フィリアたちがそれぞれ自己紹介をした後は特に問題が起こることはなく、無事に朝食の時間を終えることができた。
そもそも朝食が無事に終わらない可能性があったこと自体がおかしいのだが、終わったのだから別に良いのだ。
終わりよければすべてよし!
……とは言うものの、終わったのはあくまで朝食の時間だけだ。
フィリアたちとリザが馴染めていない現実は変わりない。
このまま放っておくと、いずれ今朝のようにまた衝突してしまう危険も否めなかった。
やっぱり早めにどうにかしたいところだけど……うーむ。
まあどんな手を打つにしても、ひとまずはやることをやってしまおう。
「さて……」
さきほどの食事で皆が使っていた食器が入った籠の取っ手に手をかけ、グッと力を入れて持ち上げようと試みる。
シィナならこれくらい楽に持ち上げられるんだろうけど、私は元々貧弱な上に魔力循環による身体強化に一切の適正がないので、はっきり言ってこの程度でも結構辛い。
ただ、少し移動するくらいなら不可能と言うほどではない。
「ハロー? なにしようとしてるの?」
「食器洗いだよ。外に運んで洗うんだ。ちゃんと綺麗にしておかないと、変な菌がついて病気にかかったりしちゃうかもしれないしね」
私の行動に興味を持ったのか、イスの背もたれの上に座りながら足をプラプラとさせて暇そうにしていたリザが、フヨフヨと私に近づいてきた。
いつも食事の後は、こうして食器を外に運んで、私とフィリアの二人で食器洗いをしている。
フィリアと一緒にやる理由は、彼女が私の手伝いや雑用を進んで引き受けてくれるから……ということももちろんあるが、元々は彼女の魔法の制御の特訓の一貫でもあったからだ。
魔法の制御。つまるところ、水の魔法だ。水を生成したり、その出力を細かく調整したり。
今のフィリアであれば下級魔法程度は完全な精密操作ができるので、正直に言えばもうこの特訓は必要ない。
しかし世話焼きなフィリアが今更やめると言い出すはずもなく、なんだかんだ今までずっと一緒にやってきていた。
今はテーブルを拭いてくれているので、フィリアは隣にはいないのだが。
そういうわけなので、フィリアが来る前に食器の移動だけでも済ませてしまおうと思い、籠を持ち上げたまま移動を開始する。
……ふっ……ぐ、ぬぬ……!
「……ワタシ、手伝おっか?」
「だ、大丈夫だよリザ……これくらいいつも運んでるから。それにリザは私以上に力仕事が得意じゃないでしょ?」
腕をプルプルさせている私が心配だったのか、廊下までついてきていたリザに答える。
リザは手のひらサイズしかない見た目通り、めちゃくちゃ貧弱だ。その貧弱さは、甚だ不本意ながら貧弱代表であろう私とも比較にならない。
さっきの食事の時だって、彼女はスプーンやフォークと言った食器一つ持ち上げるだけでも一苦労な様子だった。
「それはそうだけど……うーん? ……なんでハロ、魔法使わないの?」
まあもっとも、リザが力仕事で苦労するのは、あくまで彼女自身の肉体で持ち上げる場合に限るのだが。
他種族と比べて異様に肉体が小さい妖精としての暮らし。
そして、極まった技術によって呼吸をするように反射で魔法を使えるリザであれば、物体を魔法で持ち上げる程度は容易にできる。
私を手伝おうとしてくれたのも同様に、リザ自身が肉体を使って手伝うという意味で言ったのではなくて、魔法で運んであげようか? という意味合いだったことは間違いない。
そしてそれは彼女に魔法を教わった私も例外ではなく、その気になればこんな籠くらい重力と風の魔法で簡単に浮かせて運んでしまえる。
運んでしまえるのだが……。
「いや、あんまり魔法に頼りすぎるのもね……ただでさえ体力がないのに、今以上怠惰になったらもっと悲惨なことになりそうで……」
「そんなの気にしなくてもいいと思うけどねー。ハロなら他の人間が肉体を使って行うようなことなんて全部魔法で代用できるでしょ? ワタシにだってできるんだし。体力なんかなくてもどうとでもなるよ」
「ううん、体力はほしい。絶対にいる。今以上運動不足になるのはまずい……それだけはダメだ」
そう、主に可愛い女の子とにゃんにゃんする際に体力は必須になる。
にゃんにゃん……もとい、えっちなこと。
激しい運動などと比喩されることもあるように、そういった行為には意外と体力が必要なのだ!
それにほら。最近はその、フィリアとシィナはなんだか脈アリっぽい感じだし……?
