ーー千年の狐は筑紫野の地で生まれた女狐だ。
獣として生まれ、獣としての生を全うした後に、彼女は弟と共に霊狐としての神格を得た。
霊狐の姉弟は一対の豊穣神・農耕神として崇敬され、大陸文化に通じた筑紫野の民から「春雷」の名を得た。
春と雷。
一対の霊狐は長い時を経て修行を重ね、尾を増やし、室町時代末期には五尾の狐にまで成長した。
時は元亀二年、筑前国守護代として立花山城に入城した戸次道雪は巫女として拾った桜を介して姉弟と契約を結び、荼枳尼天に通じる霊狐としての力を二人に与えた。
狐は善く働き、立花に土地の加護と戦神としての加護を齎し、立花は彼らに居場所と霊力を与えた。
契約の証として春雷は「尽紫」と「紫野」の名を与えられた。
名を持つ限り彼らの主人は立花そして、立花に仕える巫女の桜だった。
桜は天涯孤独の身でありながらも、歩き巫女の生き残りという出自ゆえかどこか世間擦れしない変な娘だった。桜の実質的な主人は戸次道雪ではなく彼の娘の誾千代姫で、彼女もまた普通の武家の姫君としては異質な娘だった。
珍しい者同士の二人は何かと馬が合い、まるで姉妹のように仲睦まじい主従関係を結んでいた。
狐の姉弟と、姫城督と巫女。
四人の不思議な関係はいつまでも許されるものではなかった。
時代に翻弄された姫城督は三十三歳の若さで小さな村でひっそりと熱病で逝き、巫女は正気を失い溺死した。
そして愛する巫女を失った弟狐は悲しみのあまり、筑紫野に禍を為す悪狐へと成り果てた。
ーー全てがめちゃくちゃになり、姉狐は途方に暮れた。
姉狐はまず初めに、か弱い女のふりをして巫女を呪った呪術師に近づき、一人一人を捻り潰した。
そして厄災の塊となった弟を、姉の責任として徹底的に痛めつけた。
修行で得た力も失い、一本尻尾に成り果てた情けない弟狐は空な瞳で、「殺してくれ」と姉狐に請うた。
「殺してくれ。俺はもう、桜がいない世にはいたくない」
「私はあなたを愛しているわ。たった一人の弟を、私が殺せるわけないじゃない」
姉狐は心の底から、たった一人の弟を愛していた。
弟の愛していた巫女、桜のこともまた愛していたけれど、弟を壊した彼女のことを恨み始めてもいたーー逆恨みだと、分かってはいても。
封印した弟狐が回復してきた頃に、姉狐は一つの提案をした。
「ねえ紫野ちゃん。一緒に『彼方』で暮らしましょう。彼方ならあやかしの皆がいるわ」
人の世が栄えるに従って、次第に『此方』にあやかしの暮らせる場所が少なくなっていた。
土地神は神仏としての名を得て変容して生き延び。人に化けられるあやかしは人として生きる。そういう器用なことができないあやかしは、次第に『彼方』という場所に住まうようになった。
『彼方』に行くのなら、永遠に『此方』には戻れなくなる。姉狐はまるで追い出されるように『彼方』に行くのは嫌だったが、弟狐と二人で幸せになれるのなら、それでもいいと考え始めていた。
しかし。姉狐の提案を、弟狐は断った。
「俺は桜に逢いたい。一目だけでも、もう一度」
弟狐は次第に瞳に正気を取り戻し始めていた。
どこから何を吹き込まれたのか、弟は生まれ変わった桜と再会する事を願い始めたのだ。
願いは執着となり、年月に癒やされて霊力を取り戻した後でも、弟狐はいつまでも一尾のままだった。
姉狐は必死に説得した。
「執着を解き放たなければ霊力は戻らないわ。一本尾の情けない霊狐のままでいいの?」
「構わない。この胸の紋様(いたみ)と共に生きていく」
弟狐の瞳は再び輝きを取り戻していた。
姉狐は弟狐を愛していた。何よりも。自分のことよりも。
「そう。分かったわ……」
弟狐を残して一人だけ楽になれないからと、姉狐は弟狐に付かず離れず『此方』で生きていた。
弟狐はそのまま福岡の祠に住まい、羽犬姫の後ろ盾の元、あやかしに居場所と仕事を与える商いを始めた。
