ーー天神大丸前交差点。
リクルートスーツは残暑の厳しい九月上旬にはまだ暑い。
私は汗を制汗シートで拭きながら赤信号を見上げていた。正午の日差しは日傘なしにはちょっとしんどい。
元ブラックを退職して半年。
私はしばらくの休養期間を経て、現在とある人材サービス会社天神支店で働いていた。まだまだ試用期間で、バイト扱いだけれど。
その時。ふかふかとした気持ちの良い感触が踝に触れる。見下ろせば信号待ちで佇む私の脛に、黒猫の尻尾が触れていた。
「にゃあ」
細身で綺麗な黒猫さんだ。
彼は私のパンツスーツの足首に絡んで、私の顔を見上げて甘えてくる。
「可愛い」
タイミングよく信号が青に変わったので、私は猫さんが人混みに踏まれないように抱き抱え、二人で一緒に信号を渡る。
人に慣れているのか、私の腕の中で気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
大丸前で、私は猫さんを道の隅っこに開放する。
「道に出てきたら危ないよ、君。気をつけて行ってね」
「にゃあ」
「え、ええー…くっつくの……? まいったなあ」
猫さんは私から離れようとしない。まるで何かを訴えかけるように、ごろごろとくっついてくる。心を鬼にして離れようと背中を向けると、背中にビャッと飛びついて爪を立ててきた。
「い、痛い痛い痛い!! え、なによぉ……」
「んにゃあ」
その時。
ざ、
音を立てて俄雨が、思い切り頭上から降り注いでくる。晴れた空に似合わないバケツをひっくり返したような豪雨。
「やだ、嘘、これから仕事なのに!」
私は猫さんを抱き抱えて慌てて大丸のアーケードに入り、トートバッグに入れていたタオルで自分の頭と猫を拭く。
「にゃあ……」
猫さんは雨に濡れてから、急に元気がなく「何か」を諦めた様子になった。
名残惜しそうに去っていく猫を見送っていると、不意に偏頭痛がズキンと痛む。
「うう……私も早く会社に戻って、シャツ着替えて頭痛薬飲まないと」
最近雨に降られることに慣れていたので、トートバックの中には替えのシャツとタオルを常備している。もちろん折り畳み傘も携帯しているのだけど、まあ間に合わないよね。
そして雨が降るといつも、なぜか偏頭痛がする。薬を飲めば治るけれど、それはそれとして痛いのも、濡れるのも憂鬱だ。
「……仕事しなくちゃ」
私は溜息をつくと、時間を確認して先を急いだ。
ーーー
最近、記憶がおかしいことが多い。
なんだか数ヶ月分の記憶に、ぼんやりと霞がかかったようで思い出せないことが多すぎる。
無職の間に会う頻度が増えた春ちゃんに相談したら、春ちゃんは親身になって知り合いの心療内科の先生を紹介してくれた。
その先生が言うには、「前職でストレスがかかりすぎた結果、今少し疲れが出ているのでしょう」ということだった。
「難しいことは考えずに、ゆっくり休めばいいのよ」
春ちゃんはそんな風に私を励ましてくれた。私は実家暮らしの立場に遠慮なく甘え、少しずつ体調と心を整え、最近やっと再就職を決めたのだった。
「もう再就職決めたの?」
そのことを電話で伝えると春ちゃんは驚いた。
「しかも、人材紹介会社って……」
「うん。まだ試用期間で時給扱いだけどね。なんだか、いろんな人と接する仕事がしたくて」
「……これまで、楓ちゃんは事務職だったじゃない。何もそんな異業種につかなくっても。またストレスを溜めちゃったら」
「その時はその時だよ」
私が笑ってみせても、春ちゃんは不安そうな様子だった。
ーーー
ーーそんなこんなで、今日も一日仕事だった。帰宅してシャワーを浴びて、自分の部屋に置いた荷物を片付ける。
