私の部屋の前につくと、リザがまだ開いている途中だった扉の隙間を縫って、我先に中に入っていく。
遅れて私が部屋の中に足を踏み入れれば、リザは部屋の中心で興味津々と言った様子で私の部屋をキョロキョロと見回していた。
「へえー、ここがハロの部屋なんだね」
趣味に当たる読書のための本が多少多くあるくらいで、あとはなんてことのない普通の部屋だ。
そんなにジロジロと見ても面白くもなんともないと思うのだが、リザは本棚に並んだ本を眺めたり、ベッドのシーツや枕の生地を触って確認したりと、妖精特有の超小柄な体格を駆使して忙しなく動いていた。
見た目相応の幼さを発揮したような彼女は見ていてなんとも微笑ましいのだが、それはそれとして、自分の部屋をこんな風に観察されるのはなんともむず痒い気分だった。
「飾り気のないつまらない部屋でごめんね」
「えー、つまらなくなんかないよー。ハロがどんな家具が好きなのかなとか、いつもどんな風に過ごしてるのかなっていろいろ想像できるし! たとえばここ!」
と、リザが指差したのは、ちょうど彼女が見ていたベッドだ。
「ここさ、よく見ると枕が二つあるよね。ハロが二つ使ってる可能性もあるけど、そうじゃないよね? たぶんだけど、ハロは普段あの子どもと一緒に寝てるのかなーって。今日の朝、庭にハロが駆けつけてきた時もあの子どもと一緒だったし。あの子どももハロをずいぶん慕ってる様子だったしね。ふふ、合ってるかなぁ」
「うん、合ってるよ。よくわかったねリザ」
「ふっふーん、それくらいわかるよ! なんたってハロのことだもん! ただ……」
「ただ?」
「んー……あの子どもって淫魔だよね? 淫魔って、今の時代じゃ人類にとっては結構危険な魔物だって認識されてた気がするけど……なんでハロの家にいるの?」
「あぁ。アモルは元々、あるAランクの冒険者グループが全滅させた淫魔の群れの生き残りでね。この街で隠れながら追っ手から逃げ回ってた時に偶然出会ったんだ」
アモルとの出会いと、彼女の抱える事情を説明する。
ドワーフとのハーフであること。ドワーフの血が濃く出てしまっているせいで、あれ以上体が成長しないこと。それで出来損ないだって仲間たちに蔑まれていたこと。
半ば監禁されていたせいで常識には少々疎いところがあるものの、彼女に人を害する気はまったくなく、その心根はとても愛に溢れていること。
なお、出会った当初魔眼で体の自由を奪われた状態で耳をいじられたこととか、お風呂でのあれこれとか、夜這いされて唇を奪われたりしたことは黙っておいた。
というか話さないのは当たり前だ。あんな恥ずかしすぎること言えるわけないです。
黙秘権を行使させてもらう!
リザは私の話を一通り聞き終えると、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「監禁、虐待。勝手に生み出しておいてそれか。異端を忌避するのは結局いつの時代、どんな種でも同じだね」
「……珍しいね。リザが他人の境遇で憤るなんて」
私が思わずそう呟くと、リザは虚を突かれたように目を見開く。
「リザはアモルのこと、さっきフィリアに聞かれた時はなんとも思ってないって言ってたけど……やっぱり本当は結構気にかけてたりするのかい?」
「……」
「あ、答えたくないことなら答えなくてもいいから」
「ううん、大丈夫。そうだね……あのメス牛、じゃなくて……ハロの弟子にはどうも思ってないとは言ったけど、うーん……やっぱりもしかしたら、ちょっと気にかかっちゃったりしてるのかも……」
……あの、やっぱりメス牛はやめてあげてくれませんかね……?
言いたいことはすごくよくわかるんだけど……。
立ったまま話すのもなんだろうと、この辺りで適当に腰を落ちつける。
私はイスに、そしてリザは私の対面にあった机の端っこに座った。
リザは、自分の感情に困惑するように中空に視線をさまよわせている。
「なんていうかあの子、昔のハロと同じくらいの背丈の子だからさ、どうにも邪険にしにくいっていうか……ハロのことお姉ちゃんって呼んでるせいで、なんかワタシもハロの妹みたいに見ちゃうし。それに……昔のワタシと同じように呪われてるし」
「呪われてる、か。それってやっぱり『魅了の魔眼』のことかな」
「うん。あの魔眼は紛れもなく呪いだよ」
淫魔が持つ『魅了の魔眼』。かつて私が討伐した鉄塵竜が持っていた、半径一キロメートルの金属を自在に操る力。
そういった特定の種族や固有の生物が保有する、魔法では完全な再現ができない超越的な能力のことをリザは呪いと呼んでいる。
私は呪いだとどうにもしっくりこなかったから特性と呼称しているのだが、呼び方が違うだけで本質は同じだ。
そして、かつてはリザもまた、ある特性を有していた。
それも淫魔や鉄塵竜のものとは比較にならないほどの、一際凶悪なものだ。
リザはその特性にずっと苦しめられてきたし、だからこそ特性だとか能力だとかの呼び方ではなくて、呪いだなんてネガティブな呼び方をしている。
そんなリザが、かつての自分のそれよりも遥かに劣るにせよ、同様の力を持つアモルのことを気にしている。
それはつまり……。
「……もしかしてリザ、アモルに同情してるの?」
「同情?」
リザは心外だとでも言いたげに口を尖らせる。
「同情ねー……ハロは、ワタシがそんな人間味に溢れてるように見えるの? このワタシが他人なんか心配することがあるって?」
見るからにちょっと不機嫌になってしまった。
むーっ、って感じだ。
私が相手だからか比較的温厚な返し方をしてくれてはいるものの、もしもフィリアが同じことを聞いていたなら、ものすごく乱雑に返していただろうことは想像にかたくない。
それにまあ、リザが言っていることも一理ある。
かつてのリザは今と違って私に対しても普通に冷たかったし、魔法の才能を除き、ほとんど興味も持っていなかった。
その証拠として、なに一つとして自ら私の事情を聞いてこなかったということがある。
この世界に迷い込み、彼女と出会った当時の私は一糸纏わぬ姿で、当然ながらこの世界の常識についてもなに一つとして知らない、どこからどう見ても怪しすぎる存在だった。
なのに、どこから来たのかだとか、今までどうやって暮らしてきたのかだとか、そんなことを彼女から聞かれたことは一度としてなかった。
きっと、どうでもよかったのだろう。