「あの犬女め。私の紫野ちゃんによくも、儚い希望を与えるなど」
爪噛む姉狐をよそに、弟狐はあやかしの為に日々仕事に励んでいた。
それはまるで、人の世で異質な存在として散っていった、桜や姫といった愛する人々を救いたい気持ちの代償行為のように、姉狐の目には映った。
「人は生まれ変われば魂が同じでも、記憶は引き継げない。ーー全てを忘れた桜だったものを見て紫野ちゃんが傷つく前に、私は生まれ変わった桜を殺すわ」
弟狐愛しさあまり、姉狐はそう決意した。
ーーー
殺害を決意して数百年の時が経ち、姉狐はいつしか九尾狐にまで成長していた。
九尾狐となった姉狐はある日、遂に桜が生まれ変わった産声を耳にした。
それはーーついに生まれた、桜の生まれ変わりだった。
弟と出会う前に殺そう。初志貫徹の喜びを胸に、姉狐は桜の魂を持つ赤子の元へと駆けた。
姉狐は看護師の姿に化けた。
そして産婦人科で母親の隣に寝かされた、真っ白な肌着を身につけた生まれたての赤子を見た。
赤子は何も知らない顔をして、すやすやと眠っていた。
「ごめんなさい。けれど、紫野ちゃんがこれ以上苦しまないように……」
赤子を前に指を伸ばし、姉狐は殺そうとした。
けれどーー指を掴まれてしまった瞬間、姉狐は赤子に何もできなくなった。
指から伝わる、懐かしいだだ漏れの霊力。魂が満たされていくのを感じて、姉狐は嗚咽した。
「やっと生まれ変われたのね、桜………」
結局姉狐は、桜ーー菊井楓を殺すことを諦めた。
四百年越しに再会して、姉狐は本当の初志を思い出した。
弟狐も愛していたけれど、同時に桜という女のことも、とても愛していたことを。
本当は桜を、ずっと守りたいと思っていたことを。
殺せなかった姉狐はだだもれ霊力の楓を守るため、陰日向に寄り添い結界を張り続けた。
楓が健やかに「普通」の人生を過ごせるように見守り続け、あやかしや「普通」ではないものから遠ざけた。
普通の人生に誘導しようとしすぎて、楓が次第にコンプレックスを感じてしまう事もあったけれど。
「春ちゃん!」
楓は姉狐と友人になり、天真爛漫な笑顔と親愛を姉狐に向け続けた。
幼稚園の制服を纏って。
ランドセルを背負って。
セーラー服を着て。
艶やかな振袖を身に纏って。
桜吹雪の中で季節が巡り、楓は順調に健やかに、だだ漏れ霊力の影響で、ちょっと変わった女の子として成長していった。
姉狐はこのまま、土筆春(つくしはる)として、弟狐から隠し通したまま、楓にごく普通の幸せを見守れると思っていた。
けれど。
楓が社会人となってから、二人で会える時間が激減し、密かに結界を張り続けることが困難になっていた。
愚かな猫又ーー占い師に捕まった時点でかなり薄くなっていたものが、ついに弟狐と出会って結界が全て壊れてしまった。
「やっぱり出会ってしまったのね……」
後悔しても時は巻き戻せない。姉狐はそっと二人を見守り続けた。
弟狐は楓と接する中で、再び彼女に恋をしているようだった。
そして楓もまた、弟狐に向かって、今まで姉狐に見せた事のない顔をするようになった。
ーーこのままでは、二人はまた不幸になる。
そう考えたのは弟狐も同じらしく、彼もまた一人、楓に対する態度に悩んでいる様子だった。
姉狐は決めた。
自分が悪者になって、二人を引き離してしまおうと。
弟狐は一緒に『彼方』へとつれていこう。
楓は元の『普通』の人生に戻させよう。
前世のように霊力の強さゆえに、二人が不幸になってしまわないように。
けれど楓は弟狐に力技で会いにきた。逃げる弟狐に全力でぶつかり、遂に弟狐の心を溶かした。
ーーそれだけでない。楓はずっと騙していた、酷い『友達』の姉狐にまで手を伸ばした。
山の中に二人を残し、姉狐は一人ぽつりと呟く。
「……姫。これでよかったと思う?」
肩にふわりと、白く柔らかな懐かしい手が、触れた気がした。
