ふいに昼間の月を見上げる。
 勿忘草色の空に薄く浮かぶそれが下弦の月であることを知り、胸がざわめいた。
 けれど、どこか懐かしさをも覚える。
「鬼山凜さん! ちょっと、いいかな?」
 声をかけられ、はっとして窓辺の月から視線を剥がした。
 同じ講義を取っている女子学生が、笑顔で私を見ている。
 こんなことは稀だった。周囲から敬遠されている私に、友人と呼べる存在はいない。
 ぎくしゃくしながらも、声をかけられたことが嬉しくて、ぎこちない笑みを形作る。
「あ……な、なに。どうしたの?」
「経済学のノート、とってるよね。貸してくれない?」
 彼女は両手を合わせて頼み込む。レポート提出を求められたとき、真面目にノートを記していないと慌てることになるのは定石だ。
 私は鞄から経済学のノートを探り出した。
「どうぞ」
「次の講義が終わってから貸してほしいな。お昼を挟んで経済学でしょ」
「そ、そうね。じゃあ、綺麗な字で書き込んでおくから」
「あはは、よろしく。一緒に学食に行こうよ」
 彼女は楽しげに笑った。学友と話せることに昂揚した私は、ぱちぱちと睫毛を瞬かせる。
 ともに学食へと向かうため、私たちは連れ立って講義室を出た。
 大学の文学部に在籍して二年になる私は二十歳だ。入学してから、こんなに心浮き立つのは初めてかもしれない。
 もしかしたら、彼女と友達になれるかも……。
 淡い期待を抱いていると、彼女は気さくに話しかけてきた。
「鬼山さんって、わりとふつうの子なんだね。もっと冷たいのかと思ってた」
「そうなの? 冷たいなんて、そんなことないけど……」
 外見が酷薄に見えるのは自覚している。
 長い黒髪に、血を啜ったかのように赤い唇。肌が白いので、より色が鮮明に浮かび上がる。なによりも、瞳の奥に宿る紅い焔が異質だった。できるだけ人と目を合わせないようにしているが、この焔を指摘されたときには『父がハーフなの』と言ってごまかしている。
 だが、嘘ではない。
 私の父は、夜叉の鬼神なのである。
 両親と兄の四人家族という、どこにでもある一般的な家庭を、少し違うと感じたのは保育園の頃だった。
 うちの猫だけは人語をしゃべり、保育園に付き添うのだ。しかもそれは家族だけの秘密にしなければならない。
 それに父の実家も不思議な土地だった。
 神世と呼ばれるそこは動物の頭を持つ不思議な人々ばかりで、夜叉の居城は殿様の城みたい。鬼の角と牙を持つ祖父の屋敷に行ったこともあるし、帝釈天と名乗る金髪の男の子に会ったこともある。あの世界で私は『夜叉姫』と呼ばれた。
 やがて成長するに従い、鬼神とあやかしの世界を理解するようになった。鬼神の許嫁がいるとも両親から説明されたが、一度も会ったことがないので実感が湧かない。
 結婚なんて、まったく考えられなかった。
 夜叉の血族として生まれつき備わった特殊能力を受け入れることが、私はできていない。どうして自分で自分を認められないのに、ほかの人を認めることができるのだろう。
 子どものとき、何気なく能力を使ったら、驚いた母はひどく動揺した。そして私を抱きしめると、この能力を人前で見せてはいけないときつく言い聞かせたのである。
 忌むべき能力――。明るい人柄で“治癒の手”を使いこなす兄とは違う。そんな劣等感が根強く私の心を蝕んでいた。
 本棟を出ると、学食のある棟の間には花壇が連なっている。そこから、か細い声が聞こえた。
「もし。夜叉姫さま……」
 はっとして目を向けると、花壇の縁に小さなあやかしが佇んでいた。白い花弁を頭にのせた、花のあやかしだ。
 あやかしの姿は人間には見えない。だから彼らと話していると、独り言をしゃべっていると思われる。奇異な目で見られるので注意しなければならないと、それも子どもの頃から両親に言われていた。
 一緒に来た学友を見やると、彼女は扉の前で出くわした友人たちと楽しげに話し込んでいた。こちらに気づいた様子はない。
 私は花のあやかしに、小さく返事をする。
「どうしたの?」
「お願いです。わたしのつがいを生き返らせてください」
 つぶらな瞳で懸命に訴える花のあやかしのそばには、萎れた花があった。