彼女にとって重要だったのは私に備わっていた魔法の才能だけで、私個人の事情など、彼女にとっては些事でしかなかった。
そんな彼女を思えば、同情なんて言葉は確かに似合わないと言える。
だが。
「昔のリザなら他人なんて気にも留めなかったかもだけど、今は違うって思うから」
「違う? むー……なにを根拠にそう思うの?」
「私への態度、かな」
「ハロへの?」
チラリと、枕が二つ並んだベッドへと視線を向ける。
「さっきリザは、すごく興味深そうに私の部屋を見てたよね。それから普段私がどう過ごしてるのか、一つ当ててみせた。それはたぶん、私のことを知りたいって思ってくれてたからじゃないかな。リザと出会ったばかりの頃はなにも知らなかった私が、一人でもちゃんと無事に過ごせてたかどうか、心配してくれてたから」
「それは……うー、そうかもだけど……それはハロのことだからであって……」
「誰のことでも同じだよ。誰かのことを知りたい、心配する。そんな風に誰かを思う心がリザにもちゃんとあるってことなんだから」
心や感情と言ったものを彼女が嫌っていることは知っている。
だけどそれ以外に説明のしようがないし、私自身伝えたいこともあるので、敢えてそういう表現を使わせてもらうこととした。
案の定、私の回答にリザは喜んだりなんてことはせず、不服そうに眉をひそめていた。
このようにリザが心や感情を嫌っている理由は単純だ。
彼女自身がこの世で一番、それに苦しめられてきたからにほかならない。
……この世で一番。それは比喩ではなく、まさしく言葉通りの意味だ。
少し、彼女のことを語っておこうと思う。
かつてリザはある特性を――いや。彼女のことを語るのならば、私の呼び方ではなくて、彼女の表現を借りる方が良いかもしれない。
彼女はかつて、ある凶悪な呪いを患って生まれてきた。
その呪いこそが彼女の苦しみのすべてであり、彼女を永遠の孤独と絶望に突き落とした元凶だ。
それは、妖精特有のものではない。他の誰が同じ呪いを持っているわけでもない。
正真正銘、彼女だけの元に舞い降りた最悪の呪い。
すなわちそれは――不死の呪い。
肉体は成長すれども、決して老いず。肉片一つ残さず焼き尽くされようと、虚無からさえ再生する。
無限の生。永遠の命。
それは限られた命しか持たない人類にとっては、ひどく魅力的に映る単語だろう。
だが、それがどれほど恐ろしく、おぞましく、この世にありえてはならなかった理なのか、彼女が誰よりも知っている。
リザは言っていた。人が不死を羨むのは、そいつが自分の人生を楽しいと思っているからに過ぎないと。
楽しいからこそ次を望む。いつまでも続けたくなる。そしてそれが不死への望みに繋がる。
だが、どんなに楽しいことだろうと、同じことを何度も繰り返し続けていればいつかは飽きてしまうものだ。
どんなこともつまらなくなり、苦痛でしかなくなって、なにもかもやめたくなる。
生きることも同じだ。あまりに長い年月を生き続けていると、呼吸をしてそこにいる、ただそれだけのことにさえ嫌悪感しか覚えなくなるのだとリザは言っていた。
艱難辛苦。立ちはだかる壁や坂、苦しいことを乗り越えることで成長できると、そういう者もいるかもしれない。
しかし乗り越えることすらできない平坦で意味のない道を永遠に歩み続けることは、どうなのか。
死にたいと思っても死ねない。なにが嬉しくて楽しかったのか、自分で自分がわからなくなるくらい狂いきっても、思考することはやめられない。
生きることに飽きて。生きていることが苦痛でしかなくなって。
生きることに意味がないとわかりきっていようが、それでも生き続けなくちゃいけない。
何十年、何百年、何千年――何万年。
リザはたった一人、そんな終わりの見えない地獄の中にいた。
誰もそんな彼女を理解できるはずもない。だから彼女も他人に興味を持たないし、理解など求めない。
心や感情と言った苦痛しか感じさせないものを忌み嫌い、ただ自分という存在が終わることだけを望む。
その悲願を思えば、彼女が他人に興味を持たないことなど当たり前のことと言えた。
生きることを苦痛と断じ、ただ終わることだけ望む彼女が、この大嫌いな世界のそれ以外のなにかに興味を持つはずもない。
自分の名前さえも忘れた、死にたがりの不死の妖精。それが彼女だった。
……だけど今、どうしてか彼女は、そんな彼女を終わらせることができなかった情けない私の元に戻ってきてくれている。
「リザ。君と別れることになった最後の日のこと、覚えてる?」
「……うん。覚えてるよ」
フィリアは二人で積もる話もあるだろうからと、私とリザを二人きりにしてくれた。
せっかくフィリアがくれたこの機会を逃すわけにはいかない。
かつてリザは私の前から姿を消した。ならもしかしたら、ほんの瞬き一つしただけで、彼女はまた私の前からいなくなってしまうかもしれない。
再会できた嬉しさで曖昧になんてせず、ちゃんと正面から自分の気持ちを伝えなくちゃいけない。
「あの日私は、君と一緒にいたいって、そう言ってあなたに手を差し出した。あなたを終わらせるって約束したのに、果たそうともせず……終わりたいと願っていたあなたの気持ちを身勝手に踏みにじった」
「うん……うん? ……んんん?」
目を閉じれば、今でも思い出せる。彼女と出会い、約束を交わした時のことを。
彼女は言った。いつの日か魔法を極めることが叶ったなら、ワタシという存在を終わらせろと。
不死の命を殺す。その魔法を作り出すことは、彼女にはどうしてもできなかったのだという。
根本的に魔法の才能が足りないのだ。永遠にも等しい年月を重ねたことで、人類ではまず到達できない領域まで魔法を極めることができたリザだが、実のところリザ本人の魔法の才能はそこまでではない。
自分ではどうしたって届かない。自身の終焉を求めれば求めるほどに、彼女はそれが理解できてしまった。
だからこそ、彼女は大嫌いな他人に望みを託したのだ。
いわば彼女にとって、私は希望だったのだ。
だというのに私は、なにに代えても果たさなければならなかった彼女との約束を破った。
彼女は私を救ってくれたのに。彼女が私に希望を見出したように、たった一人で見知らぬ世界に放り出された私にとっては、彼女こそが希望だったのに。
たとえ自分のためだけに過ぎなかったとしても、彼女は私を守ってくれた。生きる術をくれた。寂しさなんて感じないくらい、ずっと一緒にいてくれた。
