敷物の上に、二人向かい合って座る。その二人の間には、エレオノーラが作ったというお弁当。といっても、サンドイッチだが。
「ジル様は何がお好きですか?」
バスケットを開けると、様々な種類のサンドイッチが綺麗に並んでいた。
「これは、エレンが作ったのか?」
「はい。これも潜入調査の賜物ですね。多分、味も食べられる程度のものかとは思いますので」
エレオノーラはふんわりと笑む。変装はしていない。いつもの知的美人な婚約者を演じていない。それはジルベルトがそのままでいい、と言ってくれたから。それから、この周辺に他に人がいないから。
「こちらがポテトサラダで、こちらがクリームチーズとベーコンで、こちらが」
エレオノーラはサンドイッチの説明をするが、ジルベルトは聞いているのか聞いていないのかわからない。
「お飲み物もありますよ」
水筒を取り出して、カップへと注ぐ。「どうぞ」
「ああ、ありがとう。どれから食べたらいいか、迷ってしまうな」
ジルベルトがバスケットの中身を見ながら難しい顔をしていたのは、どのサンドイッチから食べたらいいかを悩んでいたらしい。
「好きなだけ食べてください。ここには私とジル様しかいませんから、他の人に取られたりしませんよ?」
兄弟の多いエレオノーラにとって、おやつ争奪戦は幼い時には日常茶飯事だった。特に男三人がよくやっていたことを思い出す。
ジルベルトがなかなかサンドイッチに手を出さないので、エレオノーラは適当に一つ差し出してみた。だが、ジルベルトはそれに見向きもせずに、バスケットの中身をじーっと見つめている。見ているだけでは腹にたまらない、と言うのに。
「ジル様。お口をあけてもらってもいいですか?」
ジルベルトはバスケットの中身から目を離さない。それでも、口をポカンと開けたので、そこに手にしたサンドイッチを突っ込んでみた。
ジルベルトは、突然口の中に現れたサンドイッチに驚きつつも、もぐもぐと咀嚼する。
「美味しいですか?」
エレオノーラが尋ねると、無言で頷く。
「これはサラダか?」
「正解です」
彼女はニッコリと笑みを浮かべると、残りのサンドイッチは自分で食べてしまった。「ジル様。早く食べないと、私が全部食べてしまいますよ」
ペロリと指をなめたエレオノーラを、ジルベルトはうらめしそうに見つめていた。そんなにサンドイッチが食べたいなら、さっさと食べればいいのに、と彼女は思う。
「それはなんだ?」
どうやらエレオノーラが手にしているものが気になっているらしい。
「これは、ローストビーフですね」
「それを少しいただいてもよいか?」
「はい」
エレオノーラが手にしていたサンドイッチをジルベルトに手渡そうとしたが、彼はそれを受け取る様子がない。代わりに口を開けて待っている。これではまるで餌を待つ雛鳥ではないか。大きな雛鳥だ。恐る恐るその口に、サンドイッチを近づけた。
「ひゃ」
と変な声が漏れてしまった。ジルベルトがエレオノーラの指ごと食べてしまったからだ。
「あ、すまん。つい」
「ジル様。ご自分で食べてください」
頬を膨らませながらも、バスケットを両手で持ってジルベルトの前に差し出した。
「では、次はこれをいただこう」
やっとジルベルトが自分で食べる気になったようだ。エレオノーラは安心して、目尻を下げた。お茶を一口飲む。
昼食を終えると、ジルベルトは愛馬のマックスに水を与えた。マックスは適当に草を食べていたようだ。
エレオノーラは大きな木の幹に寄り掛かって、足を放り投げて目を閉じていた。頬を撫でつける風が心地よくて、ついつい眠りへと誘われてしまう。
ふっと、太ももの辺りが重くなった。なんだろうと思って目を開けると、ジルベルトと目が合った。
「少し休んだら戻ろうか」
ジルベルトがエレオノーラを見上げながら言った。エレオノーラは頷くと共に、ジルベルトの額に手を置いて優しく撫でた。
「ジル様。今日は私のために時間を割いていただき、ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは私の方だ。今日はとても穏やかな時間を過ごすことができた」
「私もです。次の任務の前に、このような時間を持てたこと、とても励みになります」
「任務……。エレンは今までどのような変装しているのだ?」
「えっと、いろいろですね。ジル様と初めてお会いしたときは、酒場の男性店員でしたし。他はレストランの料理人や娼館の娼婦。逆に酒場の常連客とか、パーティに参加するご令嬢とか」
「娼館……」
ジルベルトが額を撫でていたエレオノーラの手首を掴んだ。「娼館ということは、やはりそういうことを」
「いえ、あの。その。そういうことは、致していないのです。兄たちにも笑われたのですが。えと、まあ。それで、その。ジル様が初めてになります。まあ、あれは事故みたいなものですけど」
もう片方のジルベルトの手が伸びてきた。それはエレオノーラの頭の後ろ、つまり後頭部を支えたかと思うと、ぐっと力を入れてきた。ジルベルトの顔が迫ってくる。いや、動いているのはエレオノーラの頭の方だから迫ってくるという表現はおかしいかもしれない。ぶつかると思って目を閉じた。
唇に温かい何かが触れた。この感触は、あの事故のとき、ジルベルトと唇が触れてしまったときとの感触に似ている。だが、恐ろしくて目を開けることができない。
いつまでそうしていたのか。ほんの数秒のような気もするし、数分だったような気もする。後頭部に置かれた手が離れたのを感じて、エレオノーラは顔を離した。
「これは事故ではない」
ジルベルトが真面目な顔をして呟いた。
いつものバーにマリーはいなかった。たいていアンディが足を運ぶと、マリーはカウンターで一人、グラスを傾けているというのに。
「今日は、マリーは来ていないのか?」
いつもの、と頼む前に尋ねてしまった。
「そのようですね」
バーテンダーはグラスを拭きながら、表情を変えずに答えた。
「いつものを頼む」
アンディはそう言い、つまらなさそうにカウンターの上に右肘をついて、その手の上に顎を乗せた。
カランカランと音を立てて扉が開くたびに、マリーが姿を現すのではないかと思って、ついつい顔を向けてしまう。だが、現れたのは別な女性だった。
それを三度繰り返した時。
「あら、アンディ。今日は早いのね」
紫色のドレスを身に纏ったマリーがやっと現れた。今日のドレスも彼女の魅力をより輝かせている。その紫色という色合いもそうであるが、胸元が広く開いたそれは彼女とすれ違う男どもを虜にするし、太ももまでスリットの入っているそれも、すれ違う前の男たちを釘付けにする。
