牛車の物見から外を眺めた私は、そこに広がる風光明媚な景色に感嘆の息をこぼす。
 若草色に包まれている木立の隙間を縫って陽の光が射し込み、川のせせらぎと鳥のさえずりが響いている。
 現世の喧噪と、かけ離れた静かな情景だ。
 私の膝に座っていた悠は、ひょいと物見に顔を出す。なにかを発見したのか、目を輝かせながら、鳥の鳴き声がする木立を指差した。
「ぴぴ」
「鳥がいたの? コマの友達ね」
 悠の肩にとまっていたコマは「ピ?」と鳴いて、頭をかしげる。
 ヤシャネコにも一緒に来てほしかったけれど、柊夜さんは留守番を命じたのだった。
 牛が引いている牛車なので、速度はとてもゆるやかだ。
 私たち一家は神世の郊外の景色を存分に楽しんだ。
 ところが隣の柊夜さんは、どこか緊張した空気をまとわせている。
 それも無理もないかもしれない。
 現世から闇の路を通り、神世の郊外へやってきた目的は、柊夜さんの父親に会うためなのだ。柊夜さんは普段着の白シャツにスラックスだけれど、私は牡丹が描かれた着物柄のマタニティワンピースをまとい、悠は襟付きのポロシャツを着て少々お洒落をしている。
 先代の夜叉である御嶽(おんたけ)から、私たち一家を屋敷に招待するという報せを受けたときには胸を弾ませた。おじいちゃんに孫の顔を見せてあげられるのだから。
 けれど柊夜さんは、呼び出しにはなにか目的があるのではないかと訝っているようだ。
 彼ら父子の間には軋轢が横たわっている。それは柊夜さんの母親が亡くなったことを巡る因縁から始まっているのだ。私は当時の状況を柊夜さんから聞いただけなのだが、お母さんは我が子を守ろうとして不運にも命を落としたのだと思えた。赤子だった柊夜さんには、どうすることもできなかったはず。
 屋敷を訪ねたら、そのことが蒸し返されるのではないかという懸念はあった。柊夜さんも、それを恐れているのかもしれない。
 私は柊夜さんの胸の底にわだかまっているであろう澱を薄めるべく、明るい声をかけた。
「村があるところでは畑を耕しているあやかしたちがいましたけど、この辺りの道は誰も通りませんね」
「ここはすでに屋敷の庭だからな」
「えっ……この森が、庭ですか……」
 さすが先代の夜叉だけあって、とてつもない広大な敷地を所有している。
 私は初めて御嶽さまに会うのだけれど、どんな人物なのだろう。招待されたからには、追い返されることはないと思いたいけれど。
 せめて悠に『おじいちゃんだよ』と言ってあげたかった。
 どきどきと脈打つ鼓動は緊張を訴えている。胸に手を当てていると、柊夜さんは私の想いを汲んだかのように、気遣わしげな視線を向けてきた。
「心配ない。御嶽になんらかの策略があったとしても、俺はきみと子どもたちを必ず守る」
「策略だなんて……柊夜さんこそ、心配しないでください。お父さんは初孫に会いたいんですよ。そうでなければ、一家で来るようになんて言わないです」
「……俺は御嶽をよく知っているが、そんな温かみのある理由ではないはずだ。だが訪問するからには、悠が夜叉を継承する権利を有していることを認めさせる」
 硬い表情で語る柊夜さんは、ひどく警戒している。
 膝に抱いた悠はまだなにも知らず、無垢な笑みを見せて私のお腹に耳を寄せた。
「こぽこぽ」
「悠。“こぽこぽ”っていう、お腹の音が聞こえる?」
「ん」
 羊水が巡る音だろう。“ママのお腹に妹がいるよ”と教えているから、時折こうしてお腹の音を聞こうとするのだ。
「胎動が訪れないときは心配したが、順調でよかった」
「お騒がせしました……。最近はすごく動くので困るほどです」
 妊娠後期である三十週を迎え、八か月になったので、かなりお腹が大きくなった。
 あと二か月ほどで、凜は生まれてくる。
 微笑みを浮かべた柊夜さんは、私の肩を抱き寄せた。

 やがて牛車は門をくぐり、屋敷の前で車輪をとめた。車副(くるまぞい)(くびき)を外すと、車体が前へ傾けられる。するすると、前簾が巻き上げられた。
 乗り込んだのは後ろからだけれど、降りるのは前からが牛車の作法なのだそう。
 先に(しじ)を踏んで降りた柊夜さんは、ひょいと悠の胴を持ち上げて地面に下ろす。そうしてから彼は、私へ向けて手を差し出した。
「あかり。手を」