「はい」
 柊夜さんの大きなてのひらに自らの手を重ね合わせる。冷たい夜叉の手に、しっかりと握られた。彼はもう片方の手を、私の腰に添える。体勢を崩しても、いつでも抱き留められるように。
 慎重に榻を踏み、牛車から降りる。お腹が大きいので、夜叉の旦那さまの過保護さにも磨きがかかる。もう、すっかり慣れたけれど。
 と思いきや、柊夜さんは執念深い本性を遠慮なく発揮する。
「ここから屋敷に入り、席に座るまで、きみは俺の手を離してはならない。いや、俺が離さない」
「自己完結してますね。悠はまだ足取りが覚束ないですから、初めてのお屋敷で転ぶこともあるかもしれないので、抱っこしていいですか?」
「できるだけ悠の足で歩かせよう。子どもは成長の途上で転んでもいい。だが、妊娠しているきみが転んだら一大事だ」
「はいはい。わかりました」
 過保護すぎるのではないかと思うが、こうなると抵抗するだけ無駄なので、さっさと了承して長い話を打ち切ったほうがよいと身をもって知っている。
 ところが私の夜叉は不服そうに片眉を跳ね上げた。
「事の重大性をわかっていないようだな。御嶽の目を見るんじゃないぞ。やつは他者を容易に操ることができる」
「わかりましたってば。柊夜さん、屋敷に入りましょう。悠とコマが先に行ってしまいましたよ」
 話しているうちに、肩にコマをとまらせた悠は小さな足で、とてとてと屋敷の玄関に向かっていった。
 つながれた柊夜さんの手を引くと、表情を引きしめた彼は歩を進める。
 眼前に広がる壮麗な屋敷はまるで平安貴族が住むような趣があった。すでに扉は開け放たれ、玄関口には狐面の侍女が佇んでいる。
「ようこそいらっしゃいました。御嶽さまがお待ちでございます」
「う」
 慇懃に頭を下げる侍女に挨拶した悠は、堂々と屋内へ入っていく。我が子ながら剛胆だ。
 磨き抜かれた廊下を進んでいくと、広間のようなところへ着いた。
 精緻な造りの高い天井を見上げた私は視線を下げ、人影を目にする。
 一瞬、そこに佇んでいるのは和装の人形かと錯覚する。あまりにも浮き世離れした見かけで、気配を感じさせなかったから。
 漆黒の髪から生える獰猛な鬼の角と真紅の双眸に、彼が何者であるのか察する。
「よく来たな、柊夜。そして……人間の花嫁よ」
 濡れ羽色の着物の袂を翻した男性は、重厚な低音でそう言った。
 彼こそ先代の夜叉であり、柊夜さんの父親である御嶽さまだ。
 柊夜さんとよく似た顔立ちの御嶽さまに親近感を覚える反面、彼が醸し出す冷徹なオーラに圧倒される。まさに夜叉の鬼神という威圧がにじみ出ていた。
 柊夜さんの言いつけ通り、御嶽さまの目を直視せず、頭を下げて挨拶する。
「は、初めまして、御嶽さま。あかりと申します」
「うむ。次の子を孕んでいるのだな。娘のはずだが、名は?」
 なぜ娘とすでに確信があるのか不思議に思ったが、ヤシャネコが報告しているのかもしれない。
「“凜”と名づけています。……そして、この子は悠です」
 身をかがめ、私の足元にいる悠の背に触れて紹介する。
 御嶽さまは真紅の双眸を悠に向けた。
「ほう。この童がな……。鬼神の気迫は薄いが、神気は高い」
 ぱちりと瞬きをした悠は御嶽さまを見上げている。震え上がったコマは、悠の襟元に顔を隠した。
 初孫の顔を見た祖父は喜ぶものという先入観があったけれど、そのような雰囲気ではない。悠が夜叉の後継者として相応しい能力の持ち主か、御嶽さまは探っているのだと感じた。
 柊夜さんは険しい顔つきで御嶽さまに告げる。
「まだ一歳半だが、特殊な“治癒の手”を持っている。触れたものを回復できるという、従来の鬼神にはなかった稀有な能力だ。つまり次代の夜叉としての資格は充分にある」
「そうかな? ――おい、小童。わたしの手に触れてみよ」
 巨躯の御嶽さまが笑うと、口端から凶暴な鬼の牙が覗いた。
 からかうように差し出された大きなてのひらを、悠は驚いた顔をして見つめる。
 もしかして、悠が泣き出したりしたら、後継者として認めてもらえないかもしれない。
 憂慮した私は、そっと悠に伝えた。
「悠、おじいちゃんと握手して」
 その声に振り向いた悠は、私と御嶽さまの顔を交互に見やる。
「じぃじ?」
「そう。悠の、じぃじよ」