「マリー。君は相変わらず素敵だ」
声を出さずに笑みだけを浮かべ、そして首を傾ける仕草も色っぽい。いや、マリーは存在そのものが色っぽいのだが、とにかく、彼女のそんな仕草の一つ一つがアンディを魅了してくる。
「いつもの、お願いね」
カウンター向こうのバーテンダーに声をかけると、彼は黙っていつものオレンジ色の液体を差し出した。
「奥、空いているかしら?」
彼女のそれに、バーテンダーは無言で頷く。「アンディ、場所を変えましょう」
マリーはオレンジ色が注がれているグラスを手にして、奥のボックス席へと向かう。アンディもその後ろについていくが、目の前の紫色のお尻の動きについつい目を奪われてしまう。
「アンディ。あなた、本当に騎士団の団長に手を出すつもりがあるのかしら?」
座るや否や、マリーの口から出てきた言葉はそれだった。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りだけれど」
そこで彼女は足を組む。上にした右側のスリットが、アンディを誘っているようにも見える。
「あなたが、本当にあの団長に手を出すつもりがあるなら、私はとっておきの情報を教えてあげるわ」
「とっておきの情報、だと?」
「ええ」
そこでオレンジ色の液体に口をつけた。「どうする?」
グラスに浮いている氷を指でチョンチョンと押し付けながら、アンディは考えた。
あの第一騎士団の団長、ジルベルト・リガウン。自分が仕事をこなすためには邪魔な存在ではある。あいつが団長になってからの警備体制はより強化され、自分の仲間たちも捕まったり、仕事が失敗したりしているのも事実。だが、それが程よいスパイスになっていて、仕事にやりがいを与えているのも事実。
「やるか」
独り言のように呟いたのに、それはマリーの耳にも届いていたらしい。ふふっと笑んで、さすがね、と言う。
「だったら、あなたにはこれを差し上げるわ」
一枚の紙切れ。つまり、メモ。それに目を落とすと、日時と場所が書いてある。そのほかに書いてあるのは、何かのタイトルだろうか。
「これは?」
「あの堅物。よっぽど婚約者と二人で出掛けたいのね。その日のその時間のその演目の芝居のチケットを取ったらしいわ」
だからか、どこかで見たことのあるタイトルだと思ったのは。これは婦女子が騒いでいる芝居のタイトルではないか。
「それの帰り道。婚約者が一人になったところを狙えばいいのよ」
マリーが手にしていたグラスの氷が鳴った。グラスは汗をかき始めたようだ。
「だが、あの堅物が屋敷まで送り届けるのではないか?」
「そうね。だから、屋敷の手前で偽の迎えを出すのよ」
「どうやって?」
ふう、とマリーは大きくため息をついた。「少しくらい、自分で考えたら?」
冷たい視線だった。今までこのような視線を彼女から向けられたことはあっただろうか。否。
考えを悟られないように、アンディはグラスに口をつけた。
「仕方ないわね、今回だけよ」
マリーの視線が和らいだ。
「芝居を観終わり、帰るところ見計らって彼らの馬車を止めなさい。そして、第零騎士団を名乗って、婚約者をこちらの馬車に乗せるのよ」
「なぜ、第零を名乗る必要がある?」
「あの婚約者の兄が第零だからよ。きっとあの堅物も兄からの迎えの馬車であると思うでしょうね」
「なるほど」
「彼女をこちらの馬車に乗せてしまえばこちらのものよね?」
そうだな、とアンディは頷いた。
「ねえ、アンディ?」
マリーは首を傾けて、その頭を彼の肩の上に乗せた。「私があなたのものになったら、刺激のある生活を約束してくれるのよね?」
そのまま上目遣いで彼を見る。
「ああ、もちろんだ」
「そう」
マリーは呟くと、その肩から頭を離した。グラスを手にしている右手の肘を左手で押さえ、何やら考えている様子。そのままグラスに口をつけ、一口、オレンジを含む。そしてゆっくりと、グラスをテーブルの上に置くと。
「あなたがあの堅物をやった日には、あなたの女になってあげるわ」
マリーは右手の人差し指でくるくると宙に円を描いた後、それをアンディの口元に当てた。アンディは舌を出して、その指をペロリと舐めた。
あの遠乗り以降、急激にジルベルトとの仲が近くなっているような気がする。と言っても婚約者同士でありながら、簡単に会えるような関係でも無い。エレオノーラは、最近では騎士団の建物へ通うことは減り、屋敷での仕事が多くなった。つまり、あれだ。前世かそのまた前世かで一時期流行った在宅勤務という奴だ。
だからか、なおさらジルベルトと会う機会が減ってしまった。あのデート以降会えていない、というのが現実。
だが、婚約者を演じているだけなのに、会いたいと思う気持ちはいかがなものなのか、とエレオノーラ自身悩んでいるところもあるのだが。これでは婚約者を演じ切れていないのではないか。と。
「妹よ、元気にしていたか」
「ダンお兄さま、どうかされましたか?」
エレオノーラは今日も翻訳の仕事に励んでいた。騎士団の方の仕事と程遠くなってきているようにも感じる。だが、第零騎士団の方の仕事は不定期であるし、忙しい時は忙しいが、暇なときはめちゃくちゃ暇。ほとんどが自宅待機になる。そんな自宅待機の合間に行っているのが翻訳の仕事、つまりダブルワークだと思えばいいのかもしれない。
ダニエルはソファにゆっくりと腰をおろした。パメラが手早くお茶の準備をする。エレオノーラは立ち上がって、ダニエルの向かい側に座った。
「わざわざ私の部屋にまで足を運ぶなんて、何かありましたか?」
「エレン。お前は、リガウン団長とうまくいっているってことでいいんだよな?」
聞かれている意味がわからなかった。
「はい?」
「そろそろ、結婚の話とか、出ているのか?」
「はいいい?」
思わず語尾を強めてしまった。「私とジル様は、結婚するのでしょうか?」
エレオノーラのその問いに、ダニエルはガクッとうな垂れた。
「婚約したのなら、いずれは結婚するのではないか?」
ダニエルは言いながらも少しむなしくなった。
第零騎士団の諜報部潜入班としては優秀な部下である。だが、一人の女性として、恋愛方面についてはかなり音痴なのではないだろうか。いまだにジルベルトの婚約者を演じているという表現をしている辺りで嫌な予感はしていたのだが、その嫌な予感は的中した、ということだ。兄として、妹の幸せを願っている。その妹を幸せにしてくれそうな男がジルベルトだというのに。
「ですが、お兄さまとウェンディも婚約してから長いですよね。いまだに結婚されていないですよね。お兄さまたちが結婚しないと、私たちも結婚できないのではないですか? その、順番的に」