もしかしたら、近々二人とはにゃんにゃんできるかもしれないし。うん……。
……耳と顔が熱いのは気のせいだ。
別にその、二人とのにゃんにゃんを想像して恥ずかしがってるとかそういうわけじゃない。私はそんな可愛い生き物ではない。
とにかく! そういうわけなので、私は今以上に体力を落とすわけにはいかないのである。
手伝ってくれようとしたリザの気遣いはありがたかったが、丁重にお断りしておく。
「ふーん。まあハロがそう言うなら無理にとは言わないけど……」
普段から魔法に頼り切った生活をしている妖精のリザからしてみれば、私の主張はあまり理解が及ぶものではなかったようだ。あまり納得していない声音の返事だった。
言い方は少し悪いが、妖精が運動して体を鍛えたところでたかが知れているので、まあこの反応もしかたがないと言えばしかたがないのかもしれない。
私が籠を落としそうになった時に備えてか、さり気なくいつでも魔法を発動できるようにしてくれているリザに心の中で感謝しつつ、玄関に足を進めていく。
「あ、お師匠さまー! 待ってくださーい!」
「ん? フィリア? んむっ!? っとと……!」
あと少しで玄関だというところで、後ろの方からフィリアが手をブンブン振りながら小走りで近づいてきた。
振り返った時に見えたあまりに刺激的な光景に一瞬籠を落としそうになってしまったものの、ギリギリで持ちこたえる。リザも咄嗟に魔法を発動しかけていた。
あ、あの、フィリアさん? 廊下はあんまり走らない方がいいんじゃないかな……?
こう、ダブルメロンさまが上下にぶるんぶるんって激しく揺れて、すごく大変なことになってますよ?
あと普通に転ぶかもしれないので危ないです……。
「ご、ごめんなさいお師匠さま。急に話しかけて……大丈夫でしたか?」
「だ、大丈夫だよ。でもその、早いねフィリア。テーブルはもう拭き終わったの?」
殺人的に揺れるお胸さまに目を奪われていたことを気取られないよう、適当に問いを投げて取り繕う。
「あ、はい! ピカピカにしておきました! あとは食器を洗うだけで……そう、それです!」
それ?
私が不思議に思っている間にフィリアは私の進行方向に回り込むと、スッ、と両手を差し出してきた。
「そのですね。伝え忘れていたのですが……今日の食器洗いは私一人でやりますから、お師匠さまはくつろいでくださっていて大丈夫ですよ。籠も私が運んでおきますので、こちらにどうぞ!」
「フィリアが一人で? でも、いつもは二人で……」
フィリアがこの家にやってきてしばらくが経ち、彼女の家事の腕もそれなりに上達してきたので、手が離せない時に家事全般を彼女に任せることはたまにある。
ただそれは、本当に私が手を離せない時だけだ。
今日は別に特別な用事があるわけでもないし、時間がないというわけでもない。
フィリアは私の世話を焼くことが生き甲斐だなんて冗談も言ってくれたりもするが、あんまり甘えすぎるのもよくないしね。
なんかダメ人間っていうか、ダメエルフみたいだし。あとアモルの教育にもよくない。
「そうですね……お師匠さまと並んで一緒にお皿を洗う一時は、まるで夫婦――じゃなくてっ! と、とにかくその、私にとって確かに至福の時間ではあるのですが……!」
なぜか言葉の途中で赤面したりしながら、フィリアは私が持つ籠の取っ手に手をかけた。
狭い取っ手に二人分の手が添えられれば、必然的に私とフィリアの手はお互いに触れ合うことになる。
目をパチパチとさせてフィリアを見返せば、フィリアは慈しむように目を閉じた。
「お師匠さま、せっかくリームザードさんと再会できたんです。ずっと会えないと諦めていた方と……」
「フィリア……」
「朝食は皆で食べましたが、きっと二人だけで話したいことなどもあると思うんです。私にとってのお師匠さまが、お師匠さまにとってのリームザードさんなんですし……家事は私がやっておきますから、お二人はどうぞゆっくりしていてください」
フィリアにはリザと初めて会った頃のことを話してある。
だからだろう。わざわざ気を利かせてくれたようだ。
思わず笑みをこぼしてしまいながら、私はフィリアにこくりと頷いてみせた。
「ふふ、わかった。そういうことなら、是非お言葉に甘えさせてもらうよ。ありがとうね、フィリア」
「えへへ……はい! どういたしましてですっ!」
面倒事を引き受けたはずなのに、私から籠を受け取るフィリアは妙に嬉しそうだった。
もっと悪い子になってくれてもいいんだけどなぁ。
あいかわらずフィリアは純真無垢で師匠思いな良い子だ。
「ふーん……ワタシとハロだけの時間を作るためにね。ハロの奴隷らしく、少しは分をわきまえてたみたいだね。その殊勝な心がけだけは褒めてあげるわ」