獣として生まれ、獣としての生を全うした後に、彼女は弟と共に霊狐としての神格を得た。
霊狐の姉弟は一対の豊穣神・農耕神として崇敬され、大陸文化に通じた筑紫野の民から「春雷」の名を得た。
春と雷。
一対の霊狐は長い時を経て修行を重ね、尾を増やし、室町時代末期には五尾の狐にまで成長した。
時は元亀二年、筑前国守護代として立花山城に入城した戸次道雪は巫女として拾った桜を介して姉弟と契約を結び、荼枳尼天に通じる霊狐としての力を二人に与えた。
狐は善く働き、立花に土地の加護と戦神としての加護を齎し、立花は彼らに居場所と霊力を与えた。
契約の証として春雷は「尽紫」と「紫野」の名を与えられた。
名を持つ限り彼らの主人は立花そして、立花に仕える巫女の桜だった。
桜は天涯孤独の身でありながらも、歩き巫女の生き残りという出自ゆえかどこか世間擦れしない変な娘だった。桜の実質的な主人は戸次道雪ではなく彼の娘の誾千代姫で、彼女もまた普通の武家の姫君としては異質な娘だった。
珍しい者同士の二人は何かと馬が合い、まるで姉妹のように仲睦まじい主従関係を結んでいた。
狐の姉弟と、姫城督と巫女。
四人の不思議な関係はいつまでも許されるものではなかった。
時代に翻弄された姫城督は三十三歳の若さで小さな村でひっそりと熱病で逝き、巫女は正気を失い溺死した。
そして愛する巫女を失った弟狐は悲しみのあまり、筑紫野に禍を為す悪狐へと成り果てた。
ーー全てがめちゃくちゃになり、姉狐は途方に暮れた。
姉狐はまず初めに、か弱い女のふりをして巫女を呪った呪術師に近づき、一人一人を捻り潰した。
そして厄災の塊となった弟を、姉の責任として徹底的に痛めつけた。
修行で得た力も失い、一本尻尾に成り果てた情けない弟狐は空な瞳で、「殺してくれ」と姉狐に請うた。
「殺してくれ。俺はもう、桜がいない世にはいたくない」
「私はあなたを愛しているわ。たった一人の弟を、私が殺せるわけないじゃない」
姉狐は心の底から、たった一人の弟を愛していた。
弟の愛していた巫女、桜のこともまた愛していたけれど、弟を壊した彼女のことを恨み始めてもいたーー逆恨みだと、分かってはいても。
封印した弟狐が回復してきた頃に、姉狐は一つの提案をした。
「ねえ紫野ちゃん。一緒に『彼方』で暮らしましょう。彼方ならあやかしの皆がいるわ」
人の世が栄えるに従って、次第に『此方』にあやかしの暮らせる場所が少なくなっていた。
土地神は神仏としての名を得て変容して生き延び。人に化けられるあやかしは人として生きる。そういう器用なことができないあやかしは、次第に『彼方』という場所に住まうようになった。
『彼方』に行くのなら、永遠に『此方』には戻れなくなる。姉狐はまるで追い出されるように『彼方』に行くのは嫌だったが、弟狐と二人で幸せになれるのなら、それでもいいと考え始めていた。
しかし。姉狐の提案を、弟狐は断った。
「俺は桜に逢いたい。一目だけでも、もう一度」
弟狐は次第に瞳に正気を取り戻し始めていた。
どこから何を吹き込まれたのか、弟は生まれ変わった桜と再会する事を願い始めたのだ。
願いは執着となり、年月に癒やされて霊力を取り戻した後でも、弟狐はいつまでも一尾のままだった。
姉狐は必死に説得した。
「執着を解き放たなければ霊力は戻らないわ。一本尾の情けない霊狐のままでいいの?」
「構わない。この胸の紋様(いたみ)と共に生きていく」
弟狐の瞳は再び輝きを取り戻していた。
姉狐は弟狐を愛していた。何よりも。自分のことよりも。
「そう。分かったわ……」
弟狐を残して一人だけ楽になれないからと、姉狐は弟狐に付かず離れず『此方』で生きていた。
弟狐はそのまま福岡の祠に住まい、羽犬姫の後ろ盾の元、あやかしに居場所と仕事を与える商いを始めた。
