「シェルカ!」
虫嫌いのシェルカは、蜂の姿に完全に怯えて立ちすくんでいる。
蜂は、そんなシェルカに敵意をむき出しにして襲いかかった。

「伏せろ!」
掠れた声で叫ぶも、シェルカは動けない。
必死で走って、シェルカに覆い被さるようにした瞬間、脇腹から背までをざっくりと熱い感触が走った。

「――ゔぁっっ!!」

「ヨーへーっ!!」
シェルカの声は涙に濡れている。
「シェルカ……。巣まで……、戻れるか……?」
俺はなるべく優しい顔を作って言った。
こんな時、こっちがパニックになっては子どもまで動揺する。
怪我の時こそ平静に。だ。
シェルカは目にいっぱい涙を溜めて、どうしたらいいのかわからない顔をしている。
ライゴに連れて帰ってもらおうにも、ライゴも蜂が怖いのか近くまで来れずにいる。
「俺と……、一緒に、走るぞ、いいな?」
引き裂かれた背中が痛くて、何度も息が詰まる。
俺が走れるかどうかは分からなかったが、一人で行けと言って頷くような子ではない事は分かっていた。
シェルカが涙を溜めたまま頷く。

「パチが……」
震えるようなライゴの声。その指が俺たちの後ろを指している。
ってか『パチ』かよ、こんな凶悪なナリして可愛いな!!
けれど振り返った風景には可愛さのかけらもなかった。

いつの間にやら、巣からぞろぞろと出てきた蜂……いやパチが空一面に広がっている。
一匹のパチがその前で合図するようにくるりと回ると、それらは一斉に襲ってきた。
「くそっ、シェルカ! 俺の下から出てくんなよ!」
俺は、シェルカを守るようにその上に覆い被さった。

俺の体ひとつで、シェルカを守り切れるだろうか。
そんな不安を噛みつぶしながら息を詰めた時、空に轟音が響き渡る。

バリバリと響くそれは、いくつもの稲妻が一斉に降ってきたかのようだった。

次いで、ぼとぼとと周囲に何かが落下する音。
こんがりと焦げ臭いような、どこかいい匂いなような、そんな匂いにつられるようにして俺はじわりと顔を上げた。

「……これは、どう言うことだ……」

ザルイルの強ばったような声。
ああ、そうか、あの結界を破ったから、駆けつけてくれた……のか……。

ホッとした途端、俺の意識は暗闇へと沈んだ。

***

歌が聞こえる……。
幼い声が、それでも丁寧に、旋律を奏でている。

ああ、いいな。
子どもの歌声は……。

目を開けば、ライゴの声がした。
「あっ、ヨーへー起きたよっ!」

なんだ……、まだ俺は、元の世界には戻れてないんだな……。

ぼんやりした頭がじわりと覚醒してくる。
っ、そうだ! リーバちゃん!!
ガバっと体を起こせば、その全身が痛んだ。
「――っっっ、て、ぇ……っっ」
息を詰める俺に、ザルイルの声が優しく降り注ぐ。
「ヨウヘイ、まだ休んでいてくれ。話はライゴとシェルカから聞いた。シェルカを守ってくれてありがとう……」
いや、元はと言えば、俺の不用意な発言のせいで……。
しかし、俺の掠れた喉からは、ろくに声が出なかった。
「リーバちゃん……は……」
なんとかそれだけを尋ねると、ザルイルが視線で答える。
視線をたどった先には、シェルカの膝の上ですやすやと眠るリーバちゃんがいた。
……よかったぁ……。
そっか。シェルカが俺の代わりにリーバちゃんに歌を歌ってくれてたのか。
「シェルカにも、ライゴにも、怪我はありませんでしたか?」
掠れる声で必死で尋ねれば、ザルイルは俺をまっすぐ見て頷いた。
「ああ。ヨウヘイのおかげだ」
ホッとして布団に戻る。と背中が痛い。ものすごい痛い。
声にならない叫びをあげてもんどりを打っていると、めちゃくちゃ大きな何かの気配が近づいた。
これはあれだ。リーバちゃんのママだな。
「リリア、よかった、来てくれて」
言うなり飛び立つザルイルの言葉に、リーバちゃんのママさんの名前を初めて知る。
「そりゃ来るわよー。子ども預けてるんだからぁ」
「ヨウヘイの怪我を、治してやってくれ」
リリアさんの言葉にかぶせるようにして、ザルイルが言う。
「あらあら、あなたにしては焦ってるわね。珍しいじゃない」
からかうように言われてもザルイルは真剣な声で答えた。
「ヨウヘイがどの程度で死ぬのかよく分からない」
なるほど……。俺からは落ち着いてるように見えていたけれど、ザルイルは俺がいつ死ぬかとヒヤヒヤしてたのか。
「ヨーへー死んじゃうのっ!?」
ライゴが悲痛な声で聞き返す。
「――っ!」
シェルカも息を呑んで顔色を変える。
途端に、寝ていたはずのリーバちゃんまでがふにゃふにゃと泣き出す。
「死なないわよぅ。私がすぐ直してあげるからねぇ」
リリアさんが不安げな皆を宥めるように苦笑した。

