「殴り合いの喧嘩が始まるんじゃないかってヒヤヒヤしました」
 私は先生が口にしたかおりという人物が気になったが、訊くタイミングを逃して訊けなかった。
「しませんよ! 多分一方的に殴られて終わりだと思うし!!」
「言葉では負けてなかったというより寧ろ勝ってました。……私の代わりに注意してくださってありがとうございました。正直……高校生の頃から悩んでることなので傷つきました。やっぱりハゲだけは何度言われても傷つきます」
 私は釘本くんの小さな後ろ姿に目を向けて心の中でこの野郎ちゃんと謝れと怒ると、再び先生に向き直る。
「どういたしまして。本当は謝らせたかったんですけど力不足ですみません……。それよりいいんですか? 釘本くん。謝ってないしまた腰パンにしてましたよ」
「力不足じゃありません。充分すぎるぐらいです……。だからもう釘本くんに謝罪を要求しなくて大丈夫です。腰パンはまた見かけた時に注意します」
「許せないけど……先生がそう言うなら了解しました」
 私はそう答えて少し考えてから口を開く。
「……改善するまで何度でも、ですか?」
「はい諦めません」
 寝不足で疲れているのか、つい先ほどまでとろんとしていた眼鏡の奥にある瞳に、強い光が宿ったように見えた。その瞳を見て、嘘偽りない本音であること、先生が生徒のためを思って指導しており見捨てることはないことを確信して、胸がじんと熱くなった。
「全速力で走って大きな声で怒ってたし……体調が悪いわけではなさそうですね」
 えっ、と私は首を傾げる。
「ずっと立ち止まっていたので、私に用事があるのかあるいは体調が悪くて歩けないのか、そのどちらかだと予想していました。釘本くんと喋っている時も密かに心配していました」