「順番的にと言われたらそうかもしれないが。だが、リガウン団長が今すぐにでもお前と結婚したいと言ったら、その順番に縛られる必要は無い」
「もしかして、ジル様がそんなことをおっしゃったのですか?」
エレオノーラは恐る恐る尋ねた。責任を取って妻に娶りたいと言われ、婚約者となってみたものの、本当にジルベルトの妻になっていいものなのか、というのは心のどこかで悩んでいた。不安、とも言う。
「いや、言っていない」
そこでダニエルはカップに口をつけた。
「でしたら、お兄さま。なぜ、そのようなことを?」
「早かれ遅かれ、リガウン団長はそんなことを言うだろうなと思っただけだ」
「お兄さまは予言者なのですか?」
「は?」
「どうしてジル様がそんなことを言い出すとお分かりになるのですか? 私とジル様は、まだ数回しかお会いしていないのですよ」
数回、と言われ、ダニエルはエレオノーラがジルベルトと会った回数を思い出してみた。
最初の任務のとき、挨拶にきたとき、婚約を決めたとき、第零騎士団団長に呼び出されたとき、一緒に食事をしたとき、陛下に呼び出されたとき、我が家に押しかけて来た時、建国パーティに出席したとき、そして二人でデートと思われるお出かけをしたとき。
本当に数えられてしまう回数であった。しかも自分が婚約者と出会った回数ではなく、なぜ妹とその婚約者の出会いの回数を数えているのか、という情けない気持ちにもなる。
「辛うじて数回だな。もう少しで十回を超えそうだ。よかったじゃないか」
そこでダニエルは、一通の封筒を胸元から出してきた。
「十回目だ」
テーブルの上に置かれた封筒を、エレオノーラは手に取った。
「開けてもよろしいのですか?」
「もちろんだ」
封筒にはリガウン侯爵家の押印がされてある。
パメラがナイフを手渡してくれた。それを受け取り、封を切る。
「リガウン団長が、お前を芝居に誘いたいと言っていてな。それで、チケットを手配してくれたらしい」
「これ。今、一番人気のあるお芝居ですね」
「そうらしいな」
「楽しみです」
エレオノーラの頬が少し桃色に染まる。
「と、返事をしておけばいいな?」
「はい」
彼女のその返事に、ダニエルは満足そうに頷いた。
楽しみができると仕事ははかどるもので、エレオノーラは翻訳に精を出し、ジルベルトは騎士団の任務に励んでいた。ときおりサニエラから「気持ち悪いですね」という苦情が入るくらい、ジルベルトは思い出したように口元を歪め、書類に目を通し、勢いよく押印していた。
つまり、お互いがお互いに浮かれていたのだ。その浮かれた結果が招いた悲劇だとしか言いようがない。
「エレンがいなくなった」
と血相を変えたジルベルトがフランシア家の屋敷に飛び込んできたのは、その芝居が終わってからのことだった。
ジルベルトは馬車でエレオノーラを屋敷まで送る予定だった。だが、途中で馬車を止められた。何事かと思い外に出ると、どうやら御者が騎士と話をしていた。
「私が話そう」とジルベルトが代わると、その騎士たちは第零騎士団を名乗った。ダニエルの命令によって、エレオノーラを迎えに来た、と。ダニエルの名が出て安心してしまったのだろう。ジルベルトはそちらの馬車にエレオノーラを預けてしまった。
一人になってみると冷静になるものだ。はて、第零騎士団が迎えにくるのはおかしくないか? そもそも、きちんと彼らの身分を確認したのか? あの馬車の家紋はどうだった?
慌てて馬車から飛び降りると、エレオノーラを乗せた馬車は彼女の屋敷とは反対方向に走り去った後だった。
「あれを追ってくれ」
急いで御者に命じて、エレオノーラを乗せた馬車を追ったのだが、すぐに「見失ってしまいました」という声を聞くこととなった。
アンディの足の上には女の頭がある。だが残念ながら愛するマリーの頭では無い。そのマリーは向かい側に座っている。
「意外と、ちょろかったわね」
深緑色のドレスを身に着けているマリー。今日もその豊満な胸と、細い太ももが露わになるようなドレス。
「当て身をくらわせただけで気絶とは、さすがお嬢様だな」
騎士団の騎士服に身を包むアンディ。彼の足の上で眠っている女性は、ジルベルトの婚約者であるエレオノーラと思われる女性だった。
「だが、マリーの言った通りだったな。第零騎士団を名乗れば、この女をすんなり手渡してくれるって」
「でしょ?」
足を組んで腕を組んでいるその姿は自信に溢れている。「ところで、フランシア家の方は?」
「ああ、仲間をやった。今頃それを見て、事の重大さにでも気づいている頃ではないか?」
アンディの仲間がフランシア家に脅迫状を置いてくる手筈になっている。それの通りに事が運ぶとしたら、あと二時間後にはジルベルトとの決着がついているだろう。
「とりあえず、打っておくか?」
「誰もいないところでやっても面白くないでしょう? あの団長が来てから、彼の目の前で打ちなさいよ。自分の婚約者が堕ちていくところ、見せつけてやるのよ」
マリーの冷たい視線が、彼女に突き刺さっていた。ふっと、アンディは鼻で笑った。あのマリーをここまでイラついているのも珍しい。それだけこの女性が嫌いなのだろうか。
馬車が向かった先は、港にある廃倉庫が並ぶ一角。その廃倉庫のうちの一つがアンディたちのアジトだった。
気を失っている彼女をその倉庫に運び入れ、固い床の上に転がした。両手は背中で縛り、両足もしっかりと縛り上げている。倉庫の床は冷たいコンクリートが敷き詰められたもの。そこに縛られたエレオノーラと思われる女性が横たわっている。
マリーは彼女の顎に手を当て、その顔を覗き込んだ。まだ気を失っているからか、その目を開けることは無い。
「ふん、つまらないわね」
「マリー。私は少し仲間たちと周辺を見回ってくるが、この女の見張りを頼んでもいいか?」
「ええ」
マリーは頷くと、どこからか椅子を引っ張り出してきてエレオノーラと思われる女性の頭の脇にそれを置いた。彼女を見下ろす形でそこに座る。
アンディの仲間は、彼をいれて五人。少数精鋭とは言ったものだ。そこから、根を張らせて他の者へのルートを築き上げているようだが、この五人と結びつくような痕跡は一切残していない。
彼女を助けに来るのは、ジルベルトとダニエルの二人になるだろう。他の二人の兄は、戦闘向きではないはず。そうなると、人数的な割合からいってもアンディたちのほうが有利になるはず。
「う、ん……」
足元で転がっている彼女が気づいたようだ。
