俺が、痛みに備えて強ばらせた体は、しかしふわっと柔らかな上に落ちた。

「ぷきゅぅ」
と自分の下からつぶれたような声がして、俺は慌てて起き上がる。
「シェルカ!?」
俺の下で潰れたのはシェルカだった。
まさか、あのシェルカが俺を助けてくれるなんて……。
「大丈夫か!? 痛いのはどこだ、ここか? ちょっと触るぞ」
シェルカの半分ほどはあった俺を受け取めた生えかけの羽根の根元は、赤くなって腫れてきた。
水で濡らした布巾で冷やすも、腫れはおさまりそうにない。
これは……保護者に連絡して病院か……?
「ライゴ! ザルイルさんを呼ぶにはどうしたらいい!?」
俺はまだ寝ていたライゴを慌てて起こした。

しばらくして、ザルイルは渋い顔で戻ってきた。
これは……もしかして、俺死亡ルート確定的なやつかな……。
ザルイルは真っ先にシェルカの怪我の様子を確認して、これなら自宅で安静にしていれば大丈夫だろうと言った。
羽の付け根は他の部位よりも腫れやすいらしい。
シェルカに大事がなくて、俺は心底ホッとした。
……それでも俺が命の危機なのには変わらないか。
俺はバクバクする心臓を抑えつつ、事情を説明する。
「大切なお嬢さんに、俺のせいで怪我をさせてしまって、すみませんでした!!」
力一杯頭を下げる。ザルイルは静かな声でシェルカに尋ねた。
「シェルカ、そうなのかい?」
シェルカはコクリと頷いた。
ザルイルは一つ大きく息を吐いてから言った。
「それなら、私にも責がある。ここに椅子を積んだのは私だからな」
そしてザルイルは俺に頭を下げた。
「ヨウヘイ、危ない目に遭わせてしまってすまなかった」
「えっ!? いえ、俺がうっかりしてたから……」
ザルイルは俺の言葉に静かに首を振ると、シェルカを覗き込む。
「シェルカ、ヨウヘイをよく守った。お前は立派だ、私は誇りに思うよ」
大切そうに頭を撫でられて、シェルカは嬉しそうに笑った。
うおお、笑うとめちゃくちゃ可愛いな。
「お父さん。私も……、半分にしてほしい」
おずおずと、それでもはっきりとした意思を込めて告げられて、ザルイルが目を丸くする。
「そうか……。そうだな。そうしよう」

ザルイルはもう仕事に戻らないつもりらしく、俺が夕食の料理をしたいと伝えたら俺に要素とやらを分けてくれた。
ザルイルの分だけで十分に料理ができそうな大きさになれたので、ライゴの分は返して、一緒に夕食を作る。
「これなあに? ふわふわだねー」
フライパン状の機器の上で卵のようなものがふわふわと固まり始める。
「俺の元いたとこでは、オムライスって言うんだよ」
「たまこ乗せるの?」
「濁んないだけか、惜しいなっ」
「?」
「いや、こっちの話だよ」
俺は笑いながら3人分の皿の上にそれを乗せていった。
「ヨーへーは食べないの?」
「俺は元のサイズに戻ってからにするよ。その方がローコストだろ?」
「……? うんっ」
ライゴよくわからないような顔をしつつも頷いた。
もふもふに戻ったその頭をもふもふと撫でると、嬉しそうな顔をする。
その隣でシェルカも撫でて欲しそうに首を伸ばした。
えっ、まじで。
俺が、撫でてもいいのか!?
そっと手を伸ばすと、シェルカは目を細める。
おおおおお、これはホントにいいっぽいな!!
なでなでなで、と撫でてやれば、幸せそうに目を閉じた。

オムライスは子ども達だけじゃなく、ザルイルにも大好況だった。

***

「え? 俺に、赤ちゃんの世話、ですか?」
それから数日後。
シェルカの羽の腫れもすっかり引いた頃、俺の作った夕飯を皆で食べていた席で、ザルイルが言った。
「ああ……、どうしても、どこにも預かってもらえないらしくてな……。シッターさんも誰も捕まらないそうなんだ」
「でも……、俺人間以外の赤ちゃんなんて、世話した事ないからどうしたらいいか……」
それは向こうにも了承をもらっている。
ライゴ達のようにしてもらっていいそうだ。

……つまり、人間の赤ちゃんのような見た目になった、その子を世話すればいいんだ?
それなら、まあ……。
でも俺〇歳児のクラス持った事ないんだよな……。
一歳くらいの子ならいいんだけど……。
あ。そうか、俺がそのくらいの子だとイメージしたらいいんだ?

