分厚いガラスが張られたテラスの戸に手をかける。
鍵はかかっておらず、扉は思いのほか軽い力で開いた。
外は既に日が傾き始めて、町がじんわりとオレンジ色に染まっている。
少し冷たい澄んだ空気が火照った顔に当たるのが、とても気持ちよかった。

このテラスは、二階の入り口から三つ階段を上ったところ、地上から言えば五階に位置していた。
数階建ての小さな学校が寄り集まっているザラッカの町並みは、まるでミニチュアの可愛いお城が並んでいるようにも見える。
その、ひとつひとつの建物には、今この瞬間も研究に夢中になっている、デュナのような人達がいるのだろう。

空は見る間に夕焼けへと姿を変えてゆく。

……昨日見た夕日も、大きかったなぁ……。

昨日の今頃は、フォルテに帰る場所が無いなんて、思ってもいなくて。
真っ赤に燃える太陽を、ただ綺麗だと眺めていたのに。
今は、なんだか、揺れる陽の色が怖かった。

忍び寄る夜の空気に肌を刺されて、思わず自分の両肩を抱き寄せる。
涙はいつの間にかすっかり乾いて、肌はひんやりと冷たくなっていた。

キィと小さく扉の音がする。
先ほど私が開いて閉じた、テラスの扉の音だ。
「なんだ、ラズこんなとこに居たのか」
スカイの声だ。
私は、なんとなく振り返れずに、逃げ出したい気持ちをぐっとこらえてスカイが近付いてくるのに耐える。
大丈夫だ。もう涙は乾いているし、顔も赤くないだろうし、笑顔だってきっと作れる。
デュナのイニシャルが刺繍されたハンカチは、マントの内ポケットに仕舞いこんだ。
「おおーっ。いい眺めだなーっ!!」
私の隣まで来たスカイは、石で作られた手すりに手をかけると、そのまま飛び出さんばかりの勢いで町並みを見渡した。
「あんまり乗り出したら危ないよ」
「あはは、そうだな」
無邪気に笑ったスカイが、トンと隣に着地する。
私と視線が合った途端、スカイの表情が強張った。

「ラズ……お前、何か……」
私の瞳を、スカイのラベンダー色の双眸が覗き込んでいる。
視線を逸らさなきゃ……。
全てが見透かされてしまいそうな焦燥感がじわりと湧き上がる。

「ラズー、やっほー」
遠くから、フォルテの声がする。
少し風に消されてしまったようなその声は、テラスの斜め下の方から聞こえてきた気がして、そちらに目線をやる。
二つ下の階にあるテラスに、フォルテとデュナの姿があった。
ぶんぶんと手を振るフォルテに、慌てて手を振り返す。
フォルテの後ろでは、デュナが少し申し訳無さそうに、肩を竦めていた。

もう、離れてそんなに経っていたのか……。
フォルテは、長時間私の姿が見えないと、必ず私を探しに来るところがある。
柔らかな西日が夕焼けになる程だ。
本に夢中だったとは言え、流石に不安になってしまったのだろう。

基本的に、そういう時は、私の姿さえ確認すれば安心してくれるので、デュナは私がまだテラスにいることに賭けて、フォルテを傍のテラスに出してくれたようだ。
直接会わないで済むよう気遣ってくれた彼女に感謝する。
図書館の天井は高く、二階下と言っても表情がハッキリ見えないほどには離れていた。

こうやって、私の名前を繰り返しては、不安そうに探しに来るフォルテを、親離れできない子供のようで可愛らしいなどと思っていた自分を猛烈に責める。

あの子は、記憶にこそ無いけれど、何かを失ってしまった事は分かっていて、それで私を探すんだ。
ふいに、記憶を無くしてしまったように。
フォルテにとっての私達は、またふいに消えてしまうかもしれない存在なのだろう。
その可能性は、私にも否定できない。
冒険者だなんて、いつ死ぬかも分からない稼業をやっていればなおさらだ。

笑顔で手を振るフォルテを見る。
どうしてあの子が、私にこんなに懐いているのかなんて、分かりきっていることだった。
あの子を拾ったのが私達で、あの子の面倒を見ているのが私だからだ。
フォルテには他に頼れる人が、本当に、誰も居ない。
この広い世界で、フォルテの中には私達の存在しかないのだ。
私に向けられるこの信頼は、いわゆる刷り込みのような物なのだろう。
フォルテの笑顔を、私はどうしようもなく悲しい気持ちで見つめていた。

ひとしきり手を振って満足したのか、フォルテはデュナに背を押されながら中に入ってゆく。
それを見届けてから、何気なく振り返ると、強い眼差しでこちらを射抜いているスカイがいた。

「……なんだよ……それ……」

私を見つめるスカイの真っ直ぐな瞳が、じわり。と揺らいだ。
な、な、なんだろう……。何か今、私はまずい事をしただろうか……?

「どうして、フォルテをそんな顔で見るんだ?」

あー……。えーと。
おそらく、さっきフォルテに向けていたつもりの笑顔は、スカイから見て、とても笑顔には見えなかったということか。
……フォルテに伝わっていないといいけれど……。

感情が顔に出やすい自分にうんざりしつつ、どうしても逸らせそうに無いスカイの視線を受けて、仕方なく見返した。
少し怒ったような口調とは裏腹に、彼は今にも泣き出しそうな顔に見えた。
感情の顔に出やすさで言えば、スカイも同じような物かもしれない。
シーフとしてそれでいいのか、少し疑問が残るが、詐欺師ではないわけだし、問題無いという事にしよう。
黙ったままの私に、再度スカイが口を開いた。

「……何か、あったのか? いや……あったんだろ……?」

断定されてしまった。
言い逃れる事も出来そうにない雰囲気に、詰めていた息をゆっくり吐き出すと、私は、さっき見た記事の内容を思い浮かべる。
どこから話そうか。

「ええと……。さっきね、一年位前の新聞を、偶然見かけちゃって……」

あれ。

スカイの顔色が変わった。
さっと血の気がひいたその顔を地面に向けながら、彼は何か苦いものを無理矢理飲み込もうとしているようだった。
えーと……。
もしかしなくても、これは、知っていたという事か。
つまり、三人のうちで知らなかったのは、私だけだったという事……か……。

「……なんだ、スカイも知ってたんだ」
自分の声が、思ったよりもずっと冷たい響きで聞こえる。
「っ……」
私の言葉にスカイがたじろいだのが、ハッキリ分かった。
別に、責めたつもりではなかったのだけれど、そう取れたのかもしれない。
掠れそうな声を、絞り出すようにして、ぽつり、ぽつりとスカイが言葉を零す。