今日は久しぶりに終電に間に合った。
 よかった。とにかく疲れを取らないと……早く香椎に帰ろ……
 思いながら無心で空いていた座席に滑り込み、トートバッグを抱えて目を閉じる。

 ――その時、朗々とした車内アナウンスが響く。
 
『ご乗車ありがとうございます。次の停車駅は大濠公園、大濠公園です。ご乗車の際、駆け込み乗車は――』

 無情な車内放送。はっと、まどろんでいた目が覚めた。
 違う。これ、真逆。
 私はドア付近にたむろする終電まで飲んでいた酔っぱらいの人の波をかきわけ、あわてて大濠公園駅で降りた。

「あぶなかった……唐津に連れていかれるところだった……」

 どっと疲れを感じると同時に、何もかもどうでもよくなってくる。とりあえず突っ立っていてもしょうがないので、私は駅のホームから地上に出て大濠公園へと歩を進めた。

 すでに時刻は0時を回っている。

「どうやって帰ろう。タクシー? 無理だよ…」

 すっかり日が落ちた大濠公園には勿論、誰の姿もない。
 私の中で大濠公園といえば、普段は犬の散歩をする人やジョギングをする人で賑わっている穏やかな憩いの場だ。そんな場所が真っ暗でこんなに閑散としていると、ちょっと怖い。
 池の水面に満月が映って揺らめいている。鳥が、ばさばさと木々をざわめかせる。
 怖い。
 ぼんやりと歩いていると、不意に――ゆら、と景色が変わった気がした。

「え?」
 気が付けば。
 私の目の前には、先日天神駅前で捕まってしまったあの占い師がいた。

「見つけた」

 金に輝く目を光らせ、低くうなるようにつぶやく。
 ぱっと見は人の形をとっているものの、ローブのフードを被った頭からは猫耳が飛び出していた。手足の服はびりびりに破れ、中からもふもふの黒猫の手足が覗いている。
 猫ちゃんだ~♡可愛い~♡
 なんて癒されない! とんでもない! 
 鋭い爪がぎらりと輝き、私へとじわじわと近寄ってくる。

「あの、猫さん、その……私はただのOLです、美味しくないです……!」

 誰か助けてほしい。
 にじりよってくる彼から後ずさりつつ、辺りをきょろきょろ見回しても当然深夜。誰も助けてくれる気配がない。それに景色もなんだか、モノクロになっているような――

「これは結界。貴方をここで切り刻んで血を啜っても、誰の邪魔もされない……」
「待ってください!」

 私は思わず叫ぶ。

「こんなことをしたら……人間に気づかれなくても、お仲間さんとか、あやかしを退治する人たちには見つかっちゃうんじゃないんですか!?」

 私は篠崎さんの言葉を思い出す。
 あやかしにはあやかしのルールがある。篠崎さんはあやかしの自浄作用として猫さんの不法行為をとがめていた。
 きっと人間が気づかなくても、あやかしが私を襲ったとなれば黙っていない誰かがいる。

 ――ここで止めなければ、猫さんも、あやかしの皆さんもみんな困ることになる。

「どのみち魂を吸わなければ俺は死ぬ。俺はまだ、死にたくない!!」

 私があれこれと考えているうちに、猫さんが半狂乱に叫んだ。

「猫さん……!」

 襲い掛かる爪。反射的に身を庇うと、ばちんと何かをはじく音がする。私が、何かに守られている。

「あの狐……」
「え?」

 猫さんは私のトートバッグを凝視している。
 そこにぶら下げていたICカードケースが淡く光っているので取り出してみると、はや○けんの例の犬の目が光っている。よくわからないけれど私を守る護符になってくれているらしい。

「はや○けんってこんな機能あるんだ……あ、目にシールが貼ってある」

 そういえば昨日、川副さんの屋台に行く前、彼は私のトートバッグを勝手にかっぱらっていた。その隙に貼られたのだろう。

「篠崎さん……」

 篠崎さんは私を心配して、こうしてお守りをつけてくれていたのに――私は彼の誘いを一方的に断った。あやかし関係の仕事なんて怪しい、普通じゃないから、と拒絶して。
 あの時私を見送った篠崎さんは寂しそうな顔をしていたように見えた。
 人間が、こうして怯えるから。普通じゃないって退けた世界の中に彼も、目の前の猫さんも生きている。

 私は篠崎さんの事も、あやかしの事も何も知らない。
 けれど彼は少なくとも、私に美味しいうどんをごちそうしてくれた。
 しかも。普通の人間なら食べに行けないらしい、川副さんの美味しいうどんを。

 川副さんはあやかしだけど、平和に屋台を開いて頑張って働いていた。
 篠崎さんも、他のあやかしの雇用の為に頑張っている様子だった。

 彼らは平和に過ごして、あやかしが人間社会から駆逐されないように頑張っている。
 私がここで猫さんに負けてしまっては、猫さんが私に危害を加えてしまえば――彼らの『普通』が脅かされてしまう。

 ――それに。
 私は目の前の猫さんを見た。

「ッ……!」

 猫さんは私の視線に身構える。
 彼も本当は、この社会にいたい人なんじゃないだろうか。
 菊井楓(わたし)、落ち着いて。
 主任がやらかしたクレーム対応で感情的な人の相手は慣れてるじゃない。