憮然とそんなことを言ったのは、当然のごとくリザだった。
私以外には基本的に塩対応なリザにしては非常に珍しい他人の言動を認める発言ではあったのだが、案の定、ものすごーく上から目線である。
「あんまり褒められている気はしませんが、一応受け取っておきます……あれ?」
フィリアはリザのその偉そうな態度にもそろそろ慣れてきたらしく、呆れたようにため息をついていたが、ふと、なにかが引っかかったように首を傾げる。
「そういえば私、お師匠さまの弟子とは言いましたが、奴隷ってことまであなたに伝えましたっけ……?」
ああそれは、と私が説明しようとしたが、それよりも先にリザが腕を組みながらフンと鼻を鳴らした。
「そんなもん見りゃわかるよ。妖精ってのはお前たちと違って魔力に敏感なんだ」
「敏感ですか? えぇと、つまり……」
「つまり、見えてるものが違うってこと。お前の中にハロの干渉が混ざってることもわかるし、あの子どもが人類じゃなくて魔物だってことも一目でわかる。そういう目を持ってるんだ」
あの子ども、というのはアモルのことだろう。他に該当する者がいない。
「なるほど、そうなんですね……」
「まぁでも、もしあの子どもの正体が世間に晒されるかもって思ってるなら、そんな心配はいらないよ。滅多に表には出てこないし、あんな臆病者どもになにができるわけでもない……いたとしても、下手なことする前にワタシが焼き尽くしてやるから」
「や、焼き尽くすのはやりすぎかと思いますが……」
フィリアは苦笑しながらも、一方で、どこか不思議そうに首を傾げた。
「その、気のせいかもしれませんが……リームザードさんってお師匠さま以外に、アモルちゃんにも、ちょっとだけ態度が柔らかいですよね……? なにか理由があるんでしょうか」
なんとなくアモルにだけは若干対応が柔らかいというのは、私も一度思ったことだった。
もしかしたら気のせいかとも思ってたけど、フィリアも私と同じことを感じたってことは、やっぱり実際にそうなのだろう。
しかしリザはフィリアが言及したことについて自覚がないのか、それともとぼけているのか、心外そうに眉をしかめる。
「なに言ってんのお前。ワタシはハロの大切なものを傷つけようとする輩が許せないってだけで、あの子どものことなんか別になんとも思ってないんだけど? お前の目は節穴かよメス牛が」
「メ、メス牛!? なんですかその失礼な呼び方!」
「事実でしょ。そんなでっかい無駄肉ぶら下げてさ。なに食べてたらそうなるのさ。ハロのスレンダーな体型を見習いなよな」
「っ……私だって大きくなりたくてなったわけじゃありません! お師匠さまのお体がお美しいことには確かに同意しますが、それにしたって失礼です! 言っていいことと悪いことが……!」
「お、落ちついて二人とも……」
これでは朝食の時の二の舞だ。睨み合う二人の間に、私は慌てて割って入る。
実を言えばフィリアとリザの関係が少しは改善されるかもと少し期待して二人のやり取りをそれとなく見守っていたのだが、やっぱり甘い考えだったらしい。
仲良く二人で会話するなど、少なくとも今の時点の彼女たちの仲では到底不可能だ。
「えぇと……」
フィリアを落ちつかせるべきか、リザをなだめるべきか。
どちらか悩んだ末に、私はフィリアの方を向いた。
「フィ、フィリア。その、さっき言い忘れてたことが一つあってね。食器洗いを引き受けてくれたこと自体もそうだけど……私とリザのこと、わざわざ気遣ってくれてありがとうね。フィリアにはいつも助けられてる」
「い、いえ! そんなことでお礼を言っていただかなくても……私だっていつもお師匠さまには苦労をかけてますし、こんな雑用程度のことでそこまで……」
「ううん。フィリアには大したことがないかもしれなくても、私は嬉しかったから。リザの言う通り、誰かのためなんて、結局は誰かを思う自分のために過ぎないのかもしれないけど……それでも、誰かを思うその気持ちは確かに温かいものだって私は思うよ」
「お師匠さま……」
「……」
しっかりとフィリアに感謝の気持ちを伝えるためにも、なんとなくフィリアが気にしていそうだったリザの発言の揚げ足を取るようなことを言ってしまったが、それにリザが口を挟むことはなかった。
不満があるようでもなく、苛立ちを覚えているわけでもなく。
ただどこか物憂げに、私のことを見つめてきている。
その反応を少々不思議には思ったものの、とりあえず今はこの二人を引き離すのが先決だと、リザの反応についての思考から切り離す。
「それじゃあその、私たちはもう行くね。フィリアも朝から大変だったんだし、後でちゃんと休むんだよ」