彼女が見せてくれたのは不機嫌な仏頂面ばかりだったけれど、いつだってありのままに接してくれる彼女とは、話していて本当に楽しかった。
そんな彼女を裏切ったんだ。終わることが彼女にとっての救いだと知りながら、殺したくないと、まだ別れたくないと思ってしまった。そのエゴを身勝手に押しつけた。
彼女が私の前から去るのも、当然だと思った。
……別に、こんなものは悲しい過去なんかじゃない。全部が全部私のせいだったんだ。それなのに、悲しい過去なんて言えるはずもない。
すべて私の自業自得だった。
なのにまだ、リザはそんな情けない私のそばにいてくれている。
その理由は、もしかしたら……。
「ねえ、リザ。リザは、どうして私のところに戻ってきてくれたの? もしかしてリザは、私のために……」
「ちょ、ちょっと待って。真剣な話なのはわかってるけど、本当に待って……えーっと……や、約束を破った? ワタシにはそんな記憶ないんだけど……ど、どういうことなの?」
なぜかリザがものすごい困惑をあらわにしている。
どういうことって言われても……そのままの意味なんだけど……。
「ほら。だってあの日、私はリザとの約束を破ったよね? だからリザは、私を見限って私の前から去ったんだよね?」
「見限っ……いや、いやいやいやいや! 全然違うよ!? 確かにワタシ、ハロの前からは姿を消しちゃったけど、ハロを見限っただとか全然そんなことないよ?」
リザはブンブンと激しく首を振った後、なんとも言いがたい顔で頭を抱えた。
「なにがどうなったらそんな思考に……ハロたまに抜けてるとこあるなーとは思ってたけど、そこまでアホだったっけ……」
「アホ……? ……そうだね。リザの望みを正しく叶えなかったんだから、そんな風に言われるのもしかたがないのかもね……」
「勝手に解釈して納得しないで! ああもう、ちょっと整理するからハロは一旦黙って!」
「むぐ!? い、いひゃい……」
リザが大声を上げて机の端から飛び上がると、勢いよく私の顎を下から突き上げて無理矢理口を閉ざしてきた。舌を噛んでしまって普通に痛い。
この怒ったら問答無用で強引に自分の主張を物理で通してくる感じ……懐かしや……。
食べようとした直前で芋を微塵切りにされたり、つい土埃を吸い込んで咳き込んでしまった時に別に平気だと答えたら、二時間くらい健康チェックされた時のことを思い出す……。
人がどれくらいで死ぬかとか全然興味なくて知らなかった彼女は、私に対して本当に過保護だったのだ。
今だっていつの間にか舌が回復魔法で治療されてて全然痛くなくなってる。たぶんリザが私の反応を見て、急いでかけてくれたのだ。
倫理観はちょっとアレだけど、このように本当はきちんと人を心配できる良い子なんです。はい。
……倫理観がヤバいのに良い子なんて表現していいのかどうかは甚だ疑問ではあるけど。
リザに言われた通り、少しお口にチャックをしてリザが話し始めるのを待つ。
そうしていると、微妙そうな面持ちで腕を組みながら唸っていたリザがため息を一つついて、物言いたげに私を見つめてきた。
「とりあえず……一番よくわからないのは約束を破ったってところなんだけど……どうしてハロはそんな結論に至ったの?」
「どうしてと言われても……」
私にはリザがなぜそんなにも疑問に思っているのか理解できなかったが、首をひねりながらも彼女の質問に答えた。
「実際に私は約束を破っただろう? 君を終わらせると約束したのに、それを果たせなかったんだから」
「う、うーん……? いや、ハロはちゃんとワタシの中から呪いの力を取り除いてくれたよね? 約束、ちゃんと果たしてくれたよね?」
「……? まあ、確かに呪いの方はどうにかしたけど……私がリザと交わしたのは、リザの命を終わらせるってことだったし。それは果たせてないんだから、約束は果たせてないよね?」
「なんでそうなるの!? そりゃ初対面の時はハロの手でワタシを殺せーみたいに言ったけど……実際の生き死になんかより不死の呪いをどうにかすることの方が重要だなんて、散々ワタシの昔話聞かせてやったんだから普通わかるじゃん。なんでそれで約束果たせてない判定になるのさ……」
「……えーっと……ということは……もしかして私は、リザの望みをちゃんと叶えられてたのかい?」
「うん。まあ、確かに最初に思い描いてた形とは違ったけど……ハロは、ちゃんとワタシの悲願を叶えてくれたよ。ワタシはずっと冷たく当たってたはずなのに……そんなワタシなんかのことを本当に思ってくれてたんだなってわかるような、そんな方法で……」
いや、言うほど冷たくはなかった気はするけど……。
うん、だいぶ過保護だったぞ。睡眠時間足りないと死ぬかもしれないから念のため一日一二時間は寝ろとか言われた時は意味がわからなかった。さすがに頑張って説得したけど。
食事だって栄養バランス偏らないようにしてくれてたし。ずっと森の中にいたはずなのにすごい健康的な生活してた気がするぞ。
「うーん……いやでも、それじゃあなんでリザは私の前からいなくなったんだい? なにも言わず、一人でどこかに……あれは、死にたがってた君の望みを叶えようともせず侮辱するみたいに一緒にいたいなんて自分勝手に言った私を見限ったからじゃ……」
「だからなんでそうなるの!? そりゃあハロの前からは姿を消しちゃったけど……それはハロのせいなんかじゃなくて、全部ワタシのせいで……ワタシが、あなたと……」
「……? ごめんねリザ、よく聞こえなかった。もう一回言ってもらってもいいかな」
最後の方だけしぼむように声が小さくなっていたから、どうにも聞き取ることができなかった。
リザはひどく言いづらそうにモゴモゴと口元を動かしていたが、やがて観念したように、ポツリと漏らした。
「……怖かったの」
「怖い? えっと……なにが?」
「……あのまま、あなたと一緒にいることが。あなたが手を差し伸べてくれた時、ワタシの中で荒れ狂っていた感情が……」
目をパチパチとさせる私に、リザは懺悔するみたいに当時の気持ちを語る。
「自分でもわからないくらい永い時間を生きてきたのに……あの時あの瞬間にあったものは、全部が全部ワタシにとって未知のものだった。心、感情……いつも同じ苦痛しか与えないはずのそれが、あの時だけはワタシに違うものをもたらしてきて……その未知が、たまらなく怖かった」
