再びジルベルトが戻ってきたのは、それから十分後のことだった。その間、エレオノーラは行儀よくソファに座って待っていたのだが、彼が戻ってこなかったらどうしよう、という不安もあった。
「ジル様、どうかなされたのですか?」
目の前に立つジルベルトを見上げる。
「いや、まあ。どうもしていない。隣に座ってもいいか?」
「はい」
エレオノーラは嬉しそうに微笑んだ。
「ジル様とこうやって二人きりでお話をするのは、あの十回目にお会いして以来ですね」
「そうだな」
「ジル様。お仕事がお忙しいのですよね。その、グリフィン公爵の件で」
「そうだな」
「ジル様」
「そうだな」
「ジル様。私の話を聞いておりますか?」
「そうだな」
「つまり、聞いていないってことですね。もう、いいです」
エレオノーラがすっと立ち上がると、ジルベルトは事に気付いたらしい。思わず彼女の左手を掴んでしまった。そして、その手を引っ張るとエレオノーラはジルベルトの
胸元に倒れ込む形となった。
「ジル様」
エレオノーラはジルベルトを見上げた。
「すまない。久しぶりに会えて、嬉しくてどうしたらいいかがわからない。それにこんなものを見せられて、冷静でいられるわけもない」
ジルベルトの言うこんなものとは、一つしかない寝台のことだろう。
「あの、ジル様。私たちは一応、書類上は夫婦ですから、そんなことになっても問題ないかと思うのですが」
「いや、ダメだ。まだ式を挙げていない。あなたにウェディングドレスを着てもらうまでは我慢すると決めている」
「そう、なんですね?」
「それに明日も仕事だ。その、そんなことになってしまったら、明日の朝は寝台から出たくなくなる」
「やはり、グリフィン公爵の件が?」
「ああ。陛下の従兄弟ということもあり、寛大な処分を望む声と、今までの悪事の数々から厳罰な処分を望む声とで二分割しているのも問題だ」
「公爵家のほうはどうなるのですか?」
「それも問題にあがっているのだが。誰か適当な人を見繕うか、その領地を国の方で預かるかという話が出ていて、これも話しがまとまらん」
「でも、その辺の話って騎士団の仕事ではないですよね。大臣たちに頑張ってもらわないと」
「まあな。だが、実際の悪人の取り調べなどは騎士団が受け持つからな。それが、なかなか終わらん。一度報告をあげても、追加であれも確認しろ、これも確認しろと。だったら、最初から言え、と言いたくなる」
そこでエレオノーラが笑みをこぼした。「ジル様でもそんなことをおっしゃるのですね」
ジルベルトはエレオノーラを抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。
「話をするにはこの方がいいだろう」
とわけのわからない理由を言うジルベルト。「エレンは、ここに来てからどのようなことをして過ごしているのだ?」
「そうですね。最近は第零に呼ばれることが少ないので、朝起きたら、二時間程度稽古しています」
「二時間?」
「あの、ジル様。お忘れかもしれませんが、私も騎士ですので。自宅待機のときは自宅で稽古しているのですよ」
「まあ、それはそうだが。その後は?」
「朝食をいただいて、お義母さまからいろいろと教えていただいたり、こちらのことを勉強したりしております。それから昼食の前にも少しだけ稽古をしまして」
「稽古?」
「はい、たまにお義父さまも付き合ってくださいますので」
「そうか」
ジルベルトはエレオノーラの稽古姿を見たことがない。しかもそれに父親が付き合っているとなると、得体の知れない黒いもやっとした感情が腹の底から沸き起こってくる。なんとも言えない感情。
「お昼ご飯をいただいたら、翻訳の仕事だったり、お義母さまと一緒に刺繍をしたりとか。そのような感じで過ごしております。お義母さまもお義父さまも、とても良くしてくださっています」
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「やはり、ジル様にお会いできないのが寂しいのです。最近は、私の方の任務も無く、自宅待機ですし」
エレオノーラが自宅待機になっているのは、例の退団願い騒ぎがあってから、少し休ませるべきではないかという第零騎士団団長の心遣いでもあるのだが、それが少し裏目に出ているようだ。
「まあ、第零のほうも混乱しているようだしな」
「でも、その中でよく、ジル様は三日もお休みが取れましたね」
「うん、まあ。そうだな」
ジルベルトが言葉を濁したため、エレオノーラは首を傾けた。
約束の半月後。
雲一つない青空の下、真っ白いウェディングドレスを纏うエレオノーラと、真っ白い式典用の騎士服に身を包むジルベルトが腕を組んで幸せそうにフラワーシャワーの中を歩いていた。エレオノーラのメイクは落ち着いたジルベルトに似合うような、いつもの知的美人だ。
参列者の顔を見れば、ほとんどが騎士団の見知った顔。例のグリフィン公爵の件は、年の功が勝ったのか五日ほど前に片が付いたらしい。それに翻弄された第零騎士団、第一騎士団の面々は、順番で長い休暇を取れることになった。そこに合わせたかのような二人の結婚式。
エレオノーラがブーケを投げると、一人の女性がそれを見事にキャッチした。ウェンディだ。彼女の後ろには兄のダニエルが控えている。順番的にいったら、この二人の結婚が先だったはずなのに、と思っていただけに、彼女がそれを受け取ったことが嬉しい。
エレオノーラが笑いかけると、ウェンディも微笑み返してくれた。
エレオノーラにとっては一生忘れることのできない結婚式となった。
もちろん、結婚した後もエレオノーラは第零騎士団に所属を続けている。人妻となってもその変装はやめない。
