「あれは……?」
 天空を飛行するものは人型を成し、こちらに近づいてくる。その姿には見覚えがあった。
「風天!」
 手を上げて声をかける。夜叉の居城を守護するあやかしの風天は、ひらりと羽衣を翻して着地した。
「お久しぶりでございます、凜さま」
「久しぶりね。夜叉の城は変わりない?」
「はい。今は悠さまがいらしております。現世にお戻りになる前に、凜さまにご挨拶したいとのことです」
 人形のように無表情な風天は、淡々と語った。
 子どもの頃から何度も夜叉の居城を訪れているので、もちろん風天とも面識がある。
「兄さんは実家に帰るのね。せっかくだから、兄さんと話すついでに夜叉の城を見ておきたいわ。風天、一緒に行きましょう」
 神世に来ていたけれど、一度も夜叉の居城を訪ねていない。父や兄がいないと主が不在なので、あえて訪ねる機会がなさそうだ。
「御意にございます」
 春馬に伝えたほうがよいだろうかと一抹の思いが生じる。
 けれど夕刻まで戻らないのだ。兄と話すだけなので、侍女に言付けしておけばよいだろう。
 そばに控えていた侍女に伝えた私は、風天とともに夜叉の居城へ向かった。

 運河を渡る舟から城へと続く大門を目にしたとき、ふいに既視感に襲われる。
「え……? 私、この景色を見たことがあるわ」
「そうでございましょう。凜さまは何度も訪れておりますゆえ」
 隣に佇む風天の言う通りだった。
 幼い頃から夜叉の居城を訪れているので、この景色も幾度となく目にしたはずだ。
 それなのに、胸に迫るこの想いの正体はなんなのか。
 ふと船内に目をやる。私のほかには風天と船頭しか乗っていない。
 けれどそこに、残像があった。
 お腹をふっくらとさせた母が、船首に立ち上がった私を驚いて見ている……。
『あなたは、まさか……凜――⁉』
 耳奥に母の声がよみがえったとき、記憶の洪水が次々に流れ込んでくる。
 夜叉の城が泥人に襲われたこと。獰猛な鬼神に変身した父が、ほかの鬼神と戦っている。そしてシャガラに騎乗した春馬が駆けつけてくれた――。
「あのとき、私たちは初めて会ったのね……。春馬が言っていたのは、ここでの出来事だった」
 やがて岸に辿り着き、下船する。
 大門から城を見上げた私と風天は一歩ずつ、綺麗に整えられた石段を上る。
 そうして登りきると、城の前の広場に着いた。
 正面には勇壮な扉がある。その手前には城の入り口を守るかのように、石造りの台座が左右にひとつずつあった。
 左は風天の立ち位置だ。石像の姿のとき、彼女はそこに佇んでいる。
 でも、右側の台座は空だ。
 これまで疑問にも思わなかった。かつては誰かが、そこにいたなんて。
 私の瞳の奥に、風天をかばって砕け散る男の子の姿が映る。
「雷地……という名だったわ」
 びくりと、風天の体が震えた。
 あのときの悲しい光景が脳裏を駆け巡る。
「思い出したわ、風天。私は、あのとき砕けてしまった雷地を復活させようとしたのよ」
「……過ぎ去ったことでございます」
 風天は沈んだ顔をして、目を伏せる。
 雷地の命はつながったのだという心当たりがあった。風天に、悲しい思いのままで過ごしてほしくない。
「雷地に、会いに行きましょう! 今の彼は現世にいるわ」
「……そうなのでございますか。しかし、わたくしは夜叉の城を長く離れることができません。それに会ったところで、どうなるというのでしょう」
 顔を強張らせた風天は拒絶を示した。
 けれど、どうしても“彼”に会ってもらいたい。
 困っていたとき、重厚な扉が開け放たれ、兄が現れる。
「一緒に行こうよ、風天。僕の“治癒の手”で回復させながらなら、二日くらいは現世で行動できるはずだ」
 肩にコマをとまらせた兄はシャツにジーンズという格好で、リュックを背負っている。まるでキャンプから帰宅するような気軽さだ。
「兄さん、現世に戻るの?」