ふと、棚のよく見える位置に置いたジェリッシュのCDが目に留まった。最近流行の男性アーティストで、女性ファンのみならず、ダンスのキレの良さと美声に憧れる男性も多いすごい人だ。
「あれ、私ジェリッシュ好きだったっけ……」
確かにジェリッシュは、通勤の時にテンション上げるためによく聞いている。けれど好きな音楽は大抵サブスクで聴いているので、CDという媒体が妙に気になった。CDを買うのはある意味ファングッズだ。それほどのめり込んでいた記憶はあまりない。
手に取って裏を返せば、そこには日付が書かれた付箋が貼られていた。
「誰かに……借りたんだっけ……」
思い出そうとしても、記憶に霧がかかったように思い出せない。
「これも、春ちゃんに借りたのかな……?」
念のため写真に撮って春ちゃんに送信するとすぐに返事が返ってくる。
「あ、やっぱり春ちゃんに借りてたんだ」
返信に安心して、私はドッと疲れを感じてベッドに寝っ転がる。
「疲れた……」
私は毛玉を探して手探りで布団の中を触る。そしてハッとする。
「私は何を探してたの?」
今、確かに私は布団の中に『何か』がいると思って動いていた。急に怖くなって部屋を出て、私はリビングに行く。リビングでは両親がテレビを眺めていた。相変わらず仲の良い夫婦だ。
突然乱入してきた私に、二人は目を丸くして注目する。
「どうした、楓」
「……うち、もふもふの動物お迎えしたことないよね?」
「動物?」
「うん。猫とか、ハムスターとか」
「やだわね、お迎えするわけないでしょう」
きょとんとする父に代わって、母が怪訝な顔をして肩をすくめた。
「楓って昔から動物好きだったけど、『春ちゃんが嫌がるから、ペットはやだ』って言ってたじゃない」
「……そう、だったね」
そうだ。
小さい頃から、私が動物にもふもふするたびに春ちゃんがすごく嫌な顔をしていた。
動物園のふれあいコーナーも、誰かお友達の家の犬猫さんも、私は春ちゃんが嫌がるから触らなかった。
ーーあれ? ならどうして、私は昼間、猫さんを当然のように抱っこできたんだろう。
「それよりほら、動物が見たいならテレビを一緒に見ないか。今キタキツネの一年についてやってるよ」
父がにこにことテレビ画面を指さす。
もふもふでふかふかの冬毛のキツネが、真っ白な雪原で走り回っている様子だった。
「狐……」
ズキンと、特大級の頭痛が私を襲う。
私は両親に心配をかけないように、部屋に戻ってフラフラとベッドに倒れ込んだ。
痛い。痛い。痛い。どうして、こんなに頭が痛いの。
狐の尻尾の手触りや色が、頭の中で断片的にちらつく。ちらつく度に弾けるような痛みが襲う。
深めに切れ上がったスーツのセンターベンツから伸びるふかふかの尻尾。
カレーが辛くてぺたんと伏せる耳。中洲の夜、眩い照明の下で艶を増して輝く毛並み。
ーーそうそう。うどんを食べてる時の尻尾がふわふわ揺れるのが可愛いんだ。カレーを食べてる時、辛いと苦手で耳がぺったりしたり。
「待って、耳? 尻尾……?」
何を私は思い出してるの? 自分で自分が気持ち悪くて、怖い。私は咄嗟に枕元に置いた痛み止めを口に含み、飲み下す。
「これもストレスのせい、なのかな……」
刹那。
頭痛と呼応するように、家を揺らすほどの雷が鳴り響く。
カーテンを開いて窓の外を見れば、暗闇を切り裂く稲光が、雨の中でぎらぎらと輝いていた。
雨を見ているとなんだか、乱れた心が平かに落ち着いていく気がする。
「……寝よう」
痛み止めが効いてきたので、私はそのままベッドに潜り込んで丸くなる。
春ちゃんから紹介されたお医者さんのお薬は、本当に良く効いてくれる。
ーー仕事に慣れて、変な感覚も消えて、早く普通になりたいと思った。
