年齢にそぐわず若々しい母は、目を瞬かせる。すいと彼女の視界に、春馬が姿を見せた。
「久しいな、母君」
「……え。あっ、あなたは、く、くば……!」
慌てている母を守るかのように、険しい顔をした父が割り込んだ。
会社帰りなので漆黒のスーツを着込み、黒目に見える特殊な眼鏡を装着しているが、夜叉の威厳がにじみ出ている。
「鳩槃荼。なにか用か」
「約束通り、俺の花嫁をもらい受けに来たのだ。独断で連れ去っては夜叉の怒りを買うかと思ったゆえ、念のため許可を取らせてもらう」
春馬の言葉に父は双眸を細め、母は息を呑んだ。
ふたりとも、いつかこの日が訪れることをわかっていたようだった。
「座れ。話をしよう」
「承知」
父に促された春馬は、四人掛けのダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。
向かい合わせに座ったふたりは、鋭い視線を交わした。
緊迫した空気に、ごくりと息を呑む。
私の腕に縋りついた母は、ことさら明るい声を出した。
「そうだ。お茶を淹れましょうね」
「茶など出さなくていい。あかりと凜も、座りたまえ」
鬼のひと声に、母と私は目を合わせて互いに頷いた。こうなると父は譲らない。
父の隣は母の席なので、私は春馬の隣に腰を下ろす。
さて、と父は口を開いた。
「二十年前に帝釈天と御嶽が取り交わした協定についてだが、確かに互いの陣営の和平のために、当時胎児だった凜を鳩槃荼の花嫁にするとした」
「その通り。俺は夜叉姫を手元で育てたいというそちらの意向を呑み、今日まで婚姻を引き延ばしていたのだ。あれから二十年が経ち、凜は成人した。花嫁を迎える準備は整っている」
「貴様が凜をさらわなかったのは褒めてやろう。だが政略結婚とはいえ、あくまでも凜の気持ちを大事にしたいということは初めから話していたはずだ。――そうだな、あかり」
確認された母は弾かれたように、肩を跳ねさせた。
「ええ……そうなんですけど、凜と鳩槃荼はこれまであまり顔を合わせる機会がなかったから、お互いのことをよく知りませんよね。それなのに気持ちを確認されても困ると思うんです」
母は心配そうな顔を私に向けた。いつも私の味方をしてくれる母が大好きだ。
けれど、純粋な人間である母には夜叉姫としての私の気持ちなんてわからないという諦めがあるのも事実だった。能力を期待されてそれに応えられないのは、人間以下の無能ではないかという悲嘆に苛まれる。そんな思いは両親だけでなく、誰にも理解できないに違いない。
その反発のためか、私は素直に両親に同調できず、口を噤む。
春馬は悠然として、ふたりに指摘した。
「夜叉と母君は、本人の気持ちを大事にするという盾を取って、約束を反故にしようというつもりではないか? 二十年間、神世は鬼衆協会にいっさいの口出しをしなかった。その利益を享受しておきながら、娘が嫌がるので結婚はなかったことにという結末に誘導している気がするのだが」
「そんなつもりはない! 貴様こそ仮定の話を、さも俺たちの考えのように誘導するな」
父は即座に否定した。協定の内容には、鬼衆協会の存続を保護する約束などもあったのだ。
両親には信頼を置いているけれど、私の知らないところで政略の道具のように扱われていたのを知り、かすかな不満が込み上げる。
「私は……この結婚を嫌がってなんかいない」
そう述べると、テーブルに沈黙が下りた。両親は私の意見が意外だったのか、目を瞬かせている。
「凜はこのように言っている。俺の花嫁は豪気ゆえ、鬼神の妻になるのを臆したりはしない。俺が見込んだ通りだ」
春馬は私に微笑みを向けて、褒めそやした。
おだてに乗せられたわけではないけれど、結婚を嫌がっていないのは確かだった。
それは結婚が、私にとって縁遠いものだと知っていたから。
忌避される能力を持ち、友人さえできない私が、どうして結婚相手に恵まれるというのだろう。このまま過ごしていたら、一生恋愛も結婚もできないのだと思える。
幸せな結婚をしてみたいという願望はあるけれど、夜叉姫という私を受け入れてくれる人なんていないと諦めていた。
だけど、春馬は私を望んでくれる。
彼は真摯な双眸を向けて、夜叉姫である私を花嫁にしたいと明言した。
誰かに渇望されるなんて、そんなことは初めてで、私の人生にとって僥倖だった。
この縁を、終わりにしたくない――。
政略結婚という始まりではあるものの、この機会を逃したら、私は生涯独身だろう。それに、春馬の外見に惹かれただけではなく、彼の人となりに興味を持った。