「あら、やっと気が付いたようね」
「あなたが?」
「解いてあげたいのはやまやまだけど、あなたの婚約者が来るまで待っていてちょうだい」
足を組み、その長くて細い足を見せつけて、マリーは妖艶に笑んだ。こうやって彼女を見下ろすのも悪くはない。
複数の足音が聞こえてきた。そろそろ彼らがやって来たのだろう。
「おい、マリー。あいつらが来たぞ」
アンディは息を弾ませ、楽しそうに言った。
「そう」
マリーは椅子をきしませて、ゆっくりと立ち上がる。
「あなたも一緒に来てちょうだいね」
マリーは彼女の顎を掴んでそう言うと、乱暴に突き放した。足を結んでいた縄だけは解いてやる。彼女が逃げられないように、マリーは後ろに縛った手をしっかりと押さえていた。
「エレン」
彼女を連れて部屋を移動すると、そこには案の定、騎士団の服に身を包む男が二人。第一騎士団団長ジルベルトと、第零騎士団諜報部部長のダニエル。エレオノーラにとっては馴染みの深い二人。
「彼女に何をした」
百八十を超える長身、さらに今日も髪型はオールバック。そんな迫力ある彼が、低い声で言い放つ。
マリーはにたりと笑みを浮かべたまま答えない。あの男の浮かべる苦悩の表情が面白い。いつまでも、それを見ていたい。
「彼女に何をした、と聞いているんだ」
普段のジルベルトからは想像できない声だった。いや、騎士としての彼はそうなのかもしれない。だが、エレオノーラはそのような彼を見たことが無い。
「まだ、何もしていないわよ。まだ、ね」
顔を傾けて、マリーは答えた。マリーは左手で彼女の腕をしっかりと掴んでその背後に立っている。空いている右手で、彼女の首元を狙うことも可能だ。
「お前たちの狙いは何だ?」
「あら? お前たち、ですって?」
マリーはもう一度首を傾けた。何を言っているのか、この人はという感じに。
「ここにいるのがお前一人だけではないことくらい、気付いている。彼女をさらったのは別な人間だろう」
「まあ。気付いていたのね」
ふふ、っとマリーは艶やかに笑んだ。
「気付かれているみたいよ、アンディ」
「やっぱり、黒幕の登場はもったいつけないといけないだろう?」
アンディがゆっくりと姿を現すと、マリーの腰を抱く。
「アンドリュー・グリフィン公爵……」
ジルベルトがその名を呟いた。彼とは確か建国記念パーティで挨拶を交わしたはず。
「やはり、グリフィン公爵が黒幕だったのか」
ダニエルは誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが、しっかりとジルベルトの耳には届いていた。
「グリフィン公爵。妹を解放していただきたい」
ダニエルは一歩前に出た。
「妹? そうか、君が第零騎士団か。彼女は第零騎士団をつぶすにも都合のいい人物というわけだ」
「グリフィン公爵は何をお望みか?」
多分、こういった交渉術はジルベルトよりもダニエルの方が向いているのだろう。
「望み? それは君たちが私を見逃してくれること、だろうね」
「それは、なかなか難しい交渉だな」
ダニエルは左手の手のひらを上に向けて、肩をすくめてみた。
「そう言うだろう、と思っていた。私たちも最初から期待はしていないさ。ね、マリー」
グリフィン公爵は相棒の名を優しく呼んだ。名を呼ばれた彼女は、どこかに隠し持っていた一本の注射器を手にしていた。
「これが何かわかるかしら?」
その注射器を見せつけて、マリーは口の端を持ち上げた。
「やめろ」
ジルベルトが彼女に駆け寄ろうとしたが、男が数人やってきてジルベルトとダニエルの身体を拘束した。多分、油断したのだと思う。思わず俯せに床に倒れ込んで、その床に肩を押さえつけられてしまった。
「やめてくれ」
ジルベルトは暴れるが相手は二人。ダニエルにも同様に二人の男が床に押さえつけている。
マリーはその注射針を、拘束している彼女の右肩に刺した。彼女の目が大きく見開いたかと思うと、その身体は崩れ落ちる。それをアンディが支える。中身が空になった注射器を見せつけるかのようにマリーは放り投げた。それは宙に放物線を描いて落ち、カランと乾いた音を立てた。
「彼女に何をした」
体を押さえつけられながらもジルベルトの目はギラリと怒りで溢れている。
「ちょーっと、気持ちよくなれるお薬よ。でも、気を失ってしまったみたいね。目を覚ますのが楽しみだわ」
マリーはアンディの腕の中にいる彼女の頭を優しく撫でた。
「き、貴様」
男二人がかりで押さえているというのに、それを突き放すだけの力がどこにあるのだろう。ジルベルトは一人に向かって右肘を振り上げた。それは見事、一人の顔面に当たった。痛みに耐えきれず顔を押さえる彼は、ジルベルトを押さえる手を離してしまった。一対一であれば、ジルベルトの方が有利だ。押さえつけている方の男は慌てて両肩に手を置こうとしたが、ジルベルトの方が動きは速かった。押さえられたところを軸にして、身体を回転させる。その男に膝蹴りを与える。それは男のこめかみに命中し、そして吹っ飛んだ。
「ダニエル殿」
ダニエルに覆いかぶさっている男の背中を引っ張りあげ、無理やりこちらを向かせると、その顔面に頭突きを食らわせる。残った一人は、ダニエルが蹴り上げてふらついたところを、さらに回し蹴りでその頭を狙う。
ジルベルトとダニエルを押さえつけていた男たちは見事その二人によって、気絶させられてしまった。
「あなたの部下、思ったより使えないのね」
はあ、とマリーは大きくため息をついた。
二対二。こちらに人質がいるとしても、相手は騎士団に所属する男が二人。分は悪い。そしてこちらが身構えるより先に、ジルベルトがマリーへとその手を伸ばした。
「お前だけは絶対に許さない」
彼女の細い首に両手をかける。ジルベルトの力でみるみると首を絞められるマリーは、言葉を発することなく、気を失った。そのまま床に落とされる。
「マリー」
グリフィン公爵は腕の力を抜いてしまった。だから腕の中にいたはずの彼女の身体がずるりと落ちる。だが彼女よりもマリーの方が大事だ。
「マリー」
彼女に近寄って左膝を床につき、その口元に耳を傾けると、呼吸が止まっているように感じる。
「き、貴様!! よくもマリーを」
グリフィン公爵はジルベルトを見上げ、ジルベルトはグリフィン公爵を見下していた。ジルベルトの後ろでダニエルが動く気配がした。倒れている彼女を介抱するのだろう。
「おい。大丈夫か」
と、ダニエルはしきりに彼女に声をかけている。
「おい、ウェンディ、しっかりしろ」
ウェンディ、だと? このジルベルトの婚約者の名前はそんな名前だったか?
