「ねえ、あの人誰?」

 ゼエゼエと、肩で息をしている私とは違って、陸上部の結衣は涼しい顔をして興味津々に聞いてきた。

「知らない」

 というか、こっちが知りたい。
 私はかの先輩のことを知らない。
 それなのに、彼は私のことを知っているというのだろうか。
 それとも、ただ後輩をからかって遊んでいただけなんだろうか。

「えー? 知らないの。変なの!」

 普段から、結衣と話すときは気になっている男の子の話や陸上部で流行のSNSの話題で持ちきりだ。部活に入っていなければSNSもLINEぐらいしかしていない私にとって、結衣の話は刺激的で“女子高生”をやってる感じがした。まあ、結衣に言わせれば、「南の感覚が十年遅れている」だけらしいのだが。

「そっかそっかー。じゃあ、あの先輩、南のストーカー? こわっ」

 両腕をさすりながら言う結衣は、授業が始まりそうだからと自分の席に戻っていった。
 不思議な出会いとともに始まった高校二年生の5月。
 何かが起こりそうでもあるし、結局何も変わらないのだろうとほとんど信じていた。
 その日の、放課後までは。


「南、ストーカーには気をつけなよ。また明日」

「大丈夫だって。ばいばい」

 放課後になると、部活動に所属していない私はいつものごとく陸上部の練習に向かう結衣に手を振って教室を後にする。
 普段ならこのまま下へ降りて昇降口に向かうのだが、今日はなんとなく、すぐに帰る気になれず四階まで上った。二年生の教室は二階にあるため、四階まで上るのはわりと体力を使う。実は、こうして放課後にまっすぐ帰らず、四階のとある教室に赴くのは初めてじゃなかった。今日で、三回目。ふとしたタイミングで、身体がふわっと勝手に動いて“そこ”に辿り着くのだ。

 たくさんの教科書を詰め込んだ重たいリュックを背負い、目的の教室の中を、窓からそっと覗く。
 微かに鼻をつくシンナーのような香りが、私にとっては心地が良い。
 美術室の中で、美術部員たちが黙々と筆や鉛筆を動かす姿を見るのが私は好きだった。一年生の時、部活動見学期間に一度、その後年明けに一度、部室を訪れたことがある。どちらも部員の人たちに迷惑をかけない程度にひっそりと中の様子を窺うくらいだった。
 なぜ自分が美術部に入らなかったのかといえば、理由は簡単。
 自分には美しい絵を描ける才能がないと知っていたからだ。
 確かに家では母が暇さえあれば絵を描いていていたが、私が自分で絵を描いたことなどほとんどない。ノートにする落書きくらいだ。
 それでもやっぱり私は、絵を見るのが好きだった。
 絵を描く人も好きだったから、こうして何度か美術室に足を運んでいる。自分が絵画に参加することも、部員の人から話を聞くわけでもなく。
 ただ、眺める。
 そうしていれば、心に溜まった心配事や不安が、和らいでゆくのだ。

「あの、ウチの部に何か用ですか?」

 考えごとをしていたせいか、人が教室から出てくるのに気がつかなかった。
 後ろの扉から、三年生の女の先輩が出てきたところだった。
 その時の私といえば、廊下の窓側の壁に背中を付けて何もせずに佇んでいるだけだったので、誰かを待っている人間にしか見えないだろう。

「あ、いえ。ちょっと中を見せていただいているだけでっ……」

 何か悪いことをしたわけではないのに、話しかけられたことが恥ずかしくて今すぐにでも逃げたくなった。

「あら、そうなの。あなた、二年生ね。良かったら中で見ていく?」

 女の先輩は私が後輩だと分かると、頬を緩め、思わぬ提案をしてくれた。

「いいんですか?」

 本当はずっと、近くで絵を描く人を見てみたいと思っていた。でも、急に扉を開けるなんていう度胸は私にはなくて。
 こんな機会が訪れるなんて、私、ちょっとラッキーかも。