「あの犬女め。私の紫野ちゃんによくも、儚い希望を与えるなど」
爪噛む姉狐をよそに、弟狐はあやかしの為に日々仕事に励んでいた。
それはまるで、人の世で異質な存在として散っていった、桜や姫といった愛する人々を救いたい気持ちの代償行為のように、姉狐の目には映った。
「人は生まれ変われば魂が同じでも、記憶は引き継げない。ーー全てを忘れた桜だったものを見て紫野ちゃんが傷つく前に、私は生まれ変わった桜を殺すわ」
弟狐愛しさあまり、姉狐はそう決意した。
ーーー
殺害を決意して数百年の時が経ち、姉狐はいつしか九尾狐にまで成長していた。
九尾狐となった姉狐はある日、遂に桜が生まれ変わった産声を耳にした。
それはーーついに生まれた、桜の生まれ変わりだった。
弟と出会う前に殺そう。初志貫徹の喜びを胸に、姉狐は桜の魂を持つ赤子の元へと駆けた。
姉狐は看護師の姿に化けた。
そして産婦人科で母親の隣に寝かされた、真っ白な肌着を身につけた生まれたての赤子を見た。
赤子は何も知らない顔をして、すやすやと眠っていた。
「ごめんなさい。けれど、紫野ちゃんがこれ以上苦しまないように……」
赤子を前に指を伸ばし、姉狐は殺そうとした。
けれどーー指を掴まれてしまった瞬間、姉狐は赤子に何もできなくなった。
指から伝わる、懐かしいだだ漏れの霊力。魂が満たされていくのを感じて、姉狐は嗚咽した。
「やっと生まれ変われたのね、桜………」
結局姉狐は、桜ーー菊井楓を殺すことを諦めた。
四百年越しに再会して、姉狐は本当の初志を思い出した。
弟狐も愛していたけれど、同時に桜という女のことも、とても愛していたことを。
本当は桜を、ずっと守りたいと思っていたことを。
殺せなかった姉狐はだだもれ霊力の楓を守るため、陰日向に寄り添い結界を張り続けた。
楓が健やかに「普通」の人生を過ごせるように見守り続け、あやかしや「普通」ではないものから遠ざけた。
普通の人生に誘導しようとしすぎて、楓が次第にコンプレックスを感じてしまう事もあったけれど。
「春ちゃん!」
楓は姉狐と友人になり、天真爛漫な笑顔と親愛を姉狐に向け続けた。
幼稚園の制服を纏って。
ランドセルを背負って。
セーラー服を着て。
艶やかな振袖を身に纏って。
桜吹雪の中で季節が巡り、楓は順調に健やかに、だだ漏れ霊力の影響で、ちょっと変わった女の子として成長していった。
姉狐はこのまま、土筆春(つくしはる)として、弟狐から隠し通したまま、楓にごく普通の幸せを見守れると思っていた。
けれど。
楓が社会人となってから、二人で会える時間が激減し、密かに結界を張り続けることが困難になっていた。
愚かな猫又ーー占い師に捕まった時点でかなり薄くなっていたものが、ついに弟狐と出会って結界が全て壊れてしまった。
「やっぱり出会ってしまったのね……」
後悔しても時は巻き戻せない。姉狐はそっと二人を見守り続けた。
弟狐は楓と接する中で、再び彼女に恋をしているようだった。
そして楓もまた、弟狐に向かって、今まで姉狐に見せた事のない顔をするようになった。
ーーこのままでは、二人はまた不幸になる。
そう考えたのは弟狐も同じらしく、彼もまた一人、楓に対する態度に悩んでいる様子だった。
姉狐は決めた。
自分が悪者になって、二人を引き離してしまおうと。
弟狐は一緒に『彼方』へとつれていこう。
楓は元の『普通』の人生に戻させよう。
前世のように霊力の強さゆえに、二人が不幸になってしまわないように。
けれど楓は弟狐に力技で会いにきた。逃げる弟狐に全力でぶつかり、遂に弟狐の心を溶かした。
ーーそれだけでない。楓はずっと騙していた、酷い『友達』の姉狐にまで手を伸ばした。
山の中に二人を残し、姉狐は一人ぽつりと呟く。
「……姫。これでよかったと思う?」
肩にふわりと、白く柔らかな懐かしい手が、触れた気がした。