胎児の凜が、まさかこの事態を理解したとは思えない。偶然かもしれない。けれど、彼女が返事をしたような気がした。
 政略結婚に対しての肯定なのか否定なのかは、わからないけれど。
 帝釈天は翡翠色の双眸を細めて私のお腹を見つめていたが、ふっと逸らした。
「よかろう。無理にそなたたちと引き離して禍根を残すと厄介かもしれぬ。夜叉姫の育成は、そなたたちに任せる」
「あ……ありがとうございます!」
 礼を述べるが、帝釈天は迷惑そうに手を振った。人間の私とは話したくないらしい。
 けれど、凜のことは夜叉姫として大切に扱ってくれるかもしれない。なにより凜のために椅子を用意してくれた。
 私は人間なので嫌われても仕方ないけれど、凜を同族として考えている帝釈天の見解に安心していた。
「わずか二十年ほどだ。我がひと眠りしている間に、夜叉姫は美しく成長しているであろう」
「この鳩槃荼に、万事お任せください」
 鳩槃荼は深く頭を垂れる。
 それに応えるかのように、帝釈天は寝椅子に体を横たえ、瞼を閉じた。金の睫毛も、黄金の髪の一筋も、微動だにしなくなる。
 まるで神が息を引き取ったと思ってしまいそうな静謐に沈んだ光景は、声をかけることもためらわれた。
 柊夜さんに手を取られたので、私は静かに椅子から腰を浮かせる。
 音もなく立ち上がった鳩槃荼が踵を返すと、白馬もあとに続いた。
 深い霧の中に帝釈天を残し、私たちは東屋を辞した。
 さらりと白馬に跨がった鳩槃荼が、ひとこと告げる。
「亡者の気配がするな」
 それだけ言うと馬首を巡らせ、善見城の門を疾風のごとく駆け抜けていった。
 彼の腰からなびいた朱の布が、鮮やかに目に焼きつく。
「……どういう意味でしょう?」
「わからない。だが鳩槃荼は、俺たちの意見を尊重した。つまり、この場で夜叉姫を無理やり奪うことはしないというのが、彼の意思だ」
 もし鳩槃荼が帝釈天の意見に同意したなら、出産するまで私を牢に閉じ込めておくという方法をとることも可能だった。そうせずに、凜を親元で育てることを勧めたということは、穏便に政略結婚を推し進める考えだと判断してよいだろうか。
「帝釈天を説得してくれましたね。凜を手元で育てられることになって、安心しました」
 ただ、この子が生まれたら、許嫁がいると伝えなければならないだろう。
 どのように話せばよいのか、今から頭を悩ませてしまう。
 柊夜さんに背を支えられ、私たちは運河に停泊していた舟に乗り込んだ。
 船頭が舟を漕ぐと、船体はゆっくり運河を航行していく。善見城を離れ、夜叉の居城に戻るために。
 隣に座って私の肩を抱いた柊夜さんは、深い溜息を吐いた。
「俺も家族で暮らせることに安堵したが……それも成人するまでだ。凜が大人になったら、なんと言い出すのか想像すると今から悩ましい」
「丸く収まるといいですけどね」
 ひとまず政略結婚は先延ばしにされた。鳩槃荼にも思うところがあるのかもしれない。いくら主である帝釈天の命令とはいえ、まだ生まれていない子を花嫁にするのは是非とも言いがたいだろう。
 子どもたちの将来についても不安が尽きないが、私は心に引っかかっていたことを口にする。
「柊夜さんのお母さんのことですけど……うやむやにされてしまいましたね。御嶽さまと意見の食い違いがありましたけど、真実はどうなのでしょう」
 帝釈天の苛立った様子を見ると、身に覚えがあるのではと勘繰ってしまう。だが、自白させるのは難しいだろう。
 柊夜さんは腕に力を込めて私の体を抱き寄せる。彼の逞しい胸に頭を預ける格好になり、頬が朱に染まったとき。
「あかり。きみはもう、神世に来るな」
 突然の台詞に瞠目する。
 なぜ、急にそんな話をするのだろう。
「え……どうしてですか?」
「母の死は悲しい出来事だった。だが、なぜ彼女が死に至ったかというと、人間だからだ。帝釈天は夜叉の血族は同胞として認めるが、人間の花嫁は認めないという見解を持っている。それが先ほどの謁見でよくわかった。だからこそ、あかりはもう神世を訪れるべきではない。今回は夜叉姫を宿しているから無事で済んだが、凜を出産したら、危険な目に遭うかもしれない」
 切々と訴える柊夜さんの声を聞いているうちに、私の心は冷たい水で満たされるような心地がした。それはどこか切なくて、寂しいものだった。
 柊夜さんと御嶽さまは、もはや犯人を追及するのではなく、その先を見据えているのだ。すべては家族のために。