「あ。思い出した」

スカイがポツリと呟く。
その声は、静まり返っていた裏庭に小さく響いた。
「俺、小さい頃この花で幻惑にかかったことがあったんだけどさ、あの時、確か母さんが……」
「らしいわね」
突如割って入ったデュナの声に、スカイが慌てて私の手を離す。
「もう、何でそういう大事なことを――」
スカイへ詰め寄りそうな勢いのデュナを、フローラさんがそっと止める。
「今はフォルテちゃんを……ね」
「そうね。母さんお願い」
デュナが脇へ避けると、フローラさんが私の隣、フォルテの頭側に膝を付いた。

ああ、そうか。
神官の扱う術の中には、幻惑を退けるような物もある。
しかし、幻惑という状態に陥ることが珍しいことから需要はほとんどない上に、確か……高度な術だったはずだ。
神に正式に仕えて修行を積んだ、神官でないと扱えないような類の。
この小さな村には教会もなく、神官も居ない。
用事の場合は、一時間で着く隣村カッシアの教会へ向かうようになっていた。

フローラさんは元聖職者だと聞いていたが、まさか神官の域だったのか……。
術の邪魔にならないよう、フォルテの真横から、足の方へじりじりと移動する。
私の手は、まだフォルテの両手にしっかりと握り返されていた。

つらつらと小さな声で祝詞を唱えていたフローラさんが、クキュっという変な音を立てて固まった。
「うぅ……舌噛んじゃった……」
涙を浮かべて、こちらを振り返るフローラさん。
プルプルと震えるその姿は、ええと、まるで生まれたての子鹿のような……。
「ラズ、あんま必死で返事考えなくていいぞ」
スカイが助言する。
「もう一度やるわね~」
フローラさんは、目の端に涙を浮かべたままふんわりと微笑むとフォルテに手をかざしなおし、祝詞をまた最初から唱え始める。
フローラさんはあまり早口な方ではない。というよりも、相当のんびりと話す人だ。
その口からスローペースに紡がれる神への祈りの言葉、……が……今、ループしたような?
「あら~? ごめんなさい、間違えちゃったわ……」
ぺろっと舌を出して困った顔で微笑むと、「もう一回……」と祝詞を唱え始めるフローラさん。

そんなやりとりを5回ほど繰り返した後、フローラさんは「メモを持ってくるわね~」と、パタパタ家へ駆け戻って行った。
フォルテは、相変わらずぼんやりと開けた目から涙を零し続けていた。
スカイがその目をそっと覆うと、フォルテは大人しく目を閉じる。

ちらと背後を振り返ると、デュナが腕を組み片足に体重をかけたような崩した姿勢で見下ろしていた。
「あの、さ、デュナ、フローラさんって神官だったの?」
こう言っては申し訳無いが、正直意外だった。

私の問いに、デュナがほんの一瞬だけきょとんとした顔をする。

いや、フローラさんの夫であるクロスさんが最上位職である聖騎士なのだから
そのクロスさんと同じパーティーだったフローラさんが一次職であるという方が
バランスからしておかしいわけだが。
なぜだか、フローラさんならそれもありそうな気がしていた。

「いいえ、母さんは昇級試験に通ったことが無いのよ。だから、今もクラスとしては聖職者ね」
肩を竦めてデュナが答える。
「そ……そうなんだ……」
「何せ、成功率がこれじゃあね……」
小さくため息をつくようなデュナの呟き。
それにはとても同意したかったが、フローラさんに失礼なことは出来ない。と堪えていると、パタパタと足音をさせながら、フローラさんがボロボロになった手帳を手に戻ってきた。
「ただいまぁ~」
にっこり微笑みかけられて、思わず「おかえりなさい」と返事をする。
家の裏庭で、この会話はどうなんだろうか。
「お待たせしちゃったわね。今度こそ大丈夫よ~」
うきうきとページをめくり、くたびれた手帳を膝の上に置くと
フローラさんはまた祝詞を唱え始めた。

祝詞は書き写し厳禁だ。表向きには。
実際のところは、書き写してはいけないというよりも、書き写せない。
文字にすることでも、口にする場合と同じように、祝詞が神様に認められてしまうようで、その文字達が意味を成した時点で昇華してしまうのだ。

旅に出る前、咄嗟に間違わないようにとメモを作って行こうとしたがダメだった。

フローラさんの膝の上に開かれた手帳を覗き見る。
そこには、ちまっとした丸い字で、何か物語のような物が書かれていた。
メモをするための手段としては、全く関係の無い物に関連付けるか、祝詞を分解して並べ替えたり、他の文章中に混ぜ込むかだろう。

どちらにせよ、神様に気付かれないよう祝詞を書き取るという行為が、神様に対して失礼だというのが神官達の考えだった……はずだが。

目の前で、現役を退いたとは言え聖職者が、メモを片手に難解な祝詞と戦っていた。

いや、手帳のくたびれ具合からして、フローラさんは冒険に出ていた頃からそのメモを手にしていたのだろうけれど……。

そんなことは、今の私にとって些細なことだった。