グリフィン公爵は婚約者の名前を思い出そうとしたが、少なくともそんな名前で無かったことは覚えている。
そう、あのパーティで二人そろって挨拶をしていた。確か婚約者の名前は――。
そこでマリーがむくりと起き上がった。上半身を起こして、首をポキポキと傾けている。そして首元を右手で押さえながら。
「はい、ダニエル部長。そこで、ついつい彼女の本当の名前を呼んでしまうのは、諜報部失格ですよ? 彼女はウェンディですが、今はエレオノーラになっているのです」
そう言葉を発するマリーは何かが違う。いつものマリーではない。
グリフィン公爵はただ茫然と彼女を見つめる。
彼女は誰だ?
「あ、あ。マリー?」
「残念ながら、マリーは死にました。あなたも確認したのでしょう? アンディ?」
その艶やかな微笑み方はまさしくマリー。だけど、話し方と仕草が何か、こう、違う。
目の前にいる女性はマリーに見えるがマリーではない。つまり、彼女はもうマリーという名の仮面をつけていないのだ。
「そうだ。マリーは息をしていなかった。このジルベルトに殺されたんだ。なのに、なぜ?」
「ごめんなさい、アンディ。私、死んだふりは得意なの」
「お前は、マリーじゃない。お前は、一体誰だ?」
グリフィン公爵は膝をついたまま、わなわなと身体を震わせていた。
「私? 私は」
あるときは酒場の店員、あるときは娼館の娼婦、あるときは高級レストランの料理人、でもその正体は。
という決め台詞とポーズを考えてダニエルに伝えたところ、あえなく却下されてしまったため、普通に名乗るしかない。
「第零騎士団諜報部レオン」
「な、な、マリーが諜報部だと?」
「正確には諜報部の私がマリーに扮していた、ですね。はい、リガウン団長、グリフィン公爵の拘束をお願いします」
マリーに扮していたレオン、つまりエレオノーラはすっと立ち上がると、気絶していた四人のうちの一人が起き出して逃げようとするところを追いかけた。
女の足で間に合うのかと思うところだが、彼女の足は速かった。逃げ出すそれに追いつくと、ジャンプと同時に回し蹴りでそれのこめかみを狙う。
回し蹴りはフランシア家の得意技なのか、と思いたくなるほど。
その男は壁の方まで吹っ飛んで、再び気を失った。エレオノーラの回し蹴りは、それはもう見事なものだった。
廃倉庫の周囲は、すでに第一騎士団で囲まれていた。
ジルベルトがグリフィン公爵を拘束し、ダニエルがその部下二人、エレオノーラに扮していたウェンディが部下一人、そしてマリーに扮していたエレオノーラが部下一人を拘束して、彼らを第一騎士団に引き渡した。
「グリフィン公爵。あなたには、薬の密売と誘拐の罪がかけられています」
ジルベルトはうなだれるグリフィン公爵に声をかけた。
「ジルベルト殿。貴殿が今日を共に過ごした女性は、婚約者ではなかった、ということか?」
思い出したかのようにグリフィン公爵は尋ねた。劇場から彼らをずっと見張っていたというのに。
「いえ。私は婚約者である彼女と共に過ごしました」
もちろん、劇場ではエレオノーラと共に観劇を楽しんだ。舞台を見ながら少し興奮して喜んでいる彼女は、確かにジルベルトの隣にいた。
「だったら、なぜ? いつ入れ替わったんだ?」
「劇場です。帰りの馬車に乗る前」
「そうか。だからお前たちは騎士としてここに来ることができたのか」
グリフィン公爵は呟き「今回の私の敗因は、マリーという女性に溺れてしまったことだな」
「そのようですね。ですが、彼女は素敵な女性です。あなたが夢中になっても仕方ない」
ジルベルトは目を細めて、そう言った。
グリフィン公爵とその部下を含む計五名が護送され、この廃倉庫にはジルベルトとダニエル、そしてエレオノーラとウェンディだけが残された。事後処理要員とも言う。
「はぁあああああ。もう、疲れました」
へろへろとその場に座り込むエレオノーラ。
「エレン、その恰好と行動が伴っていないから、少しは慎め」
ダニエルが呆れた顔をして妹を見下ろした。
「ところで、ウェンディ殿に打ったものはなんだったのだ?」
ジルベルトが腕を組んで尋ねた。
「あー、あの気持ちよくなるお薬、ですか? 栄養剤です。ウェンディの名演技のおかげでバレずに済みました。グリフィン公爵が持っているお薬の中身は、全部入れ替えておきましたから」
「全部?」
ダニエルが尋ねる。
「はい、全部です」
自信をもってエレオノーラが答える。
「では、第一が押収したものは?」
「あ」
エレオノーラのそれでダニエルは察した。
「で、本物はどこにある?」
「こっちです」
とエレオノーラが立ち上がって隠し場所へと案内しようとすると、ふわりと上着を肩からかけられた。それはジルベルトの騎士服の上着。
「エレン。お前の服装は、露出狂並みらしいぞ?」
ダニエルは苦笑を浮かべることしかできない。自分の妹であるが、その存在が恥ずかしい。
「何を言っているんですか、お兄さま。私はセクシー町娘に変装していたんです。露出狂ではございません」
ジルベルトから渡された上着に袖を通しながらエレオノーラは答えた。
「セクシーな女性は、自分でセクシーとは言わないわね」
笑いながら言うウェンディに、エレオノーラは頬を膨らませた。
「まあ、エレンが気付いているのか気付いていないかわからないけれど。あなた、さっき回し蹴りしたわよね? そのときにそのスリット、けっこういっちゃったと思うのだけれど?」
さすが女性目線。鋭い。多分、ジルベルトも気付いていたのだろう。だから無言でその上着をかけたのだ。この場にこのメンバーしかいないけれど、彼としては気になるところらしい。
身長の高いジルベルトの上着を着ると、エレオノーラの膝上まで丈がある。これでなんとか、けっこういっちゃったスリットを隠してくれるはずだ。
エレオノーラが三人を案内したのは、廃倉庫の二階にあたる部分。ここは床が木の板でできている。
「この床板の下に隠しておきました」
ジルベルトがじっと見つめると、一か所だけ不自然な板があった。一度剥がしてまたはめたのだろう。ジルベルトは膝をついてその不自然な板に手をかけた。
「ふん」
メキッと板が剥がれた。
「おお、さすがリガウン団長」
ダニエルが呟くと、ウェンディもなぜかパチパチと手を叩いている。
「これか?」
ジルベルトが聞いてきたので、エレオノーラはそうです、と答えた。ジルベルトがわざわざこれか、と尋ねたのは、そのお目当てのものが変な壺の中に入っていたから。変な壺、いや、ダニエルにはこの壺に見覚えがある。
「おい、エレン。これ、我が家の壺じゃないか」
「あ、バレましたか? 栄養剤をこの壺にいれて運んできて、しれっと入れ替えておきました」
「何がしれっとだ。今だってこの壺と一緒に運ばなければならないだろう。こんなの父上にバレたらなんて言われるか」
「あ、お父さまには内緒にしておいてください」
「もういい。リガウン団長、大変申し訳ないのだが妹を屋敷まで送っていただけないのだろうか」
「ダニエル殿は?」
「私はウェンディと共に、これを総帥に届け出る」
ダニエルの言うこれとは、変な壺に入っている薬のこと。
「わかった」
ジルベルトは頷いた。
