姫の夫となった重水家の若い主は、優しげではあったが、及び腰であった。そのため、血気盛んな同腹の弟に、常に地位を脅かされていた。
 この乱は、臣にそそのかされた弟が、兄を追い落とすために起こしたものだった。
 憐れな姫の夫は、火に巻かれて驚き怯えていることだろう。

「どうか御容赦ください、姫」
 紀昭は姫の手を強く引いて、再び歩きだした。

 重水家中の、不穏な動きに気がついた紀昭の報を受け、鴻江家のとった道は、姫の夫を救うことではなかった。

 紀昭は、まず姫の夫に弟の叛意を伝え、事があれば必ず援軍を出すと、かたく約束をした。
 そして姫の兄の命で、重水家の弟君には、「当主にはあなたこそがふさわしい、兄君は姫の夫にふさわしくない」と囁いた。姫を兄から奪え、と。そして改めて両家の絆を深めようと約定をかわした。

 鴻江家は援軍と称して軍を出す。重水家の兄も弟も、我が援軍だと疑わないだろう。
 だが、鴻江家は、どちらも助ける気などない。重水家の家中が乱れ、決着のついた頃合いをみて、優勢であった方を討つ。

 紀昭は、身命を賭して守り続けてきた姫の夫をおとしいれ、殺す。ためらいはあったが、主家の命に逆らうつもりはなかった。
 この変乱を乗りこえ、鴻江家の軍に合流出来れば、たった一年の短い同盟は終わる。姫は鴻江家に帰ることとなる。

「殿の御為に働き、この謀が首尾よく運べば、わたしは褒美を貰えます」
 人目を避け、目立たない搦め手門へ向かいながら、紀昭は言った。ただ前を向いたままで。

「殿に願い出て、無事姫を助け出した暁には、私との結婚を認めてくださるとおおせになった」
「愚かなことを」
 姫は、憐れむように言った。

「せっかくの立身の機を、そのような願いで無にするなど」
「いいえ。姫、これが幼き頃からの願いです」

 主家の姫とつりあう身分でないことなど分かっていた。姫のそばに仕えることができれば、それで十分だと己に言い聞かせ、ただただ見守ってきた。
 だが、一国を手にする、この大きな手柄があれば。

「分をわきまえぬ願いを抱き続けたことをお許しください。ですが」
 紀昭は言葉を継ぐことができなかった。

 どん、と衝撃が体を貫いた。左の脇の、後ろ。背中の方から。
 姫の手に握られた守り刀が、後ろから、紀昭の脇腹を突き刺していた。右の手で紀昭の左手を握ったまま。
 血が滲み、それに気づいて激痛がはしる。
「姫……?」
 髪を乱し、白い頬を炎に染め、姫は静かに笑っていた。