくい取って、僕に見せる。

 そこで、せき止められていた僕の不安が押し寄せるように湧き出た。


「だって……、そりゃびっくりするでしょ。急に倒れるから。

 どうにかなっちゃったんじゃないかって。

 このまま目を開けないんじゃないかって。

 俺スマホとか持ってないし、どうやって助け呼んでいいかわかんないし。

 それに……」


 思いのままを口にしていたのに、そこで言葉が詰まった。

 その代わり、とめどなく涙が流れてきた。


 
 僕は、怖かったんだ。


 舞花がどっかに行っちゃうんじゃないかって。

 今舞花がいなくなったら困るんだ。

 せっかく会えたのに、まだ伝えてないことがあるのに……。

 一番伝えなきゃいけないことが、まだ言えてないのに……。






「やっと、舞花って呼んでくれたね」



 その言葉にはっとして、舞花を見る。


 僕の腕の中にいる舞花は、優しい微笑みで、僕を迎え入れてくれるようだった。




「久しぶり。あおい君」




 懐かしいその響きに、僕の胸のあたりに爽やかな風が吹き抜けるようだった。

 ずっとずっとぽっかりと開いていた穴を埋めるように、優しく響く声。




「舞花」




 舞花の名前をもう一度呼ぶと、先ほどの風に共鳴するように、胸の奥底から温かい気持ちがこみあげてくる。

 舞花は僕の腕に寄りかかったまま、僕を見つめてさらに微笑んだ。

 僕もその体を、そっと引き寄せた。

 舞花の柔らかな感触、甘い匂い、愛おしい重み……。

 舞花は、確かにここにいる。

 僕のそばに、舞花は存在している。

 安心感で力が抜けるどころか、さらに腕に力が込められた。



 離したくない。

 どこにも行かないで。


 舞花の形の良い頭を、そっと掌で包み込んだ。




 その時、

 


「何してんの?」

 その声に、体がびくりと反応した。

 聞きなれたその声に、僕の背筋がスーッとなる。


「やっぱりここにいたんだ」


 その声は、少しずつ僕たちの方に近づいてくる。

 舞花も僕から体を離して、声の方に振り返る。


「あっ」


 舞花の小さな声が漏れる。


「林田君?」

「やっぱり舞花ちゃんだったんだ。昨日、学校にいたでしょ」

「あ、やっぱりバレてたんだ」

「そりゃあバレるよ。

 こんなかわいい子がいたら、見つけられない方がおかしいでしょ」


 俊平の軽いノリに、舞花は苦笑いで返した。


「で、何してんの? 二人で」

「別に、何も」


 舞花の代わりに僕が答える。


「何もってことはないでしょ。なんか、良い感じだったし」

「は?」

「二人は付き合ってんの?」

「付き合ってないよ」

「へー……。舞花ちゃんは何でここにいるの? 戻ってきたの?」

「こっちにおばあちゃんの家があって、夏休みだから泊りに来てるの」

「そうなんだ。こっちの友達には会った?」

「ううん。みんなの連絡先知らなくて」

「でも、あおいとは遊んでるんだ」

「たまたま会ったんだよ」


 最後は舞花の代わりに僕が答えた。

 不愛想な僕の返事に、「ふーん、たまたまね」と俊平は意味ありげな言い方で僕たちをなめるように見てくる。


「舞花ちゃん、今日も部活見に来るの?」

「行かないよ」

 舞花が答える前にすかさず僕がきっぱりと答えたけど、俊平は相変わらず舞花の方を向いて話し続ける。


「なあんだ、そんな格好してるから、てっきり今日も来てくれるのかと思ったのに。

 今日も来たらいいじゃん」


「ううん。バレたらあおい君に迷惑かかるから。実際、林田君に見つかったし」

「あおいに迷惑とか、気にしなくていいのに。

 バレたら俺が上手いこと誤魔化してあげるし。

 ね? 今日もおいでよ」


 舞花は困惑の目を僕の方に向ける。

 その目から逃げるように、僕は目をそらした。


「ほら、朝練遅れるし、行こ」


 そう言って、俊平はとても自然に舞花の手を取った。

 俊平の手に引かれてコートを出て行く舞花を、僕は慌てて追いかけた。