「……だからリザは、私の前からいなくなったの?」
「うん、そう。だからワタシはあなたの前から姿を消した……逃げ出した。ずっとずっと死にたかったはずなのに、あなたのそばにいると、自分で自分がわからなくなるみたいだったから……それが怖くて、あなたに全部の責任を押しつけて、身勝手に背を向けて逃げ出した」
「……え、っと……リザがいなくなったのは、私に失望したからじゃなかったの?」
「だから違うってば。そりゃあその、なにも言わずに逃げちゃったワタシが全面的に悪かったけど……なんでそんな結論に至ったの? ってくらいにはその考え方は意味わからないよ……」
「……もしかして私、いろいろと勘違いしてた……?」
「まあ、うん……そりゃもう盛大と」
「……」
「……」
勘違い……なるほど。そうか、勘違いだったか……。
約束を破ったことも。見限られたと思っていたことも。
全部が全部勘違い。本当はずっと彼女も、私のことを思ってくれていた。
……ふむ。
……。
「ぷっ。あはは! それはなんていうか、確かにアホらしいね。そっか……ふふっ、あぁ。全部、私の勘違いだったんだ」
私は約束を果たすことができていた。彼女に見限られていたわけでもなかった。
それなのに私は彼女と別れてからのこの数年間、私は彼女の役に立てなかったのだと勝手に思い込んでいたんだ。
なんだかおかしくなって、笑みが溢れる。
しかしリザは真反対に、くしゃりと苦しそうに顔を歪めていた。
「……どうしてそんな風に笑えるの? 勘違いってことはさ……つまりハロはワタシの紛らわしい言動のせいで、ずっと苦しんできたってことなんだよね? それなのに……」
「や、別に苦しいなんてことはなかったよ。あの時ちゃんとした形でリザの願いを叶えていればって、たまに後悔はしてたけど……結局のところ、何度繰り返したところで私にはリザを殺すなんて真似はできなかっただろうしね。なにがどうなったって、あの結末だけは変わらなかった」
「……」
「それにね。それ以上に今は、とにかく嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん。私がちゃんとリザの望みを叶えられてて、リザに見限られてたわけでもなかったってことが」
私がそう言うと、リザはほんの一瞬目を見開いて、すぐに申しわけなさそうに下を向いた。
それからまた私の方を見上げてきて、口を開いて。だけど怖くなったかのように閉じて、また開いて。
そんなことを二、三回と繰り返した後、彼女はおずおずと問う。
「……ねえ、ハロ。ハロはまだ……ワタシと一緒にいたいって、思ってくれてる?」
返事など考えるまでもなく、気がついた時にはすでに頷いていた。
「当たり前だよ。リザは私にとって、世界でたった一人だけの師匠なんだから」
「……ワタシは一度、あなたの前から逃げ出したんだよ?」
「だけど戻ってきてくれた。たぶんだけどそれは、一緒にいたいって願った私のためになんだよね?」
「……ううん、違うよ。言ったでしょ? 誰かのためなんて、しょせんは誰かを思う自分のために過ぎないんだよ」
私の顎を持ち上げた辺りから宙に浮いていた彼女は、ここで机の上にストンと着地すると、まるで顔を見られたくないかのように私にくるりと背を向ける。
「ハロの前から逃げ出してからのこの数年間、ワタシはずっと考えてた。どうしてあの時、あなたの前から逃げ出しちゃったのか。なにが怖かったのか。もう呪いなんてないんだから、さっさと死んじゃえばいいのに……どうしてこんなこと気にしてるのか。まるで死にたくないみたいに。それを考えて、考えて考えて……」
それでね、と言う。私に背を向けたまま、彼女は仰ぐように天井を見上げる。
「……気づいたの。ハロのことばっかり考えちゃってるってこと。ハロが一緒にいたいって手を差し伸べてくれた時、胸が温かかったこと。この世界で一人ぼっちになったあなたのことを思うと、胸が締めつけられるようで……その時わかったんだ。ワタシも、ハロと一緒にいたかったって思ってるんだなって」
「リザ……」
「だからさ、ハロのためじゃないよ。ワタシの行動は全部ワタシのためのものでしかない。ワタシが、あなたと一緒にいたいと思ったから。ワタシがハロのところに戻ってきた理由は、それだけだよ」
なんて言いながら、リザはどうしてか申しわけなさそうに私の方に振り返った。
私はそれに、満面の笑みで返す。
「そっか。ふふっ。それは私のためなんて言われるより、ずっと嬉しい言葉だね」
「……そう? なにも言わずあなたの前から逃げ出しておいて……こんなの自分勝手なだけだと思うけど。よくわかんないなぁ……」
「いつかリザにもわかる日が来るよ」
リザはまだ、自分の心や感情というものに慣れきっていないのだろうと思う。
死ねば終わりなのに、今を生きる。無限の中に囚われてきた彼女には、そういった経験がない。
初々しくて、なんというか微笑ましい。
「ね、リザ。私と一緒にいたいって思ってくれてるならさ。リザも、この屋敷で一緒に暮らしてみないかい?」
「……いいの? そうしてもらえるなら願ったり叶ったりだけど……」
「もちろんいいよ。部屋は有り余ってるしね。まあ、リザの体格だと一部屋は広すぎるかもだけど……ああでも、一応言っておくけど、リザが昔よく使ってたような透明化の魔法とかはこの家の敷地内じゃ禁止だからね。私の前でだけ姿を現してそれ以外では透明化、とかはないように」
「うぐ……うぅ。やっぱり、あの子たちともちょっとは交流しないとダメ……?」
「一緒に暮らすならそれは絶対条件だよ。自己紹介の時、よろしくしてあげないこともないって言ったのは嘘だったのかな?」
「う、嘘ではないけど……」
「なら、少しはリザも歩み寄らないと。あと、フィリアとシィナには今朝のこともちゃんと謝らないとダメだからね。このまま有耶無耶にしちゃったらフィリアたちに悪いし。アモルの教育にもよくない」
「……うぐ、うぐぐぐぐ………はぁ……わかった。ハロが言うなら、少しだけ頑張ってみる……」
ガックリと肩を落としながらも、リザは力なく了承する。
昔は私の方がリザにいろいろと言われたものだが、まさか私がその役目を担う日が来るとは。あの頃は想像もできなかった。
もう会えないのだろうと諦めていた子に会えたり、またその子と一緒にいることができるようになったり。