何か細長いものが上から俺の真上に下がってくる。
そこからぼとりと垂れてきた大きな水滴が俺の全身を一瞬で覆う。
ぅえっ!? 息が……っ!?
「息はできるわよー」
水の膜越しにリリアさんの声が聞こえて、俺は恐る恐る息を吸う。
……ほんとだ。
むしろ、息を吸った途端、その水を吸い込んだ途端、喉の痛みがぴたりと止まった。

ことの次第を聞いたリリアさんは
「あらぁ、じゃあ皆、うちのリーバのために頑張ってくれたのぉ?」
といたく感動して、俺を治してくれた水を樽にいっぱい置いてってくれた。
……まあ、リーバちゃんのためと言えば、そう言えなくもないか……?

喉が痛くなったら、それをコップに汲んで飲めばすぐ治るとのことだった。
俺の身体中の怪我も、今はすっかり治っている。
うーん。異世界すごいな。

ザルイルは、背中の怪我以外の俺の全身の怪我が結界を破った時のものだと知って、ひどく反省していたようだった。
これからは、ライゴやシェルカと同じように自由に出入りができるようにしておくと言ってくれた。

……でも、外にあんな生き物がうじゃうじゃいるとしたら、あんま出たくはないな……。

今日は頑張ってくれたからか、ライゴもシェルカも早く寝てしまった。
寝かしつけから戻って食器を洗っていると、台所へザルイルがやってきた。
……いや、ザルイルさん。俺の後ろでずっと黙ってるんだが、なんだろうなぁ……。
やっぱり、今日のことでお叱りがあるんだろうか。

じわりと嫌な汗を浮かべてザルイルの言葉を待っていると、ザルイルが重い口を開いた。
「ヨウヘイが、良き者だと言うのは分かっている……。私が頼めば、嫌だと言えない立場である事も、分かっている……。それでも、頼み事をしてしまう私は、卑怯者だろうか……」

な、なんだなんだ?
俺は、思ってたのと全然違う方向に思い詰めているらしいザルイルを、怪訝に振り返った。

ザルイルは最近、家にいる間はずっと俺に体の大きさを分けてくれている。
そのおかげで、炊事も洗濯も、風呂も、苦労せずにできるようになった。

そんなわけで、振り返れば、ザルイルの目は俺とそう変わらない高さにあった。
数だけは俺よりずっと多いが。

「ザルイルさん……? 頼み事ってなんですか?」
俺は真っ直ぐ尋ねる。聞いてみないことには分からないが、なんにせよ、ザルイルがそんなに思い詰めてしまうほど、断れない頼みってことなんだろうしな。

「その……会社の後輩が、出張に行く間……、子を預かって欲しいらしい」
「はあ……。どのくらいの期間ですか?」
「期間は三日だ……が……」
が……?
ザルイルは深く深く溜息をつく。
「その子は、気性の荒い……、トラコン種なんだ……」
虎、コン……??
あ、これあれだろ。
濁点つけたりするやつ――…………って、まさか、……??
ド……ドラゴン、だったり、する、のか……!?

