私は、春馬を心から許していないのかしら……。
それとも夜叉姫の私を誰も愛するはずがないと、無意識に己の心を縛りつけているせいだろうか。
春馬の熱い体温に包まれて、瞼を閉じる。彼の手はずっと私の髪を愛しげに撫でさすっていた。
泣き濡れた私はやがて、眠りの淵に落ちていった。
翌朝、侍女に着替えを手伝ってもらい、小花柄の着物と羽織をまとう。昨夜の失態を思い返すと落ち込んでしまうが、来客があると聞いたので、気を取り直した私は客間へ向かった。
「おじいちゃん!」
「おお、凜。久しいな。大きくなった」
祖父である御嶽が椅子から立ち上がり、漆黒の着物を翻す。先代の夜叉は威風堂々としているけれど、孫の顔を見て相好を崩すのは相変わらずだ。
「花嫁らしく、美しくなった。息災でなによりだ」
「私は元気よ。――あの、コマが私のところに来たのだけれど……」
付き添っている春馬がそばで見ているが、兄が神世にいることを話してもよいだろうか。
表情を改めた祖父は、ためらいなく切り込む。
「コマはわたしのもとへも訪れた。どうやら悠は、祖母の死因を巡り、帝釈天の不興を買ったようだな。善見城に幽閉されているという噂がわたしの耳に入っている」
「幽閉⁉ 兄さんは神世の書庫にいると、手紙をくれたわ」
「詳しい真偽は不明だ。そこで凜に頼みたいのだが、悠を善見城から連れ出してもらいたい。もちろん、わたしも同行する」
「わかったわ。……兄さんは、おばあちゃんの死について帝釈天と話したいと望んでいたけれど、おばあちゃんは洞窟の事故で亡くなったのではなかったの?」
祖父は沈黙した。妻を失ったことに、彼は触れたくないのだと感じる。
それは、悲しみを振り返ることになるからだろうか。それとも……別の理由があるのか。
「おまえたちには帝釈天を問いつめる権利がある。だが、わたしとしては過去を蒸し返して事を荒立てたくはない。悠を暴走させぬよう、凜がとめるのだ」
私は自分の役目を承知して、頷いた。
その一方で、祖父は事故だと肯定できないのだと知る。
穏便に済ませたいという祖父の意向には賛成だが、波風が立つ要素があるというのだろうか。祖母の死について、帝釈天にどういった関係があるのか。
祖父は私の手をすくい上げると、春馬に顔を向けた。
「善見城へ行く。鳩槃荼は同行するか?」
「無論、付き添わせてもらう」
ふたりとともに、私は帝釈天の居城である善見城へ向かった。
運河を渡る舟に乗った一行は、やがて須弥山に辿り着く。
幼い頃に訪れたことのある善見城は、変わらない壮麗な姿を見せていた。
神世の書庫は善見城の内部にある。見たことはないけれど、子どものときに探検した兄が興奮して語っていたのを思い出した。
牛の頭を持つ兵士が守護する表門をくぐり、城内へ足を踏み入れる。
ところが重鎮らしき側近が朱塗りの柱の陰から現れ、行く手を阻んだ。
「みなさま、なに用でございましょう」
「帝釈天に話がある。わたしの孫の悠が、幽閉されているそうだな」
長い装束を身にまとった老齢の側近は目を細める。
「御嶽殿。その解釈には諸説ございます。帝釈天さまは夜叉の後継者を大変重宝されており、交流を図っていまして、そのためか近頃はお心が繊細になられまして……」
「結論を言え」
「鬼神さま方にお会いになることを、帝釈天さまは好みません。おふたりは控えの間でお待ちください。悠殿の妹君は、書庫へどうぞ」
私だけが謁見できるようだ。
祖父と春馬を振り返り、しっかりと頷く。ふたりはかすかな不満を浮かべていたが、側近の案内に従った。
いくつもの扉をくぐり、城の最深部へ向かう。
石造りの階段を下りると、一際古びた扉が現れる。まるで物置に通じるような、簡素な木の扉だ。これまでの重厚な装飾がついた扉とは、かけ離れていた。
まさか、ここに兄さんは閉じ込められているの……?