「ええと、じゃあ、できる限り、やってみます」
俺はここで世話になってる身だし、他に行くあてもできる事もないしな。
やるだけやってみるか。
そう思った俺だったが、その子を見て三歩は後ずさった。

「こっ……これが、赤ちゃん……」
ライゴの五倍くらいはあるだろうか。
手も足もない、ニョロニョロした姿。でも蛇と違って鱗のようなものは見当たらない。
つるっと言うよりぬるっとした真っ白なその体に、背筋が凍る。
そして目が……、一つ、しかない……のかな? これ。
眠っているらしく、閉じられたままの瞳。けれどそれは一つ以外見当たらなかった。
もしかして、これが原因で保育園に入れなかったのか……?
「ああ、リーバというらしい」
ザルイルが名前を教えてくれる。
「リーバ……ちゃん、くん……?」
思わず口に出してしまった言葉に、その子の保護者らしき大蛇……。
いや、大蛇なんてもんじゃないな、崖という、壁というか、とにかく大きな生き物が答えた。
「あ、女の子ですぅ」
「リーバちゃん……。お預かりしますね。今日の体調や様子はいつもと変わりありませんでしたか?」
尋ねれば、ママさんらしき巨大な生き物が、その体には似合わない至って普通の喋りでペラペラとリーバちゃんの普段の様子から好きな遊びまでがっつり語ってくれた。
う、うん……。よく寝る子らしいし、なんとかなるといいな……。
他人に預けるのは初めてと言うところにちょっと不安を感じつつも、俺はその子を受け取った。
人の姿として。
腕に収まるサイズになってくれて、ホッとする。
自分と同じくらいのサイズじゃ抱き上げられないところだった。
その辺はザルイルが調整してくれたらしい。
腕の中ですやすや眠っている赤子を名残惜しそうに眺めながら、ママさんはザルイルと去っていった。
……ザルイルの会社の同僚とのことだったが、あの大きさの同僚がいる会社ってどんだけでかいんだよ……。
俺は、俺の想像を遥かに越えてしまった現実に、考えることを諦めた。

とにかく、今はこの子の事だな。
腕の中の赤ちゃんに視線を下ろすと、ぱち。とその目が開いた。
真っ白な体と髪に、よく映える血の色のような真っ赤な瞳。
俺がこの子は一つ目だと思ったせいか、それともこういう器官は増やせないのか、その子は赤ちゃんの姿でも一つ目のままだった。
額のあたりに目がある事に若干の違和感はあるが、それでもやっぱりちっちゃい子は可愛いな……。

泣く事なく、あたりをキョロキョロと見回している子を、ライゴとシェルカが覗き込む。
二人は、保育しやすいようにと人型をしていたが、今日の俺は、この子のおかげでライゴやシェルカの倍以上のサイズがあった。
二人に見えるように、と少ししゃがむ。
途端に、リーバちゃんが泣き出した。
「おっと」
抱き上げてゆらゆら揺らしながら様子を見る。
シェルカは急な鳴き声にびっくりしたのか、人型になっても残っている獣型のふわふわの耳をぴょこんと引っ込めた。

可愛いなぁ。
シェルカは、ピンクベースのふわふわのワンビースを着ている。
ライゴの姿は園児服でイメージが固定されてしまったのかそのままだったが、シェルカは俺がこんな服だと可愛いだろうなぁと思った通りの姿で現れて、そこから少しずつ変化のたびにフリルやリボンを改良されつつあった。

「よしよし、まずはおむつから確認するか」
赤ちゃんは俺のイメージ不足なのか、この子の精神年齢的な物なのか、残念ながら一歳代と言うよりは一歳になるかならないか程度の、赤ちゃんらしさが残った姿をしていた。
おむつ、汗、体温をチェックして、ひとまず健康と清潔は確認できた。
「ママと離れるのは初めてって言ってたからな、寂しいのかもしれないな」
「……その子、寂しいの……?」
シェルカが可愛らしい声で尋ねる。
「歌でも歌ってみようか」
俺が言って、腕の子を縦に抱いて歌えば、シェルカも嬉しそうに目を輝かせて聞いている。
ライゴも、広げ始めたブロックをそのままにこちらを向いた。

赤ちゃんも次第に泣き方が落ち着いてくる。
ようやく泣き止んだ赤ちゃんに、俺は自己紹介をした。
「初めまして、リーバちゃん、突然いつもと違う場所で、違う体でびっくりしたよな。俺は洋平。今日は俺と一緒に、楽しくすごそうな」
リーバちゃんは俺の話を神妙な顔をして聞いた後、一つきりの目を細めて、キャッキャと声を上げて笑った。
おおお、可愛い……。

俺は久々のミルクと離乳食に悪戦苦闘しつつも、なんとか無事一日を乗り切った。
ああそうか、ママさんがミルクと離乳食の話をして行ったから、どうしてもそのくらいの歳の子を想像しちゃったのかも知れないなぁ。