「ヨウヘイや、子ども達が食べられるのではと思うと、中々言い出せなくてな……」
「食べられる!?」
「ああ、彼らは肉食だからな」
「そう言う問題ですか!?」
「怒らせない限りは、殺されるほどのことにはならないと思うのだが、それでもリスクは十分にある……」
ひえええ、いや、流石にそれは、断りたいな。
俺はともかくとしても、可愛いライゴやシェルカ、リーバちゃんまで危険にさらしたくはない。
俺が言葉に迷っていると、ザルイルが目を伏せた。
「そうだろうな。……私も、それが良いと思う」
諦めたように背を向けて台所を後にしようとするザルイルに、俺はふと違和感を感じる。
いつもライゴとシェルカの事を大切にしているザルイルが、こんなことわざわざ悩むだろうか。
「もし、俺が引き受けなかったら、その子はどうなるんですか?」
俺が尋ねれば、ザルイルの肩が小さく跳ねた。
「……その子は、保育園に通っているので、園に預けられる」
ん……? それなら別に、俺が預かる必要はないんじゃないか?
ホッとした俺に、ザルイルの言葉が続いた。
「ただ……夜から朝までの間は、寝かされて檻に入れられる」
……なるほど。そう言うことか。
寝かせて、ではなく寝かされて、という言い方も、引っかかるな。
ザルイルは、その子がそんな目に遭うのが不憫なんだろう。
それで、自分の子達を危険に晒すと分かっていても、俺に声をかけたと言うところか。

この人……っていいのか分からないが、ザルイルは、クールそうに見えて、結構人情家だよなぁ。

「分かりました。俺でどこまでできるか分かりませんが、そのお話、お引き受けします」
俺の言葉に、ザルイルはガバッと振り返った。
「本当か……っ!」
それから、俺たちに守護の術を徹底してかけるという事と、いざとなったら拘束の術が使えるようにと使い捨ての専用アイテムをくれた。
どうやら、準備だけは万端にしてくれていたらしい。

二日の休みを挟んで、翌朝、ドラゴンの子はやってきた。

うん。でかいよな。知ってた。
つっても、リリアさんに比べたら全然ちっさいよな。
いやあ、そろそろ俺の大きさの感覚もバグってきたかな!?
この子の親は朝一番の便で出張先へ旅立ったらしく、リリアさんがリーバと一緒に連れて来た。

俺は、ザルイルよりほんの一回り小さいくらいの、目が六つある、緑の鱗がつやつやした、金色の目をしたドラゴンを預かった。
もう六歳くらいだろうか、言葉も達者な子ドラゴンは、文句もペラペラだった。

「はぁ!? 何だこの格好は、ふざけてるのか!?」
人型になっても、彼は緑の髪に大きな尻尾とつの、それにギョロリとした金色の瞳が六つあった。
「お前はボクの事をなんだと思ってるんだ!?」
ビッ、と指を突きつけられて、俺はじわりと後ずさる。
「え? ええ、と……トラコン、だろ?」
「そうだ! ボクは誇り高いトラコン族のニディア!! それがどうしてこんな辺鄙でボロっちいところで! こんな、ちんちくりんで、毛もない赤子のような格好で過ごさなきゃならないんだ!!」

うん、語彙力が豊富だね。すごいな。

シェルカは二ディアの剣幕にもすっかり怯えて棚の向こうに隠れてしまっている。
ライゴもなんと声をかけたものかと悩んでいる様子だ。
リーバに至っては、ニディアの怒鳴り声で泣き出してしまった。

「しかもこんな、一つ目二つ目ばかりの低俗な奴らと一緒にだなんて。母上は一体何をお考えなんだ!!」

俺は、思っていたよりも手強そうな相手に、内心で流れる汗を拭った。