ダニエルは壺を抱えて、廃倉庫を出る。どうやら騎士団の馬車を残しておいたらしい。元々ダニエルは王宮の方へ戻るつもりだったのだろう。仕事人間の男だから。
廃倉庫の中には二人残される。エレオノーラは再びその場にへろへろと座り込んでしまった。
「あの、リガウン団長」
エレオノーラはジルベルトを見上げる。
「どうした?」
「あの、終わったと思って安心しましたら、腰が抜けてしまいました。いや、あの、ホントに、ごめんなさい。今回の任務は毎回ヤバイって思っていたんですよね。その、グリフィン公爵とお会いする度に。もう、バレたらどうしよう、みたいな感じでした」
ジルベルトはエレオノーラの隣に腰をおろした。
「今日も、まさかグリフィン公爵がこちらの作戦にのってくれるとは思ってもいなくて。本当に一か八かみたいな感じでした」
ジルベルトはそっとエレオノーラの背中に手を回す。
「リガウン団長やウェンディも巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
エレオノーラの声は少し震えていた。
「グリフィン公爵の件は、我々も把握していたが証拠を掴むことができなかった。今回こうやって拘束することができたのも、あの薬物を押さえることができたのも、全てはエレンのおかげだ」
エレオノーラは泣きそうな笑みを浮かべた。笑っているように見えるけれど、目尻が下がって今にもそこから涙が溢れそうだ。
「ごめんなさい。あの、本当に怖かったんです」
「ああ」
ずっと一人で敵陣に乗り込んでいたのだ。そのような気持ちになるのも仕方のないことだろう。騎士団は団ということもあり、集団で動くことが原則である。基本的には単独行動はしない。だから、単独で騎士を動かす第零騎士団はそれだけ異質ということだ。
「冷えてきたな、戻ろう」
ジルベルトは立ち上がり、エレオノーラに向かって手を差し出したが、エレオノーラはそれを取らない。
「あの、リガウン団長」
「ジル、だ。エレン。もう任務は終わった」
手を差し出したまま、ジルベルトは言う。
「あの、ジル様。立てません」
ふっと、ジルベルトは笑った。
「わかった。だったら、前か後ろか、どちらがいい?」
「前か後ろ?」
エレオノーラにはその質問の意味がわからなかった。
「抱っこかおんぶだな。立てないのだろう? つまり歩けないということだ。だから私は君を運ばなければならない」
「でしたら、おんぶでお願いします」
するとエレオノーラの目の前に広い背中が現れた。
ジルベルトに背負われて、廃倉庫の二階から一階へと移動する。
「あの、ジル様」
エレオノーラはくてっと右耳をジルベルトの首元にくっつけていた。「重いですよね、すいません」
「いや、重くはない。重くはないが、むしろ……」
抱っこよりもおんぶのほうが密着度は高いらしい。密着することで気付くこともある。
「むしろ、なんでしょうか?」
「いや、なんでもない」
沈黙。ジルベルトのカツンカツンという足音だけが響く。
「あの、ジル様」
返事は無い。
「ジル様はやはり、こういった、大人な女性がお好みなのでしょうか? 多分、ジル様には知的美人かセクシー美人がお似合いになるのかなと思っているのですが」
ピタッと足を止めた。多分、ジルベルトは何かを考え込んでいるのだろう。
「まあ、そういうエレンも悪くはないが」
そこで再び歩き出した。
「いつも言っている通り、あなたはあなたのままでいい」
「ジル様。私、おかしいんです」
「どうした? どこか怪我でもしたのか?」
おかしいと言われたら心配になる。
「いいえ。私、ジル様に好かれたいと思っています」
ジルベルトは再び足を止めた。だが何も言わない。
「ジル様が、私に対して責任をとるために婚約してくださっただけなのに。私は、ジル様に好かれたいってそう思っているんです。ですからもう、婚約者を演じることができません」
ジルベルトの婚約者という仮面をつけることができない。仮面をつけることができなければ、もう演じることはできない。
「だったらもう、演じる必要は無い」
「え。それって流行りの婚約破棄……」
「されても、私は困るのだが」
ジルベルトは笑って、再び歩き出した。廃倉庫から出るとリガウン家の馬車が止まっていた。この御者も影の協力者の一人だ。
ジルベルトは馬車に乗り込むと、エレオノーラを背中から降ろして、その隣に座った。馬車は静かに動き出した。
エレオノーラは背筋をまっすぐに伸ばして、両膝の上に両手をグーにして座っている。ただその顔はその両手をただ一点に見つめていた。
「エレン。顔を見せて欲しい」
ゆっくりと、エレオノーラは首の向きをかえた。
「出会いはどうであれ、私は今、あなたを愛している。だから、婚約破棄はしない」
ジルベルトはエレオノーラの右手をとった。その手を彼女の顔の高さにまでゆっくりと持ち上げると、彼女に見せつけるかのようにその甲に唇を落とす。しかもそのとき、じっとエレオノーラの瞳を見つめていた。
「エレン。あなたの気持ちを聞かせて欲しい」
「私は……」
と言いかけて、それ以上言葉を紡ぎ出すことができない。ジルベルトがじっと彼女を見つめていた。次の言葉を待っている。
「私は諜報部の潜入班としては失格ですね」
エレオノーラは自嘲気味な笑みを浮かべる。「私は、ジル様が好きです。多分」
「多分?」
「多分。あの、うまく言えないのですが。ジル様に嫌われたくないです。ジル様が責任をとるとおっしゃってくれたから、それに応えるように、婚約者としての義務をきちんと果たすべきだと思っていました。ですが、こうやってジル様と共に時間を過ごすうちに、ジル様に嫌われたくないって思うようになってきました。まだ、十回しかお会いしたことが無いのに」
「十回、なのか?」
「はい。今日が記念すべき十回目でした。このような記念すべき日に、ジル様とお芝居を見に行くことができて、とても嬉しいと思いました」
「そうか」
「ですが、それを利用するような形になってしまい、本当に申し訳ありません。ジル様まで利用するようになってはジル様の婚約者として不適だと思いますし、またジル様にこのような感情を抱く私は諜報部として失格だと思っています。今回の事件の全貌が明らかになったら騎士団の方には退団願を出します」
「辞めるのか? 第零騎士団を?」
エレオノーラは頷く。なんという急展開。
そうか、とジルベルトは呟いたが、あの第零騎士団たちが彼女を手放すとは思えない。それに騎士団という組織を考えた場合、彼女を失うことは組織としての損失も大きいはず。
「騎士団を辞めて、田舎に引っ込もうと思います。私を知らない人たちのなかで、ひっそりと暮らしていこうと思います」
「いや、エレン。あなたは私の婚約者のはずだが? それまで辞めるつもりか?」
「私はジル様の婚約者としてふさわしくありません」
「そうか。あなたがそこまで言うなら」
とジルベルトが言うと、エレオノーラは一筋の涙を流した。ジルベルトはエレオノーラの頬を優しく撫でる。
「婚約者は辞めて、私の妻にならないか? 婚約者としてふさわしくない、というのであれば、妻ならどうだ?」
「え?」
「私はあなたを一生手放す気は無い」
そこでジルベルトはエレオノーラの背中に両手を回して、彼女をゆっくりと抱きしめた。