「ええ。ちょうど自由に描いてたとこだし、見学の人が一人来たところで、減るもんじゃないしね」

 なんて懐の大きい先輩なのだろう……!
 感動した私は、思わず自分の口元がにやけるのを感じ、すぐさまはっと身を引き締めた。いけない、いけない。初対面の先輩におかしな後輩だと思われちゃう。

「ありがとうございます。ぜひ少し見学させてください!」

 深々と頭を下げる私。嬉しくて背中の荷物の重さなど、すっかり忘れていた。
 美術部の先輩から「おいで」と言われ、「失礼します」と小さく挨拶をして美術室に立ち入った。驚くことに、私が入室しても、絵を描いている美術部員たちは振り向きもしなかった。
 すごい集中力……。
 きっと、彼、彼女たちは、いま描いている絵のこと以外、頭にないのだ。
 運動場から聞こえてくる運動部の声や、空を舞うカラスの鳴き声、車のエンジン音。
 その全てが、ここでは無音。
 筆や鉛筆を動かすサッサッサという音だけが、くっきりとした輪郭をもって空間に響いている。
 私は息をのんだまま、絵を描く人の後ろ姿、滑らかな手首の動き、瞬きすらせずに描く対象を見つめる視線を、目で追っていた。
 私自身が絵を描いているわけでもないのに、まるで自分の目の前にキャンバスが広がっているような気がした。

「あら、お久しぶりのお客さんだね」

 不意に、聞き覚えのある穏やかな男性の声がして、はっと我に返った。
 声は、私の背後から聞こえた。

「あ、あなたは……!」

 そこにいたのは今日、全校集会のあとに声をかけてきたあのストーカー男(・・・・・・・・)だった。

「やあ、さっきぶり」

「す、す、す、ストーカーの先輩!」

「きみは、面白い表現をするんだねえ」

 くくく、と声を押し殺して腹を抱える彼。
 一体何が起こっているのか分からない私は、「なんで」「どうしてここに」「あなたがいるの」と、ロボット口調で尋ねていた。
 先程まで描くことに集中していた他の部員たちも、私たちのやりとりが気になるのか、チラチラとこちらを見てきた。

「なんでって、それは愚問だね。僕が美術部員だからに決まってるじゃないか」

 それ以外に何かあるの? と純粋なウサギのような目で見つめられた私は、思わずどきっと心臓が鳴るのを感じた。なんだ私、この人のマイペースさに相当やられている……。

「美術部……だったんですね」

 だったんですね、と言っても、今日会ったばかりの人なのだから、知らなくて当然なのだが。
 確かにその先輩もイーゼルの上に載せたキャンバスに青い絵具をぶちまけたようにしか見えない抽象的な絵を描いていた。
 というか、待てよ。
 私はある事実に思い至り、それを確かめるべく彼に問うた。

「もしかして先輩って、私が何度か美術室を覗きに来ていたのを、知ってたんですか」

「ご名答」

 どこかの教授みたいな口ぶりでニヤリと口の端を上げた先輩。なんだか、してやられた気分になる。

「でも、どうして私の名前を知っていたんですか?」

「それは、後輩に聞いたらすぐに分かったよ」

 ああ、その手があったか。
 その“後輩”というのは恐らく、一年生の時同じクラスだった子に違いない。今日は来ていないようだけれど。

「……そうだったんですね。分かりました。それで、先輩の名前は?」

 なんだかいつの間にか、この先輩と会話を続ける流れになっている。しかしそれは、無理やり誰かに強制されているわけではなく、私自身、この不思議な先輩のことを知りたいと思ったからだ。

「そういえば名乗っていなかったね、失礼。僕は、北海斗(きたかいと)。三年二組。よろしく」

「キタカイト」

 初めて彼の名前を聞いて、思わずぎょっとした。
 だって、名前に“北”が入っているんだもん。
 私は自分の「南」という名前に対照的な「北」を持つこの先輩に、強烈に惹かれたのだ。