まったく。エルフ生とは、なかなかどうしてわからないものである。
遅れて私が部屋の中に足を踏み入れれば、リザは部屋の中心で興味津々と言った様子で私の部屋をキョロキョロと見回していた。
「へえー、ここがハロの部屋なんだね」
趣味に当たる読書のための本が多少多くあるくらいで、あとはなんてことのない普通の部屋だ。
そんなにジロジロと見ても面白くもなんともないと思うのだが、リザは本棚に並んだ本を眺めたり、ベッドのシーツや枕の生地を触って確認したりと、妖精特有の超小柄な体格を駆使して忙しなく動いていた。
見た目相応の幼さを発揮したような彼女は見ていてなんとも微笑ましいのだが、それはそれとして、自分の部屋をこんな風に観察されるのはなんともむず痒い気分だった。
「飾り気のないつまらない部屋でごめんね」
「えー、つまらなくなんかないよー。ハロがどんな家具が好きなのかなとか、いつもどんな風に過ごしてるのかなっていろいろ想像できるし! たとえばここ!」
と、リザが指差したのは、ちょうど彼女が見ていたベッドだ。
「ここさ、よく見ると枕が二つあるよね。ハロが二つ使ってる可能性もあるけど、そうじゃないよね? たぶんだけど、ハロは普段あの子どもと一緒に寝てるのかなーって。今日の朝、庭にハロが駆けつけてきた時もあの子どもと一緒だったし。あの子どももハロをずいぶん慕ってる様子だったしね。ふふ、合ってるかなぁ」
「うん、合ってるよ。よくわかったねリザ」
「ふっふーん、それくらいわかるよ! なんたってハロのことだもん! ただ……」
「ただ?」
「んー……あの子どもって淫魔だよね? 淫魔って、今の時代じゃ人類にとっては結構危険な魔物だって認識されてた気がするけど……なんでハロの家にいるの?」
「あぁ。アモルは元々、あるAランクの冒険者グループが全滅させた淫魔の群れの生き残りでね。この街で隠れながら追っ手から逃げ回ってた時に偶然出会ったんだ」
アモルとの出会いと、彼女の抱える事情を説明する。
ドワーフとのハーフであること。ドワーフの血が濃く出てしまっているせいで、あれ以上体が成長しないこと。それで出来損ないだって仲間たちに蔑まれていたこと。
半ば監禁されていたせいで常識には少々疎いところがあるものの、彼女に人を害する気はまったくなく、その心根はとても愛に溢れていること。
なお、出会った当初魔眼で体の自由を奪われた状態で耳をいじられたこととか、お風呂でのあれこれとか、夜這いされて唇を奪われたりしたことは黙っておいた。
というか話さないのは当たり前だ。あんな恥ずかしすぎること言えるわけないです。
黙秘権を行使させてもらう!
リザは私の話を一通り聞き終えると、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「監禁、虐待。勝手に生み出しておいてそれか。異端を忌避するのは結局いつの時代、どんな種でも同じだね」
「……珍しいね。リザが他人の境遇で憤るなんて」
私が思わずそう呟くと、リザは虚を突かれたように目を見開く。
「リザはアモルのこと、さっきフィリアに聞かれた時はなんとも思ってないって言ってたけど……やっぱり本当は結構気にかけてたりするのかい?」
「……」
「あ、答えたくないことなら答えなくてもいいから」
「ううん、大丈夫。そうだね……あのメス牛、じゃなくて……ハロの弟子にはどうも思ってないとは言ったけど、うーん……やっぱりもしかしたら、ちょっと気にかかっちゃったりしてるのかも……」
……あの、やっぱりメス牛はやめてあげてくれませんかね……?
言いたいことはすごくよくわかるんだけど……。
立ったまま話すのもなんだろうと、この辺りで適当に腰を落ちつける。
私はイスに、そしてリザは私の対面にあった机の端っこに座った。
リザは、自分の感情に困惑するように中空に視線をさまよわせている。
「なんていうかあの子、昔のハロと同じくらいの背丈の子だからさ、どうにも邪険にしにくいっていうか……ハロのことお姉ちゃんって呼んでるせいで、なんかワタシもハロの妹みたいに見ちゃうし。それに……昔のワタシと同じように呪われてるし」
「呪われてる、か。それってやっぱり『魅了の魔眼』のことかな」
「うん。あの魔眼は紛れもなく呪いだよ」
淫魔が持つ『魅了の魔眼』。かつて私が討伐した鉄塵竜が持っていた、半径一キロメートルの金属を自在に操る力。
そういった特定の種族や固有の生物が保有する、魔法では完全な再現ができない超越的な能力のことをリザは呪いと呼んでいる。
私は呪いだとどうにもしっくりこなかったから特性と呼称しているのだが、呼び方が違うだけで本質は同じだ。
そして、かつてはリザもまた、ある特性を有していた。
それも淫魔や鉄塵竜のものとは比較にならないほどの、一際凶悪なものだ。
リザはその特性にずっと苦しめられてきたし、だからこそ特性だとか能力だとかの呼び方ではなくて、呪いだなんてネガティブな呼び方をしている。
そんなリザが、かつての自分のそれよりも遥かに劣るにせよ、同様の力を持つアモルのことを気にしている。
それはつまり……。
「……もしかしてリザ、アモルに同情してるの?」
「同情?」
リザは心外だとでも言いたげに口を尖らせる。
「同情ねー……ハロは、ワタシがそんな人間味に溢れてるように見えるの? このワタシが他人なんか心配することがあるって?」
見るからにちょっと不機嫌になってしまった。
むーっ、って感じだ。
私が相手だからか比較的温厚な返し方をしてくれてはいるものの、もしもフィリアが同じことを聞いていたなら、ものすごく乱雑に返していただろうことは想像にかたくない。
それにまあ、リザが言っていることも一理ある。
かつてのリザは今と違って私に対しても普通に冷たかったし、魔法の才能を除き、ほとんど興味も持っていなかった。
その証拠として、なに一つとして自ら私の事情を聞いてこなかったということがある。
この世界に迷い込み、彼女と出会った当時の私は一糸纏わぬ姿で、当然ながらこの世界の常識についてもなに一つとして知らない、どこからどう見ても怪しすぎる存在だった。
なのに、どこから来たのかだとか、今までどうやって暮らしてきたのかだとか、そんなことを彼女から聞かれたことは一度としてなかった。
きっと、どうでもよかったのだろう。
彼女にとって重要だったのは私に備わっていた魔法の才能だけで、私個人の事情など、彼女にとっては些事でしかなかった。