「ジル様?」
「私の妻は嫌か?」
ジルベルトの腕の中でフルフルと首を横に振る。
「エレン、私はあなたを愛している」
「はい」
「だから、いつまでも私の隣で笑っていて欲しい」
「はい」
「できれば、あなたの気持ちも聞かせて欲しい。あなたには、他にふさわしい人がいるのではないかと、いつも不安になる」
「私も、ジル様のことが好きです。これからもずっと、お側にいても良いですか?」
「ああ、もちろんだ」
ジルベルトはエレオノーラの顔を覗き込むと、彼女の唇に自分のそれをそっと重ねた。
「団長、ご結婚おめでとうございます」
お茶をコトリと執務席の机の上に置きながら、副団長であるサニエラから事務的に声をかけられた。
「ああ、ありがとう」
「それで、式はいつ頃行う予定ですか?」
「それを今、考えている」
グリフィン公爵の悪事が明るみになったと思ったら、芋づる式でずるずると他の悪事とか悪党とかまでもが明るみになってしまった。通常の騎士団としての護衛や警備の他に、それらについても対応しなければならず、間近では長期の休みが取れそうにない。早くて半年後か?
そんなわけで。
二人が結婚したのも、あの後、つまりエレオノーラと十回目に会ったとき、そのまま彼女をフランシア家の屋敷に送り、結婚についての話をフランシア子爵と夫人へ伝えたところ、何も問題ないという快諾の一択。
そして、彼女と十一回目に会ったときには、リガウン侯爵とその夫人に、つまりジルベルトの両親に結婚の相談をしたところ、どうせ式を挙げるための休みの調整なんかすぐにはできないのだから、さっさと申請してしまえ、ということで、そのまま教会に結婚申請書を提出する流れになってしまった。このとき、エレオノーラが本当のエレオノーラでジルベルトの両親と会ったとき、彼の母親は「まあ」と言いながら「やはり、あなたにはあなたの良いところがあるわね」とジルベルトと同じようなことを言っていた。
「そういうわけでして、この後、団長は第零騎士団から呼び出しがかかっております。団長も大変な相手とご結婚されましたね」
サニエラの眼鏡は今日もキラリと光っている。
「そういうことは早く言え」
淹れてもらったお茶に口をつける時間もなく、ジルベルトは「後を任せる」と言って席を立った。
仕方なくサニエラは、飲まれなかったお茶を自分で飲むことにした。
ジルベルトが向かった先は、この建物とは別の建物内にある第零騎士団団長室。ノックをしてそこに入ると、そこにはそれなりの人物がすでに待っていた。
第零騎士団団長のショーン、諜報部部長のダニエルが並んで座っていて、その向かい側にいるのがエレオノーラ。そう、今日は見るからにエレオノーラなのだ。
「悪いな、呼び出して。まあ、座れ」
とショーンに促されたのは、エレオノーラの隣の場所だった。ジルベルトが隣に座ると、彼女はこちらに顔を向けて、ニコリと笑う。うん、可愛い、とジルベルトは心の中で思った。
「まあ、それで、だな。とりあえずは、結婚おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「それで、だな……」
とショーンは相変わらず歯切れが悪い。
「何かあったのか?」
仕方なくジルベルトが尋ねた。
それに対しショーンは。
「何かあったのは俺たちではなく、お前たちの方ではないのか?」
「は?」
「いや、その、あれだな。エレオノーラの方からこういうものを渡されてな。それで、お前たちの結婚を聞いたわけだから、つまり、お前たちが親になるのかと思ってだな」
「は?」
「団長。私、妊娠してませんよ。まだジル様とは、十三回しかお会いしておりません。そして今日がその記念すべき十三回目です。ですから、そういうことは致しておりません」
「な、エレン。お前、まだしょ」
「お兄さま」
ゴホンとわざとらしく咳払いして兄妹の会話を遮り、ジルベルトは口を開く。
「ショーン。まあ、何か誤解があったようだが。そういうことだ」
「だったら、なぜ彼女が退団願いを提出する? 普通はそう思うだろう? 新しい命を授かったから辞めたいって」
呼び出されたのはやはり彼女の退団の件だったか、と思う。
「まあ。ついでに言うとだな。彼女の退団願いと私たちの結婚の件も関係ない。私は彼女に退団を薦めてもいないし、それについて止めてもいない。それは彼女の意思だ」
「エレン、なぜだ」
腰を浮かして、目の前のテーブルに両手をついてダニエルが言った。「なぜ、騎士団を辞めたくなった?」
「私、諜報部として失格なのです」
「どこがだ?」
「だって、ジル様のことを本気で好きになってしまったので。本当は婚約者を演じるはずでした。ですが、いつの間にか」
エレオノーラは両手で顔を覆った。
「おい、ジル。お前、自分の保身のために彼女を利用したわけではないよな」
ショーンが言っているのは、以前サニエラが言っていた昇進の件だろう。
「ショーン団長。妹は思い込みが激しいのですよ。婚約者になったにも関わらず、それを信じられずにいたわけです」
ダニエルがフォローし、浮かした腰を元に戻した。
「だって、ジル様は責任をとりたいとおっしゃったのです。そうしたら私も責任を持って婚約者を演じる必要がありますよね?」
エレオノーラのそれを聞いて、ショーンは口を三角に開いてしまった。
「ジル、さっきは悪かった。お前に同情する。我が部下ながら、彼女はよくわからん、ということがよくわかった」
ジルベルトは苦笑した。
「ショーン団長。私は彼女の兄ですが、妹のことはよくわかりませんよ」
そうだな、とショーンは呟いた後。「エレオノーラ、よく聞きなさい。まずジルベルトとの婚約の件だが、それは騎士団の任務とは一切関係が無い。だから、君が婚約者を演じることができず、ジルベルトを本気で好きになったとしても、何も問題は無い、ということだ。わかるか?」
「なんとなく?」
「なんとなくでもわかったなら、それでいい。というわけで、これはこうしていいな?」
ショーンはエレオノーラが提出した退団願いを、縦にビリッと破った。そしてそれらを重ねるとまたビリッと破り、四分割にされてしまう。
「エレオノーラ・リガウン。君は今までもこれからも、第零騎士団諜報部潜入班の所属だ。わかったね」
はい、とエレオノーラは頷いた。それを見て、ショーンはやっと安心した。
エレオノーラの退団願いを総帥に提出したら、めちゃくちゃ怒られるのが目に見えているからだ。
「あぁ、良かった。これで安心だ。総帥、怒るとめちゃくちゃ怖いんだもん」
とショーンが呟いたことに、他の三人は気付いていない。
「ところで、リガウン団長。妹と会うのが今日で十三回目というのはどういうことでしょうか。確か、十一回目で結婚申請書を提出して、十二回目は両親との食事会であったと記憶しております。それ以降、妹には会えていない、と?」
「まあ、あれだ。最近、なぜか忙しくて屋敷の方には全然顔を出せていない」
「つまり、リガウン団長と妹はすでに別居婚である、と?」
「不本意ながらそういうことだ」
結局、結婚申請書を出したものの今まで変わらないんじゃないか、とダニエルは思った。変わったのはエレオノーラの気持ちくらいか?