取っ手に鍵はついていない。見張り番も立っていなかった。
ごくりと息を呑み、扉を開ける。ギイ……と軋んだ音が辺りに鳴り響く。
室内から、独特の書物の匂いが流れてくる。どこか懐かしいような香りに誘われて、内部に足を踏み入れた。
その部屋は壁一面に書架が張り巡らされていた。窓はなく、そこかしこに灯火のあやかしが漂っている。まるで異界のごとく幻想的な光景だった。
「兄さん、いるの?」
それとも夜叉姫の私を誰も愛するはずがないと、無意識に己の心を縛りつけているせいだろうか。
春馬の熱い体温に包まれて、瞼を閉じる。彼の手はずっと私の髪を愛しげに撫でさすっていた。
泣き濡れた私はやがて、眠りの淵に落ちていった。
翌朝、侍女に着替えを手伝ってもらい、小花柄の着物と羽織をまとう。昨夜の失態を思い返すと落ち込んでしまうが、来客があると聞いたので、気を取り直した私は客間へ向かった。
「おじいちゃん!」
「おお、凜。久しいな。大きくなった」
祖父である御嶽が椅子から立ち上がり、漆黒の着物を翻す。先代の夜叉は威風堂々としているけれど、孫の顔を見て相好を崩すのは相変わらずだ。
「花嫁らしく、美しくなった。息災でなによりだ」
「私は元気よ。――あの、コマが私のところに来たのだけれど……」
付き添っている春馬がそばで見ているが、兄が神世にいることを話してもよいだろうか。
表情を改めた祖父は、ためらいなく切り込む。
「コマはわたしのもとへも訪れた。どうやら悠は、祖母の死因を巡り、帝釈天の不興を買ったようだな。善見城に幽閉されているという噂がわたしの耳に入っている」
「幽閉⁉ 兄さんは神世の書庫にいると、手紙をくれたわ」
「詳しい真偽は不明だ。そこで凜に頼みたいのだが、悠を善見城から連れ出してもらいたい。もちろん、わたしも同行する」
「わかったわ。……兄さんは、おばあちゃんの死について帝釈天と話したいと望んでいたけれど、おばあちゃんは洞窟の事故で亡くなったのではなかったの?」
祖父は沈黙した。妻を失ったことに、彼は触れたくないのだと感じる。
それは、悲しみを振り返ることになるからだろうか。それとも……別の理由があるのか。
「おまえたちには帝釈天を問いつめる権利がある。だが、わたしとしては過去を蒸し返して事を荒立てたくはない。悠を暴走させぬよう、凜がとめるのだ」
私は自分の役目を承知して、頷いた。
その一方で、祖父は事故だと肯定できないのだと知る。
穏便に済ませたいという祖父の意向には賛成だが、波風が立つ要素があるというのだろうか。祖母の死について、帝釈天にどういった関係があるのか。
祖父は私の手をすくい上げると、春馬に顔を向けた。
「善見城へ行く。鳩槃荼は同行するか?」
「無論、付き添わせてもらう」
ふたりとともに、私は帝釈天の居城である善見城へ向かった。
運河を渡る舟に乗った一行は、やがて須弥山に辿り着く。
幼い頃に訪れたことのある善見城は、変わらない壮麗な姿を見せていた。
神世の書庫は善見城の内部にある。見たことはないけれど、子どものときに探検した兄が興奮して語っていたのを思い出した。
牛の頭を持つ兵士が守護する表門をくぐり、城内へ足を踏み入れる。
ところが重鎮らしき側近が朱塗りの柱の陰から現れ、行く手を阻んだ。
「みなさま、なに用でございましょう」
「帝釈天に話がある。わたしの孫の悠が、幽閉されているそうだな」
長い装束を身にまとった老齢の側近は目を細める。
「御嶽殿。その解釈には諸説ございます。帝釈天さまは夜叉の後継者を大変重宝されており、交流を図っていまして、そのためか近頃はお心が繊細になられまして……」
「結論を言え」
「鬼神さま方にお会いになることを、帝釈天さまは好みません。おふたりは控えの間でお待ちください。悠殿の妹君は、書庫へどうぞ」
私だけが謁見できるようだ。
祖父と春馬を振り返り、しっかりと頷く。ふたりはかすかな不満を浮かべていたが、側近の案内に従った。
いくつもの扉をくぐり、城の最深部へ向かう。
石造りの階段を下りると、一際古びた扉が現れる。まるで物置に通じるような、簡素な木の扉だ。これまでの重厚な装飾がついた扉とは、かけ離れていた。
まさか、ここに兄さんは閉じ込められているの……?
取っ手に鍵はついていない。見張り番も立っていなかった。
ごくりと息を呑み、扉を開ける。ギイ……と軋んだ音が辺りに鳴り響く。
室内から、独特の書物の匂いが流れてくる。どこか懐かしいような香りに誘われて、内部に足を踏み入れた。
その部屋は壁一面に書架が張り巡らされていた。窓はなく、そこかしこに灯火のあやかしが漂っている。まるで異界のごとく幻想的な光景だった。
「兄さん、いるの?」