そんな彼女を思えば、同情なんて言葉は確かに似合わないと言える。
だが。
「昔のリザなら他人なんて気にも留めなかったかもだけど、今は違うって思うから」
「違う? むー……なにを根拠にそう思うの?」
「私への態度、かな」
「ハロへの?」
チラリと、枕が二つ並んだベッドへと視線を向ける。
「さっきリザは、すごく興味深そうに私の部屋を見てたよね。それから普段私がどう過ごしてるのか、一つ当ててみせた。それはたぶん、私のことを知りたいって思ってくれてたからじゃないかな。リザと出会ったばかりの頃はなにも知らなかった私が、一人でもちゃんと無事に過ごせてたかどうか、心配してくれてたから」
「それは……うー、そうかもだけど……それはハロのことだからであって……」
「誰のことでも同じだよ。誰かのことを知りたい、心配する。そんな風に誰かを思う心がリザにもちゃんとあるってことなんだから」
心や感情と言ったものを彼女が嫌っていることは知っている。
だけどそれ以外に説明のしようがないし、私自身伝えたいこともあるので、敢えてそういう表現を使わせてもらうこととした。
案の定、私の回答にリザは喜んだりなんてことはせず、不服そうに眉をひそめていた。
このようにリザが心や感情を嫌っている理由は単純だ。
彼女自身がこの世で一番、それに苦しめられてきたからにほかならない。
……この世で一番。それは比喩ではなく、まさしく言葉通りの意味だ。
少し、彼女のことを語っておこうと思う。
かつてリザはある特性を――いや。彼女のことを語るのならば、私の呼び方ではなくて、彼女の表現を借りる方が良いかもしれない。
彼女はかつて、ある凶悪な呪いを患って生まれてきた。
その呪いこそが彼女の苦しみのすべてであり、彼女を永遠の孤独と絶望に突き落とした元凶だ。
それは、妖精特有のものではない。他の誰が同じ呪いを持っているわけでもない。
正真正銘、彼女だけの元に舞い降りた最悪の呪い。
すなわちそれは――不死の呪い。
肉体は成長すれども、決して老いず。肉片一つ残さず焼き尽くされようと、虚無からさえ再生する。
無限の生。永遠の命。
それは限られた命しか持たない人類にとっては、ひどく魅力的に映る単語だろう。
だが、それがどれほど恐ろしく、おぞましく、この世にありえてはならなかった理なのか、彼女が誰よりも知っている。
リザは言っていた。人が不死を羨むのは、そいつが自分の人生を楽しいと思っているからに過ぎないと。
楽しいからこそ次を望む。いつまでも続けたくなる。そしてそれが不死への望みに繋がる。
だが、どんなに楽しいことだろうと、同じことを何度も繰り返し続けていればいつかは飽きてしまうものだ。
どんなこともつまらなくなり、苦痛でしかなくなって、なにもかもやめたくなる。
生きることも同じだ。あまりに長い年月を生き続けていると、呼吸をしてそこにいる、ただそれだけのことにさえ嫌悪感しか覚えなくなるのだとリザは言っていた。
艱難辛苦。立ちはだかる壁や坂、苦しいことを乗り越えることで成長できると、そういう者もいるかもしれない。
しかし乗り越えることすらできない平坦で意味のない道を永遠に歩み続けることは、どうなのか。
死にたいと思っても死ねない。なにが嬉しくて楽しかったのか、自分で自分がわからなくなるくらい狂いきっても、思考することはやめられない。
生きることに飽きて。生きていることが苦痛でしかなくなって。
生きることに意味がないとわかりきっていようが、それでも生き続けなくちゃいけない。
何十年、何百年、何千年――何万年。
リザはたった一人、そんな終わりの見えない地獄の中にいた。
誰もそんな彼女を理解できるはずもない。だから彼女も他人に興味を持たないし、理解など求めない。
心や感情と言った苦痛しか感じさせないものを忌み嫌い、ただ自分という存在が終わることだけを望む。
その悲願を思えば、彼女が他人に興味を持たないことなど当たり前のことと言えた。
生きることを苦痛と断じ、ただ終わることだけ望む彼女が、この大嫌いな世界のそれ以外のなにかに興味を持つはずもない。
自分の名前さえも忘れた、死にたがりの不死の妖精。それが彼女だった。
……だけど今、どうしてか彼女は、そんな彼女を終わらせることができなかった情けない私の元に戻ってきてくれている。
「リザ。君と別れることになった最後の日のこと、覚えてる?」
「……うん。覚えてるよ」
フィリアは二人で積もる話もあるだろうからと、私とリザを二人きりにしてくれた。
せっかくフィリアがくれたこの機会を逃すわけにはいかない。
かつてリザは私の前から姿を消した。ならもしかしたら、ほんの瞬き一つしただけで、彼女はまた私の前からいなくなってしまうかもしれない。
再会できた嬉しさで曖昧になんてせず、ちゃんと正面から自分の気持ちを伝えなくちゃいけない。
「あの日私は、君と一緒にいたいって、そう言ってあなたに手を差し出した。あなたを終わらせるって約束したのに、果たそうともせず……終わりたいと願っていたあなたの気持ちを身勝手に踏みにじった」
「うん……うん? ……んんん?」
目を閉じれば、今でも思い出せる。彼女と出会い、約束を交わした時のことを。
彼女は言った。いつの日か魔法を極めることが叶ったなら、ワタシという存在を終わらせろと。
不死の命を殺す。その魔法を作り出すことは、彼女にはどうしてもできなかったのだという。
根本的に魔法の才能が足りないのだ。永遠にも等しい年月を重ねたことで、人類ではまず到達できない領域まで魔法を極めることができたリザだが、実のところリザ本人の魔法の才能はそこまでではない。
自分ではどうしたって届かない。自身の終焉を求めれば求めるほどに、彼女はそれが理解できてしまった。
だからこそ、彼女は大嫌いな他人に望みを託したのだ。
いわば彼女にとって、私は希望だったのだ。
だというのに私は、なにに代えても果たさなければならなかった彼女との約束を破った。
彼女は私を救ってくれたのに。彼女が私に希望を見出したように、たった一人で見知らぬ世界に放り出された私にとっては、彼女こそが希望だったのに。
たとえ自分のためだけに過ぎなかったとしても、彼女は私を守ってくれた。生きる術をくれた。寂しさなんて感じないくらい、ずっと一緒にいてくれた。