「えへへ……はい、わかりました。これが終わったら、アモルちゃんたちと一緒に花壇のお花でも眺めながら休もうかと思います。お師匠さまも、どうぞごゆっくりお過ごしくださいね」
「うん。それじゃあフィリア、また後で」
「はい、また後で!」
フィリアと別れ、リザを連れてその場を後にする。行き先は私の部屋だ。
「……リザ。リザが他人嫌いなのは知ってるけど……あんまり意地悪言わないようにね。フィリアたちだって、リザと喧嘩したいってわけじゃないんだから」
「……うん。ごめんなさい……」
さきほどはせっかく気を遣ってくれたフィリアのためにも、彼女に機嫌を直してもらうことを優先したが、リザにもきちんと一言言っておかなければいけない。
そう思い少々注意してみると、しゅん……と、心の底から反省するようにリザが俯いた。
でも、とか。だって、とか。
今度こそなにかしら反論されるかとも思っていたのだが、思った以上に素直な反応で肩透かしな気分だった。
もし今の私と同じことを、フィリアがリザに言っていたらと想像してみると、私がリザに抱くイメージがわかりやすいと思う。
リザが言うことを聞くはずもないし、こんな風に謝るはずもない。
フィリアほどではないにせよ、かつては私に対してもあんな感じで刺々しかったはずなのに……。
今はどうしてか従順な女の子みたいな対応になってしまっていて、どうにも調子が崩される。
「まあその、こんなこと言うと、リザからしてみてみれば鬱陶しいって思うかも知れないけど……」
「う、ううん! そんなこと思わないよ、思うわけない!」
ちょっと気まずくなってしまった空気を誤魔化すように頬を掻きながらリザから視線をそらすと、リザは食い気味に否定しながら焦ったように私の視線の先に自ら飛び出してくる。
どうにも彼女は私の発言から、自分の反省の気持ちがしっかり伝わっていないのかもと感じてしまったらしかった。
自身の服の裾をギュッと掴み、瞳を震わせながら彼女は懸命に私に訴える。
「うざったいだとか鬱陶しいだとか、そんなこと少しも思わないっ。だって、他でもないハロが言うことだもん。ハロが言うなら、全部ワタシが悪かったの。ハロの言葉は世界で一番尊くて、なによりも優先されるべきことだし……」
「う、うん? いや、そこまで重要ではない気もするけど……」
「ううん。ハロはこの世界で唯一価値あるものだもん。青い空をハロが黄色いって言えば空は黄色だし、ハロが鳥を青いって言えば、その鳥が元はどんな色だったとしても青色に染まるべきなの。どんなやつもハロの言うことならなんだって聞くべきだし、ハロが望むならなんだって差し出すべきなんだよ」
「え、えぇ……?」
冗談で言っているのだろうと思ったのだが、その目と声音に軽い雰囲気は一切ない。本気と書いてマジだ。
ハロ、もとい私に従わないこの世界が彼女はまったくもって気に入らないらしく、不満そうに口を尖らせている。
けれどリザはすぐにその不機嫌な雰囲気を崩すと、反省の念を思い出したように、しょんぼりと項垂れた。
「……ごめんね、こんなこと急に言われてもハロ困っちゃうよね……なんかワタシ、さっきからハロに迷惑かけてばっかりだなぁ。せっかくハロに再会できたのに……こんなんじゃハロの役には立てないし、ハロが望むなら、喉でも裂いて声を出せなくしておくけど」
「う、うん!? 喉を裂くっ!?」
「うん。そうすれば変に口を出しちゃうこともないでしょ? 結構良い案だと思う」
今度こそ冗談かと思いたかったが、眉尻を下げながら申しわけなさそうにサラッと提案するその姿は、やはり到底嘘を言っているようには見えない。
まだ私はなにも返事をしていないのに、一足先に自分の指の先に真空の刃を生み出し始めたリザを見て、私は急いで彼女を止める。
「そ、そこまではしなくてもいいんだよっ? リザはじゅうぶん反省してくれたんだよね? なら、次からはちゃんと気をつけるようにしてくれれば、それで大丈夫だから」
「……次から、ね。ワタシは、あなたの大切なものを壊しかけたのに。次なんてもの、なくしちゃってたかもしれないのに……ハロは変わらないね。昔と変わらず……愚かしいほどに、甘い」
「甘い、か。最近よく言われるね、それ」
ひとまず喉を裂くことは思い直してくれたようで、リザは自分の指先に生み出した真空の刃を消した。
もしも私がまかり間違って頷いてなんていれば、彼女は二つ返事で躊躇なく自分の喉を裂いていただろう。
彼女が自分を傷つけることに戸惑いを覚えないことなど、私が一番よく知っていることだ。
そんな痛ましい未来を避けられたことに、私は密かにほっと息をついた。
そもそも朝食が無事に終わらない可能性があったこと自体がおかしいのだが、終わったのだから別に良いのだ。
終わりよければすべてよし!