リクルートスーツは残暑の厳しい九月上旬にはまだ暑い。
私は汗を制汗シートで拭きながら赤信号を見上げていた。正午の日差しは日傘なしにはちょっとしんどい。
元ブラックを退職して半年。
私はしばらくの休養期間を経て、現在とある人材サービス会社天神支店で働いていた。まだまだ試用期間で、バイト扱いだけれど。
その時。ふかふかとした気持ちの良い感触が踝に触れる。見下ろせば信号待ちで佇む私の脛に、黒猫の尻尾が触れていた。
「にゃあ」
細身で綺麗な黒猫さんだ。
彼は私のパンツスーツの足首に絡んで、私の顔を見上げて甘えてくる。
「可愛い」
タイミングよく信号が青に変わったので、私は猫さんが人混みに踏まれないように抱き抱え、二人で一緒に信号を渡る。
人に慣れているのか、私の腕の中で気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
大丸前で、私は猫さんを道の隅っこに開放する。
「道に出てきたら危ないよ、君。気をつけて行ってね」
「にゃあ」
「え、ええー…くっつくの……? まいったなあ」
猫さんは私から離れようとしない。まるで何かを訴えかけるように、ごろごろとくっついてくる。心を鬼にして離れようと背中を向けると、背中にビャッと飛びついて爪を立ててきた。
「い、痛い痛い痛い!! え、なによぉ……」
「んにゃあ」
その時。
ざ、
音を立てて俄雨が、思い切り頭上から降り注いでくる。晴れた空に似合わないバケツをひっくり返したような豪雨。
「やだ、嘘、これから仕事なのに!」
私は猫さんを抱き抱えて慌てて大丸のアーケードに入り、トートバッグに入れていたタオルで自分の頭と猫を拭く。
「にゃあ……」
猫さんは雨に濡れてから、急に元気がなく「何か」を諦めた様子になった。
名残惜しそうに去っていく猫を見送っていると、不意に偏頭痛がズキンと痛む。
「うう……私も早く会社に戻って、シャツ着替えて頭痛薬飲まないと」
最近雨に降られることに慣れていたので、トートバックの中には替えのシャツとタオルを常備している。もちろん折り畳み傘も携帯しているのだけど、まあ間に合わないよね。
そして雨が降るといつも、なぜか偏頭痛がする。薬を飲めば治るけれど、それはそれとして痛いのも、濡れるのも憂鬱だ。
「……仕事しなくちゃ」
私は溜息をつくと、時間を確認して先を急いだ。
ーーー
最近、記憶がおかしいことが多い。
なんだか数ヶ月分の記憶に、ぼんやりと霞がかかったようで思い出せないことが多すぎる。
無職の間に会う頻度が増えた春ちゃんに相談したら、春ちゃんは親身になって知り合いの心療内科の先生を紹介してくれた。
その先生が言うには、「前職でストレスがかかりすぎた結果、今少し疲れが出ているのでしょう」ということだった。
「難しいことは考えずに、ゆっくり休めばいいのよ」
春ちゃんはそんな風に私を励ましてくれた。私は実家暮らしの立場に遠慮なく甘え、少しずつ体調と心を整え、最近やっと再就職を決めたのだった。
「もう再就職決めたの?」
そのことを電話で伝えると春ちゃんは驚いた。
「しかも、人材紹介会社って……」
「うん。まだ試用期間で時給扱いだけどね。なんだか、いろんな人と接する仕事がしたくて」
「……これまで、楓ちゃんは事務職だったじゃない。何もそんな異業種につかなくっても。またストレスを溜めちゃったら」
「その時はその時だよ」
私が笑ってみせても、春ちゃんは不安そうな様子だった。
ーーー
ーーそんなこんなで、今日も一日仕事だった。帰宅してシャワーを浴びて、自分の部屋に置いた荷物を片付ける。