ママさんは、一日目の結果に満足してくれたようで、明日からもお願いできないかと言った。
そんなわけで、俺はこの五日、リーバちゃんを預かっている……。のだが……。

この子は最初の件からすっかり俺の歌が気に入ってしまったらしく、寝入る時には歌ってやらないとぐずって寝てくれなくなった。

一日、二日なら良かったんだが、それも五日目ともなると……。
ゔ……喉が、もう痛い……。

腕も、久々の抱っこが続いてもうちぎれそうだった。
これ、重さはもうちょっと軽くならないんだろうか……。

リアルな重みを実感しつつ、俺はよろよろとソファのようなものに腰掛ける。
途端、リーバちゃんの泣き声が大きくなる。

あーうん。立って欲しいんだよねぇ……。
わかってる、わかってるんだけど、ちょっとだけ、待っててな……?

心配したライゴが「リーバちゃーん」とおもちゃを見せに来てくれる。
けどリーバちゃんは見向きもしない。
「ありがとなー、ライゴはいいお兄ちゃんだなー」
と告げた声が詰まって咳に変わる。
「ヨーへー……、声、変だよ、大丈夫……?」
「んー。ちょっと、喉痛めたみたいだな。こんな時蜂蜜とかがあればなぁ……」
俺の言葉に反応したのは、シェルカだった。
「それって……、もしかして、これ?」
本棚から、虫の図鑑のような物を引っ張り出してくる。
虫が苦手なシェルカは、それが見たくないのか、薄目で嫌そうにページをめくっていたが、俺に見せてきたページに書かれていたのは、確かにミツバチっぽい生き物で、その下の絵には蜂の巣らしいものと蜜の絵も描かれていた。

いや……針が三本生えてるんだが……。
しかもなんか先が曲がってるんだが?
……こっちのハチ怖いな……。

「これがあったらいいの?」
シェルカが薄めのままで、蜂の巣を指差す。
キッチンではちみつを見た事はなかったが、別のところに置いてあるんだろうか?
「ああ、あったら助かるな」
俺が答えたら、シェルカは「……分かった。頑張る」と意を決したように答えた。

んん?
待て待て、なんか、それは、もしかして……?

途端、俺が動きを止めてしまったことが不服だったらしいリーバちゃんがわあんとのけぞるように泣き出す。
俺が慌ててそれを宥めて、振り返った時には、シェルカはいなかった。
「ライゴ! シェルカは……っっ!」
声が途中から咳に変わる。
「え、どうしたの……?」
虫の図鑑を夢中で眺めていたライゴが、慌てて顔を上げる。
途端、ジリリンと聞いたこともないような音が巣全体に鳴り響いた。
「なんだ、この音!?」
「これは、巣の結界を許可されてない人が通った時の音だよ!」
俺の問いに答えるライゴ、その声は不安に染まっている。
「それってまさか……」

「「シェルカ!!」」

俺はライゴとともに叫ぶと、まだここへきてから一度きり通ったのみの扉へと走る。
扉は開いた。
けれど俺はそこを通れなかった。
バチっと静電気を何倍にもしたような派手な音がして、部屋の中へと弾き飛ばされる。
俺は咄嗟にリーバちゃんを守るように抱き抱えたまま、壁に背を打ちつけた。

「……ってぇ……」
リーバちゃんは驚いた顔をしていたが、涙は逆に引っ込んだらしい。

「ライゴ! その辺にシェルカがいないか探してくれ!」
俺と違って外に出られたライゴに俺は声をかける。
「探してる! でもいないよぉ……っっ」
ライゴの涙混じりの声。
そうだよな、不安だよな……。
くそっ、こんな時に俺が外に出られないなんて……っっ。

リーバちゃんを巻き込まないように、部屋に戻って安全なサークル内にそっと下ろす。
「ごめん、ちょっとだけ待っててくれな!」

俺は結界と呼ばれるそれにもう一度ぶつかる。今度は弾かれないように、体重をかけて、前傾姿勢で。
バチバチと電流が走るような感覚がめちゃくちゃ痛いが、じわりと肩が外に出て、このまま強引に突破できると踏んだ。

「ライゴ!」

外で不安げにシェルカの名を呼びながらキョロキョロしていたライゴが、ハッとした顔をする。

駆け寄りながら視線の先を辿れば、そこには確かにシェルカがいた。
どこから引きずってきたのか、大岩に乗って、木の枝を握って、精一杯腕を伸ばしている先には、蜂の巣……っていや、それ蜂の巣って言っていいレベルか!?
デカすぎんだろ!!

「シェルカ! やめろ!!」
叫んだつもりの俺の声は途中から掠れて消える。
シェルカの木の枝が、蜂の巣を掠める。

デカすぎる蜂の巣から出てきた蜂は、やっぱりめちゃくちゃデカかった。