……とは言うものの、終わったのはあくまで朝食の時間だけだ。
フィリアたちとリザが馴染めていない現実は変わりない。
このまま放っておくと、いずれ今朝のようにまた衝突してしまう危険も否めなかった。
やっぱり早めにどうにかしたいところだけど……うーむ。
まあどんな手を打つにしても、ひとまずはやることをやってしまおう。
「さて……」
さきほどの食事で皆が使っていた食器が入った籠の取っ手に手をかけ、グッと力を入れて持ち上げようと試みる。
シィナならこれくらい楽に持ち上げられるんだろうけど、私は元々貧弱な上に魔力循環による身体強化に一切の適正がないので、はっきり言ってこの程度でも結構辛い。
ただ、少し移動するくらいなら不可能と言うほどではない。
「ハロー? なにしようとしてるの?」
「食器洗いだよ。外に運んで洗うんだ。ちゃんと綺麗にしておかないと、変な菌がついて病気にかかったりしちゃうかもしれないしね」
私の行動に興味を持ったのか、イスの背もたれの上に座りながら足をプラプラとさせて暇そうにしていたリザが、フヨフヨと私に近づいてきた。
いつも食事の後は、こうして食器を外に運んで、私とフィリアの二人で食器洗いをしている。
フィリアと一緒にやる理由は、彼女が私の手伝いや雑用を進んで引き受けてくれるから……ということももちろんあるが、元々は彼女の魔法の制御の特訓の一貫でもあったからだ。
魔法の制御。つまるところ、水の魔法だ。水を生成したり、その出力を細かく調整したり。
今のフィリアであれば下級魔法程度は完全な精密操作ができるので、正直に言えばもうこの特訓は必要ない。
しかし世話焼きなフィリアが今更やめると言い出すはずもなく、なんだかんだ今までずっと一緒にやってきていた。
今はテーブルを拭いてくれているので、フィリアは隣にはいないのだが。
そういうわけなので、フィリアが来る前に食器の移動だけでも済ませてしまおうと思い、籠を持ち上げたまま移動を開始する。
……ふっ……ぐ、ぬぬ……!
「……ワタシ、手伝おっか?」
「だ、大丈夫だよリザ……これくらいいつも運んでるから。それにリザは私以上に力仕事が得意じゃないでしょ?」
腕をプルプルさせている私が心配だったのか、廊下までついてきていたリザに答える。
リザは手のひらサイズしかない見た目通り、めちゃくちゃ貧弱だ。その貧弱さは、甚だ不本意ながら貧弱代表であろう私とも比較にならない。
さっきの食事の時だって、彼女はスプーンやフォークと言った食器一つ持ち上げるだけでも一苦労な様子だった。
「それはそうだけど……うーん? ……なんでハロ、魔法使わないの?」
まあもっとも、リザが力仕事で苦労するのは、あくまで彼女自身の肉体で持ち上げる場合に限るのだが。
他種族と比べて異様に肉体が小さい妖精としての暮らし。
そして、極まった技術によって呼吸をするように反射で魔法を使えるリザであれば、物体を魔法で持ち上げる程度は容易にできる。
私を手伝おうとしてくれたのも同様に、リザ自身が肉体を使って手伝うという意味で言ったのではなくて、魔法で運んであげようか? という意味合いだったことは間違いない。
そしてそれは彼女に魔法を教わった私も例外ではなく、その気になればこんな籠くらい重力と風の魔法で簡単に浮かせて運んでしまえる。
運んでしまえるのだが……。
「いや、あんまり魔法に頼りすぎるのもね……ただでさえ体力がないのに、今以上怠惰になったらもっと悲惨なことになりそうで……」
「そんなの気にしなくてもいいと思うけどねー。ハロなら他の人間が肉体を使って行うようなことなんて全部魔法で代用できるでしょ? ワタシにだってできるんだし。体力なんかなくてもどうとでもなるよ」
「ううん、体力はほしい。絶対にいる。今以上運動不足になるのはまずい……それだけはダメだ」
そう、主に可愛い女の子とにゃんにゃんする際に体力は必須になる。
にゃんにゃん……もとい、えっちなこと。
激しい運動などと比喩されることもあるように、そういった行為には意外と体力が必要なのだ!
それにほら。最近はその、フィリアとシィナはなんだか脈アリっぽい感じだし……?
