本当に翻訳の仕事がやってきた。あれは社交辞令ではなかったのか、とエレオノーラは思っていたのだが。それでも通訳をやらされるよりは何倍もマシだ、と思うことにした。ただ、騎士団としての潜入捜査の一つとして、通訳として潜入するのも悪くはないかもしれない。それはそのタイミングがきたときに、ジルベルトを通して国王に打診すればいいだろう。
 両手を重ね、頭の上で伸ばした。そのタイミングで部屋をノックされた。

「あら、ダンお兄さま。どうかされましたか?」

 姿を現したダニエルは、仕事から帰ってきてそのままここに向かってきたのだろう。騎士団の騎士服のままだ。それだけでも珍しいのに。

「いや、その」
 と珍しく歯切れが悪い。あの兄らしくない。

「何か、潜入捜査ですか?」
 不思議に思い、エレオノーラは立ち上がった。

「いや、そうではない」

「いつものダンお兄さまらしくないですね」
 そして、ダニエルに近づく。

「あ、ああ。とにかく、落ち着いて聞け」

「私は落ち着いておりますよ。むしろ、落ち着いていないのはダンお兄さまのほうではありませんか。何か、任務のほうで問題でも?」

「リガウン卿がいらっしゃった」

 重力に負けたのか、エレオノーラの口はポカンと開いてしまった。
「パメラ、パメラ」
 急いで侍女を呼ぶ。「ちょっと、おかしくない恰好にしてちょうだい」

「承知いたしました」

「ダン兄さま。十分で行くわ。ジル様にはそうお伝えして」

「わかった。エレンがリガウン卿と会う気になってくれて助かったよ。断られたらどうしようかと思っていたからな」
 兄の口調がいつものように戻ってきた。ダニエルが心配したのはエレオノーラが会わないという選択肢を選ぶことだったのだろうか。

「お待たせしてしまって、申し訳ございません」

 ちょっと人前に出るような恰好にしてもらったエレオノーラは、サロンでダニエルと話をしていたジルベルトに向かって頭を下げた。

「では、妹も来たことですので。私はこれで」

 ダニエルが立ち上がり、サロンを後にした。兄の姿を見送ったエレオノーラはなぜかその場で立ち尽くしていた。

「エレン、座ったらどうだ?」

「あ、はい。すいません」

「いや、別に謝るようなことはしていない。むしろ謝らなければならないのはこちらの方だな。急に押しかけてしまって申し訳ない。ダニエル殿に聞いたら、しばらく向こうに行かないと言うことだったので」
 ジルベルトが言う向こうとは王城内にある第零騎士団の建物のことだろう。
「ダニエル殿の帰宅に合わせて、共に来てしまった。すまない」

「いえ、突然のことで驚いただけです。今も、このような恰好で申し訳ありません」

「いや」
 ジルベルトは座っているソファの隣をポンポンと叩いた。もしかして、そこに座れということだろうか。いやいや、パメラもいると言うのに。
 助けて、という視線をパメラに向けると、彼女はニッコリと笑って、お茶とお菓子の準備をしようとしている。パメラの顔には、私には何も見えませんと書いてあるかのよう。

「失礼します」
 エレオノーラは仕方なくジルベルトの隣に座った。お茶とお菓子の準備を終えたパメラはペコリと頭を下げて、部屋を出る。つまり、いろんな人のいらぬ気遣いによって、この部屋に二人きりにされてしまった、ということだ。

「エレン」
 ジルベルトは、肩から流れ落ちているエレオノーラの髪を一束すくった。「その姿もよく似合っている」
 すくった一束に口づけを落とす。

「あなたに会いたかった」

 ジルベルトからのその一言で顔が火を吹いた。また、両手で顔を覆ってしまう。

「エレン、顔を見せて」

「無理です。恥ずかしすぎて。それに、今日は、急に来られたので顔も間に合ってません」

 その表現に、ジルベルトはふっと息を吐いた。

「その、いつも言っていることだが。エレンはエレンのままでいい。無理して婚約者を演じる必要は無い」

「ですが、本当にこの姿のままでは。ジル様の隣に立つ資格はありません」

 エレオノーラの顔を隠している手の手首を、ジルベルトは優しく捕らえた。

「久しぶりに会えたのだから、あなたのその顔をよく見せてくれないだろうか」

 ジルベルトの声があまりにも真剣だったため、エレオノーラは恐る恐る手をどかした。目の前には柔らかい表情を浮かべたジルベルトの顔がある。

「あの、私。本当に顔が幼いと言いますか。そんなに年相応に見られないといいますか。それで、あの。ジル様の隣には不釣り合いといいますか」

「少し黙ってもらえるか? 黙らないならその口を塞ぐぞ」

「ひぇっ」

 さすが第一騎士団団長。凄みをきかせられると、黙るしかない。

 ジルベルトの両手は優しくエレオノーラの両頬を包んだ。これでは逃げられない。ジルベルトの顔が近づいてきて、ぶつかると思い、エレオノーラは目を閉じた。

 コツン。

 おでこがぶつかった。あれ?

「ふふふ、あははは」
 いきなりジルベルトが声をあげて笑い出した。

「どうかされましたか? ジル様」

 尋ねると、いきなりエレオノーラの眉間を、その人差し指でぐりぐりと衝いてきた。

「な、何をなさるんですか」

「そんなに難しい顔をしなくてもいい。だから、いつも言っているだろう? あなたはあなたのままでいい、と」

 そんなことを言ってくれるのは、ジルベルトが初めてだった。だから、自分のままというのがよくわからない。だけど、そう言ってもらえることは嬉しい。
 エレオノーラは、頬を膨らませた。ここまで言われたのであれば、ジルベルトと二人きりの時は何も演じないようにしよう。子供っぽくても、年相応に見えなくても。

「それで、今日はどのようなご用件ですか?」

「あなたに会いたいと思ったから来た。それは用件にはならないか?」

「会いたいと思ったからには、何かしら理由があるのではないのですか?」

「ああ、そうだった。あまりにもあなたが可愛らしくて、肝心なことを忘れるところだった」

 ジルベルトの言葉で、エレオノーラはまた精神的なダメージを受けた。