「――ママ、今日もご苦労さまでした。交代ね」

「絢乃、後はよろしく。じゃあ桐島くん、私は帰るわね。お疲れさま」

「はい。お疲れさまでした」

 ……あれ? 確か俺、ここを出る前にも「お疲れさま」って言ってなかったっけか? 僕はそう思ったものだが、「お疲れさま」は何回言ってもバチが当たらないので気にしなかった。

「――さてと、じゃあわたしもお仕事始めようかしら。桐島さん、急ぎの案件ってこれだけなのね?」

 義母が温めていたデスクに着き、さっそくパソコンにログインした絢乃さんは、未返信のメールの件数を僕に確かめた。

「ええ。本当は加奈子さんが処理されてもよかったんですが、会長にしかその権限はございませんので」

「そう……。親子っていっても、ママは会長代行で決定権はないものね。ちょっとかわいそうっていうか、何かと不便よね」

 彼女は手早く決裁をしながらボヤいていた。そのことを一応は納得されていたものの、やっぱり不便さは感じていらっしゃるようだった。

「そうですね……。ですが、加奈子さんご自身がお決めになったことですから」

 経営上の余計な争いを招かないよう、ご自身はあくまでも裏方に徹する。それが絢乃さんのためにもなるのだと、義母はそうおっしゃったのだ。親子だからこそ、権力争いで社内に波風を立てたくないのだと。

「そうよね。まぁ、元々ママは経営に興味なかったみたいだし。だからお祖父さまの後継者にもならなかったんだけど」

「教員が副業禁止だから、というのもあったでしょうけどね」

 確か、家業の手伝いは副業に当てはまらないのではなかったろうか? だとすれば、後継者になっても支障はなかったはずだが。そうしなかったということは、やっぱり義母は経営とは無縁の人だったということだろう。

「――ところで会長。今は何をなさってるんでしょうか?」

 メールの処理は終わっていたはずなのだが、彼女はまだパソコンに向かって何かをせっせと打ち込んでいた。
 彼女のデスクのすぐ側まで行って手元を覗き込むと、彼女はワードのソフトを起動させ、何かの文書を作成しているように見えた。

「これ? フフッ、内緒」

 彼女は澄ました顔で、僕の問いをやり過ごした。――その正解が分かったのはその翌日のことだったのだが。

 彼女は仕事中にも、秘書である僕に様々な表情を見せてくれる。真剣に難しい案件に向き合う顔、時々見せる等身大の女の子らしいイタズラっぽい顔、堂々とした経営者としての顔……。
 どの表情も僕にとっては愛おしくて、可愛くて。僕はいつも仕事と煩悩――もとい恋心との狭間でひとり悶絶していたのだった。