もしかしたら、近々二人とはにゃんにゃんできるかもしれないし。うん……。
……耳と顔が熱いのは気のせいだ。
別にその、二人とのにゃんにゃんを想像して恥ずかしがってるとかそういうわけじゃない。私はそんな可愛い生き物ではない。
とにかく! そういうわけなので、私は今以上に体力を落とすわけにはいかないのである。
手伝ってくれようとしたリザの気遣いはありがたかったが、丁重にお断りしておく。
「ふーん。まあハロがそう言うなら無理にとは言わないけど……」
普段から魔法に頼り切った生活をしている妖精のリザからしてみれば、私の主張はあまり理解が及ぶものではなかったようだ。あまり納得していない声音の返事だった。
言い方は少し悪いが、妖精が運動して体を鍛えたところでたかが知れているので、まあこの反応もしかたがないと言えばしかたがないのかもしれない。
私が籠を落としそうになった時に備えてか、さり気なくいつでも魔法を発動できるようにしてくれているリザに心の中で感謝しつつ、玄関に足を進めていく。
「あ、お師匠さまー! 待ってくださーい!」
「ん? フィリア? んむっ!? っとと……!」
あと少しで玄関だというところで、後ろの方からフィリアが手をブンブン振りながら小走りで近づいてきた。
振り返った時に見えたあまりに刺激的な光景に一瞬籠を落としそうになってしまったものの、ギリギリで持ちこたえる。リザも咄嗟に魔法を発動しかけていた。
あ、あの、フィリアさん? 廊下はあんまり走らない方がいいんじゃないかな……?
こう、ダブルメロンさまが上下にぶるんぶるんって激しく揺れて、すごく大変なことになってますよ?
あと普通に転ぶかもしれないので危ないです……。
「ご、ごめんなさいお師匠さま。急に話しかけて……大丈夫でしたか?」
「だ、大丈夫だよ。でもその、早いねフィリア。テーブルはもう拭き終わったの?」
殺人的に揺れるお胸さまに目を奪われていたことを気取られないよう、適当に問いを投げて取り繕う。
「あ、はい! ピカピカにしておきました! あとは食器を洗うだけで……そう、それです!」
それ?
私が不思議に思っている間にフィリアは私の進行方向に回り込むと、スッ、と両手を差し出してきた。
「そのですね。伝え忘れていたのですが……今日の食器洗いは私一人でやりますから、お師匠さまはくつろいでくださっていて大丈夫ですよ。籠も私が運んでおきますので、こちらにどうぞ!」
「フィリアが一人で? でも、いつもは二人で……」
フィリアがこの家にやってきてしばらくが経ち、彼女の家事の腕もそれなりに上達してきたので、手が離せない時に家事全般を彼女に任せることはたまにある。
ただそれは、本当に私が手を離せない時だけだ。
今日は別に特別な用事があるわけでもないし、時間がないというわけでもない。
フィリアは私の世話を焼くことが生き甲斐だなんて冗談も言ってくれたりもするが、あんまり甘えすぎるのもよくないしね。
なんかダメ人間っていうか、ダメエルフみたいだし。あとアモルの教育にもよくない。
「そうですね……お師匠さまと並んで一緒にお皿を洗う一時は、まるで夫婦――じゃなくてっ! と、とにかくその、私にとって確かに至福の時間ではあるのですが……!」
なぜか言葉の途中で赤面したりしながら、フィリアは私が持つ籠の取っ手に手をかけた。
狭い取っ手に二人分の手が添えられれば、必然的に私とフィリアの手はお互いに触れ合うことになる。
目をパチパチとさせてフィリアを見返せば、フィリアは慈しむように目を閉じた。
「お師匠さま、せっかくリームザードさんと再会できたんです。ずっと会えないと諦めていた方と……」
「フィリア……」
「朝食は皆で食べましたが、きっと二人だけで話したいことなどもあると思うんです。私にとってのお師匠さまが、お師匠さまにとってのリームザードさんなんですし……家事は私がやっておきますから、お二人はどうぞゆっくりしていてください」
フィリアにはリザと初めて会った頃のことを話してある。
だからだろう。わざわざ気を利かせてくれたようだ。
思わず笑みをこぼしてしまいながら、私はフィリアにこくりと頷いてみせた。
「ふふ、わかった。そういうことなら、是非お言葉に甘えさせてもらうよ。ありがとうね、フィリア」
「えへへ……はい! どういたしましてですっ!」
面倒事を引き受けたはずなのに、私から籠を受け取るフィリアは妙に嬉しそうだった。
もっと悪い子になってくれてもいいんだけどなぁ。
あいかわらずフィリアは純真無垢で師匠思いな良い子だ。
「ふーん……ワタシとハロだけの時間を作るためにね。ハロの奴隷らしく、少しは分をわきまえてたみたいだね。その殊勝な心がけだけは褒めてあげるわ」