彼女が見せてくれたのは不機嫌な仏頂面ばかりだったけれど、いつだってありのままに接してくれる彼女とは、話していて本当に楽しかった。
そんな彼女を裏切ったんだ。終わることが彼女にとっての救いだと知りながら、殺したくないと、まだ別れたくないと思ってしまった。そのエゴを身勝手に押しつけた。
彼女が私の前から去るのも、当然だと思った。
……別に、こんなものは悲しい過去なんかじゃない。全部が全部私のせいだったんだ。それなのに、悲しい過去なんて言えるはずもない。
すべて私の自業自得だった。
なのにまだ、リザはそんな情けない私のそばにいてくれている。
その理由は、もしかしたら……。
「ねえ、リザ。リザは、どうして私のところに戻ってきてくれたの? もしかしてリザは、私のために……」
「ちょ、ちょっと待って。真剣な話なのはわかってるけど、本当に待って……えーっと……や、約束を破った? ワタシにはそんな記憶ないんだけど……ど、どういうことなの?」
なぜかリザがものすごい困惑をあらわにしている。
どういうことって言われても……そのままの意味なんだけど……。
「ほら。だってあの日、私はリザとの約束を破ったよね? だからリザは、私を見限って私の前から去ったんだよね?」
「見限っ……いや、いやいやいやいや! 全然違うよ!? 確かにワタシ、ハロの前からは姿を消しちゃったけど、ハロを見限っただとか全然そんなことないよ?」
リザはブンブンと激しく首を振った後、なんとも言いがたい顔で頭を抱えた。
「なにがどうなったらそんな思考に……ハロたまに抜けてるとこあるなーとは思ってたけど、そこまでアホだったっけ……」
「アホ……? ……そうだね。リザの望みを正しく叶えなかったんだから、そんな風に言われるのもしかたがないのかもね……」
「勝手に解釈して納得しないで! ああもう、ちょっと整理するからハロは一旦黙って!」
「むぐ!? い、いひゃい……」
リザが大声を上げて机の端から飛び上がると、勢いよく私の顎を下から突き上げて無理矢理口を閉ざしてきた。舌を噛んでしまって普通に痛い。
この怒ったら問答無用で強引に自分の主張を物理で通してくる感じ……懐かしや……。
食べようとした直前で芋を微塵切りにされたり、つい土埃を吸い込んで咳き込んでしまった時に別に平気だと答えたら、二時間くらい健康チェックされた時のことを思い出す……。
人がどれくらいで死ぬかとか全然興味なくて知らなかった彼女は、私に対して本当に過保護だったのだ。
今だっていつの間にか舌が回復魔法で治療されてて全然痛くなくなってる。たぶんリザが私の反応を見て、急いでかけてくれたのだ。
倫理観はちょっとアレだけど、このように本当はきちんと人を心配できる良い子なんです。はい。
……倫理観がヤバいのに良い子なんて表現していいのかどうかは甚だ疑問ではあるけど。
リザに言われた通り、少しお口にチャックをしてリザが話し始めるのを待つ。
そうしていると、微妙そうな面持ちで腕を組みながら唸っていたリザがため息を一つついて、物言いたげに私を見つめてきた。
「とりあえず……一番よくわからないのは約束を破ったってところなんだけど……どうしてハロはそんな結論に至ったの?」
「どうしてと言われても……」
私にはリザがなぜそんなにも疑問に思っているのか理解できなかったが、首をひねりながらも彼女の質問に答えた。
「実際に私は約束を破っただろう? 君を終わらせると約束したのに、それを果たせなかったんだから」
「う、うーん……? いや、ハロはちゃんとワタシの中から呪いの力を取り除いてくれたよね? 約束、ちゃんと果たしてくれたよね?」
「……? まあ、確かに呪いの方はどうにかしたけど……私がリザと交わしたのは、リザの命を終わらせるってことだったし。それは果たせてないんだから、約束は果たせてないよね?」
「なんでそうなるの!? そりゃ初対面の時はハロの手でワタシを殺せーみたいに言ったけど……実際の生き死になんかより不死の呪いをどうにかすることの方が重要だなんて、散々ワタシの昔話聞かせてやったんだから普通わかるじゃん。なんでそれで約束果たせてない判定になるのさ……」
「……えーっと……ということは……もしかして私は、リザの望みをちゃんと叶えられてたのかい?」
「うん。まあ、確かに最初に思い描いてた形とは違ったけど……ハロは、ちゃんとワタシの悲願を叶えてくれたよ。ワタシはずっと冷たく当たってたはずなのに……そんなワタシなんかのことを本当に思ってくれてたんだなってわかるような、そんな方法で……」
いや、言うほど冷たくはなかった気はするけど……。
うん、だいぶ過保護だったぞ。睡眠時間足りないと死ぬかもしれないから念のため一日一二時間は寝ろとか言われた時は意味がわからなかった。さすがに頑張って説得したけど。
食事だって栄養バランス偏らないようにしてくれてたし。ずっと森の中にいたはずなのにすごい健康的な生活してた気がするぞ。
「うーん……いやでも、それじゃあなんでリザは私の前からいなくなったんだい? なにも言わず、一人でどこかに……あれは、死にたがってた君の望みを叶えようともせず侮辱するみたいに一緒にいたいなんて自分勝手に言った私を見限ったからじゃ……」
「だからなんでそうなるの!? そりゃあハロの前からは姿を消しちゃったけど……それはハロのせいなんかじゃなくて、全部ワタシのせいで……ワタシが、あなたと……」
「……? ごめんねリザ、よく聞こえなかった。もう一回言ってもらってもいいかな」
最後の方だけしぼむように声が小さくなっていたから、どうにも聞き取ることができなかった。
リザはひどく言いづらそうにモゴモゴと口元を動かしていたが、やがて観念したように、ポツリと漏らした。
「……怖かったの」
「怖い? えっと……なにが?」
「……あのまま、あなたと一緒にいることが。あなたが手を差し伸べてくれた時、ワタシの中で荒れ狂っていた感情が……」
目をパチパチとさせる私に、リザは懺悔するみたいに当時の気持ちを語る。
「自分でもわからないくらい永い時間を生きてきたのに……あの時あの瞬間にあったものは、全部が全部ワタシにとって未知のものだった。心、感情……いつも同じ苦痛しか与えないはずのそれが、あの時だけはワタシに違うものをもたらしてきて……その未知が、たまらなく怖かった」
「……だからリザは、私の前からいなくなったの?」
