高橋様。ーーあの太宰府のカフェで会った、あのお武家さん二人のうち、殿と呼ばれていた方だ。
 太宰府天満宮を見下ろす四王寺山、その中腹の城を守っていた正真正銘の御武家様。

「先にまず会って話そう。今は空いているか?」
「はい。天神地下街におります」
「私は大画面前にいるよ。先ほど天神に着いたばかりだ」
「かしこまりました、10分で到着致します」

 思い出したといっても全てではない。
 スマホ越しに高橋様と話している間にも、頭痛はどんどん激しさを増す。まるで私に「思い出すな」と叫ぶようだ。

 私は電話を切ると、早鐘を打つ鼓動に急かされるように地下街を抜ける。
 天神駅前の大画面のそば、満開の花が咲き誇るフラワーショップ前に、ロングコート姿の背筋の伸びた男性が佇んでいた。

「楓殿」

 彼は私に気づいて振り返った。
 その眼差しを浴びた瞬間ーー私を覆っていた透明なガラスのようなものが、パキン、と音をたてて砕け散る感覚がした。

「高橋様。……お久しぶりです。思い出しました。楓としての記憶だけですが」
「そうか」

 背の高い端正な顔立ちの紳士ーー高橋様は嬉しそうに笑う。そして強い眼差しで私を射抜いた。

「単刀直入に尋ねようか。楓殿は、紫野と再会したいか?」
「まだ、間に合いますか」
「……先に聞かせてくれ。彼奴と、添い遂げてやる覚悟はあるか?」

 彼は真っ直ぐに問いかける。その声音は真剣だった。

「楓殿は霊力のない人間のように『普通』には暮らせなくなる。普通の女子(おなご)としての暮らしに戻るなら今だ」

 高橋様の言葉は厳しくも、とても優しかった。

「楓殿が戻りたいと求めるのならば、私がもう一度忘れさせてやろう」
「……お心遣い、ありがとうございます」

 たった一度だけ、ほんの少し接しただけの人なのに、どうしてこの方はこんなに親身になってくれるのだろう。私は胸が温かくなるのを感じながら、深呼吸をして返答した。

「高橋様。私は尽紫と紫野ーー二人にまた会いたいです。二人との縁をなかったことにしたくありません」
「そうか」

 彼は確かに力強く頷いた。

ーーー

 ーー高橋様も実際のところ、篠崎さんと春ちゃんの居所はわからないらしい。しかし突き止める宛はある、と言うことで、私たちは地下鉄で博多駅まで向かうことになった。

 高橋様は移動がてら、なぜ封印が解けたのかを説明してくれた。

「先日我が家臣の寺に顔を出したのだが、その時に彼が楓殿を忘れていることに気づいたのだ。そして懐かしい雌狐の匂いが香ったからピンときた。楓殿の記憶が消されているのだとな」

 高橋様は話しながらナチュラルにICカードをタッチして自動改札を抜け、階段を降りて地下鉄のホームへと立つ。

「そもそも私が楓殿と面識があるのは、両狐にとって予定外のイレギュラーだ。紫野にも内緒で、こっそり臣下の手続きに同行しただけ。私が行くと伝えれば紫野に逃げられると思ったからな」

 まあ、会えなんだが。と言いながら高橋様は肩をすくめる。

「ともあれ御社の記録には私と楓殿の面識について、何も残っていなかった」
「だから、高橋様の記憶は消されなかったのですね」
「ああ。そして私と話すことで楓殿の霊力が内側から弾け、尽紫の封印を破ったのだ…」
「高橋様。本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げる私に、高橋様は笑う。

「大したことはしておらぬよ。頭をあげなさい」
「でもどうして、こんなに私に力をお貸しくださるんですか?」
「何、単純明快な話さ」

 高橋様はふっと、ホームで賑やかに電車を待つ親子連れへと目を向けた。遊びに行った帰りなのだろう、若いパパが熟睡する息子を抱っこしている。高橋様は懐かしむような、愛おしむような眼差しでその様子を眺めている。