憮然とそんなことを言ったのは、当然のごとくリザだった。
私以外には基本的に塩対応なリザにしては非常に珍しい他人の言動を認める発言ではあったのだが、案の定、ものすごーく上から目線である。
「あんまり褒められている気はしませんが、一応受け取っておきます……あれ?」
フィリアはリザのその偉そうな態度にもそろそろ慣れてきたらしく、呆れたようにため息をついていたが、ふと、なにかが引っかかったように首を傾げる。
「そういえば私、お師匠さまの弟子とは言いましたが、奴隷ってことまであなたに伝えましたっけ……?」
ああそれは、と私が説明しようとしたが、それよりも先にリザが腕を組みながらフンと鼻を鳴らした。
「そんなもん見りゃわかるよ。妖精ってのはお前たちと違って魔力に敏感なんだ」
「敏感ですか? えぇと、つまり……」
「つまり、見えてるものが違うってこと。お前の中にハロの干渉が混ざってることもわかるし、あの子どもが人類じゃなくて魔物だってことも一目でわかる。そういう目を持ってるんだ」
あの子ども、というのはアモルのことだろう。他に該当する者がいない。
「なるほど、そうなんですね……」
「まぁでも、もしあの子どもの正体が世間に晒されるかもって思ってるなら、そんな心配はいらないよ。滅多に表には出てこないし、あんな臆病者どもになにができるわけでもない……いたとしても、下手なことする前にワタシが焼き尽くしてやるから」
「や、焼き尽くすのはやりすぎかと思いますが……」
フィリアは苦笑しながらも、一方で、どこか不思議そうに首を傾げた。
「その、気のせいかもしれませんが……リームザードさんってお師匠さま以外に、アモルちゃんにも、ちょっとだけ態度が柔らかいですよね……? なにか理由があるんでしょうか」
なんとなくアモルにだけは若干対応が柔らかいというのは、私も一度思ったことだった。
もしかしたら気のせいかとも思ってたけど、フィリアも私と同じことを感じたってことは、やっぱり実際にそうなのだろう。
しかしリザはフィリアが言及したことについて自覚がないのか、それともとぼけているのか、心外そうに眉をしかめる。
「なに言ってんのお前。ワタシはハロの大切なものを傷つけようとする輩が許せないってだけで、あの子どものことなんか別になんとも思ってないんだけど? お前の目は節穴かよメス牛が」
「メ、メス牛!? なんですかその失礼な呼び方!」
「事実でしょ。そんなでっかい無駄肉ぶら下げてさ。なに食べてたらそうなるのさ。ハロのスレンダーな体型を見習いなよな」
「っ……私だって大きくなりたくてなったわけじゃありません! お師匠さまのお体がお美しいことには確かに同意しますが、それにしたって失礼です! 言っていいことと悪いことが……!」
「お、落ちついて二人とも……」
これでは朝食の時の二の舞だ。睨み合う二人の間に、私は慌てて割って入る。
実を言えばフィリアとリザの関係が少しは改善されるかもと少し期待して二人のやり取りをそれとなく見守っていたのだが、やっぱり甘い考えだったらしい。
仲良く二人で会話するなど、少なくとも今の時点の彼女たちの仲では到底不可能だ。
「えぇと……」
フィリアを落ちつかせるべきか、リザをなだめるべきか。
どちらか悩んだ末に、私はフィリアの方を向いた。
「フィ、フィリア。その、さっき言い忘れてたことが一つあってね。食器洗いを引き受けてくれたこと自体もそうだけど……私とリザのこと、わざわざ気遣ってくれてありがとうね。フィリアにはいつも助けられてる」
「い、いえ! そんなことでお礼を言っていただかなくても……私だっていつもお師匠さまには苦労をかけてますし、こんな雑用程度のことでそこまで……」
「ううん。フィリアには大したことがないかもしれなくても、私は嬉しかったから。リザの言う通り、誰かのためなんて、結局は誰かを思う自分のために過ぎないのかもしれないけど……それでも、誰かを思うその気持ちは確かに温かいものだって私は思うよ」
「お師匠さま……」
「……」
しっかりとフィリアに感謝の気持ちを伝えるためにも、なんとなくフィリアが気にしていそうだったリザの発言の揚げ足を取るようなことを言ってしまったが、それにリザが口を挟むことはなかった。
不満があるようでもなく、苛立ちを覚えているわけでもなく。
ただどこか物憂げに、私のことを見つめてきている。
その反応を少々不思議には思ったものの、とりあえず今はこの二人を引き離すのが先決だと、リザの反応についての思考から切り離す。
「それじゃあその、私たちはもう行くね。フィリアも朝から大変だったんだし、後でちゃんと休むんだよ」