さて、彼女の次の潜入先はどこになるのやら――。
「ジル様、どうかなされたのですか?」
目の前に立つジルベルトを見上げる。
「いや、まあ。どうもしていない。隣に座ってもいいか?」
「はい」
エレオノーラは嬉しそうに微笑んだ。
「ジル様とこうやって二人きりでお話をするのは、あの十回目にお会いして以来ですね」
「そうだな」
「ジル様。お仕事がお忙しいのですよね。その、グリフィン公爵の件で」
「そうだな」
「ジル様」
「そうだな」
「ジル様。私の話を聞いておりますか?」
「そうだな」
「つまり、聞いていないってことですね。もう、いいです」
エレオノーラがすっと立ち上がると、ジルベルトは事に気付いたらしい。思わず彼女の左手を掴んでしまった。そして、その手を引っ張るとエレオノーラはジルベルトの
胸元に倒れ込む形となった。
「ジル様」
エレオノーラはジルベルトを見上げた。
「すまない。久しぶりに会えて、嬉しくてどうしたらいいかがわからない。それにこんなものを見せられて、冷静でいられるわけもない」
ジルベルトの言うこんなものとは、一つしかない寝台のことだろう。
「あの、ジル様。私たちは一応、書類上は夫婦ですから、そんなことになっても問題ないかと思うのですが」
「いや、ダメだ。まだ式を挙げていない。あなたにウェディングドレスを着てもらうまでは我慢すると決めている」
「そう、なんですね?」
「それに明日も仕事だ。その、そんなことになってしまったら、明日の朝は寝台から出たくなくなる」
「やはり、グリフィン公爵の件が?」
「ああ。陛下の従兄弟ということもあり、寛大な処分を望む声と、今までの悪事の数々から厳罰な処分を望む声とで二分割しているのも問題だ」
「公爵家のほうはどうなるのですか?」
「それも問題にあがっているのだが。誰か適当な人を見繕うか、その領地を国の方で預かるかという話が出ていて、これも話しがまとまらん」
「でも、その辺の話って騎士団の仕事ではないですよね。大臣たちに頑張ってもらわないと」
「まあな。だが、実際の悪人の取り調べなどは騎士団が受け持つからな。それが、なかなか終わらん。一度報告をあげても、追加であれも確認しろ、これも確認しろと。だったら、最初から言え、と言いたくなる」
そこでエレオノーラが笑みをこぼした。「ジル様でもそんなことをおっしゃるのですね」
ジルベルトはエレオノーラを抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。
「話をするにはこの方がいいだろう」
とわけのわからない理由を言うジルベルト。「エレンは、ここに来てからどのようなことをして過ごしているのだ?」
「そうですね。最近は第零に呼ばれることが少ないので、朝起きたら、二時間程度稽古しています」
「二時間?」
「あの、ジル様。お忘れかもしれませんが、私も騎士ですので。自宅待機のときは自宅で稽古しているのですよ」
「まあ、それはそうだが。その後は?」
「朝食をいただいて、お義母さまからいろいろと教えていただいたり、こちらのことを勉強したりしております。それから昼食の前にも少しだけ稽古をしまして」
「稽古?」
「はい、たまにお義父さまも付き合ってくださいますので」
「そうか」
ジルベルトはエレオノーラの稽古姿を見たことがない。しかもそれに父親が付き合っているとなると、得体の知れない黒いもやっとした感情が腹の底から沸き起こってくる。なんとも言えない感情。
「お昼ご飯をいただいたら、翻訳の仕事だったり、お義母さまと一緒に刺繍をしたりとか。そのような感じで過ごしております。お義母さまもお義父さまも、とても良くしてくださっています」
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「やはり、ジル様にお会いできないのが寂しいのです。最近は、私の方の任務も無く、自宅待機ですし」
エレオノーラが自宅待機になっているのは、例の退団願い騒ぎがあってから、少し休ませるべきではないかという第零騎士団団長の心遣いでもあるのだが、それが少し裏目に出ているようだ。
「まあ、第零のほうも混乱しているようだしな」
「でも、その中でよく、ジル様は三日もお休みが取れましたね」
「うん、まあ。そうだな」
ジルベルトが言葉を濁したため、エレオノーラは首を傾けた。
約束の半月後。
雲一つない青空の下、真っ白いウェディングドレスを纏うエレオノーラと、真っ白い式典用の騎士服に身を包むジルベルトが腕を組んで幸せそうにフラワーシャワーの中を歩いていた。エレオノーラのメイクは落ち着いたジルベルトに似合うような、いつもの知的美人だ。
参列者の顔を見れば、ほとんどが騎士団の見知った顔。例のグリフィン公爵の件は、年の功が勝ったのか五日ほど前に片が付いたらしい。それに翻弄された第零騎士団、第一騎士団の面々は、順番で長い休暇を取れることになった。そこに合わせたかのような二人の結婚式。
エレオノーラがブーケを投げると、一人の女性がそれを見事にキャッチした。ウェンディだ。彼女の後ろには兄のダニエルが控えている。順番的にいったら、この二人の結婚が先だったはずなのに、と思っていただけに、彼女がそれを受け取ったことが嬉しい。
エレオノーラが笑いかけると、ウェンディも微笑み返してくれた。
エレオノーラにとっては一生忘れることのできない結婚式となった。
もちろん、結婚した後もエレオノーラは第零騎士団に所属を続けている。人妻となってもその変装はやめない。
さて、彼女の次の潜入先はどこになるのやら――。