「猫さん。私を今襲っても、何の問題の解決にもならないと思いませんか?」
「……少なくとも俺の霊力は満たされる。『此方』にいられる時間が、長くなる」
「でもどうせ、すぐにお腹がすくんでしょう? 私がどんなに美味しい霊力を持っていようとも、1年、10年って、ずっと満たされていられますか?」
「……」
「そんな短い時間の為に、猫さんの猫生棒に振るのはやめましょうよ」

 霊力なんて知らない。あやかしなんてわかんない。
 天神に屋台があることだって知らない、私は世間知らずの『普通』のOLだから。
 けれど――普通だから。私は困っている彼を、ほおっておけるほど理性的になれない。

「本当は、人を襲うのは嫌いなんですよね? だって私を襲いたいなら、そんな風に宣言なんてしなくていいはずです。後ろからガバっと、爪を立てたら私なんて一発でしょう」
「それは……」
「先日だって、そうです。私に強引にパワーストーン・ブレスレットを押し付けようとして……セールストークを言ってましたけど……本当は、丸暗記したセールストークを口にしていただけですよね」

 猫さんの目が見開く。私は確信した。

「私は転職をしたい、普通に生きたいって相談しました。猫さんが真剣な顔をして傾聴してくださっていた時、確かに私の気持ちを汲んでくださっていたように思います。なのに、ブレスレットの話になったとたん……さっきまでの話を聞いていなかったかのように、『出世できる』とか『結婚できる』とか。普通に暮らしたい私の願いと真逆のものが叶うと言いました。だから思ったのです。どこかで貴方は占い師がパワーストーンを売りつける姿を見たことがある。そのやり方で、霊力を吸い取るしかないと思った。だから形だけ見様見真似で真似した……」

 表情は固いものの体は素直だ。猫さんの尻尾がふにゃり、と下がる。
 やっぱりこの猫さんは悪い人じゃない。ちゃんとした人だ。

「猫さんはとても誠実に傾聴してくださいましたし、凄く信頼できる方だなと思いました。それに記憶力だって、行動力だっておありなんです。形ばかり占い詐欺の振りをして霊力を得ようとするよりも、もっとまっとうに働いて生きたほうが絶対向いてます。……働くのと霊力がどうのは、私はちょっとわかりませんけど」

 その時。
 私の背後から足音が近づいてきた。

「人と繋がれば、霊力は自然と回復するんだ。『此方』に請われているうちは」

 街灯にきらきらと輝く金髪に、ぴんと伸びた狐耳。篠崎さんだ。どうしてここがわかったのだろうか。もしかして私のカバンにまだ何かいろいろ仕込んでる? 
 訝しむ私をよそに、彼は猫さんをまっすぐに見つめた。

「かつてあやかしは人に使役されていた。そして今のあやかしは人の社会で仕事をする。人に……必要とされることが、あやかしが『此方』で生きていくために……必要だから」
「そうだ」

 猫さんが口を開く。

「だから俺は……天神で……」
「わかってるよ。だからスカウトしに来たのに、なんで逃げたんだよ昼間は」
「……」
「あやかしは人間社会に無理に生きずとも、『彼方』に行くことだってできる。それなのに死にかけても『此方』にとどまるって事は――理由があるんだろ? おおかた……自分を飼ってくれていた人間に未練があるってところか」
「……そうだ」

 そのときごほ、と猫さんが血を吐いて倒れる。

「猫さん!」

 思わず駆け寄れば、猫さんは人の姿を失い小さな黒猫になっていた。

「……限界だったか」

 大濠公園の街灯に照らされ、猫さんのビロードのような黒い毛並みが苦し気に上下しているのが見える。
 篠崎さんは彼を黙って拾い上げ、私に抱えさせてくれた。
 猫さんは私の腕の中で丸くなる。少しだけ、辛い呼吸が穏やかになった気がする。

「あんたは霊力が駄々洩れだから、触れているとあやかしは心地よいんだ」
「そうなんですね。役に立てるならよかった」

 猫さんは、私の腕の中で丸くなったまま人の声で話し始めた。

「俺は……あの人の家を、守り続けたかった」

 それから猫さんは途切れながら語ってくれた。
 遠い昔から代々、ずっとひとつの家を猫又として見守ってきたことを。
 かつて猫を使役する事が当たり前に行われた時代から、あやかしに頼らない時代になり、そして一族もいつしか猫があやかしであることを忘れてしまった。
 けれど猫は主を忘れず、つかず離れずの距離で家を守り続けた。

 飢饉にも明治維新にも幾度の世界大戦にも途絶えなかった家はついに、過疎化によって潰えてしまった。
 消えた集落の消えた家。そこで、猫は最期の主を看取って霊力に飢え、福岡市という人里に降りてきた。

「生きていれば……この世界にいれば、あの人たちの家を見守り続けられる。家が朽ちても土地を、あの人たちが眠る山と一緒にいられる……俺は……」

 黒猫はぽろぽろと涙をこぼす。
 すっと体が軽くなってきたように感じる。私は声を張り上げた。

「猫さん! 猫さん! ……死なないで! 私の霊力?くらい、あげますから!」
「だめだ」

 その時、ぞっとするほど冷たい声で篠崎さんが遮る。

「契約なしに霊力を与えるのはダメだ」
「どうして……!」