「えへへ……はい、わかりました。これが終わったら、アモルちゃんたちと一緒に花壇のお花でも眺めながら休もうかと思います。お師匠さまも、どうぞごゆっくりお過ごしくださいね」
「うん。それじゃあフィリア、また後で」
「はい、また後で!」
フィリアと別れ、リザを連れてその場を後にする。行き先は私の部屋だ。
「……リザ。リザが他人嫌いなのは知ってるけど……あんまり意地悪言わないようにね。フィリアたちだって、リザと喧嘩したいってわけじゃないんだから」
「……うん。ごめんなさい……」
さきほどはせっかく気を遣ってくれたフィリアのためにも、彼女に機嫌を直してもらうことを優先したが、リザにもきちんと一言言っておかなければいけない。
そう思い少々注意してみると、しゅん……と、心の底から反省するようにリザが俯いた。
でも、とか。だって、とか。
今度こそなにかしら反論されるかとも思っていたのだが、思った以上に素直な反応で肩透かしな気分だった。
もし今の私と同じことを、フィリアがリザに言っていたらと想像してみると、私がリザに抱くイメージがわかりやすいと思う。
リザが言うことを聞くはずもないし、こんな風に謝るはずもない。
フィリアほどではないにせよ、かつては私に対してもあんな感じで刺々しかったはずなのに……。
今はどうしてか従順な女の子みたいな対応になってしまっていて、どうにも調子が崩される。
「まあその、こんなこと言うと、リザからしてみてみれば鬱陶しいって思うかも知れないけど……」
「う、ううん! そんなこと思わないよ、思うわけない!」
ちょっと気まずくなってしまった空気を誤魔化すように頬を掻きながらリザから視線をそらすと、リザは食い気味に否定しながら焦ったように私の視線の先に自ら飛び出してくる。
どうにも彼女は私の発言から、自分の反省の気持ちがしっかり伝わっていないのかもと感じてしまったらしかった。
自身の服の裾をギュッと掴み、瞳を震わせながら彼女は懸命に私に訴える。
「うざったいだとか鬱陶しいだとか、そんなこと少しも思わないっ。だって、他でもないハロが言うことだもん。ハロが言うなら、全部ワタシが悪かったの。ハロの言葉は世界で一番尊くて、なによりも優先されるべきことだし……」
「う、うん? いや、そこまで重要ではない気もするけど……」
「ううん。ハロはこの世界で唯一価値あるものだもん。青い空をハロが黄色いって言えば空は黄色だし、ハロが鳥を青いって言えば、その鳥が元はどんな色だったとしても青色に染まるべきなの。どんなやつもハロの言うことならなんだって聞くべきだし、ハロが望むならなんだって差し出すべきなんだよ」
「え、えぇ……?」
冗談で言っているのだろうと思ったのだが、その目と声音に軽い雰囲気は一切ない。本気と書いてマジだ。
ハロ、もとい私に従わないこの世界が彼女はまったくもって気に入らないらしく、不満そうに口を尖らせている。
けれどリザはすぐにその不機嫌な雰囲気を崩すと、反省の念を思い出したように、しょんぼりと項垂れた。
「……ごめんね、こんなこと急に言われてもハロ困っちゃうよね……なんかワタシ、さっきからハロに迷惑かけてばっかりだなぁ。せっかくハロに再会できたのに……こんなんじゃハロの役には立てないし、ハロが望むなら、喉でも裂いて声を出せなくしておくけど」
「う、うん!? 喉を裂くっ!?」
「うん。そうすれば変に口を出しちゃうこともないでしょ? 結構良い案だと思う」
今度こそ冗談かと思いたかったが、眉尻を下げながら申しわけなさそうにサラッと提案するその姿は、やはり到底嘘を言っているようには見えない。
まだ私はなにも返事をしていないのに、一足先に自分の指の先に真空の刃を生み出し始めたリザを見て、私は急いで彼女を止める。
「そ、そこまではしなくてもいいんだよっ? リザはじゅうぶん反省してくれたんだよね? なら、次からはちゃんと気をつけるようにしてくれれば、それで大丈夫だから」
「……次から、ね。ワタシは、あなたの大切なものを壊しかけたのに。次なんてもの、なくしちゃってたかもしれないのに……ハロは変わらないね。昔と変わらず……愚かしいほどに、甘い」
「甘い、か。最近よく言われるね、それ」
ひとまず喉を裂くことは思い直してくれたようで、リザは自分の指先に生み出した真空の刃を消した。
もしも私がまかり間違って頷いてなんていれば、彼女は二つ返事で躊躇なく自分の喉を裂いていただろう。
彼女が自分を傷つけることに戸惑いを覚えないことなど、私が一番よく知っていることだ。
そんな痛ましい未来を避けられたことに、私は密かにほっと息をついた。