「うん、そう。だからワタシはあなたの前から姿を消した……逃げ出した。ずっとずっと死にたかったはずなのに、あなたのそばにいると、自分で自分がわからなくなるみたいだったから……それが怖くて、あなたに全部の責任を押しつけて、身勝手に背を向けて逃げ出した」
「……え、っと……リザがいなくなったのは、私に失望したからじゃなかったの?」
「だから違うってば。そりゃあその、なにも言わずに逃げちゃったワタシが全面的に悪かったけど……なんでそんな結論に至ったの? ってくらいにはその考え方は意味わからないよ……」
「……もしかして私、いろいろと勘違いしてた……?」
「まあ、うん……そりゃもう盛大と」
「……」
「……」
勘違い……なるほど。そうか、勘違いだったか……。
約束を破ったことも。見限られたと思っていたことも。
全部が全部勘違い。本当はずっと彼女も、私のことを思ってくれていた。
……ふむ。
……。
「ぷっ。あはは! それはなんていうか、確かにアホらしいね。そっか……ふふっ、あぁ。全部、私の勘違いだったんだ」
私は約束を果たすことができていた。彼女に見限られていたわけでもなかった。
それなのに私は彼女と別れてからのこの数年間、私は彼女の役に立てなかったのだと勝手に思い込んでいたんだ。
なんだかおかしくなって、笑みが溢れる。
しかしリザは真反対に、くしゃりと苦しそうに顔を歪めていた。
「……どうしてそんな風に笑えるの? 勘違いってことはさ……つまりハロはワタシの紛らわしい言動のせいで、ずっと苦しんできたってことなんだよね? それなのに……」
「や、別に苦しいなんてことはなかったよ。あの時ちゃんとした形でリザの願いを叶えていればって、たまに後悔はしてたけど……結局のところ、何度繰り返したところで私にはリザを殺すなんて真似はできなかっただろうしね。なにがどうなったって、あの結末だけは変わらなかった」
「……」
「それにね。それ以上に今は、とにかく嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん。私がちゃんとリザの望みを叶えられてて、リザに見限られてたわけでもなかったってことが」
私がそう言うと、リザはほんの一瞬目を見開いて、すぐに申しわけなさそうに下を向いた。
それからまた私の方を見上げてきて、口を開いて。だけど怖くなったかのように閉じて、また開いて。
そんなことを二、三回と繰り返した後、彼女はおずおずと問う。
「……ねえ、ハロ。ハロはまだ……ワタシと一緒にいたいって、思ってくれてる?」
返事など考えるまでもなく、気がついた時にはすでに頷いていた。
「当たり前だよ。リザは私にとって、世界でたった一人だけの師匠なんだから」
「……ワタシは一度、あなたの前から逃げ出したんだよ?」
「だけど戻ってきてくれた。たぶんだけどそれは、一緒にいたいって願った私のためになんだよね?」
「……ううん、違うよ。言ったでしょ? 誰かのためなんて、しょせんは誰かを思う自分のために過ぎないんだよ」
私の顎を持ち上げた辺りから宙に浮いていた彼女は、ここで机の上にストンと着地すると、まるで顔を見られたくないかのように私にくるりと背を向ける。
「ハロの前から逃げ出してからのこの数年間、ワタシはずっと考えてた。どうしてあの時、あなたの前から逃げ出しちゃったのか。なにが怖かったのか。もう呪いなんてないんだから、さっさと死んじゃえばいいのに……どうしてこんなこと気にしてるのか。まるで死にたくないみたいに。それを考えて、考えて考えて……」
それでね、と言う。私に背を向けたまま、彼女は仰ぐように天井を見上げる。
「……気づいたの。ハロのことばっかり考えちゃってるってこと。ハロが一緒にいたいって手を差し伸べてくれた時、胸が温かかったこと。この世界で一人ぼっちになったあなたのことを思うと、胸が締めつけられるようで……その時わかったんだ。ワタシも、ハロと一緒にいたかったって思ってるんだなって」
「リザ……」
「だからさ、ハロのためじゃないよ。ワタシの行動は全部ワタシのためのものでしかない。ワタシが、あなたと一緒にいたいと思ったから。ワタシがハロのところに戻ってきた理由は、それだけだよ」
なんて言いながら、リザはどうしてか申しわけなさそうに私の方に振り返った。
私はそれに、満面の笑みで返す。
「そっか。ふふっ。それは私のためなんて言われるより、ずっと嬉しい言葉だね」
「……そう? なにも言わずあなたの前から逃げ出しておいて……こんなの自分勝手なだけだと思うけど。よくわかんないなぁ……」
「いつかリザにもわかる日が来るよ」
リザはまだ、自分の心や感情というものに慣れきっていないのだろうと思う。
死ねば終わりなのに、今を生きる。無限の中に囚われてきた彼女には、そういった経験がない。
初々しくて、なんというか微笑ましい。
「ね、リザ。私と一緒にいたいって思ってくれてるならさ。リザも、この屋敷で一緒に暮らしてみないかい?」
「……いいの? そうしてもらえるなら願ったり叶ったりだけど……」
「もちろんいいよ。部屋は有り余ってるしね。まあ、リザの体格だと一部屋は広すぎるかもだけど……ああでも、一応言っておくけど、リザが昔よく使ってたような透明化の魔法とかはこの家の敷地内じゃ禁止だからね。私の前でだけ姿を現してそれ以外では透明化、とかはないように」
「うぐ……うぅ。やっぱり、あの子たちともちょっとは交流しないとダメ……?」
「一緒に暮らすならそれは絶対条件だよ。自己紹介の時、よろしくしてあげないこともないって言ったのは嘘だったのかな?」
「う、嘘ではないけど……」
「なら、少しはリザも歩み寄らないと。あと、フィリアとシィナには今朝のこともちゃんと謝らないとダメだからね。このまま有耶無耶にしちゃったらフィリアたちに悪いし。アモルの教育にもよくない」
「……うぐ、うぐぐぐぐ………はぁ……わかった。ハロが言うなら、少しだけ頑張ってみる……」
ガックリと肩を落としながらも、リザは力なく了承する。
昔は私の方がリザにいろいろと言われたものだが、まさか私がその役目を担う日が来るとは。あの頃は想像もできなかった。
もう会えないのだろうと諦めていた子に会えたり、またその子と一緒にいることができるようになったり。
まったく。エルフ生とは、なかなかどうしてわからないものである。