「久しいな、母君」
「……え。あっ、あなたは、く、くば……!」
慌てている母を守るかのように、険しい顔をした父が割り込んだ。
会社帰りなので漆黒のスーツを着込み、黒目に見える特殊な眼鏡を装着しているが、夜叉の威厳がにじみ出ている。
「鳩槃荼。なにか用か」
「約束通り、俺の花嫁をもらい受けに来たのだ。独断で連れ去っては夜叉の怒りを買うかと思ったゆえ、念のため許可を取らせてもらう」
春馬の言葉に父は双眸を細め、母は息を呑んだ。
ふたりとも、いつかこの日が訪れることをわかっていたようだった。
「座れ。話をしよう」
「承知」
父に促された春馬は、四人掛けのダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。
向かい合わせに座ったふたりは、鋭い視線を交わした。
緊迫した空気に、ごくりと息を呑む。
私の腕に縋りついた母は、ことさら明るい声を出した。
「そうだ。お茶を淹れましょうね」
「茶など出さなくていい。あかりと凜も、座りたまえ」
鬼のひと声に、母と私は目を合わせて互いに頷いた。こうなると父は譲らない。
父の隣は母の席なので、私は春馬の隣に腰を下ろす。
さて、と父は口を開いた。
「二十年前に帝釈天と御嶽が取り交わした協定についてだが、確かに互いの陣営の和平のために、当時胎児だった凜を鳩槃荼の花嫁にするとした」
「その通り。俺は夜叉姫を手元で育てたいというそちらの意向を呑み、今日まで婚姻を引き延ばしていたのだ。あれから二十年が経ち、凜は成人した。花嫁を迎える準備は整っている」
「貴様が凜をさらわなかったのは褒めてやろう。だが政略結婚とはいえ、あくまでも凜の気持ちを大事にしたいということは初めから話していたはずだ。――そうだな、あかり」
確認された母は弾かれたように、肩を跳ねさせた。
「ええ……そうなんですけど、凜と鳩槃荼はこれまであまり顔を合わせる機会がなかったから、お互いのことをよく知りませんよね。それなのに気持ちを確認されても困ると思うんです」
母は心配そうな顔を私に向けた。いつも私の味方をしてくれる母が大好きだ。
けれど、純粋な人間である母には夜叉姫としての私の気持ちなんてわからないという諦めがあるのも事実だった。能力を期待されてそれに応えられないのは、人間以下の無能ではないかという悲嘆に苛まれる。そんな思いは両親だけでなく、誰にも理解できないに違いない。
その反発のためか、私は素直に両親に同調できず、口を噤む。
春馬は悠然として、ふたりに指摘した。
「夜叉と母君は、本人の気持ちを大事にするという盾を取って、約束を反故にしようというつもりではないか? 二十年間、神世は鬼衆協会にいっさいの口出しをしなかった。その利益を享受しておきながら、娘が嫌がるので結婚はなかったことにという結末に誘導している気がするのだが」
「そんなつもりはない! 貴様こそ仮定の話を、さも俺たちの考えのように誘導するな」
父は即座に否定した。協定の内容には、鬼衆協会の存続を保護する約束などもあったのだ。
両親には信頼を置いているけれど、私の知らないところで政略の道具のように扱われていたのを知り、かすかな不満が込み上げる。
「私は……この結婚を嫌がってなんかいない」
そう述べると、テーブルに沈黙が下りた。両親は私の意見が意外だったのか、目を瞬かせている。
「凜はこのように言っている。俺の花嫁は豪気ゆえ、鬼神の妻になるのを臆したりはしない。俺が見込んだ通りだ」
春馬は私に微笑みを向けて、褒めそやした。
おだてに乗せられたわけではないけれど、結婚を嫌がっていないのは確かだった。
それは結婚が、私にとって縁遠いものだと知っていたから。
忌避される能力を持ち、友人さえできない私が、どうして結婚相手に恵まれるというのだろう。このまま過ごしていたら、一生恋愛も結婚もできないのだと思える。
幸せな結婚をしてみたいという願望はあるけれど、夜叉姫という私を受け入れてくれる人なんていないと諦めていた。
だけど、春馬は私を望んでくれる。
彼は真摯な双眸を向けて、夜叉姫である私を花嫁にしたいと明言した。
誰かに渇望されるなんて、そんなことは初めてで、私の人生にとって僥倖だった。
この縁を、終わりにしたくない――。
政略結婚という始まりではあるものの、この機会を逃したら、私は生涯独身だろう。それに、春馬の外見に惹かれただけではなく、彼の人となりに興味を持った。