「やめろ」
 ジルベルトが彼女に駆け寄ろうとしたが、男が数人やってきてジルベルトとダニエルの身体を拘束した。多分、油断したのだと思う。思わず俯せに床に倒れ込んで、その床に肩を押さえつけられてしまった。

「やめてくれ」
 ジルベルトは暴れるが相手は二人。ダニエルにも同様に二人の男が床に押さえつけている。

 マリーはその注射針を、拘束している彼女の右肩に刺した。彼女の目が大きく見開いたかと思うと、その身体は崩れ落ちる。それをアンディが支える。中身が空になった注射器を見せつけるかのようにマリーは放り投げた。それは宙に放物線を描いて落ち、カランと乾いた音を立てた。

「彼女に何をした」
 体を押さえつけられながらもジルベルトの目はギラリと怒りで溢れている。

「ちょーっと、気持ちよくなれるお薬よ。でも、気を失ってしまったみたいね。目を覚ますのが楽しみだわ」
 マリーはアンディの腕の中にいる彼女の頭を優しく撫でた。

「き、貴様」
 男二人がかりで押さえているというのに、それを突き放すだけの力がどこにあるのだろう。ジルベルトは一人に向かって右肘を振り上げた。それは見事、一人の顔面に当たった。痛みに耐えきれず顔を押さえる彼は、ジルベルトを押さえる手を離してしまった。一対一であれば、ジルベルトの方が有利だ。押さえつけている方の男は慌てて両肩に手を置こうとしたが、ジルベルトの方が動きは速かった。押さえられたところを軸にして、身体を回転させる。その男に膝蹴りを与える。それは男のこめかみに命中し、そして吹っ飛んだ。

「ダニエル殿」
 ダニエルに覆いかぶさっている男の背中を引っ張りあげ、無理やりこちらを向かせると、その顔面に頭突きを食らわせる。残った一人は、ダニエルが蹴り上げてふらついたところを、さらに回し蹴りでその頭を狙う。
 ジルベルトとダニエルを押さえつけていた男たちは見事その二人によって、気絶させられてしまった。

「あなたの部下、思ったより使えないのね」
 はあ、とマリーは大きくため息をついた。
 二対二。こちらに人質がいるとしても、相手は騎士団に所属する男が二人。分は悪い。そしてこちらが身構えるより先に、ジルベルトがマリーへとその手を伸ばした。

「お前だけは絶対に許さない」
 彼女の細い首に両手をかける。ジルベルトの力でみるみると首を絞められるマリーは、言葉を発することなく、気を失った。そのまま床に落とされる。

「マリー」
 グリフィン公爵は腕の力を抜いてしまった。だから腕の中にいたはずの彼女の身体がずるりと落ちる。だが彼女よりもマリーの方が大事だ。
「マリー」
 彼女に近寄って左膝を床につき、その口元に耳を傾けると、呼吸が止まっているように感じる。

「き、貴様!! よくもマリーを」
 グリフィン公爵はジルベルトを見上げ、ジルベルトはグリフィン公爵を見下していた。ジルベルトの後ろでダニエルが動く気配がした。倒れている彼女を介抱するのだろう。

「おい。大丈夫か」
 と、ダニエルはしきりに彼女に声をかけている。
「おい、()()()()()、しっかりしろ」

 ウェンディ、だと? このジルベルトの婚約者の名前はそんな名前だったか?
 グリフィン公爵は婚約者の名前を思い出そうとしたが、少なくともそんな名前で無かったことは覚えている。
 そう、あのパーティで二人そろって挨拶をしていた。確か婚約者の名前は――。

 そこでマリーがむくりと起き上がった。上半身を起こして、首をポキポキと傾けている。そして首元を右手で押さえながら。
「はい、ダニエル部長。そこで、ついつい彼女の本当の名前を呼んでしまうのは、諜報部失格ですよ? 彼女はウェンディですが、今はエレオノーラになっているのです」

 そう言葉を発するマリーは何かが違う。いつものマリーではない。
 グリフィン公爵はただ茫然と彼女を見つめる。
 彼女は誰だ?

「あ、あ。マリー?」

「残念ながら、マリーは死にました。あなたも確認したのでしょう? アンディ?」
 その艶やかな微笑み方はまさしくマリー。だけど、話し方と仕草が何か、こう、違う。
 目の前にいる女性はマリーに見えるがマリーではない。つまり、彼女はもうマリーという名の仮面をつけていないのだ。

「そうだ。マリーは息をしていなかった。このジルベルトに殺されたんだ。なのに、なぜ?」

「ごめんなさい、アンディ。私、死んだふりは得意なの」

「お前は、マリーじゃない。お前は、一体誰だ?」
 グリフィン公爵は膝をついたまま、わなわなと身体を震わせていた。

「私? 私は」
 あるときは酒場の店員、あるときは娼館の娼婦、あるときは高級レストランの料理人、でもその正体は。
 という決め台詞とポーズを考えてダニエルに伝えたところ、あえなく却下されてしまったため、普通に名乗るしかない。

「第零騎士団諜報部レオン」

「な、な、マリーが諜報部だと?」

「正確には諜報部の私がマリーに扮していた、ですね。はい、リガウン団長、グリフィン公爵の拘束をお願いします」

 マリーに扮していたレオン、つまりエレオノーラはすっと立ち上がると、気絶していた四人のうちの一人が起き出して逃げようとするところを追いかけた。
 女の足で間に合うのかと思うところだが、彼女の足は速かった。逃げ出すそれに追いつくと、ジャンプと同時に回し蹴りでそれのこめかみを狙う。
 回し蹴りはフランシア家の得意技なのか、と思いたくなるほど。
 その男は壁の方まで吹っ飛んで、再び気を失った。エレオノーラの回し蹴りは、それはもう見事なものだった。

 廃倉庫の周囲は、すでに第一騎士団で囲まれていた。
 ジルベルトがグリフィン公爵を拘束し、ダニエルがその部下二人、エレオノーラに扮していたウェンディが部下一人、そしてマリーに扮していたエレオノーラが部下一人を拘束して、彼らを第一騎士団に引き渡した。

「グリフィン公爵。あなたには、薬の密売と誘拐の罪がかけられています」

 ジルベルトはうなだれるグリフィン公爵に声をかけた。

「ジルベルト殿。貴殿が今日を共に過ごした女性は、婚約者ではなかった、ということか?」

 思い出したかのようにグリフィン公爵は尋ねた。劇場から彼らをずっと見張っていたというのに。

「いえ。私は婚約者である彼女と共に過ごしました」
 もちろん、劇場ではエレオノーラと共に観劇を楽しんだ。舞台を見ながら少し興奮して喜んでいる彼女は、確かにジルベルトの隣にいた。

「だったら、なぜ? いつ入れ替わったんだ?」

「劇場です。帰りの馬車に乗る前」

「そうか。だからお前たちは騎士としてここに来ることができたのか」
 グリフィン公爵は呟き「今回の私の敗因は、マリーという女性に溺れてしまったことだな」

「そのようですね。ですが、彼女は素敵な女性です。あなたが夢中になっても仕方ない」

 ジルベルトは目を細めて、そう言った。