ふと、棚のよく見える位置に置いたジェリッシュのCDが目に留まった。最近流行の男性アーティストで、女性ファンのみならず、ダンスのキレの良さと美声に憧れる男性も多いすごい人だ。
「あれ、私ジェリッシュ好きだったっけ……」
確かにジェリッシュは、通勤の時にテンション上げるためによく聞いている。けれど好きな音楽は大抵サブスクで聴いているので、CDという媒体が妙に気になった。CDを買うのはある意味ファングッズだ。それほどのめり込んでいた記憶はあまりない。
手に取って裏を返せば、そこには日付が書かれた付箋が貼られていた。
「誰かに……借りたんだっけ……」
思い出そうとしても、記憶に霧がかかったように思い出せない。
「これも、春ちゃんに借りたのかな……?」
念のため写真に撮って春ちゃんに送信するとすぐに返事が返ってくる。
「あ、やっぱり春ちゃんに借りてたんだ」
返信に安心して、私はドッと疲れを感じてベッドに寝っ転がる。
「疲れた……」
私は毛玉を探して手探りで布団の中を触る。そしてハッとする。
「私は何を探してたの?」
今、確かに私は布団の中に『何か』がいると思って動いていた。急に怖くなって部屋を出て、私はリビングに行く。リビングでは両親がテレビを眺めていた。相変わらず仲の良い夫婦だ。
突然乱入してきた私に、二人は目を丸くして注目する。
「どうした、楓」
「……うち、もふもふの動物お迎えしたことないよね?」
「動物?」
「うん。猫とか、ハムスターとか」
「やだわね、お迎えするわけないでしょう」
きょとんとする父に代わって、母が怪訝な顔をして肩をすくめた。
「楓って昔から動物好きだったけど、『春ちゃんが嫌がるから、ペットはやだ』って言ってたじゃない」
「……そう、だったね」
そうだ。
小さい頃から、私が動物にもふもふするたびに春ちゃんがすごく嫌な顔をしていた。
動物園のふれあいコーナーも、誰かお友達の家の犬猫さんも、私は春ちゃんが嫌がるから触らなかった。
ーーあれ? ならどうして、私は昼間、猫さんを当然のように抱っこできたんだろう。
「それよりほら、動物が見たいならテレビを一緒に見ないか。今キタキツネの一年についてやってるよ」
父がにこにことテレビ画面を指さす。
もふもふでふかふかの冬毛のキツネが、真っ白な雪原で走り回っている様子だった。
「狐……」
ズキンと、特大級の頭痛が私を襲う。
私は両親に心配をかけないように、部屋に戻ってフラフラとベッドに倒れ込んだ。
痛い。痛い。痛い。どうして、こんなに頭が痛いの。
狐の尻尾の手触りや色が、頭の中で断片的にちらつく。ちらつく度に弾けるような痛みが襲う。
深めに切れ上がったスーツのセンターベンツから伸びるふかふかの尻尾。
カレーが辛くてぺたんと伏せる耳。中洲の夜、眩い照明の下で艶を増して輝く毛並み。
ーーそうそう。うどんを食べてる時の尻尾がふわふわ揺れるのが可愛いんだ。カレーを食べてる時、辛いと苦手で耳がぺったりしたり。
「待って、耳? 尻尾……?」
何を私は思い出してるの? 自分で自分が気持ち悪くて、怖い。私は咄嗟に枕元に置いた痛み止めを口に含み、飲み下す。
「これもストレスのせい、なのかな……」
刹那。
頭痛と呼応するように、家を揺らすほどの雷が鳴り響く。
カーテンを開いて窓の外を見れば、暗闇を切り裂く稲光が、雨の中でぎらぎらと輝いていた。
雨を見ているとなんだか、乱れた心が平かに落ち着いていく気がする。
「……寝よう」
痛み止めが効いてきたので、私はそのままベッドに潜り込んで丸くなる。
春ちゃんから紹介されたお医者さんのお薬は、本当に良く効いてくれる。
ーー仕事に慣れて、変な感覚も消えて、早く普通になりたいと思った。