そう思って目の前の彼女に視線を向けると、幸せそうにジルベルトと笑い合っている。変わったのはエレオノーラだけでなく、この堅物もなんだろうなと思ったダニエルだった。
第一騎士団団長のジルベルト・リガウンが、第零騎士団諜報部部長ダニエル・フランシアの妹、エレオノーラ・フランシアと結婚した、という話が騎士団の中を駆け巡ったのはほんの一月程前。
エレオノーラ・フランシアと言えば、学院にも通わずに卒業し、社交界にもほとんど参加していないという幻の令嬢。兄達が溺愛し過ぎて屋敷に閉じ込めているんじゃないか、とか、実は人前に出られない容姿なのではないか、とか。そんな噂もちらほらと。
だが、ジルベルトが建国記念パーティに、まだ当時は婚約者であったエレオノーラを連れて出席した。そんな彼女は婚期を逃したジルベルトに似合うような落ち着いた女性であった、とも囁かれている。知的な感じがする美人であった、と。
そして知的美人と囁かれている彼女は、口から大量のエクトプラズムを吐き出しているのではないかと思えるほど深くて長いため息をついた。
「まあ、エレン。浮かない顔をしてどうしたのかしら? 新しい部屋はお気に召さない?」
「いえ、そんなことありません。お義母さま。素敵なお部屋をありがとうございます。ただ」
「ただ?」
「一緒にいるべき人がいない、と言いますか。一応、新婚なはずなのに?」
一般的には新婚に分類されるはずなのに、思わず疑問形になってしまった。
「まあ」
エレオノーラはリガウン家のサロンで、彼の母と共にお茶を飲んでいた。
「それにお義母さま。私たち、いつになったら結婚式を挙げられるのでしょうか?」
「そうよねぇ」
義母はゆっくりと口元にカップを運んだ。それを一口含み。「せめて、私が生きているうちにあなたたちの結婚式を挙げてもらえると嬉しいのだけれど」
「お義母さま。私、結婚してから、ジル様とはまだ二回しかお会いしていないのです。これもおかしいと思いませんか? 結婚して一月以上経つのに、二回ですよ。旦那さまと二回しか会えてないんですよ。しかもそのうちの一回は職場でお会いしただけです。別居婚だとしても、会えなさすぎだと思いませんか? しかも私がこちらに来てからは一度も会えていないのです。やはり、ジル様は私と結婚したことを後悔されているのでしょうか」
うーん、と義母は頬杖をついた。息子がこの娘にベタ惚れなのは、見ていれば誰だってわかる。むしろ見ている者が恥ずかしくなるくらいにあからさまだ。
「やはり、グリフィン公爵家の件よね」
義母が呟いた。グリフィン公爵の悪事の数々。しかも前王の弟の子、という立場なだけあって政界も大混乱だ。五つある公爵家、そのうちの一つの失態。
「ですよね。みなさま、大変なんですよね。ですから、私のわがままでジル様にこちらに帰って来ていただきたいと思うのは、ダメですよね、きっと」
それでは、私と仕事、どっちが大切なの? と迫るようなものじゃないか。そもそもの比較対象が間違っている、というものだ。
でも、ジルベルトは働きすぎではないか、とも思う。立派に労働基準法違反だ。休みがない。帰ってくることもできない、つまり深夜残業もしている。一体、いつ休んでいるんだろう? それに残業手当や深夜勤務手当はついているのか? とか。そんなことまで考えてしまうエレオノーラ。寂しすぎて、脳内での考えが暴走しかけているようだ。
うーん、と義母は頬杖をつく手をかえた。忙しいにしても、屋敷に帰って来ることができないくらい忙しいというのは、いかがなものか。できれば式を挙げるために二日くらい休みを取らせてもらえないのだろうか。
「そうよね。せめて、結婚式だけは早めに挙げたいわよね。まあ、こうなることがわかっていたから、さっさと申請書だけ出したっていうのもあるけれど」
そこで、義母はちょっと温くなったお茶をすすった。
こうなったら、騎士団の総帥に直談判することも考えていた。だが、一月以上会えていないと言う。むしろ、あの息子が我慢できるとは思えない。
婚約期間中も、数回程度しか会っていないはずだが、それでも十日くらいに一回の割合で会えていたはずだ。何しろ、婚約申請書を提出してから百日後に結婚申請書を提出しているのだから。本人たちはそれには気付いていない。百日後に結婚する騎士かよ、と、義母は思っている。
再び、義母が温めのお茶に口をつけようとしたときに、廊下のほうが騒がしいことに気付いた。人の足音が聞こえてくる。しかも勢いよく。廊下は静かに歩きなさい、とその場にいたなら間違いなく注意しているだろう。
それはもう、不躾に、本当に不躾に扉が開かれた。こんな不躾な開け方をしてくる人物を、義母は二人しか知らない。一人は自分の夫。だが、今日は例のグリフィン公爵の件で王宮に呼び出されていた。年の功というやつで、騎士団を引退しているにも関わらず呼び出されてしまった。仮に彼が帰ってきたとしても、今日の今日でこのような開け方はしない。ということは、もう一人の心当たり。
息子のジルベルトしかいない。