「紫野も尽紫も、楓殿の前世ーー桜も、私の大切な身内のようなものだった」
「身内、ですか」
「三人が支えていた家に私の息子が婿入りしていたのでね」
「えっと……立花家、でしたっけ」
「ああ。私は霊狐の使役はせなんだが、立花とは共に戦に出ることも多く、霊狐は戦場で斥候や間諜として活躍していたから、何かと顔を合わせることが多かったよ」
「そう、だったのですね……そんなご関係が」

 恥ずかしながら全く歴史に疎いので、そういう関係を知らなかった。ぴんと来ていない私を見て、彼は笑う。

「気分を害されていたら申し訳ありません。私が不勉強なせいで」
「そんなことはないよ。知らない方がいいこともあるだろう」

 言いながら不意に、高橋様は目を細めて私を見つめた。

「こうしていると、楓殿は桜によく似ている」
「そうなんですね……」
「顔がと言うより、言葉にし難い雰囲気がどことなく、な。……ああ、電車が来たぞ」

 電車に乗り込みながら、彼は私に片目を閉じて見せた。

「義理は通さねば、落ち着かぬ。楓殿に手を貸すのは、半分は私自身の納得のためだ、気にするな」
「は、はい」

 ウインクが似合うお武家さんって何者だろうか。
 その格好良さにぼーっとしてしまい、うっかり電車に乗りそびれる所だった。

ーー
 
 私と高橋様はある作戦を計画し、博多駅に到着したところで早速二手に別れた。私は一人博多駅のロータリーでぶらぶらする。

 博多駅はビジネス街が近いからか、天神よりずっとスーツ姿の男性の姿を多く見る。百貨店がいくつか立ち並び華やかで催事も多い博多口とは違い、筑紫口は特に、「スーツ観光客スーツスーツ観光客! 昼食ラーメン! 夜の居酒屋!」という雰囲気だ。
 ロータリーに並んだタクシーの数を数えながらぼんやりとして10分。
 想像より早く、私の目の前にワゴン車が勢いよく寄せられてきた。

「はあい! ご機嫌いかが菊井サン! いい天気ね! ウチで働く気になった!?」

 瀟洒な丸メガネに長い黒髪、華奢な男性が勢いよくワゴンから顔をだし、早口で営業をかけてくる。熱烈なオーバーリアクションに合わせて、愛想が良すぎるせいで面白い人に見えるけれど、よくみたらこの人も随分な美形だ。

「徐福さん……本当にいらっしゃったんですね……」
「ささ。立ち話もなんだから早くワゴン乗りましょ? それともすぐ契約しちゃうならここで書類もほら」
「あ、いや、ちょっと待ってください」

 にこにことワゴンに引っ張り込もうとする徐福さん。
 私に手を伸ばしてきたその手を、隣から出てきて掴んだのは高橋様だ。

「えっ」
「ほら、やっぱり。楓殿が一人で立ってると出てくると思ったぞ、貴殿は」

 高橋様を見て徐福さんは紫の目を丸くして声を裏返す。

「ちょっと! 旦那がどうして楓殿といるの!?」
「早速だが単刀直入に願い出よう。筑紫野の霊狐ーー尽紫と紫野の居場所に案内してくれ」

 徐福さんは露骨に眉間に皺を寄せる。

「何? 話が見えないんだけど? いきなり何よ」
「筑紫野の霊狐の居場所だ。知らぬ存ぜぬとは言わせぬぞ」

 突然の事態に困惑する徐福さんに、高橋様はどストレートに切り込んでいく。綺麗な人だけど、それはそうとしてもの凄く押しが強いな、高橋様。
 徐福さんはきっぱりと「知らないね」と言い切る。

「そんな事言われても、我一介の善良な方士よ? 我の行動範囲とも重なってないし、狐の根倉なんて知るわけがないじゃない」
「ほう? 」

 高橋様はそれでもずい、と身を乗り出す。

「貴殿、二日市温泉にも商売の手を広げているではないか」
「まあ、そうだけど。それが何?」
「貴殿の宿に訪れたあやかしは時々、太宰府の此方まで観光に来ておるようだなあ?」

 一秒。徐福さんの動きが止まる。

「……それはお客様が勝手に行ってるだけでしょ? 我は関係ないよ」
「ほう? 良いのか? 私もかの公も、今後とも二千年の方士の徐福殿と親しくしていければと思っているのだが」

 かの公って誰だろう。思ったところで名前をいいそうになり私は口を塞ぐ。
 多分言ってはいけないあの人だ。

「う……そう言われても知らないものは知らないし」
「徐福殿」

 高橋様はささやくと、徐福殿をワゴンに追い詰める。所謂壁トンだ。ワゴントン?

「博多駅でスカウトしている貴殿を、博多の他のあやかしが見逃しているわけがなかろう。紫野ーー篠崎が緩衝材となって有効な関係を築いてきた面もあるだろう?」
「顔、顔が近いんだけど」
「お互いに良い関係を築いていきたいではないか、徐福殿。なっ」
「……仕方ないね、狐に何かを頼まれてる訳でもない。とりあえず座って話そうか」

 徐福さんはしぶしぶと言った風に肩をすくめ、私たちをワゴンの中へと案内した。
 ワゴンに入ったところでパチン、と指を鳴らす音が響きーー気がつけば目の前には、旅館の玄関が広がっていた。

「え、ええええ!?」

 あちこち見回しても、旅館に入っても、徐福さんの姿は見えない。
 店内放送のように、どこからともなく、徐福さんの高笑いが聞こえた。

「あっはっはっは馬鹿ね! そんな素直に教える訳ないでしょーが! 別に教えてやっても構わないけれど、なんの見返りもなしに教えるなんてつまらないね!」
「み、見返りですか」
「菊井サンが私のところで働いてくれるなら、教えてあげたっていいってコト」
「そういうこと!?」

 慌てる私の隣で、高橋様が顎を撫でて感心している。

「はは、やられたな。楓殿」
「どうしましょう」

 高橋様がずかずかと旅館に入っていくので、私も彼の後を追う。
 廊下は曲がりくねって先が見えないし、扉を開いても同じ部屋や庭にたどり着く。
 素人の私でも、術で構築された空間だとわかった。

「おそらくこれは、こちらが根をあげるまで彼の迷陣に閉じ込めるつもりなのだろう。私の力でも解くのはちと難儀だ」

 高橋様はあちこちを確かめながら私に言う。

「しかし……この迷陣に入っている間、『此方』基準の時の流れは止まるようだ」
「どういう意味ですか?」
「どれだけ経過しても腹は空かぬし、歳も取らぬ。永遠にこの『旅館』に閉じ込められるということだ」
「そんな……堕落し放題じゃないですか」
「恐怖に震えるでもなく、堕落したいと申すか。楓殿は」

 高橋様は私に笑ってみせると、目の前に構築された旅館の壁を撫でる。
 何かを確かめているようだ。

「だが喜べ楓殿。これは好機でもある」
「好機、とは」

 高橋様が何かを呟き、指で素早く空を切る。
 そして跪き両手で床を叩いた瞬間、両側から一対の鬼が現れた。見上げるほど大きな、炎を両手に掲げた帯びた赤鬼と、黒鬼。体に荒縄を縛り付けた姿は怖いけれども、言葉を失うほど神々しい。
 明らかに旅館の天井を突き抜けるサイズ感なのだが、不思議と旅館の天井のほうが高く上がってなんとかなっている。迷術ってすごい。

「……これ、は……」

 言葉を失う私に、高橋様は少し悪戯に歯を見せて笑う。

「狐は使役せなんだが、私も少々覚えがある。寺生まれのなんとやら、というやつだ」
「寺生まれって関係ありますかね、それ」
「それより」

 高橋様は私のICカードはや○かけんを示す。

「楓殿。せっかく潤沢な時間と場所を用意してもらえたのだ。ここで一つーー元人